練習ですもの、失敗する事だってありますわ
モライド男爵家の長女であるモニカは身も蓋もなく言えば家族から虐げられていた。
とはいえ、あからさまに暴力を振るわれたりはしていない。男爵令嬢でありながらも使用人として扱われ、家の中の仕事を全てやらなければならない状況であり、ついでに食事なども家族とは別。ちょっとでもいい食材を自分が食べれば叱責され、酷い時には一発平手が飛んでくる。
時折平手が一発程度なので、家族が暴力を振るっている、とは周囲も気付く事がなかった。
声高に家族に虐げられている! とモニカが叫んだとしても、家庭内での出来事で目撃者は家族だけ。更にそんな事を言っても父や母からは「躾」だと言われてしまえば外部もそう簡単に手を出せる事がない。
礼儀作法などを学ぶ際、厳しい家などはそれこそ鞭がピシパシと飛ぶ事だってあるのだ。
平手一発程度では虐待を訴えるには少しばかり難しい。
もっとあからさまに顔が腫れているだとか、骨が明らかに折れているだとか、誰が見ても大怪我をしていると言えるくらいであれば訴えることも可能であったが。
貴族としての礼儀作法などは必要最低限しか教わっていない。
それよりもせっせと家の中の事をする方が家族からは重要だと言われていた。
特にしっかりやるように、と言われているのは妹のアメリアの身の回りの世話だ。
モニカには妹がいる。血の繋がった実の妹だ。
例えばこれが、母が死に父が後妻を引き入れて血の繋がっていない義妹である、というのであればこの状況にももう少しモニカは納得がいったが、同じ両親を持つ者同士であり、間違いなくアメリアはモニカの妹である。
モニカが家庭内で冷遇されている理由については、いい加減モニカだって理解している。
単純に、両親から見て可愛い我が子ではないのだ、モニカは。
生まれた時の髪と目の色が、両親とは異なった。しかしその色は、モニカの父の母――つまりはモニカの祖母と全く一緒だったのだ。だからこそ、不義の子であるという疑いは持たれなかったが、これがモニカにとって家庭内冷遇の決定的な理由となってしまった。何か、モニカに落ち度があったわけではない。
モニカの父――バスカルは自身の母であるゲルダととんでもなく不仲であった。
実の親子であっても相性が悪すぎた。
いや、どちらかといえばバスカルが悪いのではないか、とモニカは思っているのだが。
ゲルダはフェイオン伯爵家の女主人である。バスカルが若かりし頃に夫を失い、それからは女当主として家を守ってきた。その性格はまさしく厳格。バスカルはそんな母を嫌っていた。
幼い時はどうだったか知らないが、バスカルはどちらかといえば努力を嫌い楽な方へと流れたがる性質だった。将来はフェイオン伯爵として自分が跡取りだ。そういった思いもあって、将来の事はあまり難しく考えたりすることもなかった。しかしあまりにも怠惰なバスカルにゲルダはこの男に伯爵家を継ぐ資格なし、そう判断し家から追い出したのである。
絶縁、とまではいかなかった。
ただ、余っていた爵位を渡し、領地の片隅にある屋敷へ追放した。フェイオン伯爵の跡を継いだのは、遠い親戚であるバスカルもロクに顔を知らない誰かだった。実の息子である自分を追い出してほとんど赤の他人といってもいい相手に家を継がせる。それがバスカルには許せなかったのである。
こうして、絶縁とまではいっていないが、二人の仲は致命的なほどに亀裂が入ってしまっている。
そして、その祖母であるゲルダにモニカはよく似てしまったのだ。
別に見た目が悪いというわけではない。ひとたび外へ出ればモニカの容姿は愛らしいと言われる事はある。誰もが目を背けるような醜さを持っているわけではない。だが、家族、それもバスカルにとってモニカの容姿はゲルダに似ているというただそれだけで嫌うには充分であった。
類は友を呼ぶとは言うが、バスカルの妻であるアリッサもまた努力する事を嫌い、ただひたすらに楽をしたいというタイプの人間であった。
楽をしたい。贅沢な暮らしをしたい。
とはいえ、男爵家の資産状況から毎日湯水のように豪遊できるような資金は捻出できない。
だからこそモニカが幼いころはまだ残っていた使用人たちもモニカがある程度大きくなってからは暇を出したし、モニカが使用人の立場を押し付けられる事になったのだ。使用人数名の給金が浮いたとて、両親からすればそんなのほとんど有って無いような金額ではあるが。
モニカの母であるアリッサは平民の女であった。酒場で働いていたのをバスカルが見初め結婚。
伯爵家の人間であったならその結婚は難しかっただろうが、男爵家などの低位貴族などは平民を伴侶に迎えている家だってそれなりにある。
とはいえ、大半は商人だとか職人だとかの貴族と関わる事が多い平民であることの方が多いのだが。
本来アリッサのような女は正妻というよりは妾、愛人と呼ばれるような立場になる。
平民であったアリッサもそれくらいは理解できているようで、だからこそ自分が妻に選ばれた! という優越感があった。
モニカからすれば正直それ、選ばれてもだから何です、という気しかしないのだが。
そもそもかろうじて貴族としてやっていくために、一応バスカルだって仕事はしているけれど、それだって言ってしまえば下っ端役人みたいなものだ。平民よりは多少金を持っているが、しかし商人だとかの稼いで金を持っている平民と比べれば貧乏と言われても否定できない程度。
平民からしても雲の上の人物と言える程でもなく、貴族から見ればあまりにも底辺。
大体ゲルダがバスカルを追い出した経緯も社交界では知られているので、羨望できるようなものはどこにも存在していなかった。
だがしかし、見た目だけはいいアリッサと完全に野心を捨てきれていないバスカルは愛らしく生まれた妹であるアメリアに期待を一身に背負わせていた。楽して贅沢したい、という欲望のもと、アメリアがそういった相手の目に留まれば。高位貴族などに見初められ嫁にいけば、実家への支援金だとかが期待できる。
お金に目を眩ませて鼻息荒くそんなことを語っていたバスカルに、モニカは「いや持参金」という突っ込みを心の中だけでしていた。
正直いくら実の両親であるとはいえ、モニカはとっくに両親を見限っていた。
ついでに姉よりも優遇されて有頂天な妹の事も。
あんなのに持ち上げられて可哀そうに、と思わなくもないのだがもうモニカが何を言った所で聞く耳持ってはくれないので仕方がない。
酒場で男たちを手玉にとっていたアリッサから様々な手ほどきを受けたアメリアは確かにそれなりに愛らしさはある。が、それが通用しているのはあくまでも男だけであり、令嬢のほとんどからは嫌われていた。
それをアメリアの可愛らしさに嫉妬しているのだ、なんて憤慨している両親を見て。
もう完全にダメなやつね、これは。
とモニカはどうしようもないなと嘆息したのである。
別に、一生この人たちの使用人として生きていくつもりはなかった。
例えばこれが家の中から一歩も出されないで家事だけをし続ける奴隷のような扱いであれば、モニカだってこのままではダメだと思いつつもこの状況を脱出するための方法なんて思いつかないままだっただろう。
けれども、使用人全てを解雇して全てをモニカに押し付けたのが結果仇となったのだ。
食料の買い出し。生活に使う日用品――石鹸だとかの消耗品を買うために外に出る事があれば、家族以外の人間と関わる事は容易だった。
いきなり助けてください! なんて誰彼構わず助けを求めたとしても、ちょっと家庭内でのいざこざが原因なんです、とあの両親が困ったようにいえばあからさまに怪我をしているとかでもない状態のモニカは周囲からちょっと困った子、といった具合にしか見られないだろう。
困ったことに両親、外面はそれなりに良いのである。社交界での噂で貴族たちからの印象は限りなく底辺であったとしても。平民相手に何か横暴な振舞いをしたとかではないので。
だからこそモニカは用心深く息を潜め、機会を探った。
その結果、何とも幸運な事にフェイオン伯爵家で働いている使用人と接触できたのだ。買い出しにきたとかではなく、たまたま実家がこちらで、ちょっと休暇をもらっていたという使用人である。
その日モニカが買い物に行かなければ会う事もなかった。これを奇跡と言わず何というべきだろうか。
モニカは若いころのゲルダそっくりだったのもあって、フェイオン家使用人に話しかけた時に一応信用された。どうやらフェイオン家には若かりし頃のゲルダの肖像画が飾られているらしい。これも、モニカにとっていい方向に作用した。
祖母とはいえバスカルが家を出た後で生まれた孫だ。一度も会ったことがない。だが、モニカにとって頼れるのはこの祖母だけであった。
現状を訴え、貴族に生まれた以上は貴族としての責務を果たしたいと訴え、助けを求めた。
今のままではどうしたってモニカにできることは限られている。
フェイオン家の使用人にゲルダに伝えてくれるよう頼んだが、それだってすぐにというわけにはいかず、だからこそ使用人の実家の家族とモニカは顔を合わせる事となった。
買い出しに出た際にこちらに顔を出してもらって、そこで手紙などのやりとりをするのが使用人にとっても現状できる限界であったのだ。いくらなんでもモニカを連れてフェイオン家へ戻るわけにもいかない。下手をすればバスカルが大事な娘を誘拐した、などといってフェイオン家を引きずり降ろそうと画策する可能性がある。
ゲルダはとっくに引退した身。
だからこそ、彼女にもできることは限られている。
使用人が屋敷へ戻ったとしても、すぐにモニカが現状から助け出される事はなかった。
けれども、じっと、忍耐深く手紙のやりとりを続け、ようやくどうにかなりそうな希望が見えてきたのは。
モニカが十六歳になろうという日の事であった。
そもそも幼い頃に最低限の読み書きこそ教われど、それ以上の教育をモニカは受けさせてもらえなかった。ある程度の年齢になれば貴族たちは学院へ通う事となっているにも関わらず、それすら許されなかった。学院は小さな社交場とも言われている。そこで学ぶべき事はそれこそ多く存在するし、そこで出会った縁というのは侮れないものにもなる。妹のアメリアは通う事を許された。そこで、身分も金も持っている男を捕まえてこい、とばかりに。
けれどもモニカは許されなかった。アメリアが学校に行っている間、ひたすら家事に従事していたのである。
直接フェイオン家にモニカを引き取る、なんて話になればバスカルが阻止するのは目に見えていた。
だからこそ、祖母との手紙のやりとりでモニカは別の家に養子に入る事が決められた。
町で、貴族様に見初められた。是非養子にと言われている。
そうモニカが告げれば、最初は「何を言ってるんだ」とばかりであった父も、明日、その貴族様が家に来るって……というモニカに「馬鹿言ってんじゃねぇ」と怒鳴るような事はなかった。ここで怒鳴ったとしても、翌日貴族が来るのであれば意味がないからだ。
これが、よその子になりたい、なんて言うだけならば怒鳴られ拳骨の一発くらいは落とされていただろう。
ゲルダから頼まれモニカを養子に迎え入れる事になった貴族は、身分こそは子爵家であったが財産はそれなりにあった。にこにことした人柄の良さそうな男は、ちょっと強く脅せば簡単に屈しそうな見た目であり、バスカルはこれは使えるんじゃないか、と内心で考え始める。
養子となれば元の家とは余程の事がない限り接触する事もないが、それでも血を分けた娘だ。ちょっと情に訴えれば、会う事は可能だろう。その時にちょっと家に援助してもらえれば……なんて考える。
養子となるのであれば、こちらの金額をお支払いいたします、と貴族が提示した金額を見てバスカルは目がこぼれそうなくらい見開いていた。隣にいたアリッサも同様である。
こんな……こんだけありゃあ当分働かなくたって困らないぞ……!
へへ、と知らずバスカルからは笑みが漏れていた。
考えていることが筒抜けであったが、モニカの養父予定の子爵は相変わらずにこにこと笑みを浮かべたままだ。その顔を見て、バスカルはしかし真面目そうな表情を取り繕う。
「養子に、と言ってもねぇ……こっちだって大切な娘だ。それをこんな……金で売り払うような真似は流石になぁ……」
思ってもいないセリフだった。あまりの白々しさにモニカは表情を崩さないようにするので精一杯。しかし子爵は相変わらずにこにことしたままだ。
「えぇ、えぇ、心中お察しします。ですが、こちらも養子に迎えるのは誰でもいいというわけではないのです。彼女は死んだ妻にそこはかとなく似ていましてね。もし妻が、子を産んでそれが娘であったなら、きっとこのような姿だったのだろう、という理想そのものでして」
その言葉を聞いてモニカはそっと頬の内側の肉を噛むようにして平静を装った。笑いをこらえているが、どちらかといえば妻を失った男に対して同情的な様子を見せているように見えなくもない。
貴族ともなれば必要に応じて平然と嘘を吐くこともあるだろうとは思うが、こうまで堂々と嘘を吐くとは思わなかった。生憎この子爵には死に別れた妻などいない。彼の妻は自宅で今日も元気いっぱい過ごしている。
だがしかし、バスカルはそんな事に気付けるほど賢い男ではなかった。彼がもっと貴族として真面目に生活し、仕事ももっと色々注意を払ってやっていたなら気付いていたはずなのだが。
この子爵、バスカルの直属ではないが、上司の上司のそのまた上司の、もういっこ上くらいの立場の上司である。職場で直接顔を合わせる事は今まで一度もなかったが、子爵はバスカルの事をよく知っていた。
大切な娘、とは一体誰の事を言っているのでしょうね? とか平然と思っている。バスカルもアリッサもモニカの事などどうでもいいと思っていることは既に把握済みであった。
「大切な娘であるというのであれば、その仲を引き裂くのも可哀そうではあるのですが……しかし、こちらもそう簡単に諦められません。失礼を承知で、そうですね……これで、どうでしょうか?」
さっと子爵は先程バスカルに見せたモニカ引き取り金額をペンで横線を引いて消すようにした後、そのすぐ上に新たな金額を書き記した。
「こちらで納得いただけないようでしたら、潔くあきらめましょう……」
「……っ!!」
「あ、あなた……!」
バスカルが息を呑み、アリッサがそんなバスカルの腕を引く。
先程提示された金額の三倍の額が、そこにはあった。
すぐに飛びつきたい衝動に駆られたが、しかしあまりがっつく様を見せるのはよろしくない。
もう少し焦らせばもしかしたらまだ出るんじゃないか……? と欲に駆られたバスカルは考えるも、しかしこれで駄目なら諦めるとも言っている。
選択を誤れば、この金を得る事はできない。モニカが手元に残るとはいえ、こいつにできるのは家事くらいだ。若い娘だ。『そういう』のが好きな相手に売りつける事だって考えた事はある。けれども、これだけの金になるか、と問われれば答えはNOだ。
身体を売るように言ったとしても、こいつじゃこれだけを稼ぐのは到底無理だろう。
ごくり、と喉が鳴る。
声を出そうとしたのだが、緊張からか中々声が出ない。けれども、あまりに長い沈黙は相手にとっても交渉は成立しなかったと思われる。
だからこそ。
「そ、そこまで言うのなら……――」
バスカルは掠れた声をどうにか絞り出したのである。
「あれは長くもちませんね」
「やっぱりそうですか」
商談成立、という事で。
子爵に連れられ着の身着のまま馬車に乗り、すっかり遠ざかり小さく見える我が家を眺めていれば、子爵は呆れたようにのたまった。
モニカもそう思っている。
一応貴族なんだし、もうちょっとこう、腹芸とか……思ってる事顔に出すぎ。そう突っ込まないだけで精一杯だった。
「大体、いくら金に目が眩んだとはいえ契約書をきちんと読まないままサインするとか有り得ませんね」
「今回はその方が都合が良かったとはいえ、確かにそうですね」
養子に、という事でそういった書類も持参してあった。
口約束だけで養子に迎えたとしても、その後で我が子が誘拐されたー! なんて言い出す奴が出ないとも限らないわけで。
最初は養子に出すことに納得してても、やっぱ後になって寂しくなったとか惜しくなったとかで返して! っていう人が過去にいたのだ。金を使い果たした後が多い。そうやってまた金を引き出そうとする算段だったのかもしれないが、ともあれ昔と違い今はそういったものに関する書類はきっちりと残す事となっている。
きちんとした取引のはずがさながら犯罪者のような言われようをされてはたまったものではないというのも勿論ある。
モニカはまぁ、断らないだろうなと予想していた。最初の金額なら渋ったかもしれない。どうせ父の事だ。最初の金額ならまだ、そういうのが好きな相手に初物として売る、なんていうモニカからすればとてもじゃないが冗談ではない事を実行したかもしれない。とはいえ、それでも最初の金額分稼げるかは微妙な気がしていたが。
しかしそこから更に三倍の金額となれば、モニカに身体を売ってこいと言ったとして簡単に稼げる金額ですらない。それどころか、しばらくは働かなくたって生きていけるし、アリッサだってちょっと奮発して新しいドレスや宝石を買う事も余裕でできる。
あの金額を目にした途端の二人の顔は、まさしく欲に塗れたものだった。
あの場にアメリアがいなくてよかった、とモニカは思う。
彼女は今、貴族たちが通う学校だ。基本は寮生活なので戻ってくるのはホリデーの間だけ。
もしあの場にアメリアもいたなら、自分が養子になると言っていたかもしれない。明らかに今よりいい生活が待っているだろう雰囲気を感じ取って。
「さて、どうなりますかねぇ……」
「あの、大丈夫でしょうか?」
「貴方に関しては大丈夫でしょう。バスカルたちがやらかす可能性についても、大丈夫かと。
何せ既にこの書類にサインしましたからね。ろくに読みもしないうちに。今後何を言おうと、やらかそうと、それは彼らの選んだことです」
にこにこと笑みを浮かべる子爵に対して、モニカは一瞬だけ言葉に詰まりはしたものの。
「それもそうですね」
結局のところ、金で売ったのはある意味で事実だし、ならばこちらもそれと同時に見捨てても何も困りはしないな、と思い直して子爵と同じような笑みを浮かべたのであった。
その後のモニカは、まず子爵家に養子に入り、そこで貴族としての教育を受けることとなった。
この子爵、かつてゲルダに色々と助けてもらったらしく、だからこそ今回こうして養子としてモニカを引き取る事にしたようだ。男爵家で最低限の読み書きくらいしか教わっていなかったので、最初のうちは相当苦労した。したのだが、それでも学ぶ事ができるというのはモニカにとってありがたい事だった。一日の時間が許す限りをモニカは学ぶ事に費やした。
その間、バスカルはまず仕事を辞めた。
働かなくても当分は生きていけるとはいえ、一生遊んで暮らせる金額でもないのに。
嫌なことがあるとすぐにそこから逃げようとして楽な方へと流される男であったので、モニカとしてはそんな話を聞かされても「やっぱりな」としか思わなかった。
アリッサも新しいドレスや宝石を買いご満悦のようだ。
収入源もないのに色々新調して大丈夫なのだろうか。いざとなったら元は酒場で働いてたのだから、働くという選択肢があるかもしれないがアリッサもバスカル同様楽な方へ流れるタイプだ。金がないとなっても、自分だけ働くという選択肢があるかは謎だった。
本来学院に通う年齢に通えなかったモニカは、アメリアが卒業した後で学院に通う事となった。
その頃には子爵家からゲルダの元へ更に養子に出る事となったので、ようやくモニカは自分の祖母と対面を果たす事が出来たのである。
とはいえすぐに学院生活なので、過ごす時間はそう多くはなかった。それでも毎日が目まぐるしく忙しい日々であったので、卒業までの時間はあっという間だった。
この頃にはモニカを手放す時に得た金をほとんど使い果たしたらしく、バスカルはどうにか金の工面をしようとしていたらしい。
とはいえ、かつての職場に戻ろうにもそれは果たせなかった。
ずっと上の立場である子爵がいるのだ。そしてバスカルは元々そう真面目な性質でもなかった。子爵が、そんな男をまた職場に引き入れるはずもない。使える人材ならともかく、そう使えるわけでもなし。また何かでポンと大金を得たら再び辞めるだろう事が簡単に予想できるような相手を雇うくらいなら、もっと真面目に働いてくれる人間を雇う方がいい。
以前の仕事に戻れずに、バスカルはしぶしぶ他の職を探す事になったようだが、自分は貴族であるというプライドが邪魔をしたのか平民たちばかりの職場を選ぶような事はしなかったらしい。もっとも、プライドを捨てて平民たちに混じったとしても然程有能でもない男だ。平民より劣ると自分で思うか周囲が思うかはさておき、どちらにしても長く続くことはなかっただろう。
最終的に日雇いの仕事にしかありつけず、その不満をぶつけるようにバスカルは酒に逃げるようになった。
アリッサもまた、輝かしかった生活に翳りが出て焦ったようにどうにかしようと試みはした。
折角のドレスや宝石を手放したくはなかったけれど、生きるためには仕方がない。なるべく高値で売ろうとしたが、ドレスに至っては既に流行から少し外れたデザインになっていて思っていた以上に安い金額でしか売れず、また宝石も見た目こそ派手であったが石の価値としてはそう高いものでもなかったからか、こちらもアリッサが思っていた以上に安く買いたたかれてしまった。
折角手に入れた物を手放すしかなかった悔しさ。貴族のくせに金がない、挙句まともに職にもありつけない。そんな男に嫌気がさし始めたのは言うまでもなかった。
バスカルが酒に逃げるようになってからはろくに仕事もないのに酒を買うなんて無駄遣いだと言い合って、喧嘩の絶えない日々。バスカルもバスカルでアリッサがたった一つだけ手放さなかった宝石を売ればいいだろうと怒鳴り返す始末。とはいえ、この頃になればアリッサもバスカルの言う事を大人しく聞くような事はなかった。
使用人がいるでもないため、家事は自分たちでする他なく家は荒れる一方。
「今まで育ててやったのに! あれ以来一度も顔を出さないなんてなんて恩知らずなんだろう!」
挙句、モニカに対する八つ当たりのような叫び声。
たまたまそれを耳にした者たちが金で娘売ったようなものなのに、何言ってんだろうなぁ……と白けた目を向けるようになるのには、そう時間もかからなかった。
さて、学院から卒業し戻ってきたアメリアであったが。
彼女は学院生活を大いに満喫していた。
モニカがせっせと家の事をしていたからこそ浮いていた金でもって入学資金はどうにかなっていたし、学院に入ってからは適当に言いくるめられそうな相手を見繕って多少の『支援』をしてもらう事にも成功した。
ついでにそれなりに金を持ってる相手に近づいて貢がせたりしつつ、将来の結婚相手に良さそうな男を見繕う。そうして卒業前にどうにか婚約にこぎつけることに成功した。
これでこれからの生活も安泰。
そう思って帰ってみれば家は思った以上に荒れ果てていた。
「え……?」
てっきり自分が知らないうちに没落でもしたのだろうか、と思いたくなる程の荒れよう。
たまに学院から手紙を出しはしたものの、こっちの生活は心配ない、という返事がきていたので本当に何も心配していなかった。
学院にいたアメリアは知る由もなかったのだ。
アメリアが学院の寮で生活していた間に姉であるモニカは別の家に養子に行き、その金で両親は生活をしていたなんて事を。
その金があった時にアメリアから手紙がきて、だからこそその時点では生活についての心配なんて何もなかった。けれども。
金が底をついてからは、アメリアから手紙がきても返信するどころか、こちらから現状を知らせる手紙を出す余裕もなかったのだ。
金銭面はカツカツで、精神的にも余裕がない。そんな状況で手紙を書く、という事すら思い至らなかった。
モニカがとっくにいない事すら知らないアメリアは、
「なんなのあいつ。掃除すらロクにできてないじゃない!」
と憤慨しつつも家の中に入る。
何となく気配はあるので、中にモニカがいると思っての事だ。
しかし実際いたのは両親だけ。
しかも随分と薄汚れている。
というか。
「臭い……」
思わず鼻を摘んだ。
酒浸りになってすっかり酒臭くなった父親。
生活に疲れ果てて見る影もなくなった母親。
見渡せば家の中はほとんど何もなかった。
前はもう少し家具だとか、調度品とかあったはずなのに。
「ねぇ、これ何、どういう事よお母さん、お父さん」
貴族令嬢としての振る舞いをすっかり忘れ、アメリアは以前家にいた時と同じような口調で問いかける。
「あいつは何をしているの? なんでこんな」
「うるせぇよ!」
「キャッ!?」
すっかり空になった酒瓶がアメリアの横を通り過ぎる。バスカルが投げつけたのだ、と気づいたのは後ろの壁にぶつかって瓶が割れたのと同時だった。一歩間違えていればそれはアメリアの顔面に当たるところだった。
「なっ、何するのお父さん!」
カッと頭に血が上るのを感じた。父親に危害を加えられそうになった、という恐怖よりも先に来たのは怒りだった。
「ねぇお母さん、お母さんも何か言って……え」
見れば、アリッサは這いずるようにしてアメリアへと近づいてくるところだった。なんだろう、誰だこの人は。実の母のはずなのに、なんだかまるで路地裏で残飯を漁る犬を見てしまった時のような。何と言い表せばいいのかわからない感情をアメリアは抱いた。
「ねぇ、アメリア。貴女、学院生活はどうだったの……? 誰か素敵なお相手は見つけたのかい……?」
「えっ、えぇ……そうね」
ひっ、という悲鳴を漏らさなかったのは意地だったのかもしれない。縋りつくようにやってきたアリッサを見て、アメリアは確かに恐怖を感じた。恐怖、と言っていいかはわからないが、少なくともアメリアはそれを恐怖だと思った。
なんだか見知らぬ老婆にでも話しかけられたような気分だった。
母の声はこんなだっただろうか?
そもそもどうしてこうまでやつれてしまっているのだろう。
何があったのかをまだ聞けていない。
「そう、そう。良かったわぁ。これで生活もどうにかなりそうね」
「どいつだ」
「えっ」
「相手、見つけたんだろう? どこのどいつだ。俺たちの生活の面倒を見れるだけの甲斐性はあるんだろうな」
「え、えぇ……」
何とか頷けば、父はにやりと笑った。その笑みがアメリアにはとても不気味なものに見えて、思わず一歩後ろへ知らぬうちに下がってしまう。
さっきいきなり酒瓶を投げてきた時もそうだけど、これが、本当に自分の両親なのか、と疑問ばかりが出てくる。
確かに家はそこまで裕福ではなかったかもしれない。
昔はそこまで気にならなかったけれど、学院に行けば嫌でも他の家との違いがハッキリしてしまう。会話の端々から我が家は決して贅沢な暮らしができる家ではなかったのだと突きつけられた。ただ、他に比べるものがなかったから学院に来る前まではそんな事実にすら気付けなかったのだ。
いや、少なくとも周囲の平民と比べればマシであった。だから余計に貴族なのだから恵まれていると思いこんだのかもしれない。
母は、こんなに気持ちの悪い猫撫で声を出す人だっただろうか。
父は、こんな風に人を品定めするような目を向けてくるような人だっただろうか。
何かがあったのは間違いない。
そういえばあいつは。
あいつはどうしているのだろう。
むしろあいつがこの状況を一番理解しているのではないか。
そう思ってアメリアはこれで生活は安泰だなんて言って不気味な笑いを浮かべている両親から視線を逸らすように周囲を見回す。だって、だってこんな……優しかったはずの父と母が今ではすっかり浮浪者のようなのだ。絶対あいつが何かしたに決まっている。
見つけたらまずはちゃんと自分の立場ってやつをわからせなくては。
そう思って。
向けた視線の先に。
くしゃくしゃになってはいるが紙が落ちていた。
ゴミだと思うがそれでも気になってそちらへ移動して拾い上げる。丁寧に広げてみれば、それは何かの契約書のようだった。
「…………え」
そこに書かれていた事を読んで、愕然とした。
あいつは、姉は随分前にどうやらこの家から出て行った。いや、他の家に養子として引き取られていった。その際に支払われた金額などもそこには記されている。
それだけのお金をもらっていながら、ではどうしてこんな、こんな何もないのだろう。
そう思って隅々まで読んでいけば、養子として引き取られた後はこちらとの接触を一切禁止とすると書かれていた。対象者はバスカルとアリッサ。アメリアは契約書の中に名前が出ていなかった。
もし契約に反した場合は相応のペナルティが与えられるとも。
「そういうこと……」
ここまで読めばいくらなんでもアメリアにだって理解できる。あいつは、姉は、養子として他の貴族の家に引き取られていった。その際にかなりの金が支払われた。きっと両親はその金に目が眩んだに違いない。
きっと、金額を提示されてそれで、目先が一杯になって細かな部分を読まずにサインした。養子となった時点でモニカとバスカル・アリッサとの縁は切れる。今後そちらからの接近・接触は禁ずる、という部分を両親はきっと見てすらいなかった。
そうして二枚目の紙は、契約書よりもやや新しい感じがしていた。
こちらは違反書のようなものだった。
契約に反した事で違約金を支払う事になった。そしてこの紙に記されていたのは家の家財道具を売り払った額だ。家の中ががらんどうなのはつまりそういう事だ。
金に目が眩んで、姉を売って。
そして両親は相手がお金持ちだから、きっとよからぬことを考えた。
養子になっても娘は娘、とでも思ったのかもしれない。だから、お金がなくなってどうしようもなくなったあたりで、あいつに会えば、涙ながらに寂しいと家族の情に訴えるようにして、ついでに生活が苦しくなってきたから援助をしてほしい、とでも言ったのだろう。
ところが契約書をよく読まずにサインした結果、それは違反となった。
生じたペナルティで違約金を支払わなければならなくなったが、既に金はない。
だからこそ、家にある財産を差し押さえられた。
契約書がぐしゃぐしゃにされていたのは、きっと腹いせに父か母がやったのだろう。ビリビリに破いていたかもしれなかったが、もしまた別の時に何かをしでかした時、手元に契約書がない事が発覚すれば元はなかった条件が向こうの都合で追加される可能性もあったはずだ。悪徳な相手なら平然とやるだろう。
すっかり別人のようになってしまったけれど、それでも父は貴族ではあるのだ。
恐らくその違反が生じたのは比較的最近のはずだ。
もっと前であったなら、アメリアが帰ってくる前に二人そろって衰弱死や餓死していてもおかしくはない。
きっとアメリアがそろそろ戻ってくる事に気付いて、それを話題にしようとでも思ったのかもしれない。何の用もなければ追い払われる可能性が高いが、用があるなら一応話は聞いてもらえると考えたのかも。
アメリアのその考えは大体合ってはいたけれど、だから何だという話だった。
話を聞いてもらえる状況にしたものの、その時点で契約違反になるのだから。
むしろ話す事は何もない、で追い払われた方が家財道具を何もかも失う事はなかっただろうに。
ともあれ、アメリアがいい相手を見つけたのかどうかを聞いてきた二人がどこか切羽詰まった感じがした理由はよくわかった。そりゃあそうだろう。これでアメリアが誰も相手を捕まえていなければ、生活は困窮したままだ。
「……冗談じゃないわ」
だがしかし、アメリアは思わず顔を顰めてそう呟いていた。
姉が引き取られた先はそれなりに裕福な家のようだ。
何故自分が選ばれなかったのだろう。自分の方こそが恵まれて然るべきはずなのに。
確かに婚約者を捕まえはした。相手は伯爵家。男爵家の令嬢が捕まえた相手とするなら、快挙と言ってもいい。資産状況もアメリアがさらっと調べた限り問題なく、この男と結婚できれば自分の人生は安泰だとすら思っていたのに。
こんな状態の両親がくっついてくるとなったら、婚約を解消されてしまうのではないか。
今の両親はとてもじゃないが人様の前に出せるような見た目ですらない。
美しかったはずの母はすっかりやつれ、しばらく見ないうちに大分老け込んだ。
父だって、あれは、まるで場末の酒場で飲んだくれているガラの悪い平民のようではないか。ああまで落ちぶれた姿だというのに、本人はその事実に気付いた様子もない。
あんなのを両親だなんて紹介したら、婚約の話は考えさせてくれ、とか言われそうだしその後は間違いなく今回の話は無かったことに、となるのはありありと想像できてしまった。
確かに両親には育ててもらった恩がある。けれども、その恩を抱えて一緒にどう足掻いてもどうしようもない生活をしていくつもりはなかった。
かつて母に言われた言葉。
素敵な人と結婚して幸せになりなさい。
父も似たような事を言っていた。金持ちと結婚すれば生活が楽になるだとかも言われた気がするが、要するに結婚相手に養ってもらおうという考えだったのだろう。
だがしかし、現状その結婚が危うくなっている。両親のせいで。
この二人を見れば間違いなく彼は引く。手切れ金を渡してでも縁を切ろうとするかもしれない。
アメリアが誘惑して、それにまんまとやられた男ではあるけれど、しかし理性を全て溶かしたわけではない。結婚して子を作ればどうにでもなると思えるが、その結婚に至る手前で躓きそうになっているのだ。ほかでもない両親のせいで。
「……お父様、お母様、わたくしちょっと出かけてきますね。すぐに戻ってまいります」
「あらアメリア、どこへ行くの?」
「買い物よ。折角戻ってきたのに何にもないんだもの。帰ってきたお祝いにご馳走を買ってくるわ。待ってて」
にこりと微笑んで言えば、アリッサの表情はあからさまな程輝いた。
「ついでに酒も買ってきてくれ」
父もアメリアの言葉に何も疑問を抱かなかったのか、そんなことを言い出した。そうして酒だ酒、へへ……と気持ちの悪い笑みを浮かべている。
「はぁい、待っててくださいね、すぐ帰ってきますから」
弾むような声でそう言って、アメリアは鞄を手に軽やかな足取りで家を出た。
アメリアの所持金は、婚約者以外の相手から貢がれた品を売って作った金だ。
彼女は花から花へ飛ぶ蝶のように数名を虜にし、彼らがくれた物を処分して学院生活中はそれなりに裕福に過ごしていた。一部売るのは惜しいと思ったものは残しているが、その金を使いアメリアは早速必要な物を買いこんでいく。
戻ってくる頃には日が沈み始めたものの、むしろ丁度良いくらいだった。
アメリアの家は他の家と少しばかり離れているので。たまたま通りがかった誰かがいない限りは、人目に付くこともない。それに、あの両親の様子からきっとみっともなく言い争いもしていたはずだ。であれば、それを知る者は余計にここには近づかないに違いないのだ。
だからこそ、準備は簡単だった。
家に入って両親に食事と酒を渡し、それに気を取られている間に移動。窓や戸をしっかり閉めて内側から開かないようにしつつ家の中に油を撒く。
そうして最後にアメリアが外に出て、その扉もしっかり開かないように固定してしまえば。
「さようなら、お父様お母さま。わたくしの幸せのために消えてちょうだい♪」
あとは火を放つだけであった。
――それから一年後。
アメリアはあの後、恐らく父の不始末で火事になったのだろうというように仕立て上げ、婚約者の同情を買って結婚にこぎつけた。家族を失い一人きりになってしまったアメリアに、婚約者はいたく同情し、君の新しい家族になるよと愛を囁き彼女の望むままの生活をさせた。
アメリアもいきなり何もしないけど贅沢だけはしたい、なんて両親のような自堕落さを出したりはせず、控えめでありながらも夫の支えとなるようにと努力し、夫の両親に取り入った。
義父はともかく義母との仲はあまりよろしくないが、それでも嫌がらせをされたりはしていない。
概ね順風満帆な暮らしだ。あの頃と比べれば大違い。
だがしかし、最近気に入らない事ができた。
姉の存在である。
書類を見た時は確か子爵家に養子に入っていたはずだが、何がどうなったのかあの姉は、何食わぬ顔で伯爵家の人間と結婚していたのである。あんな、マトモな教育も施されなかった使用人同然だった姉が、自分と同じ伯爵夫人として社交の場にいる。
アメリアはそれを許せなかった。
あの日、学院から戻ってきた時の絶望を姉が知るはずもない。
あんな両親を抱えて生きていかなければならないのかと一瞬でも想像しただけで、冗談ではないと思ったのに。だからこそ、幸せのために切り捨てたのに。心が痛まなかったかと問われれば、勿論痛んだとも。
曲がりなりにも実の両親だ。それを手にかけなければならなかったのだから、心苦しいに決まっている。
どうしてあの時、姉はあの場所にいなかったのか。いたなら、そんな面倒な事は任せていたはずなのに。
自分の手を汚さなくて済んだはずなのに……!
だというのに姉はその頃には別の家に引き取られ、自分の家にいた時よりもいい暮らしをしてぬくぬくと過ごしていたのだ。嫌なことをこっちに押し付けて!
あんたがいたら、両親の面倒はあんたが見るはずだったのに! どうして両親を捨ててそんなところで幸せそうな顔をして生きているの!?
アメリアは思わずモニカにそう言って掴みかかりたい気持ちで一杯だった。
もし実際そうしていたら、間違いなく罪人となるのはアメリアである。
それ以前に養子となった時点で両親との縁は切れたのだ。いくらバスカルやアリッサが生活に困窮しようとも、その時点でモニカが面倒を見る義務はもうどこにも存在していなかった。
だというのにアメリアからすればそれは一人だけ上手くやりやがって!! という思いにしかならなかったのだ。
なんとか、モニカを幸せから引きずり下ろしたい。
あいつが幸せでいるとかおかしいでしょ。私は決して表沙汰にできない事を抱えてしまったというのに。
とうに養子に行った挙句、別の家に嫁入りしたであろうかつての姉の事など気にしなければいいのに、アメリアの心はそれを受け止める事ができなかった。
幸い交流している貴族はそうかぶらなかったので、茶会に参加した時にバッタリ、という事はなかったけれど、それでも夜会などに参加すれば顔を見る事はそれなりにあった。
そのせいで余計にイライラが募る。
なんとかして。
どうにかできないかしら。
そんな風に思っているうちに、更に二年ほどが経過していた。その頃にはアメリアは夫との間に子を授かり、元気な赤ん坊を産んでいた。
噂に聞けば、モニカはまだ子を産んでいないらしい。
ふふん、とアメリアは勝ち誇った気持ちになる。聞けばアメリアが結婚するよりも先にモニカは結婚していたらしい。それなのに未だに子ができていないなんて。もしかしたら白い結婚というやつかしら?
だとしたらなんて滑稽で面白いんでしょう!
モニカが不幸であればそれだけで世界が輝いて見えた。あいつの不幸の上に、私の幸せはあるのだ。
そんな思いが確かにあった。モニカが幸せである事が許せずに、不幸であるはずの断片を集めるように茶会や夜会などでモニカと交流のありそうな貴族と接触を図るようになった。いきなりモニカが不幸かどうか、なんて話をする事はない。不自然にならない程度に会話を重ねて、そうして何かの折にモニカの話が出るようにもっていく。
結果アメリアが得た情報は、モニカの結婚は決して白い結婚ではないという事だ。
なんでも旦那に溺愛されているらしいが、そのせいで子が出来ない事を苦にしているのだとか。
なんだ、愛されているのか。そう思ってとてもつまらない気持ちもあったが、同時に笑い出したい気持ちにもなった。愛されてるのに、子を生せなくて肩身の狭い思いをしている。それが続けば跡継ぎ欲しさに夫は別の女を選ぶかもしれないし、夫の両親に孫をせっつかれたり、子が出来ないなら身を引きなさいと家を追い出されるかもしれない。
その想像だけで、アメリアは自然と笑みが浮かんでいた。
姉が不幸であればあるだけ、自分はどこまでも幸せになれる気がした。
だからこそ。
「そうだわ」
彼女をさらに不幸のどん底に叩き落そうと、アメリアは最悪な計画を思いついてしまったのである。
――かつて姉妹であったとはいえ、モニカは別の家に養子にいき、またアメリアも嫁入りしているので正直家族であったという思いは薄い。
モニカからすればとっくに切り捨てた過去であり、アメリアからすればモニカは姉というよりは使用人かそれ以下のナニカであった。
モニカはその事実を既に知っているけれど、アメリアは果たしてどこまで理解できていただろう。
自分より格下の相手が、いつまでもそうであるとは限らないのに。
かつては姉妹であったけれど、仲が良かったか、と聞かれればお互いに首を横に振るだろう。
だからこそ、アメリアが思いついた事を実行するにも、すぐに、とはいかなかった。知り合いの知り合いの伝手、みたいな感じでじわじわと距離を詰めていって、ようやくモニカと連絡がとれるようになるまでに、そこそこの時間がかかってしまった。
アメリアはモニカの知り合いに、同情を買うように姉と話をしたいのだと切り出した。
かつて、幼い頃に生き別れた姉。当時の事はもしかしたら姉にとっては思い出したくない事かもしれないけれど、大好きだった姉とせめてきちんと話をしたいのだと。
アメリアの言葉は、聞いた者からすれば不憫であると思えたし、アメリアが知らぬうちに養子にだされていたという事実もあって、知り合いの知り合い経由といった感じであったがだからこそモニカにもその話が届いた。
聞いた瞬間思わず笑いそうになったけれど、一体アメリアが何を仕掛けてくるつもりなのか気になって、思わず会う事を了承してしまった。
大好きな姉って部分で盛大に笑わなかったのを自分で褒めてやりたい気分である。
とはいえ、下手に外に出るのも嫌なので、モニカは夫に話を通して彼女を家に招いてよいかと問うた。
夫はゲルダが選んだ相手で、モニカの家庭の事もよく知っている。それもあって、即座に許可はおりた。
てっきりアメリアも夫と共に来るかと思いきや、来たのは彼女一人だけであった――否。
アメリアは、自分が産んだ子を連れてきていた。
正直ちょっと予想外だった。
来るにしても、てっきり夫とやってきて幸せいっぱいなアピールをしてこっちの現状を探って自分の方が上だと思えそうな部分を全力で押し出してくるかと思っていたけれど、まさか夫ではなく子連れでくるとは。
一応ミルクや替えのオムツらしきものが入った荷物も持っているけれど、正直少しばかり荷物が少なすぎやしないだろうか? という気がする。
赤ん坊の面倒を見てくれる使用人だとかがいるでもない。ここに来るまでに馬車を使い、その馬車を動かす使用人こそいたけれど彼は馬車を止めた後は馬の世話をし始めている。赤ん坊の世話などする余裕はないだろう。
かつて、家にいた時の事を思い出せばてっきり開幕一言目から暴言が飛んできてもおかしくはなかったが、流石にモニカ以外の目がある。アメリアはあくまでもにこやかに久しぶりだと話しかけ、傍から見れば親しい家族との久々の再会にしか思えない様子であった。
とはいえ、モニカからすれば今までアメリアがこんな風に穏やかな話し方を自分に向けてきたことがないので、危うく「どちら様ですか?」と言いそうになってしまったのだが。
使用人に案内されてやってきたアメリアの態度は、特にこれと言って問題があるでもなかった。すやすやと眠る赤ん坊を抱っこしたまま、にこやかにモニカと会話をする。話の内容も、知らないうちに養子になっていて驚いただとかの実際の出来事を交えた巧妙な嘘であったが、概ね問題がある内容ではなかった。
実際アメリアが学院にいた時に養子にいったので、知らないうち、というのは事実だが、それ以外の部分は本心を話せばモニカへの悪意しかないだろう事が一発でわかってしまうからだろうか。大好きな姉がいつの間にかいなくなっていて悲しい、といった雰囲気であったがそれが嘘であるのは明らかなのでモニカとしては一体何を企んでいるのだろうか……という気しかしない。
学院から帰ってきた時には両親が火の不始末で死んでしまってもう家族と呼べるのはお姉さまだけなの、なんて言っている。
確かに実家でもあったあの家が燃えた、という話はモニカも知っていた。
というか嫌でも耳に入ってきた。
その時アメリアはいなかったようだけど、学院から帰ってくるなり家族全てを失ったようなものだ。それをどうにか今の夫が支えてくれたの、とにこにこ語っている。
養子に、と言っていたけれど、お姉さまも幸せそうで良かったわ、なんてまるでこちらの幸せを喜んでいるようにすら。
モニカは正直戸惑っていた。
家で使用人同然の扱いを受けていた頃、アメリアはモニカの事をお姉さまだなんて一度たりとも呼んだ事はない。物心ついた時には祖母に似ていたモニカに対しての両親からの扱いが扱いだったし、それを見たアメリアもまたモニカに対してそういう扱いをしていいのだと刷り込まれていたのだから。親がそれを窘める事もせず、どころか親が率先していたのだ。アメリアがモニカに対する扱いはこれでいいのだと思うのなんてむしろなるべくしてなったとしか言いようがない。
だからこそ、恐らくは演技なのだろうと思っていてもあまりにも目の前の女は別人にしか見えなかった。
話の内容だって深く気にしないで聞いている分には、生き別れた状態になってからの話だ。思い出話とは微妙に異なるも、こういうことがあった、ああいう出来事があった、そんなモニカと別れた後の生活だったり、かと思えばあの時はこんなことがあったわね、なんていう思い出話も。
とはいえ、思い出話の方は大分脚色されてついでに美化もされているので聞かされた方は「ん?」となるのだが。
話はあまりにも和やかだった。
本当に、アメリアはいきなり養子になって家を出てしまった姉と思い出語りをしたいだけではないか、と思える程に。
そんな一瞬の空気の緩みをアメリアは感じ取ったのだろうか。
「そういえばお姉さま、お姉さまのところは子はまだなのですか?」
そんな問いをしてきたのである。
「え、えぇ、そうね。まだよ。流石にこればかりは授かりものですから……」
来た、と思った。
今までの和やかな会話はこのためだけの前置きだったのだ、と直感で理解してしまった。
それを聞くなりアメリアは「まぁ」なんて言いながらも、子の可愛さについて語り始めた。
最初はどうなる事かと思ったけれど、それでも生まれてみればやはり愛おしくて仕方がないというところから始まって、最終的にはやはり子を産んで一人前となるのでしょうね、と。それらの話がつらつら長々語られて、気持ち程度に身構えていたモニカは対応が遅れてしまったのだ。
「そうだわ。お姉さまもきっと体験すればこの良さがわかると思うの」
まるで名案だと言わんばかりの声音でもって、アメリアは我が子を抱きかかえたまますっと立ち上がった。そうしてモニカに近づいて、子を渡す。押し付けるような強引さを感じさせない程度に、しかしそれでも決して拒否できない程度には強く。
咄嗟に受け取るしかなかったモニカは、赤ん坊を突然抱きかかえる事になって狼狽える。その姿を見てアメリアは笑った。微笑ましくて、というわけではない。モニカが困っているという部分に笑いがこみあげてきたのだ。
「ち、ちょっと……!?」
「今はいなくても、いずれは、って思ってらっしゃるのでしょう? だったら、丁度いいじゃない。練習だと思えば」
にこーっと邪気のない笑みを浮かべてアメリアはスッと後ろへ下がった。すぐにモニカが赤ん坊をこちらに返してこれないように。無理にこちらに返そうとしてしまえば赤ん坊は床に落下してしまいかねない。モニカがアメリアを嫌っていたとしても、いくらなんでも夫がいる前で嫌いな女の子を傷つけるような真似はしないだろう。
そう判断しての事だった。
そのままアメリアは更に距離をとって、部屋の入口へと向かう。
「折角だから少しの間一緒に過ごしてみるといいわ。わたくしは少しの間ここを離れますね」
「ちょっとアメリア!?」
名を、それも呼び捨てで呼ばれた事にカチンと来たけれど、あくまでもそんな態度は表に出さないまま、ドアを開けて「後で戻ってくるわ」と言って屋敷を出ようとする。
「流石に困るわ。うちはまだ赤ん坊を育てるような準備も何もないのよ!?」
「ミルクやオムツはその鞄に入っているもの。それを使えば大丈夫よ。いやぁね慌てすぎ。練習よ練習。今からそんなんじゃ子供が生まれた時先が思いやられるわ」
もっとも、本当に生まれるかどうかまでは知りませんけど、ね。
なんて内心で馬鹿にしつつもアメリアは颯爽と馬車に乗った。折角だからちょっとそこらの店でも見てこようと思ったのだ。流石に我が子を置いて家に帰るつもりはない。精々数時間。ちょっと姉に子守を任せるだけ。
いくら口でお姉さま、なんて言ってさも仲の良い家族の振りをしていたが、未だにアメリアの中でのモニカは自分の言う事を聞く小間使いのような存在だった。口答えなんかしちゃって、なんて生意気なんだろう。そんな思いすらあったくらいだ。
「――行ってしまったわ」
赤ん坊を抱えたままモニカは遠ざかっていく馬車を見送った。どうしましょう。確かにミルクやオムツが入っているらしき鞄をアメリアは置いていったけれど。生憎と子育てをした事はない。
あの時の、家にいた時のままの気持ちで気軽にこちらに押し付けてきたのだろうけれど。
「構わないさ。それに彼女も言ってただろう。練習だって」
夫はなんてことのないように言った。あまりにも気軽な口調で。
「折角だ。使用人の助けを借りずに少しの間面倒を見てあげればいいじゃないか」
「……そう、そうね。わかったわ」
正直な話、今はまだ腕の中で眠っているから大人しい。アメリアが戻ってくるまでずっとこのまま大人しければ……と思いながらもモニカはモニカが置いたままの鞄のある部屋まで戻る事にした。
――数時間後。
そろそろ日が沈む、という時間になってようやくアメリアは戻ってきた。
本当はもう少し早めに戻るつもりだったのだが、久しぶりのウィンドウショッピングが楽しくて気付けばすっかりこんな時間だ。予定としてはもう自分の屋敷に帰っているはずだったのに……と思いながらも、まぁ夫には久々の姉との会話が弾んでしまって、とでも言えば許してくれるわ。なんて考える。実際に姉と会うのは数年ぶりだ。だからこそ今までの分、積もった話が沢山あったのだと言えば帰りが遅くなったとしても一度くらいは許してくれるだろう。
さて、モニカは一体どうしているかしら。
あの子、寝てる時は大人しくて天使のように愛らしいけどひとたび起きたら元気が良すぎて大変なのよね……最近はハイハイで動けるようになったから、ちょっと目を離したらあっという間に部屋から出ていってしまいそうになった事も何度もあるし。
そうなっていたら、さぞ大慌てでしょうね。
慣れない赤ん坊の世話をしてぐったりしているモニカの姿を想像するだけで楽しくなってくる。
だがしかし、その楽しさはほんの一瞬でしかなかった。
戻ってみれば、ぐったりとした赤ん坊。首がまだ落ち着いていなかった時のような不安定さすら感じられるその姿に、アメリアは何が起きたのかすぐに理解ができなかった。
「赤ちゃんって思った以上に動き回るのね。追いかけるので精いっぱいだったわ。わたくしたちじゃ通れないような所も小さいからするりと入り込んでしまうし。
あっという間に階段から落ちてしまって、びっくりしたわ」
動かなくなった赤ん坊を何もなかったかのように渡してくるモニカに、アメリアは理解が追い付かなかった。
確かに慣れない子育てで大わらわだったのだろう。それは今のでわかる。
だが、その後なんて言った? 階段から落ちた……?
「っ、落ちるのを黙って見てたの!?」
「黙って見てたなんてとんでもないわ。危ないから声もかけたし、追いかけたわよ。追いつかなかったけど」
「な、なんで、じゃあなんでそのままにしたの!? 医者は!?」
「いやだわアメリア。お医者様だって死んだ人間を生き返らせるなんてできないもの。呼んでどうするの?」
きょとんとした顔で言ってのけるモニカに。
全身の毛が総毛立つのを感じた。
「っ、人殺し! あたしの、あたしの赤ちゃん返しなさいよ!!」
「殺したなんて人聞きが悪いわ。勝手に落ちていったのよ。それに今返したじゃない」
「そうじゃなくて!!」
怒鳴りつけるもモニカは一切悪びれずに言葉を返してくる。それが余計に腹立たしかった。
すっかり冷たくなってしまった赤ん坊。ついさっきまでは柔らかくて温かかった命は、しかし今ではその灯を消してしまっている。
「まぁまぁ。妻に悪気があったわけではないんです。何せ妻は、まだ子を産んでいなかったのですから」
「だから羨ましくなって嫌がらせで殺したの!?」
モニカではなくその夫が宥めるような声をかけてきたが、それすら神経を逆なでしてくる。
そうして糾弾すれば、しかし彼もまたきょとんとした表情を浮かべていた。
「まさか。確かにうちはまだ子がいませんがそもそも作っていないのだからできるわけがないのです。こちらの事情でね。もう少ししたら……という話にはなっていましたが。
事前にお医者様に診てもらった限りではどちらも子を作るのに問題はありませんし、なのでよその子を見ても羨ましい……とはなりませんよ」
男の言葉に、アメリアは即座に理解ができなかった。
白い結婚ではない。
けれども結婚して数年が経っているようだし、ならどちらかに問題があって子ができないのだろう。アメリアはそう考えていた。しかしとっくに医者に診てもらい、どちらも問題はないという。できていないのは、そもそもそういった作る行為をしていないから。成程確かに。作っていないのに出来たら問題である。
それに、と男は続ける。
「貴女も自分で言ったではありませんか。練習だと思って、と。
練習に失敗はつきものですよ」
その言葉に。
アメリアは何かを言い返そうとしたものの。
「――…………っ」
何の言葉もでてこなかった。
「おかげで助かりました。もし我が家に子が生まれた時は危険な場所はなるべく封鎖しませんと。使用人で子育てを経験した者たちの手助けも必要になりそうですし、今のうちにできる準備はしておこう、と思えました。
貴方の協力あってこそです。感謝しますよ」
嫌味や皮肉と言ったものでもなく。
純粋に感謝の言葉を述べるモニカの夫の表情はそれが本心であると物語っていた。
「さ、そろそろ遅い時間です。帰るのであれば急がないと。あまり遅くなってはいくら街中であっても物騒なことはありますから。お気をつけて」
アメリアが覚えている限り、これが、最後に聞いた言葉だった。
何かを言おうとしても言葉が出てこない。そうこうしているうちにやんわりと屋敷から追い出されるようにされ、気付いた時には馬車に乗り自宅へと戻ってきた次第である。死んだ赤ん坊を抱きかかえたまま。
次にアメリアの記憶がハッキリ覚えているのは、夫の母、つまりは義母から強烈な平手打ちを食らったところであった。
「一体どうして! だから出かける時にきちんと供を連れていけと言ったのに! それを大丈夫だからといったのはアメリアさん、貴方でしょう!? その結果この子が死んだのよ!? どうしてくれるの我が家の跡取りを!!」
金切り声で喚きたてる義母の言葉を要約すると、そんな事を言っていたように思う。けれども叩かれた頬がじんじんと痛む事は理解できても、義母の言葉を理解するのは中々できなかった。
モニカはきっと赤ちゃんが欲しくてもできないんだとばかり思っていた。
だから、自分の子を見てきっと羨むだろうと。
アメリアの中でモニカはいつまでも自分にとっての使用人のような存在で、だからこそアメリアが赤ん坊を押し付けたとしてもきちんと面倒を見ると思っていた。
だが実際はどうだ。
きっと、本当にただ『見ている』だけだったのだろう。
危険な場所に移動しようとしても抱きかかえて阻止するでもなく、あらあら駄目よと微笑んでそのまま見送っていたに違いないのだ。
アメリアの中ではモニカが右往左往して戸惑って精神的にくたくたになっていく様を想像していたというのに実際は全然違った。
その程度で音を上げるなんて、貴方に子育ては無理そうね、と最後に優越感たっぷりに言い放つつもりだったのに。それで、今までの事も含めて留飲を下げるつもりだったのに。
現実はしかし、我が子の死である。
咄嗟に無理矢理モニカに赤ん坊を奪われて、と言いかけたが強烈な平手打ちによってその言葉を出すことはできなかった。
「もしかして、私が名前を付けた事が気に入らなくて殺すように仕向けたんじゃないでしょうね!?」
「そんな! 違います!!」
確かに我が子だが、名付け親は義父と義母だ。義父がいくつか候補を考えて、そこから義母がこれはというのを選んだ。自分の子なのに……とアメリアだって思わなかったわけではないが、しかし貴族の中では生みの親が名をつけるよりも名付け親がいるというのはそこまで珍しくもない。
限りなく平民寄りだったアメリアは馴染めなかったが、それでもそういうものなのだと納得して受け入れたつもりでいたのだ。実際いい名前だなと思ったのは本当なので。
だが、死んだ赤ん坊を前に義母もまた冷静ではいられないようだった。初孫だったのだ。
確かに息子が選んだ女は少しばかり……いや、かなり気に食わないと思う部分もあったけれど、それでもしっかりと跡継ぎを生んだ事で見方を変えようとしたのに。
生き別れ同然となっていた姉に会ってくるのだと言って、ろくな供もつけずに出て行った時はまさか他に男が……と疑ったりもしたけれど。
だが派手にめかし込んだわけでもなく、確かにアメリアには姉がいた事もあって大丈夫だろうかと思いながらも送り出したというのに。
帰ってきたら孫が死んで帰ってくるだなんて、わかっていたら最初から孫を取り上げてこの女一人だけで送り出していた。
しかもだ。
アメリアを乗せた馬車を操作していた使用人のロバート曰く、一時的に自分から赤ん坊を姉に預けて数時間ほどウィンドウショッピングを楽しんでいたらしい。
もし無理に子が引き離されていたら、楽しそうにそんな買い物に興じるはずもない。
一体どうしてわざわざ赤ん坊から目を離すような真似を――!! そう問い詰めたい気持ちでいっぱいで、義母はその衝動のままに詰問していた。とはいえアメリアも我が子を失う形となってしまってまともに答える事なんてできやしなかった。
悲しい事は確かだが、このままじゃ埒が明かない。
一度、落ち着いて冷静に話し合おう。
そう言ったのは義父であった。
一晩じっくり休んで、それから話し合おう。
何かを堪えるような言葉に、誰も反論できなかった。
使いの者を飛ばして確認してみれば、赤ん坊が死んだ原因は間違いなくアメリアにあった。
まだ子を産んですらいない姉に、子育ての練習だといってアメリアが押し付けた。
そうして数時間ほどアメリアは外へ。
その結果がああなった、と言ってしまえばそれまでだが、アメリアは練習である、という事を念を押すように告げて出て行ったのだ。
そして子が死んだ事実にアメリアが喚き散らした時にモニカの夫が返した言葉もそっくりそのまま伝えられた。
練習なのだから失敗する事だってある。
それは事実だ。
これが、まだ子を産んでいないモニカが赤ん坊の世話をしてみたい、と強引に奪ったとかであったならこちらも責任の追及ができた。しかし子育てに関する話題から子を押し付けるに至るまで、何から何までアメリアがやらかした事なのだ。
失敗されて困るような事なら、そもそも最初から練習だと押し付けなければいい話だし、何故そちらは赤ん坊の面倒を見る使用人を連れてこなかったのか、と問われれば返す言葉もない。
「どうしてよぉ、どうして……っ、うっ、うぅ……」
言いたいことはたくさんあった。けれども何を言ったところでもうあの子は戻ってこないのだ。
葬式の準備を済ませ、小さな棺に眠る子を見て、義母は嗚咽を漏らし体中の水分を出し切るのではないかと思えるほどに涙を流していた。その隣では慰めるようにして義父が義母を抱きしめている。
誰も彼もが何かを堪えるようにして、葬儀の間中まともに言葉を発することはなかったのだ。
――その後のアメリアの家での立場は、以前と比べて明らかに変わった。
帰る家も既にないので離縁されて家から追い出される、という事はなかったが何をするにも周囲に目があるようになった。今まではある程度一人の時間を許されていたが、今はそれすらなくなってしまった。
常に複数の使用人が自分の周囲に控えており、何をするにも常に彼らが見ている。
以前もある程度使用人が控えていることは当たり前のようにあったけれど、あの時は男爵家と比べてやっぱり大きな家の貴族ともなれば使用人に数も違うのね、とまるでお姫様にでもなった気分で浮かれていたが今となってはもうそんな気持ちになる事もない。
彼らは監視を兼ねている。アメリアがまた愚かなことをしでかさないように。
その事実が重くのしかかってきて、何をするにも息苦しい。
確かに、原因はアメリアにある。けれどもそのせいで自分だって愛らしい我が子を失う事になってしまったのだから、もう同じ過ちを繰り返そうとも思わない。何をするにも「アメリア様、どちらへ?」「何の御用でしょうか、アメリア様」と使用人たちがアメリアの行動を逐一確認してくるのは、見えない鎖で首を縛られているような気分だった。
なんて愚かな事をしてしまったのだろう、反省だって後悔だってしているの。だからお願い、少しだけ一人の時間を頂戴。
そう、夫に泣きついた事もあった。
夫は困ったように眉を下げて、アメリアをそっと抱きしめながら、
「きみが、とても悔やんでいるのはわかっている。けれど、妻としてのきみはまだ信用できるけれど、もう母としてのきみは信用できないんだ。一人にした途端、あの子の後を追うのではないか、そう思えてならないよ」
囁くように言われて、アメリアはそんなつもりはない、と反論しようとした。したのだけれど、しかし同時にその考えがとても魅惑的に思えてしまって。夫のその言葉に、大丈夫よ……ととてもか細い声で返すのがやっとだった。
あの時以来、直接的な言葉で責められる事は無かったけれど。
けれども使用人たちの目が、声が。義母の向ける視線が、言葉のどれもが。
己の罪を突きつけられているような気持ちになるのだ。
夫の言葉に、死ねば楽になる、という考えが浮かびはしたが。
きっとそれすら許されない。
この後、たとえまた子を孕んだとしても。
それで赦されるなんてあるはずがないのだ。
己が罪の大きさを自覚した時には、とっくに手遅れであった。
「――そういえば君の妹だけれど」
「わたくし他の家の養子になった時に縁が切れているので、元、とつけてくれると助かるわ」
「君の元妹だけれど」
「なあに?」
「どうもあの家に軟禁されたようだよ」
「そう。妥当なところね」
社交の場では様々な噂も飛び交う。その中で、生まれて間もない子が亡くなった話なんて大っぴらでないにしても広まるのはあっという間だった。お気の毒ねぇ、なんて大半は詳しく知らないから同情的ではあるけれど、事情を知っている極一部――つまりは当事者たちからしてもお気の毒ねぇとしか言いようがない。
ただし、周囲のお気の毒は亡くなった子へ向けられる言葉であったが、当事者――モニカたちからすればお気の毒なのは親に向けられる言葉だ。
アメリアが余計なことをしなければ、今頃あの子だってすくすくと育っていただろうに。
子を失って気落ちしている妻が家から中々でなくなってしまった、という話で落ち着いたらしい。噂ではそういう感じであったけれど、実際はまた余計な事をしでかさないように閉じ込めただけだろうなとわかる。
流石にまた同じ過ちを繰り返したりはしないと思いたいが、ちょっと手を変えて別パターンでの何かをしでかさないとも限らない。
「予想通りだったかな?」
「どうかしら。少し賭けだった部分もあるわ」
賭け? と夫が首を傾げるので、モニカは「そう賭け」と頷いてみせる。
アメリアが学院から戻る前に養子になって家を脱出した。
元両親がどれくらい落ちぶれているかは賭けだった。
大金を手に入れた以上、仕事を辞めて生活するだろうと思っていたし実際そうなった。
アメリアが学院を卒業する前に財産全部使いきって生活ができなくなる可能性はもちろんあった。
とはいえ、子爵が一見簡単に言う事をきかせられそうな――弱く見える外見であったため、金がなくなってもまだ脅せば更に引き出せると踏んでいた。
養子として引き取った後は何があっても接触しない、という条件が契約書に盛り込んであったにも関わらずだ。子爵家に押しかけたりしなければまだもうちょっとマシな生活はできていたと思われる。けれども契約を違反した事で違約金を支払う事になり、だが金のないかつての両親たちは結果家財道具の何もかもを持ち去られてしまった。
あれがもう少し早くに行われていたら、アメリアが帰ってきた時にはがらんとした家の中きっと両親の衰弱死した姿があったかもしれない。
けれどもどうやら生きていたようで、そこできっとアメリアはモニカが養子に出た事を知ったはずだ。
実際知ったから、ああして接触を図ろうとしてきたのだろう。
両親から教わった、とはモニカは思わなかった。きっと契約書を見たはずだ。
もし両親から聞いていたなら、接触した場合違約金が発生する、という部分にアメリアも含まれているような言い方をしただろう。けれども実際契約書に記されていた関わらないと約束された相手にアメリアは含まれていなかった。
だからこそ、社交界で人伝にこちらに話を持ち掛けて接触を図ろうとしたのだろう。
アメリアは接触したところで契約違反にならないのだから。
「あの家でわたくしの立場は使用人かそれ以下だった。同じ血を分けた家族のはずなのに。だから、アメリアならきっとわたくしが家を出て使用人としてではなく貴族令嬢として暮らしていると知れば、遠からず接触はしてくるだろうと思っていました。えぇ、だって、彼女にとって私はあくまでも自分より下の立場にいないといけない存在。それが、自分が暮らしていた家よりも裕福で身分も男爵から子爵家へとなれば、さぞ許せないものに思えたでしょうね。その後は更に別の家へ――えぇ、お婆様のもとへとなれば、わたくしは伯爵令嬢の立場を得る事になりました。男爵家令嬢でありながらもどうにか伯爵家のご令息を射止め結婚にこぎつけたアメリアは、どうあっても元は男爵令嬢。
けれどわたくしは、伯爵令嬢としての立場を名乗ることが許されている。いつの間にか自分より下だと思っていた相手が、誰が見ても立場的にわたくしの方が上である、とみなすようになってしまった。
どうにかしてわたくしの立場を失墜させようと思うのは、アメリアにとっては当たり前の事だったのでしょうね」
とはいえモニカはアメリアがどういった手段で仕掛けてくるかまでは予想できなかった。
かつて、生家で育った時は自分にはロクな教育を施されなかったが、アメリアは一応男爵家の令嬢として躾けられ、育てられてはいた。
あの時点であればアメリアの方が優秀であったのは間違いない。モニカはあの家族はあれはもうだめだ、と見切りをつけこそしたけれど、力で父に敵うはずもなく、また女としてであれば母に勝てるはずもなく、頭脳労働などの点からみて妹にも勝てる状態ではなかった。
だから一人で挑もうとしないで周囲の助けを得るために動いた。
けれどもその後は。
あの家の人間から離れて、貴族として本来知っていて当たり前の知識や礼儀作法などを学んでいくうちに、アメリアとの差はどれくらいあるのかがわからなかった。
既に学院を卒業した妹。貴族としてなら問題はないだろう。けれどモニカはその時点で伯爵家の令嬢として学ぶべきことも多く追加された。
今までは自分より知恵があるだろう相手だった妹。しかし当時と比べて今はどうなのだろう。知識はモニカの方がきっと多く増えたはずだ。そのせいで妹という敵をどれくらいの位置づけをするべきかがわからなくなってしまった。
過小評価した結果自分がまたひれ伏すような事になるのは嫌だ。
けれどもあまりにも過大評価をするような事もしたくない。
茶会などでアメリアに関する噂を耳にして、もしかしたら大したことはしてこないかもしれないな、と思いはしたがしかし同時に何をしでかすか予想ができないというのもあった。
既に頼れる家族もなく帰る家もない以上、アメリアが貴族の身分を捨てるような真似はするまい。であれば、そういった――身分を剥奪されるようなことになるかもしれないような真似はしてこないはずだ。
だが、そういった範囲内で何をしでかしてくるか、となると途端にモニカには予想できなかったのだ。
茶会にでも誘って茶に毒の一つでも盛るくらいはするかもしれない。
人を雇って殺そうとするまではいかずとも、大怪我をさせて社交の場に出てこられないように目論む可能性はある。
アメリアはモニカの事を自分と同じ人間だと認識しているかも疑わしかったので想像する展開がどれも物騒になってしまいがちであったのは仕方のない事だ。
「結局、思っていた事とは全く違う展開でこられてしまって、どうしたものかと必死に考えていたくらいですのよ」
そう、あの時赤ん坊を強引に押し付けられた時、モニカはとても困っていた。
もし赤ちゃんに何かあったら。
その間赤ん坊の世話をしていたこちらに責任があるだろうし、そうなればアメリアはそれを全力で盾にして償いにとどんな事を言ってくるか……もちろん使用人がいたのだから、赤ん坊の世話を任せる事は可能だった。
けれども、自分で一切見ていないと知られたら、きっとアメリアはその程度の事もできずに母親になるのは無理かもしれませんわねお姉さま、と勝ち誇るだろう事は簡単に想像できた。
顔に出しこそしなかったが、あの時モニカの頭の中はどうしたらいいかしら……と混乱していたと言ってもいい。
「結局、あなたの練習なんだから失敗しても何も問題はない、という言葉でわたくしも冷静になれたのです。感謝していますわ」
念を押すかのようにアメリアが言った、練習、の言葉を夫はあくまでも悪意に満ちた状態で受け取った。
そういう風に受け取られる事を想定していないで軽率な発言をした、と後からアメリアが知った時にはとうに手遅れ。
実際にアメリアが仕出かした事を事細かに知っているのはあくまでも当事者同士であって社交界で一から十まで知る者はいないだろう。だからこそ、不注意で子を失ったアメリア、くらいにしか知られてはいない。
あまりにも元気一杯ハイハイであちこち移動する赤ん坊にモニカは咄嗟に抱えようとしていたが、それも結局夫に言われ手を出さずにただ見ていただけだ。
その結果どうなるかを知っていたけれど。
しかしアメリアが練習だと言ったので。
それに、もし子が何事もなくそのまま帰ったとしても、またいつか何かの折にアメリアが子を連れてやってこないとも限らない。正直もう関わりたいと思っていないが、アメリアからすれば自分よりも幸せそうに生きている姉の存在が許せないだろうし、そうなれば向こうの気分次第で関わりが増える事も有り得た。
子を見捨てると決めた時点で、アメリアの今後をモニカは何となくだが予想していた。
離縁されて帰る家もないまま平民として暮らしていくか、離縁はされずとも家の中での自由はなくなるか。
家の中で自由に行動できなくなれば、アメリアにとってはさぞ息の詰まる毎日だろう。あれは昔から親に甘やかされていたのだから、自分の望みの一切が叶えられない状況というのはさぞ苦しいに違いない。
もし離縁もされず今までとそう変わらない生活ができるようであれば、その時はこちらがアメリアに対しての噂を流すつもりだった。
流せる悪評はそれこそいくらでもある。結果としてアメリアは自由に外に出る事は難しくなるだろう。そうなった場合、アメリアが嫁いだあの伯爵家だって外聞が悪くなるのは言われるまでもない事なので、そうはならないだろうと思っていたし実際そうなった。
閉じ込めるのが先か後かの違いだ。
詳細を知らなければ、下手に離縁して追い出すにしても子を失って失意に暮れる女を追い出した家と伯爵家の立場が悪い方へと傾く。誰もが詳細を把握していたならともかく、知られる前であれば事情はどうあれ伯爵家の名に傷がつく。
選択肢があるように見えて実際は離縁せずに閉じ込める以外ないのだ。
「もしかしたら次は病気で、って話になるかもしれないね」
「次の子が望めないようでしたら、そうでしょうね」
産むだけ産んで子を取り上げられるか、はたまた病気という事にでもなってそっと毒で殺されて新たな妻を迎える事になるか。
契約書に貴女の名前がなかったのは、関わった場合確実に不幸に陥れるためだったのに。
「契約違反にならないからって関わりにくるのだから……会わないままなら幸せなままでいられたでしょうに、お馬鹿さんね」