残響散夏 ~Summer Heartbreak~
おはようございます、こんにちは、アンドこんばんは。
そして、お立ち寄りいただきましてありがとうございます。
ぜひページのラストまでお付き合いくださいませ。
とある楽曲をベースにした――いや、バレバレですね。
はい、そういう仕立てになっています。
なにとぞ。
ただの夏休みの、ほんの一日。
高校生の俺にとっては日記の片隅に書くことすら惜しまれるような、極々ふつうの取るに足らない出来事のはずだった。
けれど――どれだけ時が過ぎても、忘れようとするたびに、何度だってあの景色に引き戻される。
あれがただの一日ではなかったことを、今さら痛いほど思い知らされる。
そして同時に、あの時の尊さに気づけなかった自分の愚かさも。
☆
「……あっつ」
頭上から滝のように降り注ぐ蝉の声。アスファルトは白く光を弾き、陽炎が揺れている。
部活帰り、額から滴る汗をぬぐいながら自転車を押して駅前へたどり着いた俺は、息苦しさに顔をしかめた。制服のシャツは背中に張り付き、まとわりつく湿気がさらに身体を重くする。
そんなときだった。
「おーい、真琴ー!」
人混みの向こうで、小さな手が大きく振られた。
由衣だ。真昼の太陽を映したみたいに明るい笑顔が、真っ直ぐ俺に向かっている。
同じクラスで、同じ文芸部。俺が“なんとなく”腰掛け程度の感覚で入っただけの場所に、彼女はいつも分厚い原稿を抱えて現れる。エアコンの効きが良くない部室で黙々とペンを走らせる姿は、同世代の誰よりも眩しく思えた。
だからこそ俺は、その腰掛け程度だったはずの場所に居続けることになったと言っても、過言ではなかった。
しかし、だ。
俺にそんな物思いに耽るような時間を与えてくれるようなヤツでは無かった。
典型的文学少女のようなことをしながらも、こんな風に太陽みたいな光を放つ彼女だったから、俺は目が離せなくなったのだろう。
「アイス食べよ!」
開口一番、由衣は俺の手首をつかんだ。
「ちょ、おい……!」
抗議になっていない言葉の羅列が聞き入られるわけもなく、俺は半ば引きずられるようにコンビニへ。
「ありゃとざいあーす」とかよくわからない言葉で炎天下へと送り出された俺たちの手にはしっかりとソフトクリームが握られていた。
結局、俺たちは近くの小さな公園へ腰を下ろす。ベンチの鉄板は焼けていて、座った瞬間に太ももが熱をもった。
空には入道雲がそびえ、枝の上では蝉が声を競い合うように鳴き続けていた。
☆
「課題、進んでる?」
ソフトクリームをひと口食べた由衣が、何気なく問いかけてきた。
「……うっ」
「その顔は、さては全然やってないな?」
呆れ顔から、すぐにころんと笑顔へ変わる。
その笑顔は、夏の太陽みたいにまぶしくて、視線を逸らすしかなかった。気安いはずなのに、胸の奥がざわつく。
「そういう由衣はどうなんだよ」
俺は至ってふつうの感情で、ただただ由衣に問い返した。本当に何気ない質問だった。
しかし、返答はなかなか来なかった。
その間にもソフトクリームは容赦なく溶け、指先に冷たい雫が落ちる。慌てて舐める俺の横で、由衣は少し声を落とした。
「……うん、あのね」
蝉の声を割るように、彼女は言った。
「夏休みが終わったら、うち、……引っ越すんだ」
「え……?」
「親の転勤。関東の方。だから高校も転校する」
時間が一瞬止まったようで、頭が真っ白になる。
「すごい急に決まったんだ。だから……真琴が初めてなんだ。これ言ったの」
こんなタイミングでかよ、とか。
せめて春までは、とか。
そんな無駄な言葉を吐き出してしまえるほど、俺はコドモではなくなってしまっていた。
由衣は、何も言えなくなった俺を気遣うように笑ってみせた。その笑顔が痛いくらいに明るいからこそ、余計に胸が締めつけられる。
「だからさ、この夏は、ちゃんと覚えておきたいの」
「覚えておきたいって……何を?」
「全部。部室の匂いとか、帰り道の空とか……真琴のことも」
最後の言葉は、蝉の声にかき消されそうで。けれど、確かに俺の耳に届いていた。喉が熱を持ち、返事が出ないまま、言葉だけが心に残った。
☆
夕方、俺たちは自転車を並べて海まで走った。
潮の匂いを含んだ風が頬を打ち、制服の裾をはためかせる。ペダルを踏み込むたびに、空の色は少しずつ橙に溶けていく。
防波堤に腰を下ろすと、沈みかけた太陽が水平線を朱に染め、波間を黄金色に輝かせていた。
「ほら、写真撮ろ」
由衣がスマホを取り出し、俺の肩に自分の肩を寄せる。
カシャリ。画面には、照れくさそうに目を逸らす俺と、まっすぐカメラを見つめる由衣の笑顔。
潮風に揺れる髪。夕陽を映す瞳。
それは、彼女と過ごす最後の夏を刻んだ一枚になった。
「……真琴」
沈む夕陽を背に、由衣が俺の名を呼ぶ。
「うん?」
「もし、また会えたら。その時は――」
唇が小さく震え、けれど次の言葉は続かなかった。
「……ううん、なんでもない」
波の音が、残りの言葉をさらっていった。
☆
やがて夏休みが終わるころ、由衣は本当に転校していった。
緊急で招集されたクラスでの送別会も部活での送別会でも見せてくれたその笑顔も、最後に交わした「元気でね」も、どこか夢の中の出来事みたいに遠のいていく。
俺はあの日、喉までこみ上げていた言葉をついに言えなかった。
アルバムをめくるたびに、写真ライブラリをスクロールするたびに、由衣の写真に指が止まる。
――もしあのとき、勇気を出していたら。
何度問いかけても、答えは返ってこない。
せめて継続的に連絡を取れば良かったのだろうが、それすらも尻込みしてしまった俺にその答えを訊く資格など無いだろう。
☆
大学生になった今でも、夏の夕暮れになると、防波堤の景色が蘇る。
潮風の匂い、由衣の笑顔、そして言えなかった言葉。
スマホの奥に眠る一枚の写真が、何度でも俺をあの夏へ引き戻す。
夏は毎年巡ってくる。
けれど、あの夏だけは二度と戻らない。
――青く、まぶしく、切ない残影。
それでも。
どこかで由衣も同じ写真を見返しているのではないか――そんな淡い予感が、胸の奥で灯り続けている。
波の音を聞きながら、俺は静かに目を閉じた。