創作の熱
週末の朝。湯気の立つマグカップと焼きたてのパンの香りが漂う。
カーテン越しに柔らかな日差しが差し込み、ソファに並んで座るふたりの間に、静かな時間が流れている。
タブレットも手放して、ただコーヒーを飲みながら、窓の外の光に目を細める。
「今日、どこか行く?」
「うん、天気いいし……久しぶりに旧居留地でも歩こうか」
凛がそう言って、弾むように立ち上がる。
春の神戸・旧居留地。
空はどこまでも澄んでいて、街路樹の若葉が光を透かして揺れている。通り沿いのプランターにはチューリップやビオラが咲いていて、足元に柔らかな色彩を添えていた。すれ違う人々の装いも軽やかで、薄手のシャツやスカーフが春の風にふわりと揺れる。
石畳の歩道にはカフェのテラス席が並び、犬を連れて散歩する人や、ベビーカーを押す若い夫婦、観光マップを手にした外国人旅行者の姿が混ざり合っている。
通りの角ではジャズの路上ライブが始まっていて、ふと足を止める人々の表情が柔らかく見えた。
通りすがりの外国人観光客に英語で道を尋ねられた凛は、「南京町? まっすぐ行って左ですよ」と笑顔で答える。
「やさしいね」と悠真が言うと、「たまにはね」と凛は肩をすくめた。
その後もふたりは、南京町を横目に元町方面へとぶらぶらと歩き、ヴィンテージ雑貨店をのぞいたり、古い喫茶店のウィンドウ越しにケーキを眺めたりしながら、街の空気に身を委ねていた。
途中、小さな公園でベンチに座り、テイクアウトのコーヒーを分け合って飲む。頭上ではヒヨドリが枝を跳ね、どこからか桜の花びらがひとひら、風に乗って舞い降りてくる。春特有の空気のやわらかさが、皮膚をやさしく撫でていく。
子どもたちの笑い声、遠くで響く踏切の音、ゆっくりと流れる午後の時間。
「いいなぁ、この通り。やっぱり落ち着く」
凛がそう呟く横で、悠真も深く頷いた。
「何も予定のない散歩って、なんか贅沢だよな」
元町方面へと歩いていくと、海風がふっと香る。雑踏の中にも、どこか生活のリズムが息づいている。
やがて、広場の一角で古本市が開かれているのを見つけた。
青空の下、小さなテントがいくつも並び、木箱や折りたたみ棚に並べられた本たちが、風にページを揺らしている。
「ねぇ、ちょっと寄ってみようよ」
凛が笑顔で手を引く。
人混みの中、ふと立ち止まった彼女が一冊の本を手に取る。
「これ、悠真くん、好きそう」
渡されたのは、無名の作家による短編集だった。
古びたカバーと、手書きの値札。「200円」と書かれている。
何気なくページをめくったその瞬間、ある一編の冒頭が目に飛び込んできた。
「たとえばこの世界に、まだ見ぬ読者がひとりだけいるとしても——それだけで、書く理由にはなる気がした。」
その一文に、何かが静かに触れた気がした。
しばらくその場に立ち尽くしたまま、数ページを繰っては立ち止まり、また読み進める。
テントの陰が少しずつ伸びていくのを横目に、彼は夢中でページをめくった。
気がつけば、凛は少し離れた場所で他の本を眺めながら、悠真の様子を時折ちらりと見ていた。
「この作者、誰にも知られないかもしれないのに、なんでこんなに真剣に書いたんだろうな」
ぽつりと呟いたその言葉に、凛がそっと答える。
「きっと、自分の物語を誰かに届けたかったんじゃない?」
悠真は黙ったまま、春の空を見上げた。
「俺も……誰かに届けてみたいと思う」
凛が彼の手をそっと握る。
「その気持ち、大事にしてね」
その言葉に、胸がじんわりと熱くなった。
夕方、ふたりは昼間に通り過ぎた南京町へと、再び足を向けた。
春の空はまだ青みを残していて、日が傾くにつれて建物の陰がゆっくりと長くなっていた。石畳の路地には微かに金木犀のような甘い香りが残っていて、昼間よりも落ち着いた雰囲気が漂っている。
朱色の門をくぐると、甘辛い香辛料の匂いと、賑やかな人の声が迎えてくれる。
あちこちで中国語が飛び交い、店先の客引きも陽気に声を張り上げていた。異国の熱気に包まれた路地は、どこか旅先のようでもある。
春祭りのようなにぎわいの中、屋台には小籠包、胡麻団子、ルーローハンなどの香りが漂っていた。
中華料理の店に入り、円卓に二人並んで座ると、店員が片言の日本語で「アツイ、アツイ、キヲツケテネ」と言いながら、円い蒸籠を笑顔で差し出してきた。中から立ち上る湯気が鼻をくすぐり、ふたりは自然と顔を見合わせて笑う。
「ちゃんと“アツイ”って言ってくれてたね」
「うん……あ、これ美味い」
「あたりでしょ。ここ、前から来たかったの」
食事をしながら、ふたりの会話はとりとめもなく続いた。
凛は最近ハマっている詩人の話をした。ミニマルな言葉の中に感情を込める詩の技法や、日常の中に見つける情景の美しさについて熱心に語る彼女を見て、悠真はどこか安心した気持ちになる。
そして、自分もひとつ話してみようと思った。
「俺さ、中学のときに初めて小説書いたんだ。短編だったけど」
「えっ、そうなの? どんな話?」
「未来の図書館の話。ある日そこに“誰にも読まれなかった本たち”だけが集まる部屋ができて、そこに迷い込んだ少年が、自分のことを書いた本を見つけてしまう……っていう内容だった」
「すごい。中学生でその設定、なかなか書けないよ」
「書いた当時は楽しくて夢中だった。でも、誰かに見せるのが恥ずかしくて、結局印刷もせずにパソコンの中に放り込んだまま。パソコンが壊れたとき、一緒に消えた」
「……もったいない」
「でも、あの時書いたこと、今もなぜか覚えてる。不思議だよな」
凛は小さく微笑んで言った。
「忘れられない物語って、書いた人にとってはもう“生きてる”んだよ」
外が少し暗くなってきた頃、温かいお茶を飲みながら悠真は静かに言った。
「なんか、今日って……すごくいい日だった」
凛はにこっと笑って、うなずいた。
帰宅後。
玄関を入るなり、悠真はまっすぐに書斎の椅子に腰を下ろすと、PCを起動した。
NovaWriteの画面が開かれる前から、彼の頭の中には、書きたい物語の輪郭が浮かんでいた。
「これは、俺が“書きたい”と思った物語だ」
確信があった。AIが何かを返す前に、自分の言葉が先に動く。
書き始めたのは、誰にも見せずに物語を書き続ける男の話。
『言葉にできない思いを抱えながらも、誰にも見せずに机に向かう夜。
書く理由も、意味も、読者の存在さえも分からないまま、
それでも一行ずつ積み上げていく。
それはもしかしたら、自分自身を確かめるための、灯をともす行為なのかもしれない——。』
一区切り書き終えたところで、悠真は小さく息をついた。
投稿ボタンの前で、指が止まる。
本当に誰かに見せていいのか、笑われないか、独りよがりじゃないか——そんな思いが頭の中でぐるぐると回る。
でも、胸の奥で何かが言っていた。
「書いたのなら、届けてみよう」
そっと息を吐いて、指先をタップする。
ネットの小説投稿サイトに、物語が公開された。
投稿完了のボタンを押したあと、心臓が少しだけ早く鼓動した。
数時間後。
「この物語、すごくまっすぐで胸に残りました。続きを読みたいです」
──最初のコメントがつく。
その言葉に、背筋が小さく震えた。
静かに始まった創作の熱は、もう引き返せない場所にまで来ていた。