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九州大学文藝部・2022年度・新入生歓迎号

アイ・ニード・キル・ユー

作者: 奴

 学生向けのアパートメントは実に狭く、玄関から部屋の全部が見渡せた。廊下にキッチンがあり、風呂はユニット・バス型である。

 私は部屋の狭い床で横になって、眠ってあるような春の生ぬるい空気に酔った。

 もう春だ。三月のなかごろだ。それまで、昼の日の光ですら身を温めるに心もとないほどで、夜になれば零度ほどにまで下っていたが、一日ばかり雨が降り風が吹くと、突如として力のみなぎる春になった。桜の開花宣言すら成された。

 そういうわけで、昼はずいぶん散歩にいい日和だった。数日前よりは人の往来が繁くなった。私はそれを部屋から見た。大学が移転してだんだん栄えだした町は、学生がよく歩いている。それもちょうど年度末で家移りのころであるから、自動車に荷物を積んだ家族や、引越屋のトラックが日に一回は来る。それで日中はどうも騒がしい。

 もっとも外が騒がしいのは、アパートメントの前にバスの停留所があるせいでもあった。一時間に三度来る。朝夕は五回も来る。夜になるといつしか止む。平日の朝には近隣に住んでいる学生などがそこでバスを待ち、夕暮れになるとまた、ぞろぞろとバスから降りてくる。大学から下りてくるバスの停留所は向かいにあるが、降車した人の声はやっぱり届く。話し声は窓を開けていると嫌でも聞こえる。

 それでこんな話を聞いた。

 四月まで講義はなく、私は十時ごろまで布団でぼんやりしていた。それから布団を出て、窓のそばで、差しこむ春の陽気に当たっていた。その声の主はバスを待つ学生たちのようで、最初は講義だか研究だかの話をしていた。

 「誰か絶対に留年すると思っていたが、まさか棟田だとは予想しなかったなあ」

 「しかしたった一回講義に出られんかっただけで留年というのはあんまり厳しくないか」

 「まあ現実はとかく理不尽だ。だから生きにくくって困る」

 「棟田を慰めにゃならん」

 「地体、何をしてあれを癒してやるんだ。かえって何もせずにふつうに接しているほうがあいつのためだぜ」

 なるほどその棟田というやつはきっと彼らに比べるとまじめな人間なのだろう。私は自分の学部に進級条件がないことをありがたく思った。同時に顔もわからぬ棟田くんを不憫に思った。

 話は大学数か年のあり方に転じた。

 「このままじゃ、恋愛もなし、サークルもなし。うまくつながった友だちとつるんで終わりになっちまう」

 「嫌か?」

 「嫌ってんじゃないけど。寂しかないか? 別にとくべつ何をしたいということもないんだが、俺は妙なサークルに入って妙なことをやって四年なり六年なりを過ごすんだと思ってた」

 「妙というのは?」

 「妙っていうのは、つまり、何だ、穴掘り部みたいなよくわからんやつ」

 「アニメに出てくるような?」

 「うん」

 「まあでももっと有意義に生きたいというのはわかる。バイトとかインターンとかも必要だし、むろん研究もするにはするけど、何だろうな、旅がしたいな」

 「俺は彼女が欲しい」

 「彼女?」その声は冷笑した。

 「別に彼女でなくっても、仲のいい異性が欲しいんだ。変な意味じゃない。ちょっと出かけて映画を見たり、いっしょにご飯を食べたりするような、気の置けない異性だ」

 「欲しいと言わずに作ればいい。変なサークルには変な美人がいるんじゃないのか」

 バスが来るにはあと五分ばかりあった。

 「何にせよ、このままぼんやり四年を――院に行くなら六年だけど――何もせずに過ごすのは嫌だな。今すでに後悔だらけで死にたくなっている」

 「もう春だぜ」

 「だから、五月病だよ」

 「冬季鬱でなしに?」

 「冬季鬱もあった。ここ一か月はとくにくさくさしてた。何のために生きているのかわからんかった」

 「それを言いはじめたら魔境だぜ。際限がない」

 「だから困るんだ。何を信じればいい?」

 相手はしばらく思案して、「神だ。宗教」

 「神か。隣人愛とかか」

 「うん。とにかく欠乏しているのは愛なんだろうな――やっと来た」

 バスが来て、学生らは乗りこんだ。そのエンジン音のなかに会話はどうにか聞こえた。

 「愛か。愛に生きればいいのか」

 「うん。俺も愛に生きるよ」

 「何、I need kill you. か――俺とお前の間柄だろ。そんなこと言わずに殺してくれ」

 それでバスはドアを閉じ、走り去った。通りは静かになった。


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