書くということ
淡い陽射しがビルのガラスに反射して、オフィスの床にやわらかな光の模様を描いている。
その朝の会議で、部長の川村が前に出ると、スライドを切り替えながらやや早口に話し始めた。
「では、本日よりAIライティングツール『NovaWrite』の社内運用を開始します。これまでの準備期間を経て、いよいよ本格導入です。皆さん、対応よろしくお願いします」
手元の資料を軽く叩きながら、要点をテンポよく押さえていく姿には、彼なりの信頼感とせっかちな一面が滲んでいる。
「マニュアルとガイドラインはイントラに掲載済み。目を通した上で、質問は各自リーダー経由で。運用リーダーは秦。細かい点は彼からの連絡を待ってください」
言い終えるとすぐに次のページを表示し、スケジュール案と担当振り分けの概要を示す。
その場で運用リーダーとして秦が任命され、今後の実務面での主導役を担うことになった。
会議が終わり、皆がそれぞれのデスクに戻っていく中、秦は無言のまま一度だけ資料を見直し、ゆっくりと席を立つ。
すれ違いざま、遠藤が少しだけ声を落として言う。
「頼りにしてるよ、秦くん」
「……了解です。うまく流れを作ります」
そのやり取りは短く、どこか習慣のように交わされる言葉だ。
熱はもう以前ほどではない。けれど、任されたことはきっちりやる。そういう姿勢だけは変わらなかった。
遠藤との間には、互いにそういうところを分かり合っている空気があった。
藤井が資料を抱えたまま軽く足を止める。
「秦さん、……時間あるとき、少し教えてもらってもいいですか?」
「このあと10分くらいなら空いてるよ」
「助かります。あとで伺いますね」
藤井とのやり取りには、自然な軽さがある。
頼られることも、答えることも、肩の力が抜けていてちょうどいい。
佐々木とは、仕事の合間にくだらないことで軽口を交わすくらいには気さくな関係だ。
冗談を受け流すこともあれば、たまに思わぬところで真面目な意見が噛み合う。
業務のやりとりに余計な説明は必要なかった。
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モニター越しに表示されたNovaWriteの画面は、シンプルな白背景に青いアクセントが効いた、どこか無機質で静かな印象を与えるインターフェースだ。
「奏さん、これ、すっごいですよ。言ったこと、ほぼ全部、文章にしてくれるんです」
隣の席で、部下の藤井美咲が嬉々として話しかけてくる。
彼女のモニターには、すでに数パターンの文章が並んでいた。
「そんなにすごいか?」
「はい。例えば、“朝の風景”って入力しただけで、情景描写がズラッと出てくるんです。あと、文体も選べて、エッセイ風とか小説風とか…これ、正直、遊べますよ」
「遊ぶなよ」
思わず小さく笑いながら返すと、美咲は照れくさそうに頬を赤らめた。
「……はい。でも、こんなに楽しいって思わなかったです。AIって、もっと機械っぽいのかと……」
その言葉に、悠真は少しだけ引っかかった。
“楽しい”という言葉が、どこか遠くの記憶を刺激した。
デスクに戻り、彼もNovaWriteを立ち上げてみる。
静かな起動画面が現れ、中央に一行だけ「プロンプトを入力してください」と書かれている。まるで、こちらが“語りかける”のを待っているようだった。
ふと、隣から佐々木が覗き込んでくる。
「悠馬さん、小説とか書いてみません? “奏 悠真デビュー作”、どうっすか」
「何を言ってんだ」
「いや、冗談ですよ。でも、意外とやってみたらハマったりして」
確かに、やってみても損はない。そう思ったのは、AIに対する興味というよりも、自分の中の“空白”に何かを埋めたかったからかもしれない。
キーボードを打つ。
「ある春の朝、一人の男が目を覚ます」
数秒後、画面に文字が流れるように現れた。
「その男は、窓の向こうの空を見つめながら、自分が夢を見ていたことに気づく。だが、それがどんな夢だったかは、もう思い出せなかった——。」
思っていたよりも、ずっと自然で、情感のある文章だった。
どこか既視感があるようで、けれど、自分では絶対に選ばなかった表現の数々。
(……意外と、悪くない)
すぐには閉じず、しばらく画面を眺め続けた。
文章に惹かれたというよりも、自分の中の何かが“反応した”ような感覚だった。
-佐々木晴翔 -
「お、悠真さん、意外とハマってるやん」
悠真の斜め向かいの席から見える、その背中。
軽く前傾し、目線は一点に注がれ、右手の動きがとても静かで丁寧だ。
あれは、何かに集中してるときの動きだ。
多くは語らない人だけど、たまに見せるこの“静かな熱”みたいなもの、俺はちょっと好きだ。
冗談半分で「小説書いてみたらどうです?」って言ったのも、全くの思いつきじゃない。
なんとなく、あの人はずっと「何かを話したい」人なんじゃないかって思ってたから。
(もしかして、今、始まってるのかもな)
そう思うと、自分も何か始めたくなった。
俺は、まだ見つけられてないけど。
- 藤井美咲 -
(奏さん、今日はちょっとだけ雰囲気が違う……?)
仕事中にふと視線を横にずらすと、いつもより少しだけ柔らかい表情をしてる。
普段は真面目で、あまり表情を出さない人。でも、今日はなんとなく目が穏やか。
もしかして、AIツール気に入ったのかな?
さっき私が話しかけたとき、ちょっとだけ嬉しそうに見えた気もする。
(……ううん、気のせいかな)
でも、ああいう人が何かに夢中になる姿、ちょっとかっこいいなって思った。
- 遠藤慎吾 -
執務室の隅、給湯室から戻ってくる途中、遠藤はふと周囲を見渡す。
藤井がAIと向き合い、佐々木が冗談を言い、秦は黙々と整備を続けている。
——奏
遠藤はその表情を、見たことがあるような気がした。
学生時代、夏休みの自由研究でラジオを組み立てたときのこと。何度も配線をやり直し、ようやくスピーカーから微かな音が流れた瞬間のあの感覚。
誰にも聞かれないように、小さく息を吐く。
それが、少しだけ笑みにも似ていた。
その晩、帰宅した悠真は、夕食後のコーヒーを飲みながら、NovaWriteを立ち上げた。
リビングのソファでは、凛がタブレットを開いて静かに作業している。
照明は少し落とし気味で、部屋全体がゆったりとした時間に包まれている。
今度は少し長めのプロンプトを入れてみる。
「海辺の町に暮らす少女が、ある日、ひとつの手紙を拾う。」
文章が生まれていくのを見ていると、まるで、自分の代わりに誰かが“語り始めた”ような錯覚に陥る。
だがその一節一節に、今まで思い出せなかった“書くことの面白さ”が重なっていく。
(こんな感覚……いつ以来だろう)
学生時代、通学途中の本屋で、ふと手にした短編集。
電車の中で何度もページを繰り返し、線を引き、覚えたまま誰にも話さなかった言葉たち。
あのときの熱を、今また、微かに感じた気がした。
(AIと一緒に小説を書いたら、どうなるんだろう)
ふと、そんな考えがよぎる。
それは期待でもあり、少しだけ怖さもある。
でも、長らく忘れていた“新しいことを始めたい”という気持ちが、確かにそこにあった。
ベッドに横たわった悠真は、今日一日を振り返っていた。
画面の中で“誰か”が語る物語に、自分が少しずつ近づいているような気がする。
まだ言葉にならない。けれど、確かに何かが始まった気がしていた。
- 凛 -
作業をしているふりをしながら、私は時々、彼の横顔を盗み見ていた。
PCに向かう彼の姿は、少しだけ柔らかい。朝とは違う。昼とも違う。
“何かに集中しているときの顔”だって、すぐに分かる。
こんなふうに夢中になってる彼を見るのは、いつ以来だろう。
最近、彼との距離が、少しだけ遠く感じていた。言葉も、表情も、届かない場所にいるようで。
でも今夜、こうして何かに夢中になっている姿を見て、少しだけ安心した。
(ねえ、その気持ち、ずっと大事にしてほしい)
声には出さず、私はそっと笑った。