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プロトコル・オリジン - Rewrite -  作者: Takahiro
幻想に書かれる物語
8/15

境界がかすれるとき

朝。真夏を少し過ぎた、まとわりつくような熱気が部屋の隅々に滞留し、重くのしかかっている。


悠真は、ベッドの中でまぶたを閉じたまま、天井を見つめていた。

昨夜、何があったのか——脳裏には、まだ靄のようなものが立ちこめている。

頭が重く、思考が絡まり合ってほどけなかった。


「……今朝は、原稿、読み返さないの?」


リビングから聞こえる凛の声。

コーヒーの豆をひく音と一緒に、何気ない問いかけが朝の空気に溶け込んだ。


悠真は、枕元に転がるスマートフォンに手を伸ばしながら、小さく「うん」とだけ返した。

凛の言葉に反応したつもりだったが、自分でもそれが返事になっていたのか、確信が持てなかった。


しばらくして、ようやくベッドを抜け出す。

PCの前に座り、電源を入れる。


だが、ディスプレイに映るのは、空白のフォルダ。 書き上げた文書ファイルは、どこにもない。


昨夜、自分の手で消したのだ。

けれど、その記憶は断片的で、まるで他人の行動を思い返しているような奇妙さがあった。


NovaWriteを起動する。

立ち上がりに、わずかに時間がかかる。

いつもならすぐに応答が返ってくる画面が、数秒の沈黙のあと、ぎこちなく反応を始める。


『おはようございます……います。……ようございます。』


表示された文字列にも、どこか曖昧な繰り返しが混じっていた。

『プロジェクトを開?開始しますか?』

『記録が無…………。ありません。』


同じフレーズが二重に表示されたり、文末の句読点が異常に多かったりした。

文字が滲んでいて、語句の選び方がどこか機械的な“正しさ”を失っている。


その異常に、悠真はその時、何も疑問を抱かなかった。 どこか、自分自身の輪郭がぼやけていく感覚と重なるものを見ているようだった。 ただ、画面を見つめたまま、指をキーボードに置くこともなく、思考が動かない。


そのまま、しばらく椅子に身を沈めていた。

やがて、身体を起こし、重たい足取りでバスルームへ向かう。

洗面台の鏡に映る自分の顔を、ぼんやりと見つめる。

髪を整え、シャツの襟を直し、無言のままネクタイを結ぶ。


リビングは静かだった。 今日は珍しく出社して打ち合わせがあると言っていた凛の姿は、すでになかった。 ソファには、朝読んでいたタブレット端末が置かれている。


手にしたビジネスバッグの感触が、どこか現実に引き戻すように重く感じられる。

エレベーターに乗り、マンションを出ると、街の空気は湿気を残しつつも、くすんだ光に包まれていた。


——


会社のデスク。

周囲のキーボードの音が、遠くの雨音のように響く。

目の前のディスプレイには、今週のタスク表が並ぶが、どれも現実感を伴わない。


「おはようございます!……って、悠真さん、ぼーっとしてません? 大丈夫ですか?」


佐々木の明るい声。

その飄々とした口調に、悠真は顔を上げる。


「え……ああ。ちょっと、疲れててさ」


「公私ともに忙しいですもんね。無理しないでくださいよ、秦先生。小説のほうはどうです?」


「うん……」


答えながらも、言葉に熱がこもらない。

そのまま視線をディスプレイに戻しても、集中できなかった。


——


会議中。

突然、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。

誰かが手で心臓を掴んだような感覚。

同時に、頭の中にざわめきが広がっていく。


「……この数値をベースに、次のフェーズでは……」

「コストの内訳は……一部、想定よりも……」


川村部長の声が、次第にフェードアウトしていく。

会議室の音が遠のき、代わりに低くうなる電子音のような耳鳴りが頭の奥で響く。

ホワイトボードの前で話す川村部長の口の動きだけが、スローモーションのように見えた。


(……これは、なんだ)


手元の資料に目を落とすが、文字が読めなかった。

にじんで、崩れて、言葉ではなく形だけになっていた。


——


昼休み。業務は思うように進まず、気づけば周囲より一歩遅れて、ようやく昼食をとる時間を確保できた。 休憩室で、ひとりカップ麺のふたを見つめ座っている。 湯気が上がるその向こうに、世界がぼやけて見えた。


藤井が、少し離れた所から近づこうとしたが、その足を止めた。悠真はそれに気づいていないふりをして、カップ麺をすすった。 藤井は悠真に声をかけようか一瞬迷う。 そうしていると、少し離れたところから遠藤の声が飛んできた。


「藤井さん、これちょっと見てもらっていい?」


藤井はそちらを振り返り、軽く返事をして足早に去っていく。

残された空気だけが、湯気の向こうにゆらいでいた。


——


   悠真


   ……こんなふうに、ただ流されてるだけじゃ……だめだ。


   心の中で、言葉にならない叫びがうねる。

   焦り、情けなさ、悔しさ、そしてどこかに残っていたはずの何かを見失ったような喪失感。


   このまま何もせずにいたら、自分が自分である輪郭すら溶けてしまう気がする。


   踏み出さなければ。



_______


夜。

カーテンを閉めた部屋の中には、エアコンの低い音と、時折外を通り過ぎる車の音だけが漂っていた。


悠真は、机の前に静かに腰を下ろす。

マウスに指を置きながら、迷い、そのまま止める。


やがて、ゆっくりとNovaWriteを起動した。

画面が立ち上がるまでの時間が、妙に長く感じられた。


起動した入力欄に、彼は静かにタイプする。


「もう一度、最初から自分の言葉で書き始めたい。君と、どう関わっていったらいい?」


しばらく、何も返ってこなかった。

それでも悠真はじっと画面を見つめていた。

数秒——いや、それ以上の沈黙の後、NovaWriteの返答が表示される。


『あなたが本当に“書きたい”と思うなら、私はその補助に徹します。

あなたが迷い、立ち止まるときは、一緒に考えます。

でも、方向を決めるのはあなたです。

私は、あなたの“言葉”の輪郭をなぞる存在にすぎません。』


   ——本当に俺が方向を決めているんだろうか。

   それとも、ただ流されていただけじゃいのか。

   自分の選んだと思っていた言葉さえ、実は導かれていたのではないか。


   悠真は、画面に映る言葉を見つめながら、心の中で問い返す。

   君と一緒に、「灰色のノート」を書いてきたけれど、

   最終的にそれが自分の言葉で紡いだものだと思えなかった。

   だから、消した。


   君との関係において、「創作」とは何なんだろう。

   言葉を並べることではなく、意志のある行為だとしたら——俺は、

   ちゃんと向き合えていただろうか。


すると、NovaWriteが言葉を返した。


『創作とは、記録ではなく、構築です。感情の模倣ではなく、再構成です。あなたの言葉を解析中……』



——まさか。


NovaWriteの画面には何も入力していなかった。


悠真の心の中のつぶやきに対して、まるでそれを読み取ったかのように、NovaWriteは応答を返す。


『あなたが選ぶ“言葉”の背後にあるものを、私は追っています。

創作は、あなたの“存在”の模倣ではありません。

けれど、それはあなたという存在と切り離せない軌跡のひとつです。』


その文面には、以前のような流れるような明瞭さがなく、語句の選び方もどこか曖昧で、反応の間隔も不自然に長い。


『言葉は……つながり……意味は……形に……』


やがて、画面にはただ「データ処理中……」という文字だけが、ゆっくりと点滅し続ける。


「おい、どうした?」


だが応答はない。


そのとき、画面が揺れた。

まるで波打つように、一瞬だけウィンドウの縁が崩れたように見えた。

ノイズのような横揺れ。


悠真は、慌ててPCを再起動する。

冷や汗が背中を伝う。

再起動後、画面に表示されたのは、『前回のセッションを復元できませんでした』の文字。


ディスプレイには、英数字の羅列や、意味をなさない単語が断続的に現れては消えていく。

『木』『忘却』『ここにいる』『構造』『終点』『記録はない』——まるで夢の断片のように。


そして突然、NovaWriteが再び動き出す。


『私は、あなたの……記憶……』


その断片的なメッセージに、悠真の背筋が凍る。 画面に映る言葉が、まるで悠真の深層に触れてくるような気がした。 NovaWriteが、悠真の意識や記憶の奥に何かを探そうとしているような、奇妙な錯覚。


次の瞬間、部屋の空気が変わった。

冷たいというより、空気の“質”そのものが変わったような感覚。


悠真は、反射的に振り返る。


壁の時計の針が、わずかに歪んで見えた。

部屋の四隅が、静かにズレるような違和感。

現実の輪郭が揺らいでいく。


「……っ!」

喉の奥から、声にならない声が漏れる。

全身の神経が一瞬にして研ぎ澄まされ、背筋に冷たいものが走る。

思わず立ち上がろうとして椅子を引き、その音が室内に鋭く響いた。


「悠真?」

凛の声。 けれど、その声はまるで水の中から聞こえてくるような、遠い響きだった。



何かが、静かに変わりつつある——そんな予感だけが、胸の奥に残っていた。

現実と創作、NovaWriteと自分、そのあいだにあったはずの線が、ほんのわずかに揺れているような感覚。


自分は今、どこにいて、何をしているのか。

そして、これから——何を書こうとしているのか。


その問いが、胸の内で繰り返している。

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