第0話 NTRから始まる悲哀
ここは駅前の繁華街。近くに大学があり、多くの学生らが行き交う商店街にもなっている。
どーーーーん!
車が電信柱に突っ込んだ。何ごとかと周囲の視線を集める。よくある光景ではなかった。衝撃は激しくなく、軽くぶつかった印象のものであったが、学生らしい女性二人と男性一人が路面を転がってきた。ここは、やや坂道の下りになっており、勢いを減らすのに時間が掛かった不運があったと思われる。
僕は衝撃音を聞いて振り返り、車が柱にぶつかって止まるのを見た直後、転がる学生らを見て彼らの身に怪我が多そうだと判断して駆けだしていた。
僕は桜井誠。近くの大学の医学部に通う医学生である。応急処置が必要だと咄嗟に判断して転がった学生らに近寄ると、大丈夫か? と声を掛ける。三人のうち、一人が意識不明であった。残り二人の男女は寝ころんだまま「ううー、痛い」とか「あれ? 何が起きたの?」とか混乱した言葉を発していた。僕の質問にはまだ答えることが出来ないようだ。
車の運転手はハンドルに頭を打ち付けたようで動いていなかった。軽い衝撃でも当たり所が悪ければ動けなくなるのも普通にある。彼の方は、別の人が車のドアを開けて世話をしていた。
集まってきた人たちに声を掛ける。
「救急車を呼んでください。怪我人が四人、二人は意識消失、そこの貴方、応急処置をしますので手伝ってくださいませんか? 僕は医学生です」
「分かった、救急車は俺が呼ぶよ。警察にも連絡する」
「分かりました。そして、そちらのあなた方、タオルや水など持っておられませんか?」
周囲を見渡してから全員に対して声を掛けた。
「わたし、水のペットボトルを持っています」
「俺も持っているよ」
「必要があれば使うかもしれません。その時はよろしくお願いします」
「「はい」」
僕はしゃべることが出来る二人を道端の喫茶店の壁に凭れ掛かれるようにと指示をして、頭を打っているかもしれないからと動きを緩やかにするよう、しばらく歩き出さないように注意して、昏睡状態の女性に取り掛かる。
「寝転んだほうが良ければ言ってください。そして、吐き気が込み上げてきたら、これを使ってください」とコンビニのビニール袋を渡しておく。
「えっと、気絶している女性は僕がチェックしますが、そこで携帯電話を掲げて見ている貴方、喋れる二人の傷を見て下さい。出血がありましたら教えてください」
「えっ、はい」
「漏孔もチェックしてくださいね」
「えっと、ろうこうって何?」
「ああ……、路面を転がった時にキズは大きくなくても、体内で出血してジワジワと滲み出る出血の穴の事ですが、あ、それはスミマセン、省いてください」
いざという時にへっぴり腰になってしまう人は多い。それゆえ冷静そうな人を判断して声を掛けていった。
腕から出血している怪我が大きかった男性の腕の付け根をタオルで縛り、時間を空けて緩めるようにと指示をして、隣に並べた女性の足のケガは出血が酷くなかったのでタオルを当てがい止血を促す。
気絶の女性の頭は動かさず、タオルや鞄で頭の動きを制限させて、寝返りを打つとか、いびきをし始めるとか、耳の穴を観察してから、彼女の腕と足の姿勢だけは少し楽にさせる。これが海や川で溺れた人だと体を横向きにして水が肺に入らないようにするのだが、交通事故なので仰向けのままで呼吸の様子を診るだけにとどめた。
心不全を起こしてディフブリレーター……通称AEDの出番があるかもと他の学生の子たちに駅に設置されているAEDを借りてくるように声を掛けておく。様子を診たところ、多分、必要はないと思われるが念のためだった。
意識を持つ二人に声を掛ける。会話が成り立つ程度には精神錯乱は治まっている様子。
「頭がフラフラするとか、今後、筋肉痛などが出てきますから、救急車で運ばれた後で受け入れの医師らに。腕にしびれや麻痺があるとか正確に伝えるのが治療開始の早道ですから、車内で救急救命士らに状況を教えてあげてください。質問されるとは思いますけどね」
「ありがとう、清美の様子が心配だよ。ところで貴方の名前は?」
「そこの大学の医学部生です。桜井誠といいます。路面の転がり方が奇麗だったので、ムチウチはまだしも後遺症などは残らないレベルだと思いますよ」
続けて会話をしたところ、気絶中の女子学生と怪我二人が知り合いという事であった。三人で学生寮へ帰る途中で暴走車と遭遇してしまったのだそう。とりあえず応急処置にはなったし、救急車の到着を待てばいいかな、と桜井は思った。そこでまた気がつく。手当てをされてる気絶した運転手さんをチェックしなければならない。
そこに男子学生が駆けつけてきた。
村越
「ちょっと西之原君、小林さん、大丈夫かい?」
西之原
「あ、良かった、村越、家族たちに連絡頼めるかな?」
村越
「それはいいけど、酷い怪我だね」
小林
「よろしくー、応急処置はしてもらったわ、怪我……でも痛いわ」
村越
「清美ちゃんは……、気絶しているのか」
桜井
「村越君と言われましたね、これから運転手さんを診ますので手伝ってくれませんか?」
気絶している運転手へ向かって村越と呼ばれた男子学生を伴って様子を窺いに行く。こちらも先にされていた応急処置の修正をしておいて救急車の到着を待つばかりとなった。
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この事故の件があった三日後の事。ケガをした三人の中で西之原君という男子から『お礼をしたい』との電話があった。西之原君と女性の小林さんは幸い大怪我というレベルから応急処置が早かったせいで大量出血がまぬがれ、順調に回復しているそうだった。病院名を聞いてお見舞いに行った。
女性の小林さんの部屋で待ち合わせをした。西之原君は松葉杖をしながら病棟を歩いてきた。女性患者さんのエリアには病棟同士をつなぐ回廊にあるナースステーションを通って行かなければならない。
事故現場に後から駆け付けてくれた彼らの友人である村越君が先に到着して病室ドア前で待っていてくれた。後ろにはご家族らしき人達が何人もいた。
村越
「やぁ、桜井君、こんにちは」
桜井
「連絡を西之原君から受けてね、お見舞いに来たよ」
ご家族
「「桜井さん、本当にありがとうございました」」
僕が言われているのは彼らの親御さんたちからだった。西之原君は『ごめん、親たちの方が御礼をしたいとしつこくてね』と苦虫を潰した微笑みを持って言い訳をしていた。小林さんのご家族も同様だった。再検査で身体に何も起きていなければ、もう数日で退院できる見込みだそう。
西之原
「脳の検査が何だか怖いんだよな」
桜井
「大丈夫だよ、普通に検査しても血栓の三つぐらい見つかるし、手に震えとか腕にシビレがなければ大丈夫」
小林
「桜井君は医学生だったね、助けて下さって、ほんと、ありがとうね」
頭を丁寧に下げるベット上の小林さん。育ちが好いのか、結構、竹を割ったような雰囲気があった。
桜井
「それにしても怪我が軽くて良かったね、今のところ」
西之原
「それがさぁ、一緒に居た清美が……」
「うん? 昏睡していた女の子だよね? 彼女は首でも捻ってたのかい?」
「いや、頭の打ち方が悪かったらしくて、健忘症……記憶喪失みたいなんだ」
「そうか……お気の毒に」
小林
「ねぇ、桜井君、彼女……清美にも会ってあげてくれないかな?」
といいつつ、首を曲げて隣のカーテンで覆われたベットを示す。清美と呼ばれた娘の親御さんが小林さんの声を聞きカーテンを開ける。ベットの上には可愛らしい美少女が寝ていた。目は開けているので今までの会話を聞いていたのか、顔を桜井の方へ向けてニッコリと微笑んだ。
彼女の名前は斎藤清美という。清楚系の雰囲気で少し起き上がり、ペコっと頭を下げる。
清美
「桜井君、初めまして。気絶していた私を助てくれたようで、ありがとうございました」
「いや、当然のことをしただけで、それより今は大丈夫なんですか?」
「はい、言葉も喋られますし、身体にも擦り傷はいっぱいでしたが、幸い、大きな障害はないそうです」
「それは良かった。視力や喋り方、手足の指は普通に動かせますよね?」
「ええ、大丈夫です。ただ、私の記憶が霞に包まれているかのようで……はっきりしないのが悲しい所です」
「記憶を呼び覚ますために髪の毛が薄くなる薬を使うと思いますが、きっと直ぐに思い出しますよ」
「それだと嬉しいです……」
清美は無理やり作ったかのような笑顔で答えるが、不安感とか悲しさとかが滲み出ていた。目は若干うるうるしていた。
それからというもの、見舞いを時々した桜井は、西之原と妙に気があい、男同士の友情を育んで、まるで昔から知り合いの親友のような関係になった。女性陣は異性ゆえか、そこまで上手く行かず、親しい中でも礼儀ありという彼女らのスタンスにより、仲が良い異性といった位置づけになった。
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退院してから一か月が過ぎ、その四人と桜井は同じ大学だったこともありグループ仲間となり、特に清美は誰も知らない、記憶がない大学の不安感から桜井に信頼を寄せ、親密度が増していた。西之原も小林も村越まで何故か応援していた。
可愛らしい清美は学内でも目立ち、人気があったが、事故による記憶喪失という話が広まったため、多くの学生が接するのを控えた。そこには彼女を独占したがる一部の男子学生らが「控えるべき」と親友っぽいことを言って牽制しただけなので、代わりに自分が近づいてきた。そういった工作っぽいことに小林が気付き、怒り、より大学での交友関係は制限されていった。
一方、清美は桜井に会うたびに顔を赤らめ、俯き加減でいるため上目使いに自然となり、桜井の心を惑わした。お淑やかっぽく清楚な清美は、桜井の好みにビンゴであった。ゆえに恋に陥るのも早かったといえよう。知り合って二か月が過ぎたころ、清美は桜井に告白した。桜井も喜んでそれを受け入れた。
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清美side
高校から大学入学してからの記憶がバッサリ無くなってしまって、私は本当につらく思っています。でも、私が交通事故に遭ってから出会った桜井さんは応対していても安心感があって優しく、とても素敵な男性に思えます。私の精神の復活に多くの貢献をしてくれて、お付き合いが出来て幸せを感じます。不安感も一緒に居る時は全く感じません。
ただ独りで過ごしている時に、何かが私の心の内に潜んでいて、その何かが表に出てこようとするの。記憶が戻りかけている前兆なのかしら?
私の高校時代は、どんなことをして、どんな風に過ごしていたのかな? 大学も入学してから何をしてたのでしょう? 小林さんや西之原君、村越君は、大学時代からのお友達です。色々と聞いても大学以降で、高校時代だけは未だ分かりません。
そこで高校時代のノートや卒業アルバムを繰って、親に友人らしい人たちの名前を聞いたりして、コンタクトを取りました。
旧友たちによりますと、高校時代、私にはとても仲が良い彼氏がいたらしいです。名前はトシキという同年齢の男子。逆にその彼氏と別れていることに驚かれてしまいました。今は桜井君という彼氏がいるので、何となく会話がしずらくなりました。
それから何日かして、ある雨の日の事です。大学で講義を終えて帰るところ。
桜井
「清美、僕は実験があるから今日は一緒に帰られないから、ごめん、気をつけて帰宅して」
「うん、分かった。もうすぐクリスマスイブだね。楽しみにしてるよ」
「もちろん、僕も。プレゼント楽しみにね」
「ふふ……、私のプレゼントこそ期待してて(だって私の初めてをあげたいのです……)」
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大学の理系は文系と違って忙しい。部活やサークルは基本的に参加できていない。コンパやカラオケなどの遊び中心のテニスサークル等は大体文系の学生が占めている。アルバイトもするが、多くの理系学生は奨学金を得てアルバイトは最小限にして学業にいそしんでいる。
清美が大学の正門から出ようとした時、門の側で待機していた他の大学の学生が近寄って声を掛けてきた。
「清美!」
「は、はい。あ、あの……」
「聞いたよ、交通事故で記憶を失ったんだってな、連絡がないから心配していたぞ。俺は地方大学だから気づくのが遅れてゴメン。連絡もどうしたんだ? アドレスが無効になってたぞ」
清美は記憶喪失の為、友人知人から連絡が来るたびに知らない人から親しげに話をされるので、あっという間に神経が参ってしまって、連絡を誰とも出来なくなってしまっていた。
「あ、あの……、どなたでしょうか?」
(すごい親しげに話しかけられました。まさかの元彼氏でしょうか?)
「そうか……俺の事も忘れてしまっていたのか。トシキだよ。清美のお母さんから聞いて、最悪の予測をしていたけど……。俺と清美は恋人同士だよ。覚えてないか?」
「えっ……(恋人同士ですか?)」小声
「ああ、俺と会話していれば思い出すこともあるかも知れないと清美のお母さんと話し合ってな、ちょっと喫茶店とか行こう」
「は、はい……(記憶が取り戻せる近道かも)」
そうして清美はトシキと一緒に喫茶店に行った。その後、彼はしばらくこの町に滞在して、清美の記憶を取り戻すお手伝いをしたいという事で、彼女の親とも合意していた。清美の親は桜井との恋人関係を彼女から教えられていなかった。
清美は桜井と将来も一緒になりたいと思っていた。しかし、親が桜井との関係を知らなかった事が幸せへの道の分岐点となってしまった。
「まことさん……。私、早く過去を取り戻したい……。そして、その上で貴方と将来一緒になりたい」
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僕の元に清美から連絡があった。
高校時代の友達と会話をして記憶を取り戻すキッカケにしたい、失った過去を取り戻せるよう努力したいという内容だった。もちろん僕は大歓迎した。それゆえ、僕のことが負担にならないよう、清美の自由な行動を優先するように強く主張した。
「僕とデートするより、高校時代の友人たちを優先して欲しい」
あくまでも恋人としてのサポートであり、相手が誰なのか聞くことをせず、まさか男性で元恋人だとは思いもよらなかった。将来の為、この時点で止めるべきだったのかは、未来の桜井にも分からなかった。
桜井は理系であり、医学生であるため、手放せない実験が多く、専門的な勉強を頭に詰め込む必要があり、時間を見つけてのデートが少なくなるのはラッキーだといえたが、清美との関係性が脆弱になっていくのは否めなかった。ただ毎日の連絡は欠かさなかった。
今のような状況になり、清美と連絡が頻繁でなくなった頃、クリスマスイブを控えたある日の出来事である。
「ふぅ、今日も遅くなってしまったな。ゼミもキツいし、研究もはかどるけど、恋人との時間は少なくなって、学生時代の恋を楽しんで謳歌するなんて、夢にような展開になりつつあるな」
独り言ちて桜井は駅へ向かって歩く。
寒さが厳しくなりつつ冬に突入し、カップルが手を繋ぎクリスマスイブを目指して仲良く歩く。初々しいカップルから熟年の夫婦まで笑顔がそこかしこにあった。僕は息を吐き、白くなる様子を見ながら『僕もイブは可愛い彼女と一緒だから羨ましくはないぞ』と、彼女持ちの余裕を見せながら歩く。
駅のそばまで来た時、少し遠めに清美らしき女性を見つけた。
「あれ? 清美じゃないか……」
しかし清美の隣には、見たことがない大学生の男性が一緒に歩いていた。しかも、手を繋いでいた。恋人繋ぎだった。時々、彼女の頭が隣の彼の肩に当たる。わりと密着している体勢だった。
「ええっ……」
思わず追跡してしまった。そんな馬鹿なと思いながら、桜井は最悪の結果を想定していた。そう、清美らが歩いて行く先には、カップルご用達の休憩・宿泊施設がある。
「まさか、清美……。人違いじゃないだろうな? 僕の目の錯覚か?」
しっかりと見極めようと近づく桜井。視力はいい方だった。会話までは聞き取れない。しかし二人の様子は間違いなく恋人同士のソレであり、愛しい恋人が他の誰かとイチャイチャしているのを見せつけられているかのようだった。
「そうだ、写真を撮ろう。そして電話をすれば、他人の空似か僕の彼女かどうかは確定する……」
但し、もし他人の空似だったら、清美に対して失礼だ。だからと桜井はどんどん近づいて行った。『冒険しすぎるな、あくまでも清美に似た別人だという確証が欲しいだけだ』と心の中で自分を納得させ、足音をなるべくさせずに近づく。
「こんなところで足音なんか気にするわけないな……、はは……何やってるんだろう僕」
残酷な時間だった。近づいても女性は彼氏とのラブラブな時間で楽しそうにしているばかりで、彼氏も愛しい彼女をエスコートすることに集中しており、桜井の接近には気づきもしない。逆に気づいてもホテルへ入る恥ずかしさで素早く入口に入るだけだろう。
桜井はカップルの写真を撮って、少し後悔していた。他人を隠し撮りするだなんて、倫理的にも法律的にも駄目じゃなかろうか。たとえ彼女の浮気の証拠を得る為だとしても、夫婦という法で守られた関係ではなく、ただの学生の恋人同士だ。
家族を巻き込んで婚約しているわけでもなく、口約束で将来一緒になろうねというレベルだ。清美とのお付き合いは家族には恥ずかしくて言っていないから正に只の学生の恋人関係なだけであった。慰謝料が発生するわけでもない。
そんなことを考えている間にも清美らしきカップルはホテルへ向かっていた。もう直ぐで入口である。桜井は携帯電話で清美を呼び出した。最初からこれをして確認すれば良かったと思いなおした。
リリリーーーーリリリーーー(電話の音)
すると、あろうことか先を歩くカップルの女性がポケットから携帯電話を取り出して画面を見る様子が目に入った。桜井は唖然とした。電話を切る。すると先の清美らしき女性は何かを彼に呟いてポケットに携帯を戻し、彼の腕を取り、優しそうに微笑んだのち腕を組んで入口から中へ入って行った。
桜井は追いかけなかった。電話をかけたのがもう少し前だったら、迷わず声を掛けていた。その場で問いただすのが後の証拠集めだなんてする必要もなく、本人が現認した以上、会話も誤魔化しもなく別れることが出来る。
「これが清美の言っていたクリスマス・プレゼントか……」
桜井は頭が真っ白になって体の力が抜けていきそうになっているものの、清美とは別れることを決心しようとしていた。丁度、近くのビル二階に喫茶店がある。窓際に座ればいい。駅の反対側にはゲームセンターもある。そこで時間を潰し、二時間か三時間かのちに出てくるであろう清美を待つつもりだった。
しかし、その場で決着を付けなかった故、たった数時間としてもジリジリと心を締め付けられる。桜井は判断を誤った。優先順位を誤ったのだ。早期発見・早期治療は医学上の話だけではない。早期発見・早期対処は基本的に全ての悪影響を最小限にする優先順位の方法であり、決して『後でやろう』という選択はない。
何を重要視してしまったのだろう。勉強の時は明日やろうと逃げたりする時があった。夏休みの宿題も同じだ。明日やろう……。しかし何回も繰り返して明日には回さないという姿勢が最適だと学ぶ。
喫茶店に入った。丁度、窓際の席を確保できた。何回も注文を繰り返し、最大三時間は粘るつもりだった。
「清美は記憶喪失だ。どうして男性と知り合った? あの男性は誰なのか? 記憶が戻ったのなら、どうして僕に教えない?」
色々な疑問が出てくる。そこでハタと気づいた。あの男性は記憶喪失の前に付き合っていた本来の彼氏なのではないか? と。清美は知らない人とは近づきたくないという意識があった。記憶喪失になった際は、友人知人ですら疎遠にしてしまった。相手が親しくして来ても自分が合わせられないからだ。
知らない男性なら彼氏である僕がいるから更に警戒する。ナンパしかり。清美は記憶があった頃でも合コンは行ったことが無かったと言っていた筈だ。
導いた答えは、記憶喪失の前の彼氏である、その確率が高いと踏んだ。ならば倫理的にも彼氏同士で話し合って解決しよう。……と考えながら、今、その彼氏とホテルに滞在しているんだったと愕然とする。奇麗で可愛かった大切な恋人が、自分以外の男性に抱かれてしまっている、このぶつける場所がない鬱憤は僕の落ち着きを無くしていく。
「だ、だめだ。もう愛しさを感じる気持ちは維持できない。元彼氏だろうと、高校時代の友人と会話して記憶を戻す努力だと言っていたけど、それが元彼氏だとしたら不誠実だし、高校の友人が男だったら彼氏である僕に教えてくれないと、いずれトラブルになる、そんな確率が高かった筈。悔しい、情けない、嫉妬心も沸き上がって治まらない、辛い、苦しい……」
それに……繰り返すが、元カレであろうとなかろうと関係なく、やはりリアル現在進行形で男女間の営みが行われているわけで、僕は清美と別れのケジメを付けたら、この心の傷が学業に悪影響するだろうことを如何に防ぐかを考え始めた。無理だ……きっと引きずってしまうだろう……。
すると眼下にあの二人が出てきたのが見えた。三時間も経っていた。それだけ思考に集中していたのだろう。清美と結婚するかどうかを含めて将来に関わる出来事だから当たり前だと自分に言い聞かせ、急いで清算を済まして二人を追う。
追いついた。
「き、清美……」
前を歩いていた二人は、桜井の声に反応し振り返った。特に清美は目を見開いて桜井の顔を見る。男性の方も驚いた感じだったが、桜井の知り合いにはいない男だった。
「君、俺達に声を掛けたのか?」
一足先に男性が桜井に声を返す。その様子は知らない男が声を掛けてきたという以上でも以下でもなかった。そして清美は自分の名前を呼ばれたことに不思議がっている印象だった。
「あ、あの、どなたですか? どうして私の名前を……?」
それは誤魔化しでもなく、素直な感想といった感じだった。男の方は彼女の名前を知っていた男が声を掛けてきたというシチュエーションに強く反応した。
「お前、清美のストーカーか!?」
「えっ、ちが」
「ス、ストーカー!? ち、近寄らないでっ。トシキくん、怖いわ」
激しくキツい反応だった。まさか自分が交通事故で昏睡している清美を助けた人間だとはカケラも思っていない激しい拒絶だった。
「いやーーーっ、名前を調べているだなんて怖いでしょ、嫌、気持ち悪いっ! だ、誰か!」
桜井は清美の言葉に混乱した。いや錯乱と言ってもいいほどに強い衝撃を心に受け、踵を返して走り出した。涙が零れ落ち前が見えにくくなったが、人にぶつからねば大丈夫と思ったのかどうか、駅を過ぎ、例の交通事故のあった電信柱に近づいた際に横から出てきたトラックが接近していたのに気づかずにいた。
ドッカーーーーン
不運にも桜井は、そのトラックに跳ねられてしまった。
・・・・・・・・・・
清美side
駅の先から凄い音がしたと思ったら騒ぎが始まっていました。そこでは先ほどの男性がトラックに跳ねられ道で倒れていました。どうやら先ほどの私達とのやり取り後、走って飛び出し、事故に遭ったと分かりました。
たとえストーカーと言えども、会話をした直後だったので私の気分も沈んでしまい、彼氏であるトシキくんが私の肩を抱き、優しく『見るんじゃない、彼はストーカーとバレて逃げ出しただけだ。僕らには責任はない』と庇ってくれました。
「記憶がない私は彼が誰か知らないけれど、もしかしたら私が交通事故に遭って記憶喪失になった時に知り合ったのかも知れないわ。少し落ち着けるところに行きたい……」
「そうか。その記憶喪失の期間なら知り合いの可能性もあるのか。でも気にするな、きっと関係はない。ストーカーだよ奴は。清美が記憶喪失していた間にどれだけの男子が『俺、彼氏だぜ』って言って来たのか、小林さん達から聞いているだろ?」
「うん、そうよね。みんな嘘つきだったもん」
「さぁ、帰ろうか。将来、俺達は一緒になるんだから、なるべく異性とは距離を置いてくれよ」
・・・・・・・・・・
ある日、清美は高校時代から大学入学、事故に至るまでの記憶が戻った。かつて愛した彼氏がわざわざ会いに来てくれて、暫く滞在するとのキッカケのせいで奇蹟的な精神の回復を見せた。
その代わり、今度は、事故から桜井誠とのお付き合いまで、記憶が消えてしまった。
幸か不幸か、清美の頭の中では二股にはなっておらず、しかもトシキが滞在する、話し合って記憶を取り戻そうという音頭によって、二人きりになれるカラオケやホテルに徐々に慣れ、清美は初めてを散らすこととなった。
そう、清美はトシキと高校時代から確かに付き合ってはいたが、そういう肉体関係にはなっていなかったのだ。なかなかヤレないと、うずうずしていたトシキはこれをチャンスと捉えた。
「体を合わせれば、すぐに記憶が甦ると思うよ」
狡いトシキの策略で清美は初めてを奪われた後、その行為の衝撃なのか、空白の記憶を蘇らせつつあった。清美はトシキと一緒のベットの上で気づいてしまった。
「……ま、まことさんはどこ? わたし何をしてるの……」
まことというのが、誰の名前かは分からなかった。まだ中途半端な記憶の覚醒である。思い出そうとすると頭痛が酷くなった。
その後に、交通事故で亡くなったのは、清美を救った医学生の桜井誠ということが、西之原と小林、村越から聞かされた。
小林
「ねぇ清美、桜井君をストーカー扱いして、しかも貴女が他の男とホテルへ入ったのを目撃して、悲しんで跳ねられ亡くなったのを蔑むだなんて信じられないわ」
西之原
「いくら何でもストーカーが堂々と声かけるわけないだろ。様子見れば真面目な奴だと判断つくだろうが、清美の元彼氏も嫉妬してたとはいえ頭おかしいぞ」
清美
「確かに彼が声を掛けてきた時、笑いもせず、厭らしさもなく、真剣な眼差しだった……トシキがストーカー扱いをして私もそれに流されてしまった……だけ……」
村越
「桜井君は素敵な彼氏だったんだぞ。お前が記憶喪失だった時にどれほど頼りになり助けてくれたか」
小林
「救ってくれた恩人を殺したようなものじゃない、いくらトシキ君が桜井君をストーカー呼ばわりしたって、清美が自分で見て判断できなきゃ、はぁ、本当に人を観る目が無いんだね、あんたの彼氏のトシキは女を遊びで食っちゃうような狡猾な奴だよ」
「……」
(私がストーカー呼ばわりして彼は走って事故に遭って命を落とした……、そんな、そんなーー!! それにトシキは私と何度も寝ていたと言っていたのに、わたし初めてだったし、嘘ばかり。そんな男に騙されて煽られて本当に大切だった桜井君を……そんな、悔しい。でも私も本当に馬鹿だわ。信じられないほどバカ。あの時に時間を巻き戻してやり直しをしたい……)
清美は後悔の波に包まれた。そして強く願った。
トシキとはこの直後にお別れを宣言し、清美は死ぬまで一生後悔し続けた。
他の男性と恋愛関係になる気も起きず生涯独身を貫いたが、それで桜井が帰ってくるわけではなかった。
・・・・・・・・・・
【白い部屋】
トラック運転手
「あー、目覚めましたか、こんにちは」
助手席娘
「こんにちは、サトシくんのお父様」
「えっと、まだ学生ですし僕は結婚もしていませんが、誰か他の方との間違いじゃ……」
こ、ここは……、見たこともない真っ白い空間……。
「第一回目の異世界転生へようこそ!」
「だ、第一回目って……」
助手席娘
「えっと、今回は転移ですね。子供からやり直さなくて大丈夫です。良かったですね」
運転手
「良かったですね。次回の転生では駄々こねますけど」
意味不明なことを話し始める自称・運転手と助手席娘。
桜井誠
「えっと、僕はトラックに跳ねられて頭の打ちどころが悪くて死んでしまったのですか?」
運転手
「そうですねー。残念だけど、これからは異世界へ行って頑張ってください」
助手席娘
「別に魔王を倒せとかありませんから気にしないでスローライフを楽しんでください。そうそう、女神様から、スキルは”勇者”が与えられます。敵が来ても負けない強力なスキルですから、異世界に放り込まれても楽勝で生きていけます。バッチリですね!」
こうして異世界に放り込まれた桜井は、強力な勇者スキルを得て、医学をはじめ科学知識が全く通用しないヒールとかリザレクションという剣と魔法のある世界へと旅立って行った。第一回目の転移というのが気になったが、聖女や勇者の存在している世界は楽しく、体を鍛え、魔法をマスターして冒険者として仲間も得て幸せに暮らした。
多少の配慮だったのか、清美との失恋の衝撃は転移された時点で軽減されており、気分は楽だった。そして、この経験により、彼は異世界転移やタイムリープに興味を持つことになる。
そして、西之原と村越、小林の三人とは、のちに子供同士が仲良くなるほどの交友を持つ。
一気書きにて失礼しました。
次のページから大人になった桜井誠のお話ですが、清美を救う続きのお話は第14話・15話になります。
また、桜井くん二回目の転移が読みたい方はこちらへ。悲劇が襲いますが、息子たちに繋がり頑張ります。
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