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【完結】平凡なサラリーマンの僕が、殺人事件の犯人になったらしい  作者: ドネルケバブ佐藤


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7/7

最終話

完結です。



田代正樹が自分の過去の罪を認識してから二週間が経過した頃、木谷理沙から特別な面談の通知が届いた——「重要な資料の開示」というタイトルだけが記されており、その内容については一切触れられていなかった。田代は不安と期待が入り混じった気持ちで、指定された時間にパソコンの前に座った。


画面に現れた木谷の表情は、これまで見たことがないほど深刻だった。彼女の目には疲労の色が濃く、まるで数日間眠っていないかのようだった。


「田代さん、今日お見せするものは、ESPIが最近解析した資料です。花村詩織さんが残した、最後のデジタルフットプリントに関するものです」


木谷はそう前置きしてから、画面に一つのテキストファイルを表示させた。それは、花村詩織さんが亡くなる三日前に、匿名掲示板に投稿した文章だった。


「この投稿は、彼女が使っていた複数のアカウントのうち、最も個人的な思いを吐露していたものから発見されました」


田代は画面に表示された文章を読み始めた。そして、その内容に戦慄した。


『もう限界。毎日毎日、誰かから責められる。会社でも、ネットでも、どこにいても安全な場所がない。最初は正しいことをしようと思っていた。会社の不正を正したかった。でも、どうしてこうなった?』


『批判されるのは仕方ない。でも、なぜ人格まで否定されなければならないのか。なぜ家族のことまで調べられるのか。なぜ私の顔写真がネットに晒されるのか』


『最初に声を上げたのは誰だったか、もう覚えていない。でも、気づいたら私が標的になっていた。私も誰かを批判した。でも、それは会社の不正に対してであって、個人への攻撃ではなかったはずなのに』


文章は続いていた。しかし、田代が最も衝撃を受けたのは、その文体の特徴だった。


「木谷さん、この文章には...」


「はい、お気づきでしょう。主語がほとんど存在しません」


木谷の指摘に、田代は改めて文章を読み返した。確かに、「私」という主語は最小限しか使われておらず、多くの文が受動態か、主語を省略した形で書かれていた。


『批判される』『責められる』『調べられる』『晒される』——全ての文が、誰が行為の主体なのかを曖昧にしていた。


「これは偶然ではありません」


木谷は説明を続けた。


「言語学的な分析によれば、花村さんは意図的に主語を省略していた可能性が高いのです」


「なぜですか?」


「彼女は『誰が自分を攻撃しているのか』を特定できなかったからです。あるいは、特定したくなかったのかもしれません」


木谷はさらに別の資料を表示させた。それは花村詩織さんが受けた中傷コメントの統計データだった。


「彼女を攻撃したアカウントは、延べ3,247個。しかし、実際の個人数を推定すると、約800人から1,200人の範囲です」


田代はその数字に圧倒された。800人から1,200人——それだけの人々が、一人の女性を攻撃していたのだ。


「この中には、あなたも含まれています」


木谷の言葉は静かだったが、田代の心臓に突き刺さった。


「そして、興味深いことに、攻撃者の多くは『正義感』から行動していたことが、投稿内容の分析から明らかになっています」


「正義感...ですか?」


「はい。彼らは『企業の不正を許さない』『隠蔽を糾弾する』『真実を明らかにする』といった大義名分のもと、花村さんを攻撃していました」


木谷は画面に、攻撃的なコメントの例を表示させた。


『こういう嘘つきは許せない』

『企業の犬は社会から排除すべき』

『正義は必ず勝つ。お前のような人間は報いを受ける』


それらのコメントには、確かに「正義」や「真実」という言葉が繰り返し使われていた。しかし、その正義の名のもとに、一人の女性が追い詰められていったのだ。


「田代さん、ここで重要な質問です」


木谷は田代の目をまっすぐ見つめた。


「この事件の犯人は誰だと思いますか?」


田代は答えに窮した。800人から1,200人の攻撃者全員が犯人なのか?それとも、最初に火をつけた人物だけが犯人なのか?あるいは、システムそのものが犯人なのか?


「わかりません...」


「では、別の問いかけをしましょう」


木谷は少し間を置いてから、静かに言った。


「誰が、犯人を殺したのでしょう?」


その問いかけに、田代は混乱した。


「犯人を...殺した?どういう意味ですか?」


木谷は新しい資料を表示させた。それは、花村詩織さんが亡くなった後の掲示板の投稿記録だった。


『ついに死んだか。自業自得だな』

『結局、嘘は通らなかったってことだ』

『これで一つ、社会が浄化された』


しかし、そのような冷酷なコメントに混じって、別種の投稿も大量に存在していた。


『やりすぎだったんじゃないか?』

『俺たちは殺人者なのか?』

『誰がここまでやれと言った?』

『自分が書いたコメントを削除したい』


「花村さんの死後、攻撃者たちの間に動揺が走りました」


木谷は説明した。


「彼らの多くは、自分たちの行為が実際に人の死に繋がるとは思っていなかったのです」


田代は画面を凝視した。そこには、罪悪感に苛まれる人々の言葉が溢れていた。


「そして、ESPIの分析によれば、攻撃者の中の約30%が、その後一年以内に精神的な問題を抱えるようになったことが確認されています」


「彼らも...被害者だということですか?」


「ある意味ではそうです」


木谷は頷いた。


「彼らは自分の行為の結果を予測できませんでした。匿名性という盾に守られて、言葉の重さを実感できなかった。そして、一人の女性が死んだ時、初めて自分が何をしていたのかを理解したのです」


田代は自分の手を見つめた。彼もまた、その30%の中に入っていたかもしれない。花村詩織さんの死を知った時、彼は自分が関与していたことに気づかなかった。しかし、今ならわかる——彼は確実に、彼女の死の一端を担っていたのだと。


「木谷さん、では結局、この事件には犯人がいないということですか?」


木谷は長い沈黙の後、答えた。


「犯人はいます。しかし、それは特定の個人ではありません」


彼女は画面に、複雑なネットワーク図を表示させた。それは、花村詩織さんへの攻撃の連鎖を可視化したものだった。一つの点から始まり、それが無数の線で繋がり、最終的に花村さんという中心点に収束していく図。


「犯人は『システム』です。匿名性、拡散性、集団心理、正義感の暴走——それらが複雑に絡み合って、一つの悲劇を生み出したのです」


「では、誰も責任を取らなくていいのですか?」


田代の声には怒りが滲んでいた。


「いいえ」


木谷は首を振った。


「全員が責任を取るべきです。しかし、従来の法システムではそれができない。だからこそ、ESPIのような新しいシステムが必要なのです」


田代は深く考え込んだ。確かに、従来の法律では、この種の集団的な加害行為を裁くことは困難だった。誰か一人を犯人として特定することはできない。しかし、全員が無罪というのも間違っている。


「木谷さん、花村さんが残したこの文章の、最後の部分を見せていただけますか?」


木谷は頷き、スクロールして文章の末尾を表示させた。


『もう疲れた。誰も信じられない。何が正しいのかもわからない。ただ、一つだけわかることがある』


『殺したのは誰か?それは問題ではない。問題は、誰がこの空気を作ったのか。誰が最初の石を投げたのか。そして、なぜ誰も止めなかったのか』


『でも、もういい。答えを探すのに疲れた。誰かを責めるのにも疲れた。ただ、この苦しみから解放されたい』


文章はそこで終わっていた。最後の一文には、日付も時刻も記録されていた。花村詩織さんが亡くなる、わずか6時間前のものだった。


田代は目を閉じた。彼女の絶望が、画面を通して伝わってくるようだった。


「彼女は最後まで、犯人を特定しようとしませんでした」


木谷の声は静かだった。


「それは諦めではなく、理解だったのかもしれません。この悲劇には、特定の犯人がいないという理解」


「では...」


田代は目を開けた。


「僕たちは何と闘えばいいのですか?特定の犯人がいないのなら」


「システムと闘うのです」


木谷の答えは明確だった。


「匿名性を悪用するシステム、集団心理を増幅させるシステム、言葉の重さを軽くするシステム——それらと闘うのです」


田代はその言葉に、初めて明確な方向性を見出した気がした。


「それが、ESPIの目的なのですか?」


「ESPIの目的の一つです」


木谷は頷いた。


「しかし、ESPIもまた完璧なシステムではありません。それは単なる道具であり、使い方次第では新たな悲劇を生む可能性もあります」


木谷は画面を切り替え、田代自身のプロファイルを表示させた。


「田代さん、あなたはESPIによって『潜在的煽動者』として分類されました。しかし、実際には、あなたは最も自覚的な加害者の一人でもあったのです」


田代はその指摘に頷いた。


「僕は...花村さんを執拗に攻撃していました」


「はい。そして、その事実を自ら認識し、向き合おうとしている。それが重要なのです」


木谷は微笑んだ。それは悲しみを含んだ微笑みだった。


「多くの加害者は、自分が加害者であることすら認識していません。あなたは違う。だからこそ、あなたには特別な役割があるのです」


「特別な役割...とは?」


「証人になることです」


木谷の言葉は重かった。


「あなたは加害者であり、被害者であり、そして今は証人でもある。システムの問題点を、内側から証言できる存在なのです」


田代はその言葉の重みを受け止めた。


その夜、田代は花村詩織さんが残した文章を何度も読み返した。特に、彼が注目したのは、主語の省略だった。


『殺したのは』——誰が?

『批判される』——誰に?

『この空気を作った』——誰が?


全ての行為の主体が、意図的に曖昧にされていた。それは花村さんの優しさだったのかもしれない。特定の誰かを責めることなく、システム全体の問題として捉えようとする試み。


しかし、その優しさが、彼女を孤独にしたのかもしれない。誰も責めないということは、誰にも助けを求められないということでもあったのだから。


田代はパソコンに向かい、文章を書き始めた。それは花村詩織さんへの手紙だった。もちろん、彼女が読むことはない。しかし、書かずにはいられなかった。


『花村さん、僕はあなたを殺した一人です。匿名という盾の陰に隠れて、あなたを傷つけました。あなたが苦しんでいることに気づきながら、僕はさらに攻撃を続けました』


『僕には言い訳がありません。ストレスがあったとか、正義感からだったとか、そんな言い訳は全て嘘です。僕はただ、誰かを攻撃することで、自分の惨めさから目を逸らしていただけでした』


『あなたは主語を省略しました。誰が犯人かを特定しませんでした。でも、僕は言います。僕が犯人の一人です。そして、僕は一生、その罪を背負って生きていきます』


文章を書き終えた時、田代の目には涙が溢れていた。


「エルザ、僕は...許されないよね」


「田代さん、許しは他者が与えるものではなく、自分自身で獲得するものです」


エルザの答えは、いつもの機械的なものではなく、不思議な温かみを持っていた。


翌日、田代は木谷に連絡を取った。


「木谷さん、僕は証人になります」


「決意されたのですね」


「はい。でも、一つ条件があります」


「何でしょうか?」


「花村さんのお母様、さきこさんに、もう一度会わせてください」


木谷は少し考えた後、答えた。


「彼女と連絡を取ってみます。しかし、会ってくれる保証はありません」


「わかっています。でも、試したいんです」


一週間後、田代のもとに連絡が来た。さきこさんが会うことに同意したという知らせだった。


約束の日、田代は公園のベンチでさきこさんを待った。秋の風が冷たく、落ち葉が足元を舞った。


やがて、さきこさんが現れた。彼女の表情は硬く、警戒心が滲んでいた。


「田代さん」


「さきこさん、来てくださってありがとうございます」


二人はベンチに座った。長い沈黙が続いた。


「何を話したいのですか?」


さきこさんの声は冷たかった。


「謝罪をしたいわけではありません」


田代は率直に言った。


「謝罪では、何も解決しませんから」


「では、何を?」


「真実を話したいのです。そして、これから僕が何をするつもりなのかを」


田代は、花村詩織さんが残した最後の文章について話した。主語のない文章、システムへの問いかけ、そして絶望。


「詩織は...そんなことを書いていたのですね」


さきこさんの声が震えた。


「彼女は最後まで、誰かを特定して責めることをしませんでした」


田代は続けた。


「でも、僕はそれではいけないと思うんです。誰かが、自分の罪を認めなければ」


「あなたは、自分の罪を認めるのですね」


「はい。僕は花村さんを執拗に攻撃しました。それは紛れもない事実です」


さきこさんは目を閉じた。涙が頬を伝った。


「田代さん、私は...あなたを許せるかどうかわかりません」


「許してほしいとは思っていません」


「では、何を?」


「一緒に闘ってほしいのです」


田代はさきこさんの目を見つめた。


「このシステムを変えるために。同じような悲劇が繰り返されないために」


さきこさんは長い間、田代を見つめていた。そして、ついに口を開いた。


「どうやって?」


「僕は証人になります。加害者としての経験を、社会に伝えます。そして、あなたには被害者の母として、詩織さんの思いを伝えてほしいのです」


「詩織の思いを...」


「はい。主語のない文章に込められた、彼女の願いを」


さきこさんは深く息を吐いた。


「考えさせてください。今すぐには答えられません」


「もちろんです。時間をかけてください」


田代は立ち上がった。


「さきこさん、僕は一生、詩織さんの死の責任を背負って生きていきます。それが僕にできる、唯一のことです」


さきこさんは頷いた。そして、初めて微かに笑った。


「田代さん、あなたは...変わりましたね」


「変わらざるを得ませんでした」


田代も微笑んだ。


「でも、まだまだ道は長いです」


別れ際、さきこさんは言った。


「詩織なら、あなたのことを許したかもしれませんね」


その言葉に、田代は涙が溢れそうになった。


「ありがとうございます」


帰り道、田代は秋空を見上げた。雲の切れ間から、わずかに青空が見えた。


彼の闘いは、まだ始まったばかりだった。しかし今、彼には明確な目的があった。主語のない文章に、主語を与えること。責任の所在を明確にすること。そして、システムを変えていくこと。


それが、花村詩織さんへの、彼なりの答えだった。

評価、感想、お願いします。

また次回作にご期待ください

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