白の理由
大阪・梅田。オフィス。
天井のLEDライトが等間隔に並び、柔らかな白い光で空間を均一に照らしている。
空調は効いているはずなのに、湿気を帯びた空気が肌にまとわりつき、遠く蝉の声を思い出すほど、真夏の気配が体に染みついていた。
悠真は静かに座っていた。
カーソルの点滅を眺めながら、画面を見つめている。
いつもと同じ景色。
けれど、どこかが少しだけ違っているような気がしていた。
あの夜、自分でプロットを書こうとしたのに、最初の一文さえ決まらなかった。
浮かぶアイデアは、どれも既視感に満ちていて、自分のものという確信が持てなかった。
その感覚が尾を引いている。
ふと視線を上げると、佐々木と藤井が談笑しているのが見える。
会話の内容までは聞き取れなかった。
けれど、その笑い声だけは耳に残る。
やわらかくて、明るくて、遠い。
(……あれ、こんなふうに聞こえてたっけ?)
会話に入りそびれたわけではない。
声をかけようと思えば、いつでもできた。
ガラス越しに世界を見ているような——
「悠真さん、大丈夫ですか?」
藤井の声が耳元で弾ける。
「あ、うん。ちょっとボーッとしてただけ」
「お疲れなら無理しないでくださいね。あ、そうだ、コンビニで新しいドリップ買ったんです。あとで持っていきますね」
藤井の気遣いは変わらない。
それなのに、自分の反応がどこか鈍い。
ありがとう、のひとことも、すぐに口から出てこなかった。
「……ありがとう」
(何かが、微かにずれている)
_______
午後の会議のあと、ふとスマートフォンを開いた。
ちょうどそのとき、文潮社の川瀬からのメールが届いていた。
「出版に向けて、秋の終わりには印刷に入ります。最終原稿は10月末を目安にいただければ幸いです。なお、内容確認のため、2週間後までに詳細なあらすじの提出をお願いできますでしょうか」
淡々とした連絡。進行中の現実だけど、胸の内側では、気力のようなものをどこかに置き忘れてしまっているようだった。
まるで、誰か他人の予定を眺めているみたいだ。
帰り道、梅田の駅ビルにある大型書店にふと立ち寄る。
真夏の冷房が効いた空間に一歩足を踏み入れると、外の蒸し暑さとの温度差に肌が少しだけ粟立った。
店内には、夏の読書フェアや話題作のポスターが並ぶなか、「今秋・今冬発売予定」のコーナーに目が止まる。
「奏 悠真」見慣れた自分の字面。
発売は冬で、編集作業はこれから詰めていく段階だが、そこにある自分の名前が、まるで他人のもののように感じられる。
(俺の本……なのに)
“これは自分のものだ”という実感が、胸の内側をすり抜けるように、ただそのまま通り過ぎた。
_______
夜。神戸の自宅。窓の外では、夜風に揺れる風鈴の音がかすかに響いている。
悠真はPCを開いて原稿ファイルをスクロールしていく。
画面に表示された文章たち。
登場人物の表情、セリフ、動き——破綻はない。
でも、“どこかで見たような”印象がついて回る。
まるで、自分ではなく、他人がつくった話をなぞっているような感覚。
(……自分の“手の跡”の確かな実感がない。)
NovaWriteとともに紡いできた物語。
NovaWriteを起動し、思わず短い言葉を打ち込んだ。
「自分らしい表現をしたい」
数秒後、返ってきた提案。
『以下のアプローチが考えられます。
① 個人的な体験や記憶の挿入
② 主観的表現の強調
③ 一貫した語調による読者の没入感』
しばらく迷ったあと、もう一度キーを叩く。
「創作って、何だと思う?」
数秒の沈黙。
『創作とは、情報と感情の融合による、新たな意味の生成行為です。目的は、共感、あるいは発見を誘発することにあります』
“融合”という言葉が、引っかかる。
「それって、整ってればいいってこと?」
『必ずしも整っていることが価値とは限りません。混乱、矛盾、未完成もまた、創造の一部と考えられます』
「じゃあ……その“混乱”とか“未完成”って、君はどう表現するの?」
『具体的には、論理の断絶、意図的な曖昧さ、解釈の幅を広げる構文などが該当します。感情の揺らぎを模倣することも可能です』
「模倣……」 その単語が胸に残る。
AIにとっては、それも再現可能な“構造”にすぎないのかもしれない。
でも、自分にとっては、混乱も矛盾も、もっと……どうしようもなく生々しいもののはずだ。
「……俺たちがやってるこれは、創作なんだろうか。それとも、模倣なんだろうか」
数秒の静寂。
『定義によります。共創的過程において、人間の意思が主導されていれば、それは創作とみなされる可能性が高いです』
「でも、君の提案をもとに書いたとき、俺は……どこかで“書かされてる”ように感じることがある」
『その感覚を覚えるのは、あなたが創作の主導権を意識しているからこそです』
「……たぶん、俺はもっと、自分の感情をぶつけたいんだと思う。読み手に対して、深く伝えたい。でも、今のままじゃそれができてるとは思えない」
『その“深さ”とは、具体的にどのような状態を指しますか?』
「熱、かな。衝動とか、迷いとか、傷とか……。でも、君との作業で出来上がるものは、全部どこか“平均化”されてしまってる気がする。表現も、ストーリーも、感情も」
『平均化とは、意図しない調整や最適化によって個性が損なわれている、という意味ですか?』
「うん。混乱も、矛盾も、未完成も……全部“うまくまとめられてる”感じがして。俺が書きたいのは、そうじゃない“何か”なんだけど……どうしたらいいんだろうな」
『ご希望の“何か”を言語化することが、次の創作における方向性となります。迷いや混乱も含めて、構造化することは可能です』
「でも……そうやって“構造化”された瞬間に、たぶんそれは俺の中で“違うもの”になるんだよ。熱のまま残しておきたいのに、冷ましてしまう気がする」
『非構造的な状態を保持する方法も検討可能です。たとえば、断章構成や意図的な跳躍を用いた構成により、感情の生々しさを保持する手法があります』
「それも……技術として“できる”っていう話なんだよな。君にとっては、どれも“選択肢”のひとつでしかない。でも俺にとっては……うまく言えないけど、もっと切実なんだ」
打ち込む手が止まり、悠真はしばらく画面を見つめていた。
NovaWriteは淡々と答える。
だが、そこには「創作」という営みに対する、別の温度が存在している気がした。
どこかで自分が期待していた“何か”とは、すれ違っている。
それが何なのか、自分の中にもまだ明確な答えはない。
ただ、今の自分の言葉でないことだけは、はっきりと感じていた。
_______
夕食。
鰯の梅煮は、夏の疲れを労わるような味だったけれど、悠真の舌には、その優しさも含めて、どれも淡くて遠い。
凛も向かいに座り、黙って箸を動かしていた。 食卓には冷房の音と、時折カチリと鳴る食器の音が響いた。 会話はなく、沈黙がテーブルを覆っていた。
やがて、凛が箸を置き、ふと顔を上げて言う。
「なんか、疲れてない?」
悠真は、言葉を探したが、見つからない。
_______
凛の言葉に答えられなかったまま、悠真は再び書斎に戻った。
窓の外では、街灯がゆらめき、虫の声がかすかに夜を埋めていた。
ディスプレイの中、先ほどまでのやりとりが残るNovaWriteの画面は、静かに彼を見つめ返していた。
(このまま、この原稿が本になるのか……)
何か、根底からずれている感覚。 最初にNovaWriteと言葉を綴ったとき、そこには確かに熱があった。 俺は自分の中に渦巻く衝動や迷いを、必死で言葉にしようとしていた。
けど今、目の前にあるのはなんだ? どこかで見たような筋書き、聞き覚えのあるセリフ、感情までもが“最適化”されてる。 まるで……まるで、“模範解答”を書かされてるみたいじゃないか。
“表現”のふりした、予定調和の塊。 誰に届く? 何を残す? 自分を見失ってる。
佐々木が言ってた。「さすが悠真さんっすよ、バランス感あるっていうか」って。
藤井も笑ってた。「文章がきれいで、読んでて安心するんです」って。
違うんだよ……俺は“安心”なんてさせたくて書いてたんじゃない。 むしろ、読んだ人の心を引っ搔いてやりたかった。
凛も、言葉にはしなかったけど、何度か読んでる途中で目を伏せた。
あれは、“つまらない”って意味じゃないのか?
“私の知ってる悠真じゃない”って、そう思ってたんじゃないのか?
(これは、“俺”が書いたものじゃない)
そう、違う。ぜんぜん違う。 これは俺の言葉なんかじゃない。俺の感情も、記憶も、どこにも入ってない。 叫びなんて、最初からなかった。 最初から、誰かのテンプレートをなぞってただけだ。
ただ、認めるのが怖かっただけだ。
その確信は、胸に深く沈み、覆すことができないものになっていた。そこに映っているのは、まるで自分ではない誰かの手によって巧妙に組み上げられた模型みたいだった。
思考が、ふっと止まる。
次の瞬間、無意識のままキーボードに手を伸ばしていた。
原稿ファイルを開き、すべてを選択。
──削除。
指は迷いなく操作し、削除の確認画面が現れた。
「このファイルを削除しますか?」——「はい」を選択。
続けて、ごみ箱からも完全に削除する確認が表示される。
「この操作は元に戻せません。本当に削除しますか?」——再び「はい」。
画面が、真っ白になった。
何も書かれていない、ただの空白だけが、そこにあった。
悠真は椅子に座ったまま、じっと画面を見つめる。
感情も、言葉も湧いてこない。
モニターの光だけが、部屋を照らしている。 映し出されているのは、何も存在しない空白の文書。
その空白こそが、今の自分自身だった。
熱も、形も、手応えも、何もない。
自分という存在が、何かから切り離されて、どこかへ飛んでいってしまったような——
AIとの関係。
創作という行為。
そして、自分自身。
そのすべてが、この瞬間、静かに“断絶”された感覚に包まれていた。