第2話
完結まで毎日投稿です。
部屋に置かれた時計が三時間の経過を告げた時、田代正樹は既に眠りについていた——それは疲労からというよりも、現実から逃避するための無意識の選択だったのかもしれない。彼の額には冷や汗が浮かび、微熱は依然として彼の体を温めていた。
ドアが開く音に、田代は飛び起きた。眠りの深さにもかかわらず、その音は彼の神経を即座に緊張状態へと引き戻した。入ってきたのは先ほどとは異なる制服の男性で、彼は無表情のまま田代に告げた。
「田代さん、木谷再分類官があなたとの面談の準備ができました。こちらへどうぞ」
言われるがままに立ち上がる田代の体は、長時間同じ姿勢でいたせいか、あるいは緊張のせいか、妙にこわばっていた。彼はネクタイを締め直し、シワになったスーツの裾を整えた——その仕草には、秩序を取り戻そうとする彼の必死の試みが表れていた。
制服の男性に先導され、田代は再び廊下を歩き始めた。しかし今回案内されたのは、先ほどとは別の部屋だった。ドアには「セッションルーム5」と表示されている。扉が開くと、そこには先ほどの部屋よりもはるかに広い空間が広がっていた。中央には大きな円形テーブル、壁一面にはモニターが設置され、部屋の隅には小さなキッチンスペースまで用意されていた。
テーブルに着席していたのは、先ほど会った木谷理沙だった。彼女の前には数冊のファイルとタブレット端末が並べられていた。彼女は田代が入室するとわずかに顔を上げ、手で席を示した。
「おかかりください、田代さん。お茶を淹れましたが、いかがですか?」
その言葉には、先ほどの冷たさはなく、むしろ同僚と話すような自然さがあった。田代は混乱しながらも指定された席に着き、差し出された湯飲みを受け取った。温かい緑茶の香りが、彼の緊張をわずかに和らげた。
「少しは休めましたか?」
木谷の質問に、田代は曖昧に頷いた。彼は自分がどれくらい眠っていたのか、はっきりとはわからなかった。時間の感覚そのものが歪んでいるように感じられた。
「今から、あなたの状況について詳しく説明します」
木谷はそう言って、タブレットを操作した。壁のモニターに映し出されたのは、複雑なグラフとデータの並ぶ画面だった。
「先ほども申し上げたように、これは刑事事件ではありません。あなたは『分類不能』としてここにいるのです」
田代は眉をひそめた。まだその言葉の意味を完全には理解できていなかった。
「具体的に、『分類不能』とはどういう意味なのでしょうか」
その問いに、木谷はタブレットから目を上げ、初めて田代の目をじっと見つめた。その視線には、奇妙な理解と共感が含まれていた。
「社会は長い間、人々を『善』と『悪』、『合法』と『違法』という二項対立で分類してきました。法律は白黒をつけるための道具でした」
木谷は一口お茶を飲み、続けた。
「しかし現代社会は、そのような単純な二分法では捉えられない複雑さを持っています。特にデジタル空間での行動は、従来の法的枠組みでは評価できないケースが増えています」
彼女はモニターに表示された複雑なネットワーク図を指差した。
「これが、三年前にあなたが投稿した内容から派生した情報の流れです。ESPIの分析によれば、あなたの投稿自体には違法性はありません。しかし、それが引き金となって拡散された情報の連鎖が、最終的に『花村事件』と呼ばれる出来事に繋がったと判断されました」
花村事件——その名前に、田代は微かな記憶を感じた。確かニュースで見た気がする。しかし、それが自分とどう関係があるのか、彼にはまだ理解できなかった。
「花村...事件?」
木谷は再びタブレットを操作し、モニターに一人の若い女性の写真を表示させた。20代半ばといったところか、清楚な印象の女性だった。
「花村詩織さん、28歳。三年前、インターネット上で大規模な誹謗中傷を受けた後、自宅で命を絶ちました」
その言葉に、田代の体から血の気が引いた。彼は自分のSNS投稿が、誰かを死に追いやったとでも言うのだろうか。
「私は...その方を知りません。批判したこともありません」
田代の声は震えていた。木谷は穏やかに頷いた。
「はい、あなたが花村さんを直接批判した形跡はありません。しかし、あなたの投稿が最初の『触媒』となったのです」
木谷は再びモニターを操作し、田代のSNS投稿を表示させた。それは確かに彼自身が書いたものだった——ある有名企業の不祥事に関する単なる感想に過ぎない内容。
「この投稿自体には問題はありません。しかし、あなたの言葉の選び方、特に『責任の所在』と『透明性の欠如』という表現が、多くの人々の共感を呼び、急速に拡散されました」
モニターには、田代の投稿から派生した無数のリツイート、引用、コメントが表示されていく。最初は単なる意見の共有だったものが、次第に調査を求める声へ、さらには関係者への個人攻撃へと変質していく様子が視覚化されていた。
「花村さんは、その企業の広報部で働いていました。彼女個人には何の落ち度もなかったのですが、情報の渦の中心に立たされてしまったのです」
田代は口を開いたが、言葉が出てこなかった。彼の投稿と花村さんの死の間には、確かに因果関係のような線が引かれている。しかし、それは彼の責任なのだろうか?彼にはその判断すらつかなかった。
「私は...そんなつもりで書いたわけではありません」
その言葉は、彼自身の耳にも空虚に響いた。木谷は何も言わず、次の資料を表示させた。それは「ESPI」と書かれた複雑なシステム図だった。
「AI犯罪予測システム『ESPI』——Ethical Social Prediction Interface の略称です。このシステムは、従来の法的枠組みでは捉えられない『社会的害悪』を予測し、評価するために開発されました」
木谷は淡々と説明を続けた。
「ESPIは、あなたのような『潜在的影響者』を検出し、その社会的影響力を分析します。特に注目するのは、『意図せぬ影響力』を持つ個人です」
田代は眉をひそめた。
「意図せぬ影響力...とは?」
「あなたは著名人でも、インフルエンサーでもありません。しかし、あなたの言葉は不思議な説得力を持っています。それはおそらく、あなたが『極めて平均的』だからでしょう」
その言葉に、田代は不思議な屈辱感を覚えた。「極めて平均的」——それは彼がこれまで目指してきた姿だったはずだ。目立たず、波風立てず、安全に生きるための戦略。それが今、彼を危険な立場に追いやるとは。
「では、私は罪に問われるのですか?」
木谷は首を横に振った。
「繰り返しになりますが、これは刑事事件ではありません。あなたは法律に違反したわけではないのです。しかし、社会はすでに『法的責任』と『道徳的責任』の間に新たな領域を認識し始めています。私たちはそれを『灰色領域』と呼んでいます」
灰色領域——その言葉に、田代は奇妙な共感を覚えた。確かに彼は法を犯していない。しかし、彼の言葉が引き金となって起きた出来事に、何の責任も負わないと言えるだろうか。
「では、私はどうなるのですか?」
その問いに、木谷は初めて微笑んだ。それは温かいものではなく、むしろ諦めに似た表情だった。
「あなたは『再分類』されます。72時間の査定期間を経て、あなたの『社会的位置付け』が再定義されるのです」
田代はその言葉の意味を考えた。「社会的位置付け」——それは何を意味するのか。彼の職業?地位?それとも別の何か?
「具体的に、再分類とは何を意味するのですか?」
木谷はタブレットを閉じ、初めて公式的な態度を解いた。彼女は椅子に深く腰掛け、肩の力を抜いた。
「正直に申し上げます、田代さん。このシステム自体がまだ発展途上なのです。『灰色領域』に位置する人々をどう扱うべきか、社会はまだ明確な答えを持っていません」
その告白に、田代は思わず身を乗り出した。
「つまり、私は実験台ということですか?」
木谷は静かに頷いた。
「ある意味では、そうかもしれません。しかし、これは単なる実験ではなく、社会全体が直面している新しい課題への対応なのです。デジタル時代の『責任』とは何か——その問いに、私たちは答えを模索しているのです」
田代は深く息を吐いた。頭がクラクラする感覚があった。彼の微熱は下がるどころか、むしろ上昇しているようだった。
「少し休憩しましょうか」
木谷は田代の様子を見て言った。彼女はキッチンスペースに立ち、新しいお茶を淹れ始めた。その仕草には、不思議な家庭的な温かさがあった。
「木谷さん、あなたは...このシステムを信じているのですか?」
突然の質問に、木谷の手が一瞬止まった。彼女はゆっくりと田代の方を振り向いた。
「私は『再分類官』として、このシステムの実施を担当しています。しかし...」
彼女は言葉を選ぶように一瞬黙り、続けた。
「システムに完璧なものはありません。AI予測も例外ではありません。しかし、従来の法システムもまた不完全だったことを忘れてはいけません」
木谷はお茶を持って戻り、田代の前に置いた。
「私が信じているのは、システムそのものではなく、私たちが直面している問題の重要性です。言葉が持つ力、デジタル空間での責任、それらは現実の苦しみや死に繋がりうるものです」
田代は黙ってお茶に手を伸ばした。熱いお茶が彼の喉を通り、体の中に広がっていく感覚に、彼はわずかな安心を覚えた。
「次に、花村さんの件について、もう少し詳しく見ていきましょう」
木谷はモニターに、花村詩織の生前の活動記録を表示させた。SNSのプロフィール、仕事の様子を映した写真、友人たちとの笑顔の瞬間。それは、彼女が単なる「事件の被害者」ではなく、一人の生きた人間だったことを示していた。
「花村さんは、広報としての仕事に誇りを持っていました。しかし、会社の不祥事が表面化した際、彼女は矢面に立たされました。最初は公式な問い合わせからでしたが、次第にSNSでの批判が個人攻撃へと変質していきました」
モニターには、花村詩織へのSNS上の中傷コメントが次々と表示される。最初は仕事への批判だったものが、次第に容姿や私生活にまで踏み込んだ醜い言葉の数々。田代はそれを見て、思わず目を背けたくなった。
「彼女は二週間で約一万件の中傷コメントを受けました。最終的に、彼女はこれに耐えられなくなりました」
木谷の声は静かだったが、その言葉は部屋中に重く響いた。田代は自分の手が震えていることに気づいた。彼はそのようなコメントを書いた記憶はない。しかし、彼の投稿が最初の火種となったとESPIは判断したのだ。
「私は...その方に対して直接何も...」
「はい、あなたは彼女を直接攻撃していません」
木谷は穏やかに田代の言葉を遮った。
「しかし、ESPIの分析では、あなたの投稿が持つ特殊な『共感性』と『説得力』が、その後の集団行動の触媒になったと判断されています。あなたは花村さんを知らなかったかもしれませんが、あなたの言葉が、彼女を追い詰めた集団心理の源流になった可能性があるのです」
田代は頭を抱えた。彼の中で混乱と罪悪感が渦巻いていた。彼は殺人を犯したわけではない。直接誰かを傷つけたわけでもない。しかし、彼の言葉が人々の心に火をつけ、最終的に一人の命が失われたという可能性。それは彼が今まで考えたこともない種類の「責任」だった。
「では...私はどうすれば...」
「それが、これから72時間かけて考えていただきたいことです」
木谷は静かに言った。
「田代さん、私たちは今、新しい時代の入り口に立っています。デジタル空間での言葉が持つ力、集合知の危険性、そして『意図せぬ影響力』の責任。これらは法律だけでは解決できない問題です」
彼女はタブレットを手に取り、新しい資料を表示させた。それは「再分類」のプロセスを図示したフローチャートだった。
「再分類プロセスは三段階で行われます。第一段階は『認識』——あなたが今いる段階です。自分の言動と、その潜在的影響力について認識することが求められます」
モニターの図は次の段階に移った。
「第二段階は『再評価』——あなたの社会的立場と責任を再定義する段階です。これには、あなた自身の内省と、私たちの評価の両方が必要になります」
そして最後の段階が表示された。
「第三段階は『再統合』——新たな理解と責任を持って、社会に戻る段階です。これには条件と継続的なモニタリングが伴います」
田代はその説明に、息が詰まりそうな圧迫感を覚えた。彼の人生は、このプロセスを通して根本的に変わるのだろうか。彼はもう「平凡なサラリーマン」ではいられないのだろうか。
「そして最も重要なのは、これが『処罰』ではなく『予防』のためのプロセスだということです」
木谷の言葉に、田代は苦い笑みを浮かべた。
「処罰でないとしても、私の人生は大きく変わりますね」
木谷は真剣な表情で頷いた。
「はい、変わります。しかし田代さん、実はあなたの人生は既に変わっていたのです。あなたはそれに気づいていなかっただけです」
その言葉に、田代は戸惑いを覚えた。
「どういう意味ですか?」
「あなたは自分を『平凡な人間』と思っていました。しかし実際には、あなたの言葉は多くの人々の心を動かす力を持っていたのです。そして残念ながら、その力が招いた結果の一部は、取り返しのつかないものでした」
木谷は立ち上がり、窓のないこの部屋の壁に向かって歩いた。彼女の姿勢からは、疲れと何かへの諦めのようなものが感じられた。
「今日はここまでにしましょう。明日、第二段階に進みます」
田代は茫然自失とした表情で頷いた。彼の頭の中は、花村詩織という名前と、自分の投稿が引き起こしたかもしれない連鎖反応で満ちていた。彼は自分自身に問いかけた——もし自分があの投稿をしなければ、彼女は今も生きていたのだろうか。
部屋を出る時、田代は足取りが重いことに気づいた。それは単なる疲労からではなく、彼が今まで気づかなかった「責任」の重さを初めて感じ始めていたからかもしれない。
滞在室に戻った田代は、ベッドに横たわり、天井を見つめた。部屋には窓がなく、外の世界との唯一の繋がりはドアだけ。それは彼の現在の心理状態を象徴しているようだった——外界から切り離され、自分の内面と向き合うしかない状況。
彼はスマートフォンを取り出し、画面をつけた。依然として「圏外」の表示があるだけだったが、彼はギャラリーを開き、保存された写真をスクロールし始めた。そこには彼の日常の断片が記録されていた——会社の同僚との飲み会、たまに行く釣り、家族との食事。平凡で、何の変哲もない日々の記録。
しかし今、彼はそれらの写真に映る自分が、まるで他人のように感じられた。「平凡なサラリーマン・田代正樹」——その表面の下に、彼は何を隠していたのだろうか。そして、その隠された部分が、知らぬ間に他者を傷つける力を持っていたとしたら?
田代は深いため息をつき、目を閉じた。彼の微熱は依然として続いていた——それはまるで、長い間気づかなかった真実が、彼の体を内側から熱しているかのようだった。明日は「再評価」の段階が始まる。そこで彼は何を語るべきなのか、何を認めるべきなのか、まだ彼にはわからなかった。
ただ一つ確かなのは、彼がもう「何も知らなかった」という言い訳は使えないということだ。彼は今、自分の言葉が持つ力と、その責任について、否応なく向き合わされていた。それは彼にとって、未知の領域への第一歩だった——灰色の領域への、暗く不確かな一歩。
評価、感想よろしくお願いします。




