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第1話



朝の通勤ラッシュは、いつもと変わらない息苦しさで田代正樹の体を締め付けていた——しかし、その日の空気には何か違和感があった、まるで誰かが彼の首筋を冷たい指で撫でているかのような、言葉にできない不安が彼の体温を微かに上昇させていた。


田代正樹、42歳、大手商社の中間管理職、特筆すべきキャリアの山も谷もなく、ただ時間の流れに身を任せ、波風立てずに生きてきた男——彼の人生は「無難」という言葉で要約できるほど、予定調和的な軌道を描いてきた。朝は決まった時間に起床し、同じ電車に乗り、同じ席に座り、同じ顔ぶれの中で無言のまま会社に向かう日々を、彼は「安定」と呼び、それを誇りにさえしていた。


しかし、その日の微熱は、彼の体が何かを察知していたかのようだった。前日の夜から37度を少し超える熱が続いていたが、会社を休むほどではないと判断し、いつもと同じように自宅を出た田代は、駅のホームで電車を待ちながら、スマートフォンの画面を無意識に指でなぞっていた。SNSのタイムラインには相変わらず他人の生活の断片と、時事問題への浅薄なコメントが流れていくだけで、彼はそれらに「いいね」を押すこともなく、ただ指を滑らせることで時間を潰していた。


「普通であることが、最大の防御だ」——それは彼が新入社員時代に上司から教わった言葉で、以来、彼の行動原理となっていた。目立たず、波風立てず、でも必要最低限の仕事はこなす。そうすれば誰からも非難されることはなく、安全な場所で生きていける。彼はその教えを忠実に守り、結果として無個性という個性を身につけていた。


満員電車の中で、彼の体は周囲の人々の熱気でさらに熱を持ち始めた。スーツの襟元から流れる汗を感じながら、田代は駅に到着するカウントダウンを心の中で始めていた。いつもなら「あと三駅」と思うだけで安心感を得られるはずだったが、その日は違った——何かが彼の内側で、警告音のように鳴り響いていた。


改札を出ようとした瞬間、彼の視界に黒いスーツを着た二人の男が飛び込んできた。彼らは周囲の通勤客とは明らかに違う存在感を放っていた。田代が何も考えずに一歩を踏み出したその時、左右から彼の両腕が掴まれた。


「田代正樹さんですね」


それは質問ではなく、確認だった。男たちは彼の名前を知っていた。周囲の通勤客たちが一瞬足を止め、好奇心と警戒心が入り混じった視線を向けたが、すぐに自分の関係ない出来事として、足早に通り過ぎていった。


「何の...ご用件でしょうか」


田代の声は予想外に冷静だった。その瞬間、彼の中には二つの相反する感情が渦巻いていた——「何も悪いことはしていない」という確信と、「何か見つかってしまったのではないか」という漠然とした恐怖。どちらが本当の彼の気持ちなのか、彼自身にもわからなかった。


「田代さん、あなたの過去の行動が、ある事件と関連していると判断されました」


左側の男が淡々と告げた。その声音には感情がなく、まるで天気予報を読み上げるようだった。「事件」という言葉が、田代の耳に入った瞬間、彼の脳裏に無数の可能性が浮かんでは消えた。交通事故か、詐欺被害か、それとも何か職場での不正が発覚したのか——しかし、どれも自分と結びつかない。


「何か...誤解ではないでしょうか。私は...」


言葉を継ごうとした田代の口を、右側の男が軽く手で制した。


「ここでの説明は控えさせていただきます。詳細は施設でお話しします」


施設——その言葉が、さらに田代の不安を掻き立てた。警察署ではなく「施設」という言葉選びに、彼は従来の法的手続きとは異なる何かを感じ取った。二人の男に両腕を固定されたまま、田代は改札を出て、駅前に停まっていた黒い車へと導かれた。周囲の人々は彼らに道を譲り、まるで伝染病患者でも通るかのように距離を取った。


車のドアが開き、田代は促されるままに後部座席に滑り込んだ。ドアが閉まると同時に、外界の音が遮断され、車内に静寂が広がった。運転席と助手席には先ほどの二人が座り、エンジンがかかった。


「どこへ...連れて行かれるのですか」


田代の問いかけに、フロントミラー越しにドライバーの男が冷たい視線を向けた。


「再分類センターです」


その答えは、田代にとって何の意味も持たなかった。再分類センター——そんな場所の存在自体、彼は知らなかった。窓の外に流れる見慣れた風景が、徐々に見知らぬものへと変わっていくにつれ、田代の心拍数は上昇していった。スマートウォッチが彼の異常な心拍数を感知し、画面に警告を表示する。それを見た田代は、自分が今、恐怖に支配されていることを客観的に認識した。


「私には弁護士を呼ぶ権利があるのではないですか」


彼の言葉は、車内の空気を一瞬だけ震わせた。助手席の男が振り返り、わずかに眉を上げた。


「田代さん、これは刑事事件ではありません。あなたは逮捕されたわけではないのです」


その言葉は安心をもたらすはずだったが、田代の不安は逆に深まった。刑事事件でなければ、何なのか。法的な枠組みの外で何かが進行していることへの恐怖が、彼の背筋を冷たく伝った。


車は都心を離れ、高層ビルが立ち並ぶエリアから、徐々に工業地帯へと進んでいった。窓から見える景色は、田代にとって完全に未知のものとなっていた。いつもの通勤経路とは明らかに異なる方向に進む車の中で、彼は自分の人生の中で一度も経験したことのない種類の孤独を感じていた。


車が最終的に停まったのは、一見すると普通のオフィスビルのように見える建物の前だった。しかし、その無機質なガラス張りの外観と、出入りする人々の妙に均質な雰囲気に、田代は違和感を覚えた。建物の正面には小さなプレートがあり、「再分類センター第七支部」と刻まれていた。


田代が車から降りると、朝の空気が彼の肺を満たした。それはいつもと同じ空気のはずなのに、何か違っていた——あるいは、変わったのは空気ではなく、彼自身の感覚だったのかもしれない。


「こちらへどうぞ」


二人の男に挟まれるようにして建物に入ると、ロビーにはセキュリティゲートが設置されていた。訪問者用のカードを渡される田代だったが、それを受け取る彼の手は微かに震えていた。カードをゲートにかざすと、緑のランプが点灯し、ゲートが開いた。


エレベーターは静かに上昇し、表示パネルの数字が変わっていく様子を、田代は無言で見つめていた。やがてエレベーターが止まり、ドアが開くと、長い廊下が彼の前に広がった。二人の男に先導され、彼は廊下を進んだ。両側には複数の部屋があり、それぞれドアには番号だけが振られていて、何の部屋なのかを示す表示はなかった。


最終的に「713」と表示された部屋の前で止まると、一人の男がカードをドアにかざした。ドアが開き、中に案内される田代の目に映ったのは、極めてシンプルな空間だった。中央に一つのテーブル、向かい合う二つの椅子、そして壁には大きなモニターが設置されているだけの部屋。防音処理されたであろう壁は、外界の音を完全に遮断していた。


「こちらでお待ちください。担当官がまもなくいらっしゃいます」


そう言い残し、二人の男は部屋を出て行った。ドアが閉まる音とともに、田代は完全な静寂の中に取り残された。テーブルに向かって座った彼は、自分の鼓動が部屋中に反響しているような錯覚を覚えた。


数分後、ドアが再び開き、一人の女性が入ってきた。年齢は40代前半といったところか、黒縁の眼鏡とシンプルなスーツ姿の彼女は、「再分類官」と書かれた名札を胸に付けていた。名前は「木谷理沙」。


「お待たせしました、田代さん」


木谷は淡々とした口調で言い、田代の向かいの椅子に腰を下ろした。彼女の手元には、タブレット端末が一つあるだけだった。


「私は再分類官の木谷と申します。今日はあなたの状況について説明し、必要な手続きを行います」


彼女の声には感情がなく、まるで事務的な報告をしているようだった。田代は喉の渇きを感じ、唾を飲み込んだ。


「私は何か...違法なことをしたのですか」


田代の問いに、木谷は一瞬だけ目を細めた。


「田代さん、繰り返しになりますが、これは刑事事件ではありません。あなたは法律に違反したわけではないのです」


その言葉は安心をもたらすどころか、さらなる混乱を招いた。法律に違反していないのなら、なぜ彼はこのような場所に連れてこられたのか。


「では、なぜ私がここに...」


木谷は田代の言葉を遮るように、タブレットを操作した。壁のモニターに映し出されたのは、田代自身のSNSアカウントのスクリーンショットだった。数年前の投稿が複数表示されている。


「田代さん、あなたは『分類不能』としてここに来ていただきました」


木谷の言葉は、田代にとって意味をなさなかった。「分類不能」——その言葉が指す内容を、彼は理解できなかった。


「分類不能...とは?」


田代の問いに、木谷は初めて表情を緩めた。それは笑顔というよりは、理解の遅い生徒に対する教師のような、わずかな諦めを含んだ表情だった。


「社会はすでに、AI犯罪予測システム、通称『ESPI』を導入していることをご存知ですか?」


田代は曖昧に頷いた。確かにニュースで聞いたことはあった。犯罪を未然に防ぐためのAIシステムが導入されたという話を。しかし、それが自分とどう関係するのか、彼には見当もつかなかった。


「ESPIは、個人のデジタルフットプリントを分析し、潜在的な社会リスクを評価します。あなたは、『潜在的な煽動者』としてシステムに検出されました」


その言葉に、田代は思わず声を上げた。


「煽動者?私が?何を煽動したというのですか?」


木谷は冷静に続けた。


「具体的には、三年前のあなたのSNS投稿が、ある社会的事件の初期段階で『触媒』として機能したと判断されました」


モニターには、田代が完全に忘れていた過去の投稿が表示されていた。それは一見すると何の変哲もない、時事問題に対する感想のような内容だった。しかし、その投稿の下には数百のコメントが連なり、次第にその内容が過激化していく様子が示されていた。


「この投稿自体には違法性はありません。しかし、あなたの言葉が引き金となって拡散された情報が、最終的にある人物の死に結びついたという関連性が検出されました」


田代の頭は混乱していた。彼は自分の投稿が、誰かの死に結びつくような内容だったとは思えなかった。それはただの意見表明、他愛のない感想に過ぎなかったはずだ。


「それは...間違いです。私はただ...」


木谷は再びタブレットを操作し、モニターに別の画面を表示させた。そこには複雑なチャートが映し出され、田代の投稿から派生した無数の情報の流れが可視化されていた。一つの点から始まり、次第に枝分かれし、最終的に赤い点で終わるネットワーク図。


「ESPIの分析によれば、あなたは『共感によって社会を動かした』と判断されました。あなたの言葉が持つ『親近感』と『共感性』が、通常では発生しない種類の連鎖反応を引き起こした可能性があります」


田代は頭を振った。これは冗談のようだった。彼のような平凡な男が、社会を動かすような影響力を持つなど考えられなかった。


「それは不可能です。私はただのサラリーマンです。誰も私の言葉なんか...」


「それがESPIの指摘する問題点なのです」


木谷は淡々と続けた。


「あなたのような『普通の人』の言葉だからこそ、人々は共感し、そこに真実性を感じるのです。政治家や著名人の発言なら、人々は警戒心を持って接します。しかし、『ただの会社員』の言葉には、別種の説得力が宿るのです」


田代は自分の頭が熱を持っていることを感じた。彼の微熱は、この状況のストレスでさらに上昇しているようだった。


「では、私はこれから...どうなるのですか」


その問いに、木谷は初めて深く息を吐いた。


「田代さん、あなたは今後72時間、この施設で『再分類査定』を受けることになります。その間、あなたの過去の言動と、その社会的影響について詳細な分析が行われます」


72時間——それは彼の人生から奪われる3日間を意味していた。会社には連絡が必要だ、家族にも。しかし、彼がそれを口にする前に、木谷は続けた。


「ご心配なく。あなたの職場と家族には、『健康上の理由による一時的な隔離』として通知済みです」


その言葉に、田代は背筋が凍るような恐怖を感じた。彼の意思とは関係なく、彼の生活の一部が書き換えられていたのだ。


「これは...拘束ですか?私には拒否する権利は...」


木谷は僅かに首を傾げた。


「これは『保護』であり、『予防』の措置です。あなた自身のためでもあります。社会が『分類不能』な存在をどう扱うか、予測できないからこそ、私たちはあなたを守る必要があるのです」


その言葉には、奇妙な真実味があった。田代は自分が何者なのか、何をしたのか、もはや確信が持てなくなっていた。彼の脳裏に、数年前のSNS投稿の記憶が断片的に蘇る。確かに彼は何かを書いた、何かに怒りを感じて。しかし、それが誰かの死に繋がるなど、どうして想像できただろうか。


「査定の間、私は何をすればいいのですか」


田代の問いに、木谷は立ち上がり、ドアの方へ歩き始めた。


「まずは休息を取ってください。あなたには微熱があるようですね。次のセッションは三時間後に始めます」


ドアが開き、先ほどとは別の制服姿の男性が現れた。


「こちらの方が、あなたの滞在室までご案内します」


木谷がそう言い残し、部屋を出て行った後、田代は静かに椅子から立ち上がった。彼の足は不思議なほど安定していた——それは彼が冷静だったからではなく、むしろ現実感を失っていたからだろう。まるで自分が映画の中の登場人物になったような、非現実的な感覚。


「こちらへどうぞ」


案内人に従い、廊下を歩く田代の頭の中では、様々な思いが交錯していた。「何もしていない」という思いと、「何か思い当たることがある」という不安。二つの相反する感情が、彼の内側で激しくせめぎ合っていた。そして第三の感情——「これから自分はどうなるのか」という恐怖が、徐々に彼の心を支配し始めていた。


彼が案内されたのは、小さなホテルの部屋のような空間だった。ベッド、デスク、小さな浴室がある程度には快適な部屋。しかし窓がなく、外の世界との唯一の接点はドアだけという閉鎖的な空間。ドアが閉まる音とともに、田代は完全な孤独の中に置き去りにされた。


彼はベッドに腰掛け、自分のネクタイを緩めた。汗で湿ったワイシャツが、不快に肌に張り付いている。部屋の壁に設置された時計は、まるで彼を嘲笑うかのように、ゆっくりと時を刻んでいた。本来なら今頃、彼は会社のデスクに座り、午前中の仕事に取り掛かっているはずだった。


田代は手元のスマートフォンを取り出したが、画面には「圏外」の表示があるだけだった。この部屋は完全に電波を遮断している。彼は実質的に、外界から切り離されていたのだ。


かつての投稿が、本当に誰かを死に追いやる引き金になったのか。田代は必死に記憶を辿った。確かに彼は時折、SNSで社会問題について意見を述べることはあった。しかし、それは大勢の人間がしていることと何ら変わりない、日常的な行為だったはずだ。


彼は深い息を吐き、横になった。天井を見つめながら、彼は自分の人生の「安全性」について考えた。これまで彼は、安全な場所にいるために「普通であること」を選んできた。しかし皮肉なことに、その「普通さ」こそが、今彼を危険な立場に追いやったのかもしれない。


部屋の静寂の中で、田代は自分の鼓動がますます早くなっていくのを感じた。微熱は上がっているようだったが、それは彼の身体が発するSOSなのか、それとも何か別の何かの予兆なのか——彼にはもはや判断できなかった。


ただ一つ確かなことは、彼の人生は今日を境に、二度と元には戻らないだろうということだけだった。「普通」であることの安全神話は崩れ去り、彼は未知の領域へと足を踏み入れたのだ。そして三時間後——その時間が来たとき、彼は何を語るべきなのか、まだ見当もつかなかった。

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