第1話
昼休みの図書室は、奇妙な静けさに包まれていた。
完全な沈黙ではない。ページをめくる音、椅子を引く微かな軋み、遠くで誰かが咳払いをする気配。それらが混ざり合い、騒がしくはないが、確かに人の気配がある空間。
その一角で、コツ、コツ、と一定のリズムが刻まれていた。
「B6」
小声でそう告げたのは、ぶんただった。
向かいに座るおっさんは、盤面から視線を外さずに、わずかに首を振る。
「……はずれ」
二人の間に置かれているのは、折り畳み式のボードゲーム《バトルシップ》。
互いの艦隊配置を伏せたまま、座標を指定して攻撃を繰り返す、推理と読み合いのゲームだ。
見えない敵。限られた情報。
そして、先に相手の戦力を削り切った方が勝つ。
その横で、まったく違う世界に没頭している少年がいた。
がっちは、分厚い専門書を机に広げ、箸を止めたままページをめくっている。
昼食のパンは、すでに半分ほど袋に戻されたままだ。
表紙には、少し奇妙なタイトルが印字されていた。
――六脚脊椎動物類仮説。
昆虫がドラゴンとの共通祖先から進化したと、従来とは異なる視点から再検討する内容らしい。定説ではない。むしろ、学界では脇に追いやられている部類の仮説だ。
だが、がっちはそういう本を好んだ。
「正しい」とされているものよりも、「あり得たかもしれない」ものに、強く惹かれる性分だった。
「なあ、がっち」
おっさんが、盤面から目を離さずに声をかける。
「昼飯、食わねえの?」
「今いいところ」
がっちは顔も上げずに答えた。
三人は、同じ高校に通うゲーム同好会のメンバーだ。
もっとも、同好会といっても部室はない。空き教室はどこも正式な部活に押さえられ、生徒数の多いこの学校では、新参者に割り当てられる余裕などなかった。
だが、彼らにとって場所は重要ではない。
ゲームができれば、それでいい。
誰かが本を読んでいる横で、別の誰かが盤面を睨み、もう一人がスマホや携帯ゲーム機を起動する。そんな距離感が、いつの間にか日常になっていた。
もっとも、生徒会に目をつけられない程度には、きちんと活動している。活動報告書も欠かさず提出していたし、つい先日も“実績作り”として高校生クイズ選手権の地区予選に参加した。
結果は――予選落ち。
「がっちの体力がないのがな〜」
ぶんたが、からかうように言う。
がっちは、ようやく本から顔を上げた。
「仕方ないだろ。まさか予選の課題が、持久走しながらの耐久クイズだなんて思わない」
本の虫であるがっちは、知識量と頭の回転なら誰にも負けない。街のゲーセンのクイズやパズルゲームの筐体じゃ、上位欄がだいたい《GATTI》で埋まる。本人は隠すふりをしているが、それががっちのことだとは学年でも知れている。
だがその代わり、体力がない。体育の成績は安定の「2」。本人も特に気にしていなかった。
「まあ、生徒会に“ちゃんと活動してます”ってアピールできたし、結果なんてどうでもいいだろ」
淡々と言って、がっちは再び本に視線を落とす。
ぶんたは戦略大好きのボードゲーム派だ。
盤面を俯瞰し、ルールの隙間を探し、勝ち筋だけでなく負け筋まで計算する。勝てないと判断すれば、最善の撤退を選ぶタイプだった。
一方のおっさんは、サバゲー好きのアウトドア派。
格闘、レース、対戦ゲーム。
理屈よりも感覚を信じ、まず動いて確かめる。
三人は、得意分野も性格も違う。
だが、不思議と噛み合っていた。
「……C3」
おっさんの声に、ぶんたの動きが止まる。
「……命中」
命中を表す赤い小さな駒が、静かに差し込まれた。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。
「しょうがない。勝負はここまでだ。続きは放課後な」
ぶんたは盤面を一度だけ見下ろし、
「次は、たぶんここだね」
と小さく呟いた。
おっさんが、にやりと笑う。
「当たってるかどうか、楽しみにしとけ」
三人は慣れた手つきでゲームを畳み、それぞれの教室へと戻っていった。
その日の午後の授業は、特別なこともなく過ぎていった。
黒板が奏でる心地よいチョークのリズム。ノート。眠気。いつも通りの、代わり映えのしない時間。
午後の最後の授業が終わり、教室にざわめきが戻ってくる。
担任が教壇の前に立ち、出席簿を閉じた。
「えー、連絡事項は以上だ。明日から三連休だが――」
一瞬、教室の空気が浮つく。
「――ハメを外しすぎるなよ。高校生なんだから、自分で考えて行動しろ」
決まり文句のようなその一言で、ホームルームは終わった。椅子が引かれ、鞄が持ち上げられ、教室は一気に放課後の顔になる。
校門を出て、三人はいつもの帰り道を歩いていた。
「どうする?」
おっさんが言う。
「三連休だし、誰かんち泊まり込みでゲームでもするか?」
「いいね。それ」
ぶんたが即答する。
「だったらその前に、菓子買い出しだな」
がっちも鞄を肩に掛け直しながら言った。
向かう先は、駅前のコンビニ。
その途中に、必ず通る道がある。
交通量の多い幹線道路に架かる、少しサビの目立つ緑色の歩道橋。
三人は並んで、その下をくぐった。
――そのときだった。
「あれ?」
ぶんたが、足を止める。
「なに?」
「ガッチの鞄……」
がっちは半歩遅れて、自分の鞄に視線を落とした。
ファスナーの隙間から、淡い光が漏れている。
白とも、青ともつかない、不自然な輝き。
「……光ってね?」
その言葉を言い終わる前に、世界が、反転した。
眩い光が視界を埋め尽くし、音が消える。
足元の感触が失われ、上下の感覚が曖昧になる。
叫ぶ間もなく、考える余裕もなく。
次の瞬間、三人は――光の中に、飲み込まれていた。
◇
そこは、巨石が無秩序に転がる遺跡だった。
積み上げられた石の一つ一つは、人の背丈を軽く超えている。
いつの時代に築かれたものなのか、正確なことは分かっていない。
ただ、この地には数千年前、ひとつの古代文明が栄えていた――そう伝えられている。
遺跡の中心には、ひときわ大きな石門がそびえ立っていた。
人の手で造られたとは思えないほど巨大で、風雨に削られながらも、なお威圧的な存在感を放っている。
かつて、この門をくぐり抜け、異世界から勇者が現れた。そんな伝承が残されていた。
今、人は一つの脅威と戦っている。
『魔物』
それとの戦いは悪化の一途を辿っていた。
人の領域は、すでに大陸の五分の一にまで押し縮められている。
この国は、現状の国境線――人類側がかろうじて保っている最前線だった。もし、この国が落とされれば、人の領域は、一気に失われるだろう。
戦略的に見れば、この遺跡に価値はない。
補給路でも要衝でもなく、ただ石が積み上げられているだけの場所だ。それでも兵士たちが、今なお魔物の侵攻からこの遺跡を守り続けている理由は一つしかなかった。
――勇者。
いつ現れるのか。
そもそも本当に存在するのか。
誰にも分からない、ただの伝承。
それでも、人々はそこに一欠片の希望を見出していた。
一人の兵士が、石門を見上げ、空を仰ぐ。
「藁にもすがるって、よく言うけどさ……」
乾いた声が、遺跡に吸い込まれていく。
「正直、藁どころか、たんぽぽの綿毛にでもすがりたい気分だよ。本当に来るのかね、勇者さんってやつは……」
遠くから、切迫した声が飛んできた。
「魔物だ! 五体はいるぞ!」
「へいへい、今行きますよ……」
兵士は肩をすくめ、槍を握り直す。
「ったく……神様も、俺たちを生かすつもりがあるのか、ないのか。
ないならいっそ、一思いにやってくれりゃいいのによ。
こんな生殺しの状態より、よっぽど楽だ」
そう呟いて、兵士は石門に背を向けた。
その門が――
かすかに光を放ち始めていることに、このとき、誰も気づく余地はなかった。
◇
――三人は、何もない空間を飛んでいた。
上下も左右もない。
足元も、地平も、遠近の区別すら存在しない。
ただ、どこまでも続く真っ白な空間。
浮いている、というよりも、投げ出されている感覚に近かった。
身体は宙にあるはずなのに、落下しているわけでもない。
「……なんだ、コレ」
最初に声を上げたのは、おっさんだった。
ぶんたは反射的に手足をばたつかせる。
泳ぐような仕草だったが、水の抵抗はない。
「マジで何もないね。壁も床も、天井も……」
周囲に目を走らせながら、ぶんたが続ける。
掴めるものは何一つなく、距離感も掴めなかった。
その横で、がっちは腕を組んだまま、じっと周囲を見渡していた。
三人の中で、ただ一人だけが慌てていない。
「……互いの姿が見えてるってことは、光はある」
独り言のように呟く。
「でも影がない。ってことは光源が一箇所じゃない。
……いや、そもそも空間そのものが発光してるのか?」
がっちは視線を落とし、自分の手のひらを見つめる。
「呼吸も問題ない。重力も、あるようでない。
少なくとも、即死する環境じゃないのは確かだな」
「おい、がっち」
おっさんが不安を隠さずに呼びかける。
「なんかわかったのか?」
「……いや」
がっちは即座に首を振った。
「何もわからん」
間を置いて、視線を正面へ向ける。
「ただ――」
その視線の先に、異変があった。
白一色だった空間に、一本の線が浮かび上がっている。
縦に走る、細く鋭い光の筋。遠いようで、近い。
近いようで、距離が測れない。
「……どうやら、ゴールは見えてきたらしい」
その瞬間だった。再び、世界が光に包まれる。
意識が引き伸ばされるような感覚。
音が歪み、視界が弾ける。
光の中で、かすかな声が響いた。
『スキャンニングが終了しました』
一拍置いて、無機質な声が続く。
『肉体を出力します』
意味は、まったく理解できなかった。
だが次の瞬間、三人の意識は――完全な白に、飲み込まれた。
◇
魔物の咆哮が、遺跡に反響していた。
「ったく……」
槍を構えた兵士が、歯を食いしばる。
「こないだ隊長たちがやられたばっかだってのに、まだ補充も済んでねえんだぞ」
振り下ろされる爪を槍で受け流し、体勢を崩した魔物の懐へ踏み込む。狙いを定め、腹部へと鋭く突き刺した。
魔物が濁った声を上げて崩れ落ちる。
「……それにしても、今日のやつら」
隣で戦っていた兵士が、息を荒げながら言った。
「なんか、いつもより強くないか?」
「このところ連戦続きだからな」
別の兵士が返す。
「こっちが疲れてるだけだ。気を抜くなよ」
「わかってるって!」
その瞬間だった。
ふわりと、空気の色が変わった。
淡い光が、遺跡全体を包み込む。
太陽の光とは違う。炎でも、魔法でもない。
柔らかく、しかし確かな光。
「……なんだ?」
兵士が足を止める。
光を浴びた魔物たちが、突如として苦しみ始めた。
身体を掻きむしり、喉を鳴らし、悶えながら地面に倒れていく。
「おい……なにが起きてる?」
次々と、魔物が沈黙していく。
「……門だ」
誰かが、震える声で呟いた。
兵士たちが、一斉に視線を向ける。
遺跡の中心。
あの巨大な石門が、低く、重い音を立てて――開き始めていた。
何百年、あるいは何千年もの間、固く閉ざされていたはずの門。
石と石が擦れ合う不気味な音が、遺跡に響く。
「……開いてる」
門の奥は、眩いほどの光に満ちている。
次の瞬間。
その光の中から、三つの光球が――
弾き出されるように、宙へと飛び出した。
◇
最初に声を出したのは、おっさんだった。
「……ここは、どこだ?」
見上げた先にそびえ立つのは、高さ二十メートルはあろうかという巨大な石造の門。その周囲には、同じ材質と思しき巨石が無造作に散らばっている。
「教科書の写真でも、こんなの見たことないよ」
ぶんたが、遺跡全体を見回しながら言った。
「あちこちに同じ模様が刻まれてる。紋章……いや、意匠か」
がっちが門の表面に刻まれた文様へ視線を走らせる。
「巨石文明の遺跡かもしれないな。それに、どの石もやけに平面が揃いすぎてる。自然にこうなるとは考えにくい。
人工的に切り出されたものだと見て、間違いないと思う」
「人工的って……誰がだよ」
おっさんが呆れたように言う。
「こんなデカい石、巨人でもいなきゃ無理だろ」
「だったら、巨人でもいるんじゃないか?」
がっちが空を指差した。
「見ろ」
視線の先、昼間の空には――
見慣れない月が、二つ浮かんでいた。
一つは青く、もう一つは、赤い。
「……青い月と赤い月」
ぶんたが小さく息を呑む。
「ここは地球じゃない、ってこと?。今流行りの異世界転移ってやつかも」
ポケットからスマホを取り出し、画面を確認する。
「今、16時だね……って、どのボタン押しても反応しない。時間表示しか出てないし、カメラも起動しないよ。二人のは?」
「俺のもだ」
「私のも固まってる。……ただの箱だな」
「カメラ使えたら、写真撮りたかったんだけど……って、がっち何してんの?」
がっちは、すでに鞄からノートと筆記用具を取り出していた。
「記録」
短く答え、石門と刻まれた文様を素早くスケッチし始める。
「カメラが使えないなら、せめて手で残しておかないと」
そのとき、背後から複数の足音が聞こえてきた。
「……人だ」
おっさんが身構える。
「やっぱり人間がいる。しかも普通サイズだ」
武器を携えた兵士たちが、慎重に距離を詰めてくる。
「彼らは……勇者様だ」
「間違いない。希望を捨てずに待っていてよかった……」
兵士たちのざわめきに、おっさんが低く唸る。
「おい、武器持ってるぞ」
「やばいね。何か武器になりそうなもの、持ってたっけ」
二人が警戒する中、がっちは一歩前に出た。
「あの、すいません。ここはどこですか?」
「おい、がっち!」
おっさんが小声で制止する。
「敵だったらどうするんだよ」
「どうもしないよ」
がっちは振り返らずに言った。
「敵だったら、殺されて終わりだ。ジ・エンド。
私の足じゃ、どのみち逃げられないしね」
兵士の一人が、驚いたように目を見開き、口を開いた。
「我々が、勇者様を害するなど……あり得ません」
「勇者?」
「俺たちが?」
「はい。間違いありません」
兵士は三人の服装を見て、深く頷く。
「伝承の通りです。
かつてこの世界に現れた勇者が身にまとっていたという、聖法衣――ガックランを着ておられる」
「ガックラン?
……学ランのことだよね」
ぶんたが呟く。
「ってことは、前に来た勇者って日本人か。しかも、近代の」
がっちが口を開く。
「なんで分かるんだよ」
「学ランって、元はラン服って言ってさ。
それが学生用のラン服で“学ラン”になった。
その呼び名が一般化したの、昭和50年代以降なんだ」
「……さすが、知識の鬼」
がっちは兵士に視線を戻す。
「それで、その勇者は……何をしたんですか?」
「古い話でして、正確な記録は残っておりません。
ただ、世界を救ってくださったとだけ伝えられています」
「アバウトすぎる……」
おっさんがぼやく。
「で? 俺たちにも世界を救えって?
その前に、ここはどこで、俺たちは何をさせられるんだ?」
「それは……見ていただいた方が早いかと」
兵士たちに案内され、三人は遺跡の外れへと向かった。
そこには――
先ほどまで戦いがあった痕跡が残っていた。
「……なに、これ」
倒れ伏した異形の死体。
「我々は、これらを“魔物”と呼んでいます」
「魔物……?」
「はい。いつ現れたのかは分かりません。
ですが、この存在によって世界は、滅びへ向かっています」
「俺たち、これと戦うの?」
「あるいは……知恵を授けていただければ」
「知恵って……って、がっち、やばいって!」
がっちはすでに魔物の死骸のそばにしゃがみ込み、観察を始めていた。
「魔物って聞くと仰々しいけど……」
冷静な声。
「これ、動物と変わらないね」
「……動物?」
「足の構造を見る限り、そこまで速くは動けない。
爪と牙は危険だけど、注意点はそれと尻尾くらいかな」
兵士が、驚きを隠せない様子で頷く。
「その通りです。一体一体は、それほど強くありません。
我々の倍ほどの力はありますが、二人三人でかかれば倒せます。
急所も人とほぼ同じ。夜は活動もしません」
「ただ……数が多い」
「なるほど」
がっちは立ち上がり、全体を見渡した。
「これだけじゃ判断できません。もっと詳しい話を聞きたいです」
「では、我らが城へ」
兵士は深く頭を下げる。
「王にも、報告せねばなりません」
遺跡を後にして、およそ一時間。
石と土の道を歩いた先に、王都はあった。
――王都、と呼ぶには、あまりにも静かだった。
城壁は健在で、道も整備されている。
だが、行き交う人の姿はまばらで、商いの呼び声も聞こえない。
見える人々の顔には、生気がなかった。
誰もが何かに怯えるように俯き、周囲を気にしながら足早に通り過ぎていく。
「……思ってたのと違うな」
おっさんが小さく呟く。
「王都って、もっと賑やかなもんだと思ってた」
「それだけ追い詰められてるってことだよ」
ぶんたが周囲を観察しながら言った。
がっちは、歩きながら地面に視線を落としていた。
土は乾き、踏みしめるたびに細かな砂埃が舞う。
「……そういえばさ」
ふと、疑問が口をついて出る。
「ここまで来て、木が生えてるのを一度も見てないんだけど。この辺、砂漠とかだったのか?」
案内役の兵士が、首を横に振った。
「いいえ。かつては、この辺りも緑豊かな土地だったと伝えられています」
淡々とした声だったが、その言葉には重みがあった。
「ですが、魔物が現れ始めてから、世界には“瘴気”と呼ばれるものが広がり始めたのです」
「瘴気……」
「まず、背の高い木々が枯れました。
次に、その影響は小さな植物へと及び……」
兵士は、足元の地面を見下ろす。
「今では、こうして雑草がわずかに生える程度です」
がっちは無言で頷き、周囲を見回した。
確かに、緑と呼べるものはほとんどない。
生命が削ぎ落とされ、土地そのものが疲弊しているように見えた。
「……なるほど」
小さく呟く。
「環境そのものが、戦場になってるわけか」
ぶんたとおっさんは、黙ったまま街を見渡していた。
ここが、今も人が生き延びている最後の場所の一つなのだという事実が、否応なく胸に重くのしかかってくる。
街を抜けると、やがて城門が見えてきた。
白い石で築かれた城壁は、遠目にはまだ威容を保っている。
その周囲を囲む堀に、がっちの視線が留まった。水面の下を、影がいくつも横切っている。ときおり、銀色の魚体が跳ね、水面に小さな波紋を残した。
「……魚は、いるんですね」
思わず、がっちが口にする。
案内役の兵士が、静かに頷いた。
「はい。水の中は、瘴気の影響をあまり受けないようでして」
兵士は堀を見下ろしながら続ける。
「今では、魚介類が我々の生命線のようなものです。
それでも、瘴気に汚染される前に食べなければなりませんが……」
少し間を置いて、言葉を足した。
「多くの人々は、すでに海の近くへと移住し始めています」
「……なるほど」
ぶんたが低く呟く。
「陸は削られて、水が最後の逃げ場ってわけなんだね」
おっさんは堀の水を見つめ、無言で顎を引いた。
生き物がいる。
食べ物も、まだある。
だがそれは、猶予が残っているというだけで、安全だという意味ではない。
城門の前に立ったとき、三人はようやく実感し始めていた。この世界は、すでに終わりかけているのだと。
重厚な音を立てて、城門が開いた。
門をくぐった瞬間、空気が変わる。
外の街と同じく、城内にも人の気配はある。だが、そこに活気はなかった。
足音が、石畳にやけに大きく響く。
廊下は広く、天井は高い。それがかえって、静けさを強調していた。
「……静かだな」
おっさんが、思わず声を落とす。
「城の中まで、ピリピリしてる感じだ」
「ここが最後の砦みたいなもんなんだから、当然だよね」
ぶんたが周囲を観察しながら言った。
案内された玉座の間には、最低限の明かりだけが灯されていた。
中央に設えられた玉座に、一人の男が座っている。
王だった。
年老いてはいるが、その目にはまだ光があった。
しかし、それは希望というより、責任と疲労の色に近い。
兵士の報告を受け、王は静かに三人を見下ろした。
「……勇者たちよ」
低く、しかしはっきりとした声が響く。
「どうか、この世界に救いをもたらしてほしい」
その言葉を聞き、おっさんが一瞬だけ顔をしかめた。
がっちは一歩前に出る。
「まずは、状況を把握しないことには、何も出来ません」
王を真っ直ぐに見据え、淡々と続けた。
「この世界の現状が分かる資料はありますか。
記録、戦況報告、過去の事例……何でもいい」
ぶんたが、すぐに言葉を継ぐ。
「それと、詳細な地図が欲しいな。
魔物の侵攻状況を、地図と照らし合わせて説明してくれる人も、何人か」
王は、わずかに目を見開いた。
「……用意しよう」
今度は、おっさんが前に出る。
「俺は、実際に魔物が動いてるところを見てぇ。
近場でいい。今まさに魔物が出てる場所に連れて行ってくれ」
三人の言葉に、王と周囲の臣下たちは顔を見合わせた。
がっちは、二人の方へ視線を向け、小さく頷く。
「それぞれで集めた情報を持ち寄って、整理する」
いつもの調子で、結論を口にした。
「……いつも通りだ。やろう」
その一言で、三人の役割は決まった。
この世界に召喚された勇者たちは――
剣も、魔法も、奇跡も持たない。
ただ、考えるための手順だけを、持ち込んでいた。
がっちは、城の奥まった一角にある書庫へ案内された。
扉を開いた瞬間、鼻をつくような、乾いた紙の匂いが広がる。
並ぶ書棚は高く、収められている本の数も多い。
だが――
そのほとんどが、痛んでいた。
表紙は色褪せ、背表紙は崩れ、紙はところどころ変色し、裂け、穴が空いている。
指で触れるだけで、崩れてしまいそうなものも少なくない。
「……これも、瘴気の影響か」
独り言のように呟きながら、がっちは棚に並ぶ本へ視線を走らせた。
無作為に、数冊を抜き取る。
重量を確かめるように腕に抱え、近くに置かれた椅子へ腰を下ろした。
ページを開く。
そこに並んでいるのは、見たこともない文字列。
地球のどの言語とも一致しない、異質な文字。
だが、がっちは眉一つ動かさなかった。
「……多分、わかるな」
小さく、確信めいた声。
「この世界の言語、構造がシンプルだ。
語順と繰り返しがはっきりしてる。暗号解読……いや、謎解きパズルとほとんど変わらない」
がっちは、所々が欠け、穴の空いたページを丁寧にめくり始めた。
文脈、反復、頻出する記号。
失われた部分を、残された断片から補完していく。
この世界の歴史が、魔物の出現が、
そして――人類が追い詰められていく過程が。
ぼろぼろの紙の向こう側から、少しずつ、輪郭を現し始めていた。
ぶんたは、城内に設けられた兵士詰所にいた。
石造りの室内は簡素で、壁際には武器と簡易な机が並んでいる。中央のテーブルを囲むように、数人の兵士が集まっていた。
「……すいません」
年若い兵士が、少し申し訳なさそうに言いながら、テーブルの上にいくつかの板を並べた。
それは、地図だった。
ただし、紙ではない。
銅板の表面に、釘で線を刻んだものだ。
川らしき線。
山脈と思しき隆起。
都市や砦を示すであろう印。
どれも断片的で、決して「分かりやすい」とは言い難い。
「以前は紙の地図もあったんですが……」
兵士が言葉を続ける。
「瘴気が広がり始めてから、紙はすぐに傷んでしまうようになりまして。比較的、劣化しにくい金属板に刻むしか方法がなかったのです」
「なるほどね」
ぶんたは、特に不満を漏らすこともなく頷いた。
「ないものは、仕方ない」
そう言いながら、銅板の地図に視線を走らせる。
ぶんたの頭の中で、断片が組み合わされていく。
位置関係。距離感。高低差。
そこに、兵士たちから聞き取った情報を重ねる。
魔物の侵攻ルート。
現在の前線。
兵士の配置と数。
それらを、ひとつひとつ「ユニット」として、脳内の地図に置いていく。
やっていることは、いつもと同じだった。
戦略ゲームで盤面を眺め、
条件を整理し、
コマを配置し、
次の一手を考える。
違うのは――
それが画面の中ではなく、現実であるということだけだ。
「……シンプルだな」
ぶんたは、心の中で呟いた。
コマは、兵士と魔物の二種類だけ。
能力も、極端な差はない。
複雑なスキルも、想定外の行動も、今のところ見当たらない。
普段、複雑な戦略を組み立てることに慣れているぶんたにとっては、正直、物足りないくらいだった。
――もう少し、コマの種類が欲しい。
そんな不謹慎とも取れる感想が、頭をよぎる。
だが同時に、ぶんたは理解していた。
この「シンプルさ」こそが、この戦争を終わらせない最大の理由なのだと。
おっさんは、兵士たちに同行し、近くの戦場へと出ていた。
「……やっぱ、間近で見ると違うねぇ」
視線の先で、魔物がうごめいている。
有り体に言えば、ファンタジー作品でよく見るリザードマンに近い姿だ。
鱗に覆われた身体。
長い尾。
鋭い爪と牙。
ただし、水生生物に見られる水かきはない。
その点から見ても、完全に陸上行動に特化した種なのだろう。
「……けど」
おっさんは、目を細める。
「見た目以上に、トロいな」
そう、魔物の動きは遅かった。
大軍に襲われても、包囲されにくい理由が分かる。
人間側が逃げ遅れる状況が、ほとんど想定できない。
だが――
「あの鉤爪は、厄介そうだな」
魔物は、ときおり強靭な尾で身体を支え、立ち上がる。
そして、両脚を突き出すように蹴りを放つ。
「カンガルーキック、ってやつか」
それと尾を振り回しての打撃。
体重を乗せた一撃は、直撃すれば骨が砕けるだろう。
さらに――
「……噛みつきはヤバいな」
ほぼ予備動作なし。
蛇のような速度で、顎が飛んでくる。
「でもまあ……」
おっさんは、鞄に手を伸ばす。
「一回、やってみないことには分かんねぇよな」
取り出したのは、サバイバルナイフ。
普段から鞄に忍ばせている代物だ。
言うまでもなく、銃刀法違反。
だが、厨二病にも似た“男の浪漫”が、それを許さなかった。
――いつか、サバイバルで使うかもしれない。
そう思っていたら、まさか異世界で、魔物相手に使うことになるとは。
「心、沸き踊るね」
本人曰く、俺は戦えるヲタク――らしい。
「待て! 勇者様!」
兵士たちの制止を振り切り、
おっさんは魔物へと突っ込んだ。
軽いフットワーク。
攻撃の軌道を見切り、半歩ずらしてかわす。
そして、懐へ。
急所へ、迷いなくナイフを突き立てる。
一本。
二本。
三本。
魔物が、次々と倒れていく。
その動きは、兵士たちよりも洗練されていた。
「……まあ、こんなもんか」
数体を仕留めたところで、おっさんは距離を取る。
ナイフを振ると、刀身についた青い血が弧を描いて飛び散った。
周囲から、歓声が上がる。
「すげぇ……!」
「勇者様だ……!」
だが、おっさんは首を振った。
「いや、こいつじゃ正直キツいな」
手の中のナイフを見下ろす。
「マチェットでもあれば、もう少し楽なんだが」
周囲を見渡す。
兵士たちが持っているのは、ロングソードとグレイヴばかり。
「せめて、ファルシオンがあればな……」
ないものは、仕方ない。
「まあ、しゃーねぇか」
そう呟きながら、おっさんは次の手を考える。
「しかし……」
戦場全体を、改めて見回す。
「こいつら、動きが悪すぎる。魔物も、兵士もだ」
瘴気の影響か。
それとも、長年の戦いによる疲労か。
「映画とか漫画みたいにさ……
自衛隊が転移してきたら、火器使わなくても制圧できそうだぞ、これ」
もちろん、現実にはそんな都合のいい話はない。
だが、おっさんの目には、はっきりと見えていた。
この戦争は――
力ではなく、消耗で人を殺す戦争だということが。
おっさんは、静かに戦場を見渡した。
◇
太陽が地平の向こうへ沈み、二つの月が地上を照らし始めた頃、城の一角に設けられた小さな部屋に、三人は集まっていた。
これから、それぞれが集めてきた情報を持ち寄り、今後の対策を話し合う――そのための場だった。
部屋の四方に置かれたランタンが、静かに揺れている。火の影が壁や天井に模様のように映り、室内を不安定に染めていた。
「……さて」
口火を切ったのは、がっちだった。
「それぞれの見解は?」
その問いに、ぶんたとおっさんは、ほぼ同時に首を横に振った。
「無理だね」
ぶんたが、即座に言った。
「戦力差がありすぎる」
ランタンの明かりに照らされた床を見つめながら、淡々と続ける。
「将棋で言えば、歩と歩の戦いなんだけどさ。
こっちは歩が一枚。向こうは……十枚か、二十枚はある」
顔を上げる。
「完全な消耗戦だよ。
このままやっても、勝つ見込みはない」
「俺も、同意だ」
おっさんが腕を組んだまま言った。
「現場を見てきたが、あれじゃどうにもならねぇ。
瘴気の影響か、長年の疲労か……兵士の動きが悪すぎる」
ため息交じりに、言葉を足す。
「せめて、成金……いや、切り札になる駒が何枚かあれば話は別だがな」
一瞬の沈黙。
がっちは、静かに息を吐いた。
「……やっぱりな」
小さく漏らす。
「私も文献を当たっていて、同じ印象を受けたよ」
視線を落とし、言葉を選ぶように続けた。
「もし、私たちが呼ばれたのが百年早かったら……
あるいは、魔物が現れ始めた直後だったら、どうにか出来たかもしれない」
だが、と首を振る。
「今はもう、遅すぎる。
何か、戦力差をひっくり返す“決定打”がない限り、覆せない」
「……負け戦、か」
ぶんたが呟いた。
「世界の滅びを見届けるために呼ばれた勇者……ってわけだね」
苦笑混じりに続ける。
「僕もラノベは色々読むけどさ。
異世界に召喚された勇者の現実って、案外こんなものなのかもしれないね」
「ああ」
おっさんも頷いた。
「ヒーローになれる勇者なんて、一握りってことだ」
そして、ぽつりと付け加える。
「……せめて、召喚されるって分かってて、向こうの世界から物を持ち込めるなら。
それなら、やりようもあったかもしれねぇのにな」
その言葉のあと、沈黙が流れた。
ランタンの火が、ぱちりと音を立てる。
そのときだった。
がっちは、ふと違和感を覚えた。
自分の手を見る。
――薄い。
指先が、わずかに透けている。
「……?」
顔を上げると、ぶんたとおっさんも同じ状態だった。
身体の輪郭が曖昧になり、そこから、光の粒がふわりと舞い上がっている。
「……なんだ、これは」
おっさんの言葉を合図にしたかのように、三人の身体は、光の粒へと、ほどけていった。
そして――
次の瞬間。
そこには、誰の姿も残っていなかった。
気づくと、三人は歩道橋の下に立っていた。
目の前を、いつものように車が通り過ぎていく。
アスファルトの匂い。夜の湿った空気。
見慣れた街の風景。
「……戻ってきたのか?」
最初に口を開いたのは、おっさんだった。
「夢だった、ってわけじゃないよね」
ぶんたが、念を押すように言う。
がっちは、黙ったまま自分の手を見つめていた。
輪郭ははっきりしている。透けてもいない。
「私たちが諦めたから、ゲームオーバーで戻された……ってことも、ないとは思うけど」
ぽつりと呟く。
「でも、夢じゃないよな」
おっさんの声が、少しだけ強くなる。
「俺たち、間違いなく異世界に行ってたよな」
二人は、同時に頷いた。
あの空。
二つの月。
瘴気に侵された世界。
そして――勝てない戦争。
どれも、夢にしては生々しすぎる。
「……まあ」
がっちが顔を上げる。
「戻ってきてしまったものは、仕方ない。
今は、あれこれ考えるよりも――」
「ああ」
おっさんが、即座に続けた。
「腹減った。まずは晩飯だろ」
「だね」
ぶんたが苦笑する。
「一回、頭の中を整理しよう。
後で、ルームに集まって話そうぜ」
三人は、それぞれの帰路についた。
歩道橋の下で別れ、いつもの道を歩き出す。
がっちは、ポケットからスマホを取り出す。
何気なく、画面を確認した。
表示されていた時刻は、19:00。
――次の瞬間。
数字が切り替わり、19:01になった。
「……三時間、か」
思わず、声が漏れる。
「間違いなく、向こうの世界ではそれ以上いたはずだ。
ってことは……時間の流れが違うのか?」
答えは、出ない。
だが――
どちらにしても、もう終わったことだ。
自分たちが、再びあの世界へ行くことは、もうないだろう。
そう、今は思うようにしよう。
がっちは、スマホをポケットにしまった。
◇
夕食を終え、がっちは自室に戻った。
ベッドに腰を下ろし、ふと今日のことを思い返す。
歩道橋。
巨石文明の遺跡。
二つの月。
そして――ぶんたの言葉。
――ガッチのカバン、光ってね?
「……そういえば」
がっちは立ち上がり、床に置いた鞄を手に取った。
ファスナーを開け、中を確かめる。
教科書。
ノート。
ボードゲーム。
美術の時間に作った立体デザインの課題。
数学の図形問題のプリント。
いつもと変わらない――はずだった。
「……ん?」
がっちは、手を止めた。
視線が、ある一点に吸い寄せられる。
自分の中で、何かが噛み合う感覚。
「……そういうことだったのか」
息を呑む。
考えるより先に、身体が動いていた。
スマホを掴み、二人とのグループチャットを開く。
> がっち
> 異世界に飛んだ原因がわかった。詳細は明日
数秒も経たないうちに、返信が来る。
> おっさん
> また異世界行けるってことかよ
がっちは、一瞬だけ迷い――だが、はっきりと打ち込んだ。
> がっち
> 行ける。十中八九
すぐに、次のメッセージ。
> ぶんた
> それじゃ、明日集合する?
畳みかけるように、おっさん。
> おっさん
> 異世界に持ってく物、買い出しだろ
がっちは、小さく息を吐き、最後の一文を送る。
> がっち
> じゃあ駅前の100均に10時で
既読が、二つ。
> おっさん
> わかったぜ
> ぶんた
> おK
スマホの画面を閉じ、がっちは鞄へ視線を戻した。
そこに入っているのは、
ただの学校の持ち物。
だが――
次に世界を変える引き金になるものでもあった。
がっちはデスクに向かい、PCを起動した。
カーソルを動かしアイコンクリック。立ち上げたのは、図形絵画ツール。鞄から数学のプリントを取り出すと、そこに描かれていた図形を、黙々とトレースし始めた。
「……やっぱり、これだ」
画面の中で、線が繋がっていく。
まるで――それが門みたいに。




