#8 雨の夜
あなたの記憶の本棚に、ぜひ私の作品を入れさせて頂けませんか?
今から約十年も前の頃。
イギリスの辺境にある大きなお屋敷で生まれたエマは、一人の同い年の男の子といつも一緒にいた。
「フィル!今日はどんな曲を聴かせてくれるの?」
「そうだね...うん、今日はちょっと大人な曲にしようか」
彼の名前はフィル。当時のエマの唯一の友達であり、初恋の人だ。
◇◇◇
それは彼女が母と出かけている時の事だった。
「...?お母様。この曲、なんて名前?」
「これは"Liebestraume"ね。リストっていう作曲家が作った曲よ。それにしても綺麗ね...一体誰が弾いてるのかしら」
どこからか聴こえてくるその音色はとても綺麗で、おそらくはプロの大人が弾いてるのだろう。
だが、エマはそうではないと気づいた。音から聞き取れるそのピアノ奏者の力の強さ、そして未熟さ。
どれだけ聞き慣れた者でもこの距離からその曲の優劣を判断する事は不可能だ。だが、それでも彼女は聞き取ったのだ。
この曲を弾いているのは、プロでも大人でもない。自分と同じぐらいの小さな子供だと。
「私、ちょっと行ってくる!」
「ええ、じゃあお母さんはここで待っているわね」
エマは走り出し、ピアノの音色を辿る。
やがて自分の屋敷程ではないが、立派な屋敷が見え、その屋敷の広い庭の東屋に置かれたピアノに、一人の少年が座っているのを見つけた。
エマの予想通りあの曲を弾いていたのは自分と大して変わらない背丈の少年、まだ幼い小さきピアノ奏者だ。
「ねぇ、すごいね君」
「わぁっ!?びっくりしたぁ!」
エマが彼の背後からいきなり話しかけた事によって彼は驚き、曲は止まってしまった。
だけど、そんな事はお構い無しにエマはその少年に話しかけた。
「まだ私と同じぐらいだと思うんだけど...それなのにあの演奏、もしかして赤ちゃんの頃からピアノ弾いてるの?」
「えっと、正確には3歳くらいかな...て言うか、君は?」
「あっ、自己紹介がまだだったね。私はエマ・ホームズ、あなたは?」
「えっと、僕はフィルだよ。よ、よろしく?」
「うん、よろしくフィル!」
二人は互いに挨拶を交わし合う。それからエマが興味津々に彼に疑問を投げかけたり、他愛もない話をしたりして二人は会って間もないのにも関わらず打ち解けていった。
それがエマとフィルの初めての出会い。偶然のような、運命の出会いなのだ。
昔の記憶を思い出しながら、慧愛は事務所のソファに仰向けで寝転んでいる。
彼女の足の下には、鉉貴の膝があった。
「慧愛、そろそろ足を退けてくれないかな?もう時間も遅いし僕も寝たいんだけど...」
「あっ、うん...。じゃあ私も寝ようかな」
「おや、案外素直だね?何か考え事?」
「大した事じゃないよ。ただ、昔の事を思い出してただけ」
いつもと違って大人しい彼女はすんなりと足を退かし、事務所の2階にある自室へ帰るべく扉の方へ向かった。
最近は仕事の円滑化の為、鉉貴もこの事務所の2階の空き部屋を借りてそこで生活している。1階が事務所、2階でルームシェアといった感じだ。
「ねぇ慧愛、僕も今日は考えなしに喋り過ぎたよ。何か気に障ったのなら、ごめん」
「別に気にする事じゃないよ。まあ、楽しい記憶も思い出せたしプラマイゼロかな」
微妙な空気が流れる中、慧愛は自分の部屋のドアノブに手をかける。もうお風呂や歯磨きなども済ましている為、すぐに寝れる状態だ。
「おやすみ、慧愛」
「うん、おやすみ」
少し気分の落ち込んだ様子の彼女を、鉉貴は見送って彼も自室へ向かう。
そうして2人は、ゆっくりと眠りについた。
◇◇◇
「エマ...ごめんなさいね、私が不甲斐ないばかりに」
ぼんやりとした記憶の中で彼女の母親は震える声でまだ幼い彼女にそう言う。
2人がいる場所から少し離れたところでは銃声や悲鳴が絶え間なく聞こえる。そんな中、エマは二丁のライフルを持たされた。それは彼女には少し大きいが、それでも彼女ならば問題なく扱える。
「弟をつれて逃げなさい。あなたなら、きっと生き延びれる...」
「やだ...嫌だよ...!私、お母さんを見捨ててなんて...!」
目の前に横たわる彼女の母親は腹部に銃弾が貫き、致命傷を負っている。いち早く治療を受けないと命はないだろう。
これは一つの大きな抗争だ。殺しを生業とするホームズ家と同じく殺しを生業とするワトソン家の抗争だ。まだ幼いエマが関わってもどうにもならない。
それでも、彼女は立ち上がった。
「...私がやる。絶対にお母さんを見捨てない!」
「エマ、やめなさい。まだあなたは幼い...私は、あなたを失いたくないの...!」
母はエマを強く止めようとするが、それでも彼女は母親の手を振り払い、二丁のライフルを持って走り出す。
まだ幼い小さな少女。そんな彼女がこの戦場で生き残れるはずがないと、誰もがそう思うだろう。
だが、そんな認識の壁を彼女は難なくぶち破るのだ。
「なんだこいつ!こんな、こんなガキになんで...!」
無数の銃弾を避け、必死に銃を乱射する男の頭にライフルを撃ち込む。
一人、二人、三人、次々に彼女は的確に人の頭を撃ち抜いていく。ただ本能のままに、彼女は目の前の敵を殺していく。
ホームズ家の最高傑作、それがエマ・ホームズという少女だった。
「はっ...はっ...はっ...」
それから一時間も経たない内に銃声は鳴り止み、彼女の周囲にはたくさんの死体が転がっていた。
雨の降る中、彼女は自分の通って来た道を辿って母の元へ戻っていく。そんな時、彼女はふと足を止めた。
「...フィル?」
見覚えのある姿が見えて、彼女は彼の元へ歩みを進める。
壁にもたれながら俯いて座っている彼は、雨が降っているというのに屋根の下に入ろうともしない。やがてエマは、彼の目の前に立つと、彼の胸に空いたその風穴を目に焼き付けた。
「あっ、あぁ...」
身体が震えて、足に力が入らない。目の前の光景が嘘だと、幻だと言い聞かせようとしても、自分の頭がそれを許さない。
時間を戻したいと何度願ったか。死んでしまいたいと何度思ったか。どれだけ自分を呪ったか分からない。
目の前の現実に、その時はただ泣き叫ぶ事しか出来なかった。
◇◇◇
思い出したくもない昔の夢を見て、慧愛は目を覚ます。
十年も前の記憶だ。その記憶が今もなお彼女の胸に消えない傷となって残り続けている。
あれ以降、慧愛は人を殺す事に躊躇するようになり、そしてピアノの音を聴くだけで胸が痛くなるのだ。
「...鉉貴はまだ寝てるかな」
慧愛は起き上がって部屋の扉を開ける。
するといつも通りコーヒーの香りが彼女の鼻に届き、キッチンに彼の姿が見えた。
「あっ、おはよう慧愛。今日は早いね?」
「あんたこそいつもこんな時間から起きてるの?ちゃんと寝れてるんでしょうね?」
「ははっ、ショートスリーパーなもんでね」
机に置かれたまだ温かいコーヒーを口にし、慧愛は違和感を覚える。
このコーヒー、いつもとは違って甘い。
「今日は甘い...なんで?」
「おや、苦い方がよかったかな?甘い方が良さそうだと思ったんだけど...」
「まあ別にいいけど、なんで甘い方が...」
鉉貴が慧愛に近づき、彼女の目元を手で拭う。
その時に気づいた、自分が涙を流していた事に。事前に甘いコーヒーを準備していた事から、おそらく彼が慧愛の様子を見に部屋に入った時から涙は零れていたのだろう。
「本当にごめんね、どうやら僕のせいで嫌な記憶を思い出してしまったみたいだね」
「っ...うるさい、さっさとご飯作りなさいよ」
彼の優しい仕草に、慧愛はもう一つある記憶を思い出した。それはあの雨の中、泣きじゃくる彼女に差し伸べられた手の感触だ。
もう息もないはずの彼の手がエマの目元を拭った。慧愛はその時に彼が見せた最後の笑顔さえも、記憶の奥底に放り込んでしまっていたのだ。
あなたの記憶の本棚に、このお話は入れたでしょうか?
もし記憶に残っていただけたらと思っていただけていたらすごく嬉しいです!
ぜひ、これからも応援よろしくお願いいたします!