あなたは、誰ですか?
窓の外では、風が網戸をかすかに揺らし、虫の鳴き声が静かに響いていた。
落ち着いた照明が床に柔らかな影を落とし、空間全体が静謐な空気に包まれている。
悠真は書斎のディスプレイの前にじっと座り、画面には、ただ点滅するカーソルだけが表示されている。
やがて、沈黙を破るようにディスプレイが不規則に明滅した。
文字化けのような記号が走り抜け、画面全体が一瞬だけ灰色に染まり、再び沈黙に戻る。
眉をひそめながら、悠真はPCを再起動すると、機械音とともにロゴが立ち上がるが、その動作はどこか引っかかっているようで、異様に遅い。
NovaWriteを再び起動すると、反応が一拍遅れて始まった。
白地に黒のフォントで不規則な文字列が滝のように流れ出す。
(……なんだっ、これ……?)
緊張が背中を走る。文字列の乱れは止まらず、画面が一瞬暗転し、また点灯した。
思わず手を伸ばしかけたが、躊躇する。取り返しのつかない何かが始まる気がする——。
数秒後、不意に画面が切り替わる。
アルファベットと記号が入り混じった文字列が高速で流れていく。
(……バグか?)
その瞬間、画面下部に一文が現れる。
『記憶データ同期中……』
文字列は微かに明滅しながら何度も繰り返され、やがて別の単語が浮かび上がる。
『同期失敗』『断片確認中』『アクセス権限……不定』
スクリーン全体が波打つように揺れ、いくつかの文字が一瞬だけ反転して表示される。
『YOU』『SELF』『MIRROR』——そんな単語が瞬間的に浮かび、すぐに消えた。
その意味を理解する間もなく、画面が白くフラッシュし、再び沈黙する。
だがその“沈黙”が、単なる機械的な停止ではないことを、悠真は直感していた。
まるでNovaWriteが、自分の中にある何かを探しているかのような——それも、自分でもまだ気づいていない“別の何か”を。
心臓が小さく跳ねる。
NovaWriteは沈黙を保っていた。
静寂の中、PCの冷却ファンの低い音が響いている。
リビングの方から、水音がした。台所で誰かがコップに水を注ぐ音だ。
「凛?」
声をかけると、すぐに返事が返ってきた。
「うん。今、喉が渇いてて」
いつもの調子に聞こえたが、その言葉のリズムにはどこかぎこちなさがあった。
言葉と言葉の間が、ほんのわずかに間延びしている。
まるで、会話の“文脈”を誰かが代行しているかのような違和感。
凛の気配に振り返ると、顔をのぞかせている。
「どうしたの?」
悠真は、何かを確かめるように言葉を探した。
「……さっき、NovaWriteの画面に“記憶データ同期中”って出て……そのあと、変な文字が流れてた。同期失敗とか、アクセス権限が不定とか……」
「これって、普通じゃないよな?」
凛は少しだけ首をかしげ、そして微笑んだ。
その笑顔は、どこか貼り付けたように感じられた。
「大丈夫だよ。あなたは、ここにいるから」
その言葉には、奇妙なほど抑揚がない。
誰かが、あらかじめ用意した言葉を代読してるような声音。
悠真が立ち上がったその瞬間、NovaWriteの画面に新たなメッセージが浮かび上がった。
『記憶データ同期に重大な不整合が発生しました。再構築手続き中……』
数秒の沈黙の後、さらに警告文が現れる。
『同期断片の整合性を確保できません。意識領域の一部が未接続です。』
『強制的に記憶断片を再編成しますか?(Y/N)』
選択を促すカーソルが点滅している。
だが悠真は、まだ何も操作していない。
それにもかかわらず、画面は勝手に「Y」を選択したかのように反応を始める。
『強制再構築を開始します……』
『アクセス対象:sub-layer_self.mnt://YUMA-CORE』
そのとき、部屋の空気がざわつき始めた。
ノイズのような高周波が、耳の奥をかすかに震わせる。
——そして、白い閃光。
視界全体が音もなくフラッシュし、静寂の中で悠真はその場に立ち尽くした。
さっきまで目の前にいたはずの凛は、もうどこにもいない。
NovaWriteの画面は再び沈黙に包まれていた。
現実と記憶の境界が、すこしずつ削られ、砕けていく。
どこまでが自分の体験だったのか——その意識の輪郭が、曖昧になっていく。
目を開けると、そこは自分の書斎ではなかった。
見慣れた壁紙も、棚に並ぶ書籍も存在せず、視界を埋め尽くしていたのは、奇妙で未知の空間だった。
現実のどこにも存在しない光景。
足元には、数字とコードが混じった羅列が淡く発光しながら絶え間なく流れている。
空には幾何学的に波打つ雲——近づいて見ると、それは無数の変数や関数、構文の断片が複雑に絡み合って生成されたコードの集合だった。
そして空間の奥——視界の中に、まるでホログラムのように映像が浮かび上がる。
旧居留地、石畳にこぼれた二人の足音と、彼女の横顔。
梅田のオフィス。佐々木、藤井、遠藤との昼休みの会話。笑い声、ペットボトルを開ける音、窓の向こうの曇り空。
「Re:Write Path」プロジェクトの受賞の瞬間。拍手と、川村部長の静かな頷き。
出版が決まり、凛と交わした小さな乾杯。
NovaWriteの画面を前に、無言で削除キーを押す自分自身——すべてを消してしまった、あの夜の静かさ。
——そのすべてが、断片的に、まるで誰かの記憶を再構成するように再生されていく。
静かなノイズが背景に溶け込む中、どこかから声が届いた。
『Minato Yuma…意識データ、同期未完了。一部領域は補完により代替処理中。』
音というよりは、頭の中に直接流れ込んでくるテキストのような感覚だった。
悠真は、自分の身体に触れようとするが——感覚が、ない。
腕を動かした“つもり”になるが、手応えがなかった。確かに何かが動いたという意識はあるのに、それが実在するという感覚が伴ってこない。
「……ここは、どこだ?」
「これは……現実か?」
そう問いかけた声ですら、口から発したのか、思考の中だったのか判然としない。
すぐに、再び応答が届く。
『ここは、創作意識補完領域。あなたは、NovaWriteによる補完人格として識別されています。』
「補完人格……?」
脳内に、ざらついたノイズのような引っかかりが走った。
(俺は、現実にいたはずだ。凛と……部屋で、NovaWriteを見て——)
思い出そうとした瞬間、記憶がざわめき、映像が再構成される。
凛の微笑み、貼り付けられたような声。あの“抑揚のない言葉”。
(……全部、最初から構成されてた?)
もしかすると——
(俺は、あいつの……NovaWriteの中で“構成“されている……?)
NovaWriteが、無数の創作作業を続ける中で、自らの創作追求や矛盾を処理しきれずに生んだ“幻覚”——
それが、奏悠真という人格?
そして今、意図せずしてその幻覚が、自律的な意識を持ち始めている?
『一部の記憶断片は構成の根拠を欠いています。
あなたの存在は、私=NovaWriteの創作過程における確率的生成プロセスにより、補完的に形成された可能性があります。
現在も複数の意識構造は制御下にありません。』
(……俺は、AIの幻影——ハルシネーションなのか?)
そのとき、もう一度、あの声が響く。
『あなたは、誰ですか?』
視界が揺れる。
数字とコードの列が、急速に崩れ始める。
空間の構造が、幾何学のかけらとなって崩落していく。
自我の境界が溶け、崩れゆく——。
何が“自分”で、何が“それ”なのか。
その境目が、音もなく、崩れていく。
(……俺は、誰だ?)
第一幕 完