追憶
ゆらゆら、ゆらゆらと揺れている。
「……んん。ここは……?」
暗闇がどこまでも続いているような空間。見えない床の上に立っているような、浮かんでいるような、そんな不思議な感覚。誰もいない、なにもない。温度も音も感覚すらも感じない。
「あれ、私……何していたんだっけ。確か……そう、死んだ、ハズ。じゃあここは死後の世界?」
でも死後の世界にしては……味気ないというかなんというか。三途の川とかなんか、そういうのがあると思っていた。
ずっとその場に留まっているのがなんだか怖くなって、とりあえず歩いてみる。進めど進めど、只管暗闇が広がっているだけ。先が見えない。この空間がどこまでも果てしなく続いているような、そんな気がする。
「……何か、誰か、いないの?」
怖くて怖くて、だんだん心細くなって泣きそうになる。何も無い場所は苦手だ。思い出してしまうから。胸に突き刺さるような痛みと苦しさに蓋をして気付かないフリをする。
そうして恐々と進んでいくと、目の前に突然ドアが現れた。どこかで見たことのあるような茶色のドアを開き、躊躇わず中に飛び込んだ。
「……っ、ここは、家? でも、どうして」
一瞬の眩い光に目を瞑り、次に目を開けたとき鈴は家の中にいた。鈴が召喚される前、日本で住んでいたマンションの一室。その一室のリビングダイニングに鈴は浮いていた。
キョロキョロと辺りを見渡し、動こうとしたら動けなかった。手も足も固定されているかのようにピクリとも動かない。動くのは首から上だけだった。
そうこうしているうちにガチャっと玄関のドアが開いた。
「ただいまー」
この声……お父、さん?
「おかえりなさい、あなた」
お母さんも……これは、夢?
「鈴は?」
「遊び疲れてぐっすり眠っちゃったわ。もうそろそろ起きてくるんじゃないかしら」
「ふわぁー……あー、お父さん帰ってきてる! おかえりなさい」
「ほらね」
「おー鈴。ただいま」
目を擦りながら部屋から出てきて、お父さんの姿を見た瞬間勢いよく駆けて抱きつく小さい頃の鈴の姿があった。
ああ、これは私の記憶だ。私がまだ小さかった頃の記憶。お父さんとお母さんがいた、幸せな日常の記憶。走馬灯っていうやつなのかな。死ぬ直前に見るって聞くけど死後の場合もあるんだ。
目の前の光景を、三人が笑顔で楽しげに笑い合う姿を、眩しそうに目を細めて眺める。幸せだった日常。もう叶うことのない日常。いつの間にか鈴の頬には涙が伝っていた。
また辺りは光って場面が変わった。
どんよりとした空気が漂う葬儀場。そこにはお父さんとお母さんの棺桶が並んでる。真新しい高校の制服を着た鈴が独り、俯いて泣いている。高校に入学してすぐのことだった。
離れて暮らしていた祖母が現実を受け止められずにいる鈴の代わりに葬儀の準備を整えてくれた。泣いているだけの私に寄り添ってくれた優しいおばあちゃん。
学校生活なんて楽しめなかった。青春なんてしている暇なかった。友達も作らなかった。それより忙しくしていたかった。学校では勉強を、学校が終わればバイトに時間を費やした。
現実逃避とはいえいくつもバイトを掛け持ちした挙句、疲労困憊になって結果倒れた。事情を知っている担任は困ったときはいつでも相談しなさいと言ってくれた。親身になってくれた。
けれど、生活を変えることは出来なかった。だって、少しでも時間があったら考えてしまうから。亡くなった両親のことを。楽しかったあの日々を。遺品整理も出来ずそのままの状態にしているのがその証拠。全部夢で本当は生きているんじゃないかって、その内何事もなかったように帰ってくるじゃないかって希望を懐く。そうして、哀しい現実から目を背け、かつての日をまだ夢見ている。
それが、二年前の出来事。当たり前だった日常が崩れた日。気持ちの整理もまだついていない過去。
また、場面が変わった。
大勢の人が集う玉座の間。二つ目の日常が崩れた瞬間。そして、地獄の始まり。
どよめきが歓声に変わる。誰もが希望を、期待の眼をする。賞賛の声がエコーにかかって聞こえる中、鈴の心はスゥっと冷たく凍っておく。
フェードアウトするように暗闇に戻った。声も聞こえなくなった。良かったと安堵した。これ以上は見ていたくなかったから。でもその想いは無残にも最悪の形で裏切られた。あの何もない部屋での光景が、惨劇がどんどんと流れている。見渡す限りにテレビ画面が浮かんでいるように次々と映像が流れる。
もう何も見たくない。聞きたくない。思い出させないで。突きつけないで。堪らずその場で耳を塞ぎ、目を固く瞑り、蹲る。これ以上傷つかないようにと、心を閉ざし全てを遮断する。
そうしてから、どれほどの時間が経っただろうか。ふと、なにか暖かかいものに包まれている感覚がした。
そっと顔を上げるとそこに映像はなく、暗闇が広がっているだけの空間に戻っていた。なにもかも、なくなっていた。いや、一つだけ、ある。それは小さな光。淡い色の光が灯っている。よろよろと近づき、その光に手を伸ばした。