閉じられた日常
まだ肌寒さの残る神戸の空気に、かすかな潮の匂いが混じっていた。
マンションの窓から差し込む光が、キッチンのカップボードに反射して、室内に淡く広がる。都市の喧騒から少しだけ離れたこの場所は、休日の朝のような静けさをまとっている。
奏悠真は、タブレットのニュース画面を開いたまま、湯気の立つコーヒーを前に椅子に身を預けている。視線はほとんど動かず、意識はどこか曖昧で形のない場所をさまよっているようだった。
テーブルの上には、焼いたパンの香ばしい匂いと、スープの優しい香りが広がっていた。
凛が小さな音を立ててマグカップをテーブルに置く。
「最近、何か考えてることある?」
向かいの席で、凛がふと問いかけた。
彼女(高橋凛)は、フリーの編集者として働いている。
朝の静かな時間を大切にし、コーヒーを飲みながらタブレット端末でニュースを眺めるのが、一日の始まり。
柔らかな物腰の奥に芯の強さを持ち、何気ない言葉のやりとりに、時折するどい視点がのぞく。
カーディガンの袖をたくし上げながら、彼女は軽く笑っている。
その声には、期待よりも確認の響きがある。
悠真は、一拍置いて「別に」と答える。
カップの縁に目を落としながら、言葉の余韻を濁すようにもう一口、コーヒーを口に含む。
香ばしさはあるが、味はもう感じていなかった。
凛の目が一瞬だけ揺れる。
それは微かな落胆か、それとも想定通りのリアクションか。
けれど彼女は何も言わず、またタブレットの画面に視線を戻す。
小さな匙がカップの中でひとつ、静かに音を立てた。
- 悠真 -
(ちゃんと答えればよかったかもしれない)
返事をしてから、すぐにそう思った。
けれど、何を答えればいいのかも分からない。
何を考えているのか。何を考えていないのか。
その境界すら、自分では分からなかった。
春の陽射しは柔らかく、生活は平穏だった。
仕事は安定し、彼女もそばにいる。
それなのに、胸の奥には空洞のようなものがある。
“このままでいいのか?”
時折浮かんでは消える問い。
けれど、行動には結びつかない。
ただ、水面の波紋のように、意識の内側で淡く揺れるだけだった。
- 凛 -
(また“別に”だ)
そう思いながらも、責める気にはなれなかった。
彼がどこかに閉じこもっていることには、もう気づいている。
けれど、その扉を無理に開けたくはない。
最近の彼は、仕事の話もしない。
会社のこと、同僚のこと、どこか遠巻きに受け止めているように見える。
彼の沈黙には理由がある。
それが“分からない”からではなく、“言葉にしたくない”からだということ。
だからこそ、無理に引き出すのは違うと思っていた。
(でも、なにか、きっかけがあれば……)
彼の目がどこかを見ているとき、何かを探しているように思える。
その“何か”が見つかったとき、彼は変わるかもしれない。
そう信じたい気持ちが、彼女の胸の中にはあった。
言葉が少なくても、空気は確かに存在している。
温度のある沈黙。
都市の朝が動き始める気配を背に、二人はそれぞれの画面を見つめている。
表情に出ない言葉たちが、部屋の中でそっと揺れていた。
電車のドアが開くと同時に、少し湿った風がホームに流れ込んできた。悠真は無言で乗り込み、吊り革に手をかける。車内はいつも通りの混雑。けれど、スマートフォンに視線を落とす乗客たちの沈黙には、どこか同じリズムが流れている。
ガタン、と線路の継ぎ目を越える音。電車が加速する。
窓の外には、春の朝を受けて柔らかく光るビルのガラス面。その反射に、ぼんやりと自分の顔が映る。
(……俺の顔って、こんなんだったか)
思わずそう呟きかけて、口を閉じる。
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大阪・梅田。
「おはようございます、悠馬さん!」
陽気な声がフロアに響く。
佐々木晴翔が、紙コップのコーヒーを片手に近づいてくる。
「今日こそ例の案件、まとめられそうっすよね」
「……ああ。そうだな」
短く返しながらも、思考は別の場所に置き忘れたまま。
「反応うすっ!!」
佐々木は肩をすくめて笑うが、気にする様子もなくデスクに戻っていった。
悠真も自席に着き、PCのスリープを解除する。青白い光が画面に広がり、今日のタスク一覧が静かに表示される。
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午前十時。
会議室A。透明なガラスの壁越しに、フロアのざわめきが遠くに聞こえる。
ホワイトボードにはAIツールの導入提案書が貼られている。
「業務効率の観点から、ライティング部門にはAI支援システムを段階的に導入する予定です」
説明するのは遠藤慎吾。無駄のない話し方、無表情な語調。彼の言葉は、冷たい正論で組み上げられている。
「人的リソースの圧縮も見込める上、AIの提案内容は既存の品質を凌駕しています。これが実現すれば、今までの作業プロセスを見直す大きな転機になります」
彼の視線は遠藤から外れ、会議室のガラス越しに見える、ぼんやりとした外の光景に向かっていた。
その向こうに広がる景色は、どこか現実味を失って見える。街も会社も、今や「AIを使っているかどうか」が評価の基準になっているような時代。
メディアは連日、“AI活用で未来を変える”と謳い、SNSでは「このAIがすごい」とアルゴリズムが踊る。誰もが何かに感動し、何かに焦り、何かに乗り遅れまいと必死になっている。
(何かに使われているのか、使っているのか……)
口には出さないが、そう思う。便利だ、効率的だ、新しい。けれど、どこかみんな「浮かされている」ように見えた。まるで、何かを信じてしまいたいがために、判断を預けてしまっているような空気。
悠真はその空気に、静かに距離を置いていた。
それは冷めているというより、どこか“醒めて”いるという感覚に近かった。
「奏」
会議後、部長の川村が近づいてくる。
「『NovaWrite』のテスト導入、来週から本格的に始まる。ユーザー側で実地検証とレポート、任せられるか?」
「……はい。分かりました」
反射的に答える。
関心があるわけではない。けれど、流れに抗うほどの強い意志もない。
ただ、言われたことをこなしていく日々だ。
背筋を伸ばして歩き去る川村の背中を見送りながら、悠真は、自席へと戻っていった。
PCの画面には「NovaWrite試験環境」のログインリンク。
光るその青いボタンを、彼はまだクリックしなかった。
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午後七時。神戸の街。
JR神戸線の快速列車が、西に滑るように進んでいる。
窓の外には、ゆるやかに暮れていく春の空が広がり、海沿いの街並みにはオレンジ色の街灯がぽつぽつと灯りはじめていた。
電車が都市の喧騒を離れ、沿線に海の気配が近づいてくると、車窓には夕映えの水面がゆらぎ、低く重なる雲の隙間から赤みがにじんでいた。
春の空気を含んだ風が、海と街の境界をやさしく曖昧にしていく。
遠くハーバーランドの観覧車が、ゆっくりと回っているのが見える。赤や緑のネオンが点灯し始めたばかりの街は、昼の喧騒を脱ぎ捨てて、夜の装いに切り替わろうとしていた。
車内の明かりにうっすらと映る自分の顔。
その向こう側の景色に、悠真はなぜか懐かしさにも似た感情を覚えていた。
「おかえり」
凛が振り返った。髪をひとつにまとめ、エプロン姿でまな板の上の野菜に包丁を入れている。
「ただいま」
悠真は靴を脱ぎながら、何か言い足したくなる気配を感じた。
けれど、それは形になる前に息とともに消えてしまう。
テーブルには二人分の食器と、温かい味噌汁の湯気。魚の照り焼き、白いご飯、冷奴に青ねぎが乗っている。
「……いい匂い」
そう呟くと、凛が少しだけ目を細めて笑う。
食事中、大きな会話はない。
けれど、それが気まずい沈黙ではないことは、互いに分かっていた。
「今日、会社で何かあった?」
凛がふいに聞いた。箸を置き、手元のコップに口をつけながら。
悠真は、一瞬迷ってから言う。
「……AIのライティングツールを試験的に使うことになってて、その評価をやることになった」
「へぇ……なんて名前のツールなの?」
「NovaWrite」
「あー、それか。最近、うちの編集部でも噂になってる。便利らしいよね」
「うん。たぶん便利なんだと思う」
そう言ってから、自分でも曖昧な返事だと気づく。だが、それ以上言葉は続かない。
凛はそれ以上は聞かなかった。けれど、その目は彼の言葉の“足りなさ”をちゃんと感じ取っていた。