海賊と水平線
『春、ジャカランダの花を見ていた』
・1
甲板に立ち、夜風を浴びながら月を見上げる。海上に浮かぶ月は新月を近くしてミシン針のように細くなっているのにも関わらず、静けさの中で鋭いほどに眩しく輝いていた。
夜間航行のための数人だけを残しほとんどの船員が寝静まっている夜の船はとても静かで、船首が波を切り裂く音がだけがずっと聞こえていた。切り裂かれ、しぶきとなった波が巻き上げられて船体を登ってくる。デッキに飛び散ってすぐに航行の風に吹かれて乾くと、それはただの白いしみへと変わってしまう。もともとは海だったそのシミが月明かりに照らされぼんやりと青白く光る。それは洞窟の中で鈍く光る苔のようでも波間に揺られて光るウミホタルのようでもあった。
海に出てからというもの、私はよく昔の夢を見るようになった。
その夜もそうだった。静かな夜の夢に映る駆け抜けた日々の栄華と、今はもうそばにはいない仲間たちの姿。目を覚ましても消えないその懐かしさがたまらなく遠くにあるような気がして、私は夜中にベッドを抜け出し、月明かりの甲板を歩いていた。
叶えた夢の中で生きている今にも、幸せだった過去にも、自分がこれまでにしてきた選択にも後悔はないが、一つだけ守ることのできなかった約束があった。
その約束を守るために私がすべきことは何だったのか、それをいつまでも考え続けている。
私にとってそれは何よりも大切な約束だった。
その約束をした友人はもうそんなこと覚えてはいないのかもしれないが、私にとってはたった一度きりの恩返しの機会だったのだ「私が迎えに行く前に君はどこかへと消えてしまった」。
私は過去に一度死んだことがある。それを信じてくれる人間がどれだけいるのかはわからないが、事実、私の人生は一度終わりを迎えている。死の淵へと立った私を連れ戻しに来てくれた友人がいたのだ。その時に私は彼女とたった一度の約束をした。
その約束を果たすことこそが他の形であらわすことのできない感謝を示すことができる唯一の方法であったはずなのに……私は彼女にその恩を返すための機会を永遠に失ってしまった。
・2
目を開いた瞬間、視界に飛び込んできたのはどこまでも続く満開のジャカランダの並木道だった。
優しく暖かな日の光と春のにおいのする風を浴びて、薄紫で埋め尽くされたその世界の中に、私は一人きりで立って居た。
意識はハッキリとしていたが、心の中は奇妙なほどに静かで穏やかで、突然全く知らない場所に自分がいるという混乱も、得体の知れない状況に置かれていることに対する恐怖も持たず。その中に在るのは、自分が誰かに祝福をされているという感覚と、目の前に広がる澄み渡る青空のような、曇りのない清々しさだけだった。
一直線に伸びる淡い紫色の群生は、最後に歩くのには悪くない場所だ、のんびりとここを歩いてそれで終わりでいいと「私は頑張ったんだ。胸を張ることを恥じる必要などどこにもない」と、そう信じさせてくれるほどに美しかった。
「ああ、そうか私はもうどこにも居られないのか」
ぼんやりとその景色を眺める中で、その答えが自然と頭の中に浮かんでくる。
悔いなど何もなかった。後ろ髪を引いてくる何者も、今生に留まってまで成就したい想いも、私にはなかった。
通り過ぎた風を追いかけるように、立ち並ぶ高木の万朶が順に揺れる。穏やかにたつ波のように心地の良い音がして、また春に立ち上る新緑のにおいがした。
枝を離れたその紫色の花が降り始めの時雨のようにぽつりぽつりと地面に落ちてゆく。
その中へ、私がなんの逡巡もなく踏み出そうとしたその時
「ひさしぶり」と、背後から突然声が聞こえた。
一人きりだと決めつけていた所へ聞こえたその声に驚きながら目をやると、そこに彼女が立っていた。悲しそうな顔をして、今にも消えてしまいそうな頼りなさで、私を見つめる友人の姿に「どうしたんだ? そんな悲しそうな顔をして」何を言うよりも先に、そう尋ねずにはいられなかった。
「やっと貴方のこと見つけられたから。歩きながら、もう会えないのかもしれないって、ずっとそんなこと考えていて、不安で仕方なかったから、見つけた安心感とここまでの疲れとか、不安とかそんなものが一気に出て、ぐちゃぐちゃなんだ」
答えた彼女のそんな表情を見るのは初めてで、いつも真直ぐにこちらを見つめてくるその瞳さえも、地面を跳ねる雀が飛び立つ前に一瞬だけ空を見上げるように、まるで何かを恐れているかのように、小さく震えていた。
「そうか、でも、折角こうして最後に会えたのにそんな顔されちゃ行くに行けなくなるじゃないか」
「ここがとても遠かったんだよ。本当に、気の遠くなるような時間を歩いてきたんだ。ずっと貴方のこと探しながら、どうにもならない未来を思って歩いていたから、ずっとこんな顔をして歩いていていたから、もう自分が普段どんな顔していたのかもわからないんだ」
「そうは言っても、せっかくの門出なんだ。嘘でもいいから、最後にもう一度くらい笑ってみせてくれよ」
「無理だよ。本当にぐちゃぐちゃで、顔に力が入らない。それに、門出なんかじゃないよ。連れ戻しに来たんだ、貴方が旅に出て行ってしまう前に」
彼女の栗色の髪の向こうで藤によく似た淡い紫色の花が絶えず降っていた。落ちゆく花弁の雨の中にたたずむ彼女を見て、その光景を綺麗だと思ってしまった。
「そうか……」
続けるべき言葉を、言うべき言葉をさがそうとするのに『次にもし何か絵を描く機会があったなら、この花吹雪の中たたずむ彼女の絵を描こう』と、なぜだか呑気にそんなことを考えてしまう。
なぜ今そんなことを考えているのかと、我に返って言葉を探したが、自分が置かれている状況を正確に把握することも、彼女がどれだけつらい思いをして来たのか推し量ることもできず、告げるべき言葉もそれ感謝であるべきなのか謝罪であるべきなのか、何を言えばいいのか、言葉はいくつも思いつくのにそのどれもが正解ではない気がして、いくつもの考えと言葉がフラッシュのように頭の中を巡っていった。
「ヒガンバナだと思っていたよ。こういう場面で咲いているのは」浮かんだ考えをいくつも消した先でようやく口から出たのはそんな言葉だった。
「花はどこに行っても咲いているけれど、彼岸花とは限らないよ。そこに立つ人によって違うから……でも、私はこの花、好きだな」そう言った彼女の目は少し赤くなっていた。
「川岸に生える彼岸花っていうのも綺麗だろうけれどね、でも、そうだな、私もこっちのほうが好きだ」
放った言葉に、込めた思いはあまりにも多いのに、その思いの多さに対して聞こえた自分の声はあまりにも静かだった。
思いが全て正しい形で彼女に届くことはないだろうが、そのうちの一つでも酌んでくれればいい。と、相手に意味を委ねるしかない言葉しか出すことの出来なかった自分の拙さを恨めしく思い「つい、ここに来られてよかったって思ってしまったよ」空いた隙間を埋めるためにまた言葉を続けた。
「なんて名前の花だろうね? 見たことないや」
目の前に広がる空は高く、濃い色をしていた。山の頂から正面に望む青藍の空のようで、何かを憂いているようにどこか物悲しく見えるのに、それがかえって清らかと思えるような澄んだ空だった。
雲一つ浮かんでいない。どこまでも高く広い、その突き抜けるような空の青さと、並木の淡い紫色が平行になってどこまでも伸びている。
「ジャカランダだったと思う。昔、一度みたことがある」家族で旅行をしたいつかの春の日のことだ。どこかの海沿いの道を車で走っていた。生家があるのと同じ東海地方のどこかで、太平洋から吹き付ける海風が太陽の光をそのままのせたかのように暖かかった「こんなに長い並木ではなかったけれども、あの時に見たのと同じ花だ」どこかの町で、同じように春風に揺れるその紫色の花を家族で眺めたその景色を私は覚えていた。
「よく覚えているね、私は花の名前なんてよく見るやつしか知らないや」
彼女と2人きり、並び立って、どこともしらない空の下でその花を見ていた。
「自分でもなんで覚えているかわからない。幼いながらに心動かされたのかもな」
満開の藤紫の花はどこまで続いているのか、道をはさむようにずっと向うまで並木となっていて、その終わりは見えない。
「ここは貴方の母校なの?」と、彼女が尋ねた。
「ここは学校なのか?」自分が今どこに居るのか、私にはそれすらわからなかった。
だが、本当の意味では気にしてはいなかった。ここがどこであろうと私にとっては関係のないことに思えた。この場所が学校だろうと、どこかの山中だろうと、往来賑わう街路であろうと、寺社仏閣の庭園だろうと、彼女に呼び止められなければ私はきっと満足して最奥まで進んでいったのだろう。
視界の中に飛び込んできた藤紫色の道を見て、ただ胸を躍らせていた。虚しさはどこにもなかった。ただ自分を誇っていいのだとそんな考えが頭の中に浮かんでいて、幸福な心持のまま歩みだそうとしていた。
「ここへ来る前に門を通りすぎたのだけれど、なんとか高等学校って書いてあったから、きっとそうだと思うよ」
「そうなんだ。そのわりには建物がなにもないな」
「多分あれがそうじゃないかな? ほら、向こうに白い建物が見える」
「本当だ、なんか建っている」
学校の校舎なのだろう。白い鉄筋コンクリート造の大きな建物が並木を抜けた先に建っているのがすかにが見えた。
「でも貴方がこんなところにいるとは思わなかったな。海賊になりたいって言っていたから、てっきりどこかの海にいるのかと思っていた。その夢をかなえるためにどこかの海へ繰り出してしまったんじゃないかって、なぜか船も使わずに水の上を歩いて水平線の向こうへ消えていく貴方の姿を思い描いていた」
彼女がそう言うのを聞いて、私は甲信越の山奥にあるホテルで働いていた3年前に受け取ったエアメールのことを思いだした。
「私が海賊になるのはまだ先の話だよ」
当時の私は職場から車で30分ほどのところにある築30年の一軒家を月2万円で借りて生活をしていた。静かな場所だった。隣近所の建物はなく、一番近い民家へ行くのさえ車をとばして10分以上かかるような人里離れた場所で、夜に目を凝らすと暗闇の中を駆ける鹿の群れがいつだって見えた。
そんな静けさの中にあっても当時の私は仕事のせいで心身ともにすり減っていた。
一日十時間を超える労働を週に一度の休みがあればいいという状況が三年ほど続いており、出勤のため毎朝早くに起きるたび、布団の中で自分の置かれている状況と若い日の自身の怠惰を呪い続けた。
生きることにも疲れてきたある日の休日、家の掃除と食料品の買い出しを済ませ、数日ぶりに確認したポストの中で紙の束に埋もれるその手紙を見つけた。引き落とされた公共料金の領収書と、いつかの休日に行った際にポイントカードを作った八王子にある洋服店のクーポン券に挟まるそのエアメールは高校時代の学友からで、差出人住所はグリーンランドのヌークになっていた。
白い封筒を開いた中には5枚の便せんが入っていた。内容はただの近況報告で、北国での暮らしぶりと、直近の彼女の食べ物の好みについてと、懐かしい学生時代の思い出がつらつらと続き、その結びとして『日本に帰る時にはまた連絡をするから酒を一緒に飲みに行こう』と、几帳面な文字で書かれていた。
彼女からの手紙をみて、数年間あっていない彼女からなぜいきなりこんな内容の手紙が届いたのか、どうやって彼女が私の住んでいた家の住所を知ったのかと、そんなことを考えていた。そうして、しばらく考えたあとで手紙をたたみ、封筒に戻したところで、ようやく、もう二度と彼女に会うことはないのだろうなと、なんとなくではあるが、それを理解した。
グリーンランドの原野へと歩いていく彼女の姿が浮かんだ。私の住んでいる山中の土地と同じように静かで、常に寒々とした灰色の空のもとにあるその原野の中を身一つで歩く彼女の姿が脳裏に映る。昔と同じ飾り気のない紺色のコートを羽織り、白いニット帽をかぶっている。火のついたラークのメンソールを片手に、何も恐れることなく、ただ散歩でもしているかのようにひたすら北を目指して歩いていく。
頭の中に浮かんだその現在の彼女の姿はとても自然だった。彼女がこの先、二度と私に会いに来ることがないという事と、北へ向けて旅をする彼女がどこかに存在をしているというその空想は同じ枠の中に存在することに思えた。
その空想を抜け、反対に、私を訪ねた彼女が門の向こうに広がる森の中からやってくる姿を思ってみた。私の好きな銘柄の酒と、つまみになりそうな海外の土産物をいくつか持って、昔と変わらぬ笑顔でここにやってくる彼女の姿を思い描いてみる。だが、それはどうしたところで過去にしか存在しないものに思えた。記憶の中の20歳の彼女が微笑みながら私へと語りかけるその姿は鮮明に思い描こうとすればするほどに現実感が薄れてゆく。
私は穏やかな顔をしてどこかへと消えていく彼女のことを羨ましく思い、昔読んだ物語の中で自由に生きる海賊たちの姿を思い出した。
「今すぐ消えてしまうようなことはないさ」
「そうなの? 準備ができたらすぐにでも貴方は居なくなってしまうんだって思っていたよ」
「そんなことないよ。今が幸せなんだ。少なくとも何かの区切りが出るまではどこにもいなくなったりはしない。自分から進んで今を捨てるなんてことはしないよ」
「ついさっき消えていこうとしてたじゃん」
「ただ目の前にある道を進もうと思っただけだよ。消えようと思ってそうしたわけじゃない」
「その先にどうなるのか考えて怖くならなかったの?」
「何も考えてなかったな。ただ清らかな気持ちでいたよ。嬉しかった。自分は頑張ったんだなってそう思って、とてもいい気分で歩き出そうとしていた。自分がどこへ向かおうとしていたのかなんて微塵も考えてなかった」
「そっか、でも、貴方は満足していたんだね」
「どうかな? まだやれていないことばかりだとは思う。それこそまだ叶えられていない夢もあるし、さっきは後悔なんてないと思ったけど、改めてこうして考えるとやり残したことばかりだな」
「よかった、私のわがままでここまで来てしまったけれどさ、本当のところ貴方がどう思うのかわからなかったんだ。さっきも呼び止めてもいいものかどうかって悩んだ」
「嬉しかったよ。呼び止めてくれて、振り返った先に君がいてくれて、嬉しかった」
「そっか」
「私が海賊になりたいって言ったのはさ、自分の心に正直になって、精一杯にその時を生きて、最後には笑って死ねる。そんな生き方に憧れたからなんだ。
単に船旅に出るってだけなら、やろうと思えば、大人になったその時にできたはずなんだよ。きっとそれでも楽しかったと思うんだ。客船の乗務員として働くことも、海技士を目指すことも、きっとどれも楽しかったと思うんだ。
でも、そうはしなかった。
昔、ホテルの従業員として働いているときに手紙をもらったんだ。エアメールだった。グリーンランドのヌークから届いた高校時代の友達からの手紙。その手紙の中には一文字もそんなこと書かれちゃいなかったんだけれど。グリーンランドの原野へと消えていく彼女の姿が浮かんだんだ。夏でも平均気温が十度を超えないその土地のなか、高校時代からずっと着ている紺色のコートにニット帽姿でその中を歩いていく。そんな彼女を頭の中に思い描いてね。羨ましくなった。
その時に私は幼少のときに抱いたその夢を思い出したんだ。ずっと海賊になりたいと思っていた。その夢をもう一度追いかけようって思ったんだ」
高校時代の友人からの手紙を読んだその日、想像の中で北の大地を静かにゆく彼女の姿を見たその日に、私が遠い昔に捨てたはずの夢は蘇った。
物語に出てきた海賊たちのように最後に笑って逝きたいと考えていた。自分にはそれができると、今わの際に立ってなんとなくだが自信を持つことができた。まだ足りないのだとしても、もし自分の人生を夢と共に駆け抜けることができたのなら、自分の生き方を誇ることができるはずだと、私は間違ってはいないと、それを思うことができた。
「君の夢はなに?」
「私? 私の夢か、考えたこともなかったな、今まで自分が幸せになれるとも思っていなかったから、単にずっと今が続いてくれればいいなって、それだけを望んでいる。ずっとが無理だって言うのはわかっているから、それでもできる限り長く今が続いてくれればいいのにって、そんなことを思っている。
いつか貴方は夢を叶えるために船に乗って旅に出るんでしょう? それをとめることはしなけれど、せめてそれまで今の幸せが続いてくれればいいのになって、それを夢と呼んでいいものかわからないけれど、今の私はそれを願っているよ」
「私が旅に出られるようになるのはずっと先の話だよ。何年も時間をかけた先にようやく実現するものだ」
「でも、なんか悲しいな、いつか居なくなってしまうってわかっているのが」
「いなくなるわけじゃない。海賊になったとしても時々は帰って来るから、その時にまた会えるさ。旅に出たとしても、今生の別れってことにはならないよ。先の話だから、それまでには色々なことが変わっているだろうけれど、つながりがなくなるってことはないんじゃないかな。
その間、沢山のことを一緒にできるし、それだけの時間があったら、きっと君にも新しい夢が見つかるよ。
どこかにとどまるための夢じゃなくて、未来に向かっていくための夢。
同じように私も旅に出るその時には何か新しい夢を見つけているんだと思うよ。ただ海賊として生きたいっていうだけじゃなくて、また別の、未来へ向かうための夢」
「未来へ向かう夢か、なにか見つかるのかな?」
「もし、見つからなかったら私と一緒に旅をしないか? ここでこうして口に出して言う夢物語ほどに楽しいことばかりじゃないかもしれないけれど、退屈だけはさせないと思うよ?」
「もしなにも見つからなかったら頼もうかな。私のこと、ちゃんと忘れずにちゃんと迎えに来てね」
「もちろん。君がこうして私の事迎えに来てくれたように、その時には私が君のこと迎えに行くよ。そのとき、君に夢が見つかっていようといなかろうと、誘いに行くから、答えを準備してね」
「わかった。楽しみにしておくね。それにしてもここはいい天気だね」
「せっかくだし、もう少し休んでいく? のんびりするのには丁度いい場所だ」
駆け抜けていく風は私が生まれ育った太平洋沿岸の町に吹く春の暖かい風によく似ていた。東海の春。幼い私はよく海を見ていた。
「そうだね、ちょっとのんびりしてこうか」
「でも、不思議なのが、こんな景色見たことないのになんでか昔を思い出すんだよな、実家の、海の近くに空気が似ている」
「貴方の故郷は海に近いの?」
「近いよ、生家から自転車をこいで十五分くらい行くと、海に出る場所だった」
「いいな、どんなところ? 綺麗だった?」
「それなりにね。旅行代理店の広告に出てくるような南国のバカみたいに綺麗な海じゃないけれど、私はその海が好きだったよ。見ているだけで眠くなるような、沖から立つ波がゆっくりと浜辺に届く場所で、裁縫用のビーズ玉みたいにいつでも優しく、穏やかに光っていた。
思えば変な場所だったな。海岸線にはヤシの木みたいな南国風の植物が生えているのに、すぐわきにあるのはスギやケヤキで作られた昔ながらの木造住宅だったりブロック塀に囲まれた瓦屋根の一軒家だったりして、ちぐはぐだった。たまに帰郷をすると時間がとてもゆっくりと流れている気がしてくるんだ。のんびりした良いところだよ」
(女の子は見たこともない海を思い浮かべて、その海のことが好きになった。散歩をしながらぼんやりと眺めるのは気持ちがよさそうだと、一度も見たことのない海岸線を歩きたくなった。その海岸線で幼き日の友人が楽しそうにはしゃぐ、その風景を想った)。
「私はさ、みんなや貴方の昔のことを知っているわけではないけれどただ同じ目的があって出会っただけで、それ以前のことは何も知らないけどさ、やっぱり、皆、過去の積み重ねの上にいるんだろうなって、そうおもったよ」
「そりゃそうだろうよ。でも、私は今も昔もそんなに変わってないんだよな、もっと立派な人間になりたかったよ」
「私は変わらない貴方がいいと思うよ」
「そうかな」
「そうだよ。あ、サンドウィッチ食べる? 最後の一個なんだ」
「もらおうかな、なんだか急におなかすいてきたよ」。
それから十余年。
いよいよ旅に出ようというときになって私は約束通りに彼女を迎えに行こうとした。
ジャカランダの並木を見ながら二人でした約束を私はずっと覚えていたし、できることなら彼女と旅をしたいとその思いがあった。とはいえ彼女自身が何か目標を見つけて私の提案を拒んだとしてもそれはそれで構わないと思った。ただ旅に出る前に彼女に会いたかった。
会って旅へと誘って、その答えがどうであれ、一言「あのとき私を迎えにきてくれてありがとう」と礼を言えさえすればそれでよかった。それができるだけでいい旅立ちになると、それがわかっていたから。
けれども私には彼女を見つけることができなかった。連絡を取ろうとあらゆる手段講じても彼女から返事が返ってくることはなかった。共通の友人や昔のつながりをどれだけたどろうとも彼女へはたどり着くことができなかった。彼女はもうどこにもいなかった。
何も言わずに他人や昔の友人とのつながりが消えるのは慣れていたし、それを悔しいと思うこともなかったが、その時ばかりはすんなりと受け入れることができなかった。私を救ってくれた彼女に何も返すことができなかったという想いだけがずっとあった。
それは自分の不誠実だ。その機会はいくらでもあったはずなのに。いや、彼女には誠意をもって接してきたはずだが、返すことのできる恩ではなかったんだ。旅に誘うというその行為が自分にできるたった一度の恩返しの機会だとわかっていて、ずっと待って、準備をしてきたはずなのに、それが全くの空振りに終わってしまった。
彼女がどこに消えてしまったのか、当時の私にはもう見つけるすべはなかった。
「君は何か夢を見つけることができたのだろうか?」
・3
それからの私はいろいろな場所を旅した。世界中の海を船で巡って、数えきれないくらい多くの港へ停まった。開通したばかりのロシアから大陸を渡る鉄道でいけるそれよりも長い距離を私は船で駆け抜けていった。
夜、立ち寄った港町に程近い浜辺を私は歩いていた。
浮かぶ満月が靄のかかったように流れる雲の上にはっきりと虹色の光輪を映していて月明かりが暗闇の半分を攫ったかのように明るい夜だった。
砂浜に転がる流木のかけらを拾って手の中で遊ばせながら、波間で崩れた白い砂が銀色の月光を反射してぼんやりと光るその先の、名前のはっきりしない海を眺めていた。南緯60度、東経146度がどこなのか頭の中で線を引いて遊んでいると、その中にいつかの彼女の姿が浮かんだ。片足飛びで跳ねる彼女を見たのは何年前だったろうか? 何年の事かは忘れてしまったのに、日付だけははっきりと覚えている。
1月2日の昼すぎだった。仲間内で連れ立って行った初詣の帰り道。
そんな風に彼女の姿が瞼の裏に浮かんでしまうほど後悔するくらいなら、もっと早くに答えをもらっておくべきだったのに。
「ちゃんと忘れずに迎えに来てね」と私を助けてくれた時に彼女は言っていた。
「貴方の夢をいつだったか聞いたときに、羨ましくなったんだよね。私もごっこ遊びでもいいから海賊の格好をして、鼻歌交じりに舵を切ってまだ見たことのない世界を旅してみたい」といつか酒に酔った君は楽しそうに海賊の話をしてくれた。
なぜか『また彼女を一人にさせてしまった』という想いが心の内にあった。無理にでも手を引くことが私にはできたはずなのに、それをしなかったという後悔を消せずにいた。
砂浜に半分埋もれた木片にスペイン語で彫られた誰かの後悔を読む。砂を払って、そこに書かれた文字を読みながら「国籍なんて関係なく、みんな私と同じような失敗をするんだな」と、おかしさがこみ上げてきた。
海岸線の終わりの岩礁、タンカー船が浜に打ち上げられたクジラの様に横転し刺さっていた。
私の友人たちは私に黙っていなくなってしまう。高校時代の友人がどこかの原野へと消えたこともそうだし、今回の件も同じことだった。彼ら彼女らともう会えないというこという事に、私はずっと後になって気が付くのだ。
夜の海辺を一人もどる。
オセアニアの南にある海岸線沿い、かつての観光地に残されたさび付いた船の残骸と、散らかったまま放置されたレストラン。街並みは崩れず残っているのに、その中身はすっぽり抜け落ちていて、閉園後の遊園地のように賑やかさがぽっかりと抜け落ちたようにどこか虚しさの中にあった。その時ばかりは、それがどこか心地よかった。
幼い私が読んだのは世界を旅する宣教師の話だ。旅する中で本当の信仰とは何かを彼が見つけて行くという物語。その中に陽気で気のいい海賊たちに出てくる。その海賊たちに私はあこがれた。
彼らは気ままに旅をして、ときに漁をして、獲れた魚を近くの海を通る船乗りたちと交換していた。小さな集落を自分たちで開拓して暮らしていて、国のルールとは全く違うところで生きている。
時にサルベージをして大金を稼ぎ、手に入れた金で買った酒を仲間たちと分けて底抜けに明るく生きている。旅の最中、誰も住んでいない無人島でキャンプをして、焚火を囲んで、いつでもどこでも大声で笑いながら酒を飲んで、未開の地で探検をしながら宝を見つけて、誰も見たことのない澄み切った南の海で泳いで、馬鹿みたいに綺麗な星空の下、船に揺られながら眠る。
物語の最後に彼らは自分たちの国に頼まれ、水軍として他の登場人物と共に戦争へ参加するのだが、そこでも最後までずっと楽しそうに笑っていた。長引く戦火の中で、どれだけつらい状況になろうとも、命を落とした仲間のためと最後まで前を向いていた。
宣教師はそんな彼らのことを尊敬していた。彼は自分が知るどんな信徒よりも多くの信仰をそんな海賊たちの中に見ることになる。祈りとはどういう事か、偶像としてではない神様の在り方か、本当に信じるべきものは何か、聖書に書かれた教えをどれだけ時間をかけて解こうとも見つけることができなかった何かを、神様なんて全く信じていないその海賊たちから宣教師は知ることになる。
私はその物語が大好きで、度々出てくる海賊たちの姿にひたすら憧れた。細かいルールとか、やらなければいけない物事にとらわれることなく、底抜けに明るくて前向きなその海賊たちを格好いいと、そう思うようになった。
幼い私は船の資料を見て、海図を眺め、いくつかの冒険譚を読んで、海に憧れた。
その夢を叶えた私は、今、たった一度の後悔を精算するため、かつての友人を捜しに行くことにした。
・4
生家にほど近い港町は国内の不況も手伝って、すっかり寂れてしまっていた。景色は記憶の中と大きく変わってしまっていて、古くなった民家やアパートの多くからは人の気配が全く消えていた。かつてそこにあった町工場や河岸の施設は広い空き地に変わっていて、海や砂浜も昔よりも綺麗になっているように見えた。
波間を漂うボトルを拾い上げるとその中には手紙が入っていた。
『いくつもの町をともに旅した。
水の中に沈んだニューヨークも、
アイスブラストのせいで雪が降った砂漠も、
ピンク色に染まる南東の海も君と旅をした。
数えきれないほどの昔話をして、
夜ごと羊の夢を見た。
船上で聞いた、透き通るような君の歌声を懐かしく思う。
いくつもの旅をして、私はまたこの浜辺に帰ってくる。
君のおかげで私はとても幸せだったんだ』。
ふたを開け広げた手紙に書かれた文字は誰にも読まれることはないはずなのに誰かに向けて書かれていて、その内容は私にとってはただの文字の羅列でしかなくて、そこに込められた思いが何なのか、読み取ることはできなかった。
手にした紙をしばらく眺めたあとで、元と同じように丸めてボトルの中へと戻した。拾ったのと同じ場所へボトルを置くと不意に高い波が来てボトルを攫っていった。浅瀬に何度かつかえて、そのたびに波にもまれ、ボトルは徐々に沖の方へと陸地を離れていった。やがて完全に見えなくなるまで、私はその行方を目で追っていた。
「やあ、久しぶりだね」
声をかけられて振り返るとそこに彼女が立っていた。
「来ないと思っていたよ」
数年ぶりに帰った故郷の海岸線、初夏の暖かい浜風が吹いていて、その風が昔と変わらない彼女の栗色の髪を揺らしていた。
「ひどいな、いや、それを言ったら私も貴方が来るか信じていたかと言えば微妙なところだけれど」
「ここに来ようかどうかしばらく悩んだ」
「どっちにしてもひどいな、私は一切迷わずに来たっていうのに」
「でも行かなかったらきっと後になって何度も後悔するだろうと思ってね、来たよ」
「来てくれたんだから、わざわざそんなこと言わなければいいじゃない」
「思ったことは思ったときに言っておかないと機会を逃してしまうと、最近になってようやくわかったんだ」
「そうかもしれないけれど、世の中には言わなくてもいいことっていうのも言っておいた方がいい言葉と同じだけあるんだよ」
「そうかな? 私はできることならすべての考えを言語化したいとそう思っているよ」
「それができるようになることと、それがすべきことであるのかはまた別問題なんだよ、海賊さん」
「そうは言うけれどこの年になってくるとね、言っておけばよかったって思う言葉が多いんだよ。いろんな後悔って言うのがあるけれど、酒で流してしまいたい思い出ってのはさ、自分の恥ずかしい行動やちょっとした失言なんかより何かを言わなかったことの方が圧倒的に多いんだよ」
「そんなことを改めて考えるからだよ。その場で言えなかったことなんて、本当に言う必要があったことじゃないんだから忘れてしまえばいいのに」
「それもわかるけれどね、もし万が一忘れたとしてさ、次に同じような機会があったときにまた言えずに何かを逃してしまうっていうのがさ、怖いんだ」
「そっか、旅はどうだった?」
「楽しかったよ。楽しかったけれど何かが足りなかった。なくしてから気が付くものなんていくつもあるとずっと昔にわかったつもりでいたのに、また同じ思いをすると思わなかったな」
「そっか」彼女はそう呟いて、また海を眺めた。