第05話 夕餉のとき
それから数時間後、空が夕闇に染まる頃、騎士訓練校高等科の宿舎食堂は喧騒に包まれていた。いつもの窓際に座るアキツたちの手元には一枚の皿が置かれ、白っぽいスポンジ状の物体が乗っている。この拳大のスポンジの正体は、文明崩壊以前に開発され、当時世界の食糧事情を一変させる大発明とまでいわれた保存食。元となるのは、高度な加工技術により乾燥圧縮された小さなサイコロ状の固形物である。
外側が特殊な膜で覆われており、それが半永久的な保存を可能にする。指先で摘まめるほどのサイズのため携帯に便利だが、そのままでは石のように硬くて食べることはできない。とはいえ調理法はとても簡単で、火と水さえあれば済んでしまう。まず沸騰したお湯に固形物を入れると、熱と水分によって周りを覆っているコーティング剤が溶け出し気化。その後、水分を吸収しながら徐々に膨らみ、わずか数分でこの状態になる。
決してご馳走とはいえないが、この保存食のおかげで人々は限られた地下空間の中で何十年も生き長らえ、今後もそうしていけるのである。
「うーん……。やっぱり、どうしても納得できないなぁ」
カミユがスポンジを眺めながら呟くと、ミサギは「また言ってる」と呆れ顔を見せた。一方で、納得いくまで思案を諦めないカミユの性格をよく知るアキツは、彼がこの手の話題を持ち出したときにはできるだけ話し相手になろうと心に決めていた。
「あんな小さな固形物が、どうして水で煮るだけでこんな風になるのかって話か?」
「いや、それについてはある程度納得しているんだけど……」
すると、今度はレヴェナがなぞなぞを言い当てるかのように言った。
「あ、じゃあ、騎士さえ生み出す方舟がどうして食糧を作り出せないのかって話?」
「うん、そう。そうなんだ。どう見ても、人間より複雑なものには思えないんだよね」
「材料の問題じゃないのか?」
すかさずアキツが意見を述べると、カミユは腕を組んで考え込む。
「どうかなぁ。それは何を作る場合でも同じような気がするし」
こういった結論が出そうもない会話をバッサリ切り捨てるのは、大抵ミサギの役目である。しばらく黙々と千切ったスポンジを口に運んでいた彼女は、議論が行き詰まるのを見計らってきっぱりと言い放った。
「悩んでも仕方ないじゃない。できないものはできない、それだけよ」
「ちぇ、相変わらず身も蓋もないなぁ」
不満そうに口を尖らせるカミユの向かい側で、レヴェナは苦笑いを浮かべる。アキツはスポンジを咀嚼しながら座学で学んだ知識を思い出していた。
ミサギの言った通り、方舟をはじめとするメギドのいかなる施設も食料を製造する機能を備えていない。このため、人々が手にすることができる食料は自然栽培によって収穫されるわずかな農作物と備蓄倉庫に蓄えられた保存食のみ。人類が地下に逃げ込んでおよそ一世紀、人口が思ったほど増加しない原因の一つが食料問題であることは、メギドに暮らす者にたちにとって常識であった。
こうなると当然、自然栽培を増やそうという動きが出てくる。しかし市街地に細々と設けられたやせた耕作地では満足な収穫量など望めるはずもなく、かといって住居を潰すわけにもいかない。そこで、第二層の森林帯の一部を大規模農地に転用する計画が持ち上がった。森に生息する草食鬼獣は、縄張りに入り込まない限り人を襲うことはない。そのため一度計画区域内から排除すれば、安全を確保できるはずであった。
だが数回の掃討作戦を経た後も草食鬼獣がいなくなることはなく、計画は失敗に終わる。原因は第三層からの新たな草食鬼獣の流入と結論付けられた。実は第二層と第三層を隔てる壁は森林帯の一部で途切れていて、そこから鬼獣が出入りできてしまうのだ。もちろんそのことは事前にわかっていたが、流入の勢いは人々の予想を遥かに上回っており、まるでそこかしこから新たな鬼獣が湧き出てくるかのようであったという。
次に人々は、倒した鬼獣を食料にできないものかと考えた。しかし、鬼獣の肉には高濃度のアダマントが含まれていて、騎士以外の人間が口にすればアダマント中毒を引き起こすことが判明。また、その味は煮ようが焼こうが人間の味覚に適したものではなく、吐き戻さずに食せる騎士は一人もいなかった。
こういった事情により、メギドにおける人類の生存には備蓄倉庫の食料確保が必要不可欠なのだが、この倉庫が少し厄介な問題を抱えている。問題とは、建物内部に人が入り込めない構造になっていること。そしてその供給量が方舟によって厳重に管理されていることである。
盗難や争いを避けるために必要な仕組みではあるものの、その影響で各層に分散配置された倉庫から週一回出てくる物資の量は厳しく制限され、収容人口分を超えることは決してない。現在のメギド人口はすでに第二層までの収容限界を超えており、人類は食と住の両方の観点から新たな居住層、すなわち第三層奪還の必要性に迫られているのだ。
「――ねえ、聞いてるの?」
物思いに沈んでいたアキツの耳に、ミサギが声を届く。
「ん? 何だ? どうした?」
「どうしたじゃないわよ、まったく」
むっとするミサギの隣で、レヴェナが口に手を当てて笑う。
「ふふ、アキツくんって時々こうなるよね。ぼんやりというか、なにか思案に暮れているような……」
アキツは困った様子で隣に座る友人に目を向ける。こういうとき彼が頼るのは、決まってカミユであった。
「ったく、仕方ないなぁ。ミサギがね、僕とアキツに明日の準備は大丈夫かって」
「明日? 何のことだ?」
「あーもう、どうしてあんたは大事な予定をすぐに忘れるのよ」
頭を抱えながら嘆くミサギを見て、なぜかカミユがにんまりと笑った。
「むふふ、ミサギの手伝いの予定はしっかり覚えていたのにね」
「え、そうなの?」
即座に話題に食いつくレヴェナ。カミユが身を乗り出して昼間の出来事を耳打ちすると、彼女は興味深げに何度も頷く。そんな二人の横でアキツは、そっぽを向いたままのミサギを気に掛けながら必死で記憶を辿っていた。
「お、思い出した! 中等科でのアダマント講義の日だ」
「そうよ。あんたとカミユはわたしたち八十八期生の代表なんだから、しっかりしてほしいものね」
ミサギの言葉に、アキツは身が引き締まる思いがした。中等科でのアダマント講義は、毎年行われる騎士訓練校の恒例行事の一つ。高等科最高学年における座学と実技で最も優秀な成績を修めた者だけが、その栄誉に浴することを許される。
つまり座学トップのカミユと実技トップのアキツの二人が同期生を代表し、アダマント能力覚醒を目前に控えた後輩たちにアドバイスを送る行事なのだ。
「すまない。そんな大切なことを忘れるなんて軽率だった」
アキツが素直に謝罪を述べると、ミサギは再び同じネタを持ち出そうとするカミユを睨みつけた後で、ほんの一瞬だけ穏やかな表情を見せた。