第3話
「私たち、最初から勘違いをしていたのかもしれない」
その一言で、空気がわずかに張り詰めた。
「勘違い?何をだよ」
おっさんが眉をひそめる。
「――“行って、帰ってきている”っていう前提そのものだ」
がっちは、テーブル越しに見える拳銃の影へと視線を落とした。
「私たちは、あの世界に行っていると思っていた。でも、本当にそうなのか?」
「……どういう意味?」
ぶんたが首をかしげる。
「行き来しているんじゃない」
がっちは静かに続けた。
「“生成されている”んじゃないか、って話だ」
おっさんのスプーンが止まる。
「生成?」
「コピーだ」
はっきりと言い切る。
「向こうの世界に現れている私たちは、この世界の私たちそのものじゃない」
ぶんたが、ゆっくりと理解を追いかける。
「……だから、怪我しても戻ると治ってる?」
「ああ」
がっちは頷いた。
「向こうでの肉体を構成している物質――仮に“アストラル体”と呼ぶけど、これはこっちの物を向こうに出力する際に使われる。そして、ある特性があることが分かった」
スプーンを置く。
「異常燃焼だ。しかも、可燃性のものほど顕著に起こる」
沈黙。
「おそらく燃焼することで構成するエネルギーが解放されるのだろうけど、そう考えるとものすごいエネルギーを内在してる物質なんだと思う。
で、おっさんの話を聞いて確信した」
がっちは顔を上げる。
「アストラル体と、瘴気は同一のものだ」
「……は?」
おっさんが低く声を漏らす。
「前の勇者が、何のために呼び出されたのかは分からない」
がっちは淡々と続けた。
「けれど、私たちの体を構成するアストラル体が、大気中に放出された結果が瘴気だと考えるのが、一番自然なんだ」
しばらく、誰も口を開かなかった。
「書庫で、勇者に関する文献を見つけた」
がっちは再び語り始める。
「紙の劣化がひどくて、所々読めない部分もあったけど……そこに書かれていたのは、重要な事実だった」
ぶんたが息を呑む。
「前の勇者は、私たちみたいに行き帰りしていない。――ずっと、あの世界にいたらしい」
「……つまり」
ぶんたが言葉を継ぐ。
「勇者が現れる前には魔物はいなかった。僕たちはアストラル体が蒸散したら消える。でも、ずっといた勇者は……」
「アストラル体を、撒き続けた」
がっちは静かに頷いた。
「勇者本人の手記もあった。二割ほどしか読めなかったけど、日本語で書かれていた。ただし――」
間を置く。
「そのどこにも、魔物に関する記述はなかった」
「……で」
おっさんが低く問う。
「その勇者、最後はどうなった?」
「……行方不明だ」
がっちは答えた。
「そして、勇者がいなくなってしばらくしてから、魔物が現れ始めた」
ぶんたが、ゆっくりと息を吐く。
「……それさ」
「うん?」
「正直、めちゃくちゃ怖い話なんだけど」
「ああ、私もそう思う」
がっちは視線を落とす。
「それで、魔物の死体をもう一度詳しく調べさせてもらった」
「……それで?」
「外見こそ異形だったけど」
がっちは
っきり言った。
「内部構造は、人間だった。
まるで、人間が魔物の着ぐるみを着ているみたいだったよ」
やがて、おっさんが低く笑った。
「……なるほどな」
スプーンを置く。
「つまりよ。俺が何体も殺した魔物は――人間だったってわけだ」
がっちを見る。
「そういうことになる」
小さく頷く。
「それと、もうひとつ」
がっちは言葉を重ねる。
「向こうに出力されている間、私たちの本体はどこかに保管されていて、意識だけが向こうへ行っている」
おっさんを見る。
「今日戻ってきた時、昨日より腹が減ってる感じ、しなかったか?」
「おう。めちゃくちゃ減ってたけど……それが?」
「十六時に行って、十九時に戻るのは、多分そういう“システム”なんだろう」
がっちは続けた。
「でも、向こうでの活動時間と、肉体の保管時間がリンクしているとしたら――」
声が低くなる。
「勇者は、今も向こうに存在している。アストラル体を撒き続けながら」
沈黙。
「そして、勇者に近づくほど、大気中のアストラル体濃度は高くなる。結果、私たち自身の蒸散が抑えられ、 向こうでの活動限界が延びる」
おっさんが、再びスプーンをカツカレーに突っ込む。
「……つまりよ」
顔を上げる。
「前の勇者をどうにかしなきゃならねぇってことだろ?」
「そうなる」
「で、その勇者はどこにいる?」
ぶんたは、ためらいなく答えた。
「分からなかった?――おっさんが見つけた、あの巨大キノコだよ」
「……は?冗談だろ」
「どうやったら人間がキノコになるかは分からない」
がっちは淡々と続ける。
「システムエラーなのかもしれないし、異世界側の自己修復かもしれない」
一拍。
「でも、それを放置すれば魔物は増え続ける。仮に“処理”できたとしても――」
言葉を選び、静かに付け加える。
「それだけ巨大なキノコを構成する量のアストラル体が、一気に放出されたら……」
誰も、続きを促さなかった。
「向こうの世界にとっては」
がっちは小さく言った。
「――取り返しのつかない現実になるかもしれない」
天井へ昇っていたカツカレーの湯気は、 いつの間にか、消えていた。
ーーーーー
その夜、がっちは布団の中で目を閉じたまま、考え続けていた。
勇者をどうにかしなければ、向こうの世界は救われない。
だが、どうにかしたところで――。
勇者を構成する膨大な量のアストラル体が一気に大気中へ放出されれば、瘴気の侵食速度は、今とは比べものにならないほど加速する。
可能性としては、着火だ。
燃焼させることができれば、アストラル体そのものを消滅させられるかもしれない。
おそらく、あの異常燃焼はアストラル体崩壊に伴うエネルギー放出だ。
理屈としては通る。
――だが。
ライター一つで、あの威力だ。
おっさんが見たという、あの巨大キノコの大きさが本当だとすれば……。
「……核爆弾も、びっくりだろうな」
小さく、独り事をつぶやく。
それだけじゃない。
燃焼が、その場だけで収まる保証はどこにもない。
大気中に拡散しているアストラル体にまで連鎖すれば――
もはや制御など不可能だ。
「……詰んでるな」
どう考えても、あの世界を“救える”ビジョンが浮かばない。
だからといって、自分に他に何ができるというのか。
ぶんたは、きっと最後まで戦略を考え尽くすだろう。
そういうやつだ。
問題は――おっさんだ。
異世界とはいえ、人を殺していた。
それを、魔物だったと割り切れるのか。
割り切れてたとしても、あとからじわじわと来るかもしれない。
「……」
天井を見つめる。
せめて、あれがゲームだったら。
そう割り切れたなら、どれだけ楽だっただろう。
「……駄目だ」
小さく息を吐く。
「全然、眠れん……」
布団の中で、がっちはただ目を閉じたまま、夜が過ぎるのを待つしかなかった。
ーーーーー
「――エイリアンって映画、あるよね」
翌日。
ぶんたの呼び出しで集められた二人に向かって、ぶんたは唐突にそう切り出した。
「なんだよいきなり」
おっさんが眉をひそめる。
「エイリアンのいる星ってさ」
ぶんたは気にせず続けた。
「住んでる生物の頂点がエイリアンで、そこに無秩序な殺戮とかはないと思うんだよ。
多分、人間社会とは全然違う形で、ちゃんと“社会”を形成してる」
「まあ……そうかもな」
おっさんが曖昧に相槌を打つ。
「映画だけ見れば、エイリアンって凶暴なモンスターに見えるけどさ」
ぶんたは机の上に置いたペットボトルを指で転がしながら言った。
「クマだって、人間を見つけたら襲う可能性はあるでしょ。
結局、違いって“異形かどうか”だけじゃない?」
「……」
「それで思ったんだ」
少し間を置いて、ぶんたは続ける。
「――あの世界って、惑星そのものが“自己進化”してる最中なんじゃないかな」
「進化?」
おっさんが顔をしかめる。
「人間が魔物になるってことか?
なんでそんなデチューンみたいな状態にならなきゃならねぇんだよ」
「それってさ」
ぶんたは静かに言った。
「“人間のほうが上等”って価値観が前提だよね」
がっちが、はっとしたように視線を上げる。
「実際、魔物は人間より肉体能力が高かった」
ぶんたは続ける。
「それに、大気中にアストラル体が満ちてる間は、たぶん食料を摂らなくても生きていけるんじゃないかな」
「……その発想には至らなかったな」
がっちが呟く。
「だとすると、あの装置――システムは、 死にゆく惑星の人類を延命させるためのもの……
環境に適応させるために“魔物化”させる装置ってことになる」
「そう」
ぶんたは頷いた。
「もしかしたら、あの巨石文明を作った種族こそが、もともとの惑星の支配者だったのかもしれない」
二人が黙って聞いているのを確認してから、言葉を継ぐ。
「星の寿命を感じ取った彼らは脱出を選んだ。
でも、取り残される人類のために、せめて環境に適応できるよう、装置を残した――とか」
「もしかしたらあの星の荒廃も、瘴気の影響じゃなくて、星の寿命が尽きようとしているのかも。
だからあの記述か……」
がっちの頭のなかで何かが繋がった。
「記述って?」
「古い記録に、空が数日にわたって燃え続けたってのがあったんだ。
多分、あの星は高レベルの太陽フレアの直撃を受けて磁気圏もオゾン層も崩壊してる」
「あの荒廃の原因は宇宙線と紫外線?」
ぶんたも気づいたようだ。
「……でもよ」
おっさんが腕を組む。
「それだと辻褄合わねぇだろ。
勇者が召喚される前には、魔物はいなかったんだろ?
なら、その時点で魔物の星になってなきゃおかしい」
「そこなんだ」
がっちが口を開いた。
「安全に環境変化を行えるように。それと同時に、定期的に星の様子を観測できるように――」
テーブルを指で叩く。
「向こうに“コピー体”を送り込む仕組みを作った。
あの門は、そのためのゲートだったのかもしれない」
「でも、計画は実行されなかった」
ぶんたが引き取る。
「中止になったのか、実行できなくなったのか……理由は分からない」
一瞬、沈黙。
「で、そのゲートに」
ぶんたはゆっくりと続けた。
「――偶然、僕たちが引っかかった」
「……でもなんで地球なんだよ」
おっさんが低く言う。
「もし、その巨石文明を築いてたのが」
ぶんたは躊躇なく言った。
「“地球に来る前の地球人”だったとしたら?
地球人じゃないにしても、地球人の創造主とか」
がっちとおっさんの視線が、同時にぶんたへ向く。
「ゲートの入口が地球にあった理由も、世界中に巨石遺跡が残ってる理由も、それで全部説明がつくよ」
「……まじかよ」
おっさんが、乾いた笑いを漏らす。
ぶんたは、二人を見回してから静かに言った。
「どちらにしても、僕たちは選ばなきゃならない」
声は低く、しかしはっきりしていた。
「――あの世界を、存続させるのか」
一拍。
「それとも、終わらせるのか」
その言葉のあと、
三人の間に流れたのは、答えのない沈黙だけだった。
「……昨日の夜、話さなかったことがある」
がっちが、低い声で言った。
三人の間にあった空気が、わずかに変わる。
ぶんたも、おっさんも、何も言わずに続きを待った。
「多分だけど」
がっちは視線を落としたまま続ける。
「前の勇者をどうにかしようとすれば――あの世界は、完全に魔物の世界になる」
「……」
「そして、その場合」
がっちは一度、息を整えた。
「私たちは、もう地球には帰ってこれなくなる」
おっさんが眉をひそめる。
「どういうことだよ」
「高濃度のアストラル体環境下では」
がっちは淡々と説明する。
「向こうで生成される肉体の、アストラル体の蒸散が抑えられる」
ぶんたが、ゆっくりと理解する。
「……向こうで、長く活動できるってこと?」
「ああ」
がっちは頷いた。
「でも、それは同時に――」
言葉を選ぶ。
「こちら側の肉体が、長時間“放置”されるということでもある」
沈黙。
「向こうの肉体が無事でも」
がっちは続ける。
「それだけの時間経過があれば、元の肉体は――おそらく、無事では存在しない」
おっさんの喉が、かすかに鳴った。
「……つまりよ
低い声で言う。
「あの世界を救おうとした時点で、帰る場所はなくなるってことか」
「その可能性は、高い」
誰も、冗談だとは思っていなかった。
「唯一の可能性があるとすれば」
がっちは、さらに続けた。
「キノコを形成している、膨大な量のアストラル体を“燃焼”させることだ」
ぶんたが息をのむ。
「……でも、それって」
「ああ」
がっちは視線を上げる。
「その時に発生するエネルギー放出は、相当なものになる」
ライター一つで起きた、あの爆発。
二人の脳裏に、同じ光景がよぎる。
「最悪の場合」
がっちは、静かに言った。
「システムそのものが損壊する可能性がある」
「……ゲートが壊れる?」
おっさんが問う。
「そうだ」
がっちは、はっきり言った。
「意識が肉体に戻るための経路が失われる。つまり――」
言葉を切る。
「向こうで死んで意識が肉体から解放されたとしても、こちらで解放される肉体には意識がない。植物状態になる」
重い沈黙が落ちた。
誰も、すぐには言葉を発せなかった。
選択肢は、どれも地獄だった。
世界を救えば、自分たちが消える。
世界を終わらせれば、生き残るかもしれない。
だが、その責任は一生背負うことになる。
やがて、おっさんがゆっくりと口を開いた。
「……なるほどな」
笑っていない声だった。
「じゃあよ」
視線を上げる。
「これはもう、勇者の話じゃねぇな」
ぶんたが、静かに頷く。
「うん」
小さな声で言う。
「“自分たちが選んだ選択肢の責任”を、受け止めるって話だ」
がっちは、何も言わなかった。
ただ、その沈黙こそが――
彼自身の覚悟だった。
「でもよ……本当に、あと出来ることはないのかよ」
おっさんの声は低く、喉の奥で押し殺されていた。
怒鳴るでもなく、投げやりでもなく――
ただ、現実を受け入れきれない音だった。
がっちは、すぐには答えなかった。
少しだけ間を置き、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「可能性があるとすれば……」
静かな声だった。
「何十年か先だ」
二人の視線が集まる。
「科学技術がもっと発展して」
がっちは続ける。
「人類が本格的に宇宙へ進出できるようになった時。その時代の宇宙船で、彼らを迎えに行く」
ぶんたが、かすかに息をのむ。
「もしその頃までに」
がっちは言葉を継ぐ。
「アストラル体の正体が、科学的に解明されていれば――魔物を、人間に戻すことも出来るかもしれない」
一瞬だけ、空気が揺れた。
ほんのわずかな、希望の残骸。
だが。
「……けど」
がっちは、はっきりと付け加えた。
「それは、“間に合えば”の話だ」
おっさんが、短く息を吐く。
「その時まで――」
低い声で言う。
「星が、生きてるかどうかってことか」
「そういうことになる」
誰も、否定しなかった。
長い沈黙が落ちる。
それは、考えるための沈黙ではなく、選択肢がほぼ残っていないことを理解するための時間だった。
「未来に託す、ってのは」
おっさんがぽつりと言う。
「今、目の前で死にかけてる世界にとっちゃ、あんまりにも残酷だな」
ぶんたは、何も言わずに床を見つめていた。
がっちは、ただ黙って頷いた。
「でもさ……」
ぶんたが、ぽつりと言った。
二人の顔を見ないまま、続ける。
「それって、結局はあの世界の問題なんだよね」
声は震えていなかった。 むしろ、妙に落ち着いていた。
「召喚されてからの時間を考えれば、戻るべき体はもう……
でも、せめて」
一拍置いて、絞り出すように言う。
「あの勇者の魂だけでも、地球に連れ帰ってあげたい」
それ以上、言葉は続かなかった。
がっちも、おっさんも、何も返せない。
否定も、肯定も、理屈も――
どれも、この言葉の前では無力だった。
三人集まりゃ文殊の知恵。
そんな言葉を、彼らは疑いもしなかった。
だが今、三人は知ってしまった。
知恵はあっても、選べないことがある。
理解できても、救えない現実がある。
押し寄せてきたのは、恐怖ではない。
絶望ですらなかった。
――自分たちは、何も出来ないかもしれない。
その事実が、静かに、確実に、
三人の胸を締め付けていた。
部屋には、時計の針の音だけが響いていた。
「勇者って、なんなんだろうな」
ぽつりと零れたおっさんの声は、どこか投げやりだった。
がっちは少し考えてから、静かに答える。
「勇者ってのは……たぶん、馬鹿なんだよ」
「馬鹿ぁ?」
おっさんが片眉を上げる。
「冷静に考えたら、どう考えても無謀なことに首突っ込んでさ」
がっちは続ける。
「成功する保証なんてどこにもないのに、それでも踏み出す」
一拍。
「人々に希望を与える存在、なんて言葉はさ」
苦笑するように、肩をすくめる。
「全部、成し遂げた後につけられる評価だろ」
「失敗したら?」
ぶんたが小さく聞いた。
「ただの無謀な愚か者だ」
がっちは即答した。
「歴史にも残らないし、誰にも讃えられない」
部屋に、短い沈黙が落ちる。
「……じゃあよ」
おっさんが言う。
「前の勇者は、どうなんだ」
がっちは視線を伏せた。
「誰にも救われず、誰にも理解されず」
静かに言葉を選ぶ。
「結果だけ見れば……たぶん、勇者じゃなかった」
「それでも」
ぶんたが口を開く。
「そいつは、勇者になろうとしたんだろ」
がっちは否定しなかった。
「だからこそ、厄介なんだ」
低い声で言う。
「“勇者になる覚悟”と、“世界を救えるかどうか”は、別物だから」
おっさんは天井を見上げ、鼻で息を吐いた。
「……やっぱ馬鹿だな、勇者って」
それは嘲りでも、軽蔑でもなかった。
どこか――自分たちを重ねているような、苦い響きだった。
そして三人は、言葉にしなくても分かっていた。
もし次に扉の向こうへ行くとき、
それはもう――
「勇者ごっこ」では済まない、ということを。
十六時。
この日、三人は歩道橋の下に現れなかった。
あの世界を救うための決定打を、最後まで見つけることができず――
そして、自分たちが何者で、何をすべきなのかも、まだ受け入れきれないまま。
勇者になる覚悟も、
世界を壊す覚悟も、
どちらも持てないまま。
時間だけが、静かに過ぎていった。
ーーーーー
次の日、学校にがっちの姿はなかった。
「……来てないな」
教室を見回しながら、おっさんが呟く。
「やっぱり、気になってるんだろうね」
ぶんたはそう言って、机の上にボードを広げた。
「あ、次。Dの3」
二人は、昨日の続きを始める。
バトルシップ。
「残念、そこは外れだぜ」
おっさんが肩をすくめる。
「まあ、がっちなりに何か考えてるのかもしれないしな。次、Eの7」
「うわ、駆逐艦やられた」
ぶんたが苦笑する。
「そこ狙う?……じゃあ、Fの10」
「クソ、ヒットだ」
少し間を置いてから、おっさんが続ける。
「……なあ、今日、行ってみないか?次、Aの1」
「外れだよ」
ぶんたは盤面から目を離さずに言う。
「うん、僕もそう思ってた。がっちのことだからさ……もしかしたら、一人で行こうとしてるかもしれないしね。Cの10」
「うわ、当たった」
おっさんが息を吐く。
「次は……Fの9。どうだ」
「ヒット」
ぶんたは駒を倒し、盤面を閉じた。
「……僕の負け」
一拍。
「了解」
おっさんが立ち上がる。
「放課後、例の歩道橋だな」
ぶんたは、短く頷いた。
ーーーーー
智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
兎角に人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所に引っ越したくなる。
どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る。
人の世を作ったものは、神でもなければ鬼でもない。
やはり、向こう三軒両隣にちらちらする、ただの人である。
ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。
あれば、人でなしの国へ行くばかりだ。
人でなしの国は、人の世よりもなお住みにくかろう。
がっちは、夏目漱石の『草枕』の一節を思い出していた。
――どんな人間も、生きづらさを抱えながら生きている。
そういうことなのだろう。
だが、それでも。
(私は、理屈を通す人間であり続けますよ)
情に厚い人もいる。
意地を張る人もいる。
その役目は、自分以外のあの二人だ。
久々に物置から引っ張り出したママチャリにまたがり、がっちは歩道橋の近くまでやってきた。
まずは、おっさんが言っていたキノコの場所だ。
自分の目で見なければ、打開策など生まれない。
時計の針は、十五時五十四分。
ペダルに置いた右足に、自然と力が入る。
「ほら、やっぱり来てただろ?」
声をかけてきたのは、ぶんたとおっさんだった。
二人とも、自転車に乗っている。
「行くんだろ、がっち」
「……おっさん、ぶんたも。なんで」
「キノコまで行く途中に、魔物の群れがいくつもある」
おっさんが言う。
「さすがに一人じゃ無謀だ」
「そうだよ」
ぶんたも続けた。
「僕らだって、考えることは同じさ」
がっちは、しばらく黙ってから口を開いた。
「救いはない。希望もない」
一拍。
「でもな、せめて――一欠片くらい、落ちてないかと思ってな...これから探しに行くところだ」
「奇遇だな」
おっさんが、にやりと笑って親指を立てる。
「俺たちもだ」
「最後まで付き合うよ」
ぶんたも頷く。
「一緒にやろう」
がっちは、ゆっくりと息を吐いた。
「……行こうか。もう一度、向こうの世界へ」
十六時。
あの紋章が光り出すのと同時に、
三人は――
希望を掴み取るために、ペダルを踏み込んだ。
ーーーーー
異世界に飛んだ時、がっちの側に二人の姿はなかった。
オートセーブ機能でもあるんだろう。昨日消えた場所が三人ともバラバラだったからな。
確か昨日ぶんたが消えたのは書庫だったか。
これから自分が滅ぼすかもしれない、この星の人と顔を合わせることをためらわれたがっちは、なるべく人の目につかないように書庫へと移動する。
そこで、ぶんたと合流すると言葉も交わさず、すぐに城の外へ向かい、荒野の果てを目指してペダルを踏み込んだ。
確かに――
おっさんの言っていた通り、ペダルは異様なほど軽い。
地面を蹴る感触が希薄で、まるで空気を踏んでいるようだ。
理屈の上では、確かに二百キロ近い速度が出てもおかしくはない。
だが。
「……そもそも、おっさんとは肉体のスペックが違いすぎる」
がっちは、内心で苦笑した。
自覚はある。
自分の栄養の大部分は、明らかに脳に集中している。
持久力も筋力も、平均以下。体育の成績は伊達ではない。
せいぜい出ている速度は、三十キロ前後だろう。
それでも――
現実世界の自転車とは比べものにならない。
風が頬を切り、荒野の景色が流れていく。
肺が焼ける感覚はあるが、脚はまだ動く。
その少し後ろを、ぶんたが黙って追走していた。
ぶんたは、運動が苦手というわけではない。
ゲームセンターに行けば、ダンスゲームも普通にこなす。
反射神経も悪くない。
ただし――
瞬発力はあっても、持久力はない。
それでも今は、がっちの背中を追う程度なら、ほとんど負荷にはならなかった。
(……これなら、確かに“走れる”)
ぶんたは、息を整えながら前を見る。
荒野の向こうに、うっすらと浮かぶ違和感。
地平線の一角だけが、妙に歪んで見える。
「あれが……」
ぶんたが呟く。
がっちは答えない。
視線は前だけを捉え、ペダルを回し続けていた。
――おっさんは、もう先にいる。
そう思うだけで、自然と脚に力が入る。
荒野を切り裂く、二本の自転車の軌跡。
その先に待つものが、希望か破滅か――
それはまだ、誰にも分からなかった。
しばらく荒野を走り続けていると、前方から砂煙が上がった。
最初は風かと思ったが、すぐに違うと分かる。
砂煙は、こちらへ向かって――近づいてきている。
「……おっさんだ」
がっちが呟いた、その直後。
「おーい! やっぱ来てたか!」
聞き慣れた声が、荒野に響いた。
砂煙を突っ切って現れたのは、愛用のオフロード仕様のチャリにまたがったおっさんだった。
いや、“またがっている”というより、“突進している”と言った方が正しい。
明らかに速度が違う。
がっちが全力で踏んでいるにもかかわらず、
おっさんは軽く流すようにして、あっという間に並走した。
「……速すぎだろ」
ぶんたが呆然と呟く。
「ははっ、やっぱ違うな、この世界」
おっさんは楽しそうに笑った。
「戻ってきて正解だったぜ。あそこ――」
一瞬、言葉を切る。
「魔物の群れがいるぜ」
がっちが視線を向ける。
「がっちのママチャリと脚じゃ、突っ切るのは無理だ。回避しようぜ」
「無難だな」
「急がば回れ、だね」
がっちたちは、五日かけてキノコのもとへとたどり着いた。
加わったおっさんのナビで魔物を避け、岩場を避け、流石に回避できない場所では、おっさんががっちのママチャリも抱えて歩く。
「基本スペックが違いすぎる」
最初の二日は日が暮れた頃に地球へと帰還していたが、三日目は日が昇る頃、四日目からは地球へ帰還することもなくなった。
アストラル体の濃度が濃くなってきているんだ…
二つの月が昇っても、彼らは眠らなかった。眠れなかった。
空腹はあるのに、死にそうな飢えにはならなかった。
眠気は薄いが、休息は必要で、岩場で短く目を閉じる程度だった。
それが異常だと分かっていても、誰も口にしなかった。
「……まだ、帰らされないな」
四日目の夜、ぶんたがぽつりと言った。
本来なら、とっくに戻っているような時間のはずなのに。
それでも身体は薄くならず、光の粒子も舞い上がらない。
「濃度が上がってるんだ」
がっちは、ペダルを踏みながら言った。
「アストラル体の。
……この辺り一帯、もう完全に“向こう側”だ」
五日目。
地平線の向こうに、それは現れた。
最初は山に見えた。
それは、山というよりも大地に巨大な根を張り巡らした巨木だった。
荒野の果てに辿り着いた三人の前に広がっていたのは、
大地を覆い尽くすほどに膨張した、巨大な菌糸の塊だった。
幾重にも絡み合う白濁した根。
脈動するように淡く光り、呼吸するかのようにうねっている。
その中心に――
キノコがあった。
傘は空を覆うほど巨大で、
その裏から降り注ぐ光の粒は、雪のように静かに舞っている。
「……これが」
ぶんたが、言葉を失ったまま呟く。
「前の勇者……」
近づくにつれ、空気が変わる。
息苦しさはない。
だが、身体が軽すぎる。
まるで、この場所そのものが
高濃度のアストラル体に満たされているかのようだった。
「これ以上、長くいれば――」
がっちが、静かに言う。
「戻れなくなる」
そのときだった。
キノコの根元、
菌糸が人の形に収束していく。
光が凝縮し、
やがて一人の青年の姿を取った。
学ラン。
少し時代遅れの制服。
だが、その顔は――
疲れ切っていた。
「……来ちゃったか」
青年は、苦笑するように言った。
「システムに忠告されなかったかい?
長居すると、帰れなくなるって」
「あなたが……」
がっちが一歩前に出る。
「私たちの前に、この世界に召喚された勇者ですね」
「そう呼ばれていたね」
青年は肩をすくめた。
「でも、もうボクは“人”じゃない。
ここにいるのは、装置の一部となった意識だけだよ」
三人は、息を呑んだ。
「この星は、もう限界だった」
青年は、足元の菌糸を見下ろす。
「システムが教えてくれたんだ。
この星の磁気圏や、オゾン層はもう失われていて、
そのままじゃ、人類は全滅するって」
「だから……」
ぶんたが、震える声で続ける。
「人を、魔物に変えた?」
「正確には、“適応”させたんだよ」
青年は否定しなかった。
「肉体をアストラル体で覆って姿を変えたことで、有害な宇宙線や紫外線から身を守ることが出来、
意識を封じ込めることで長い時を、生命を維持する形にしたんだ。
意識を保ったままの何万年じゃ正気がもたないからね。
意識を残したまま長い時間を生きるには、人間の精神は脆弱すぎる」
沈黙。
「そしてボクはは選んだんだ」
青年は、三人をまっすぐに見た。
「自分がシステムの中枢⋯⋯苗床になることを」
「……一人で?」
おっさんが、低く唸る。
「他に方法が、思いつかなかったんだよ」
青年は笑った。
「システムの破損で、装置単体では惑星改変が出来なくなっていてね。
地上にシステム行使の為の端末を置く必要があった⋯⋯
誰かを犠牲にするなら、犠牲は自分一人でいいって⋯⋯思ったんだよ」
がっちは、その笑顔を見て理解した。
――この人は、もうとっくに限界なんだ。
「でもね」
青年は続ける。
「そろそろ限界なんだこの星は、ゆっくり改変する時間はもうあまり残されてない」
キノコの傘から、光が強く降り注ぐ。
「この量のアストラル体が、一気に解放されたら……世界が終わる」
がっちが、静かに言った。
「神の審判にも似た光が世界中を包み込むんだろう」
「正解」
青年は頷いた。
「だから、君たちには帰ってほしいんだ。
そして、忘れてほしい。
……この星のことも……ボクのことも」
沈黙が落ちる。
風の音すら、聞こえない。
やがて――
がっちが、一歩前に出た。
ぶんたとおっさんの顔を、ちらりと見る。
二人とも、何も言わなかった。
「あなたはどうするんですか?」
「いったん眠りにつくよ……
磁気圏とオゾン層が再び構成され、
この星に、もう一度生命の息吹が戻った時、ボクの意識が戻るようにしてある」
勇者は、静かに言った。
それは一体、どれくらい先のことなのだろう。
数千万年か、それとも数億年か……
「肉体に被せた仮初の姿を取り除いて再び人に戻す。
それが終わった時が、僕の役目の終わりだよ」
「……それまで」
ぶんたが、問いかける。
「一人で、この星を守り続けるの?」
しばらくの沈黙。
「そうなるね」
それが、答えだった。
偶然だったのかもしれない。
同じ時代、同じ国に生まれただけの、ただの一致。
それでも――
同じ日本語を話し、
同じ世界を知っている人間を、
三人は、どうしても“他人”だとは思えなかった。
地球に帰るのか。
それとも……
おっさんは、この星の人々を救いたいと言った。
迷いはなかった。
魔物と戦い、血を見て、死を背負ってきたからこそ、それでもなお「助けたい」と言える男だった。
ぶんたは、違った。
「この星がどうなろうといいとは言わないけどさ……」
そう前置きしてから、言った。
「それでも、せめて勇者の魂だけは、日本に連れて帰りたい」
世界よりも、個人。
理屈ではなく、感情の選択。
がっちは、二人の言葉を黙って聞いていた。
人付き合いは、得意じゃない。
一人でいることも、嫌いじゃない。
孤独でいることは、苦ではない。
でも――
周りに誰もいないのは、やっぱり違う。
二人の顔を見る。
不器用で、真っ直ぐで、どうしようもなく人間くさい顔。
(……自分は)
ここに残ってもいい。
そう思った。
この星に残り、勇者とともに時を待ち、
世界の行く末を見届ける役目を引き受けてもいい。
でも――
それを口にした瞬間のことを、想像してしまう。
きっと、おっさんは言う。
「なら、俺も残る」
ぶんたも、笑って言うだろう。
「三人でいる方が、楽しいしね」
それが、何を意味するのか。
二度と、家族には会えない。
友人にも、知り合いにも。
当たり前だった日常にも、戻れない。
それでも三人で残る未来と、
みんなで帰る未来、
誰かを置いて帰る未来。
どれもが、正しくて。
どれもが、残酷だった。
がっちは、言葉を飲み込んだ。
選ばない、という選択だけが、
今はまだ許されている。
そして――
その沈黙の中で、三人は初めて理解した。
勇者とは、答えを出す者ではなく、答えを背負う者なのだと。
がっちは、青年と向き合う。
目線を、逸らさない。
そして――
何かを、告げた。
二人はその言葉を、聞き取れなかった。
だが、それを聞いた瞬間の青年の目は見開かれ――
次に、心から笑った。
「ああ……そうか」
青年は小さく、息を吐く。
その笑顔は、解放でも、諦めでもなかった。
ただ、すべてを理解した人の顔だった。
偶然から迷い込んでしまったこの世界。
ラノベの異世界なら、きっと都合よく救えた。
けれどここは違う。
悲劇は現実で、勇者は無力を抱えて笑うしか無かった。
その雪のような光の粒は、そこにいた三人の足跡を覆うかのように、ゆっくりと舞い続けた。
END




