雲のように、水のように
『お父様はしがらみに囚われない、ぽっかり空に浮かぶ雲のような方でした』
ケイレブ・ウィリアムズに父の記憶は薄い。物心つく前に、もう亡かったからだ。
『でもやるべきを見出したら、必ず為し遂げる方でもありました。あの大河の流れのように、とうとうと前へ進む人でした』
その薫陶を受けたのは主として年の離れた姉で、だから少年の父の思い出には、いつも彼女の語りがつきまとう。
しかしそこには多分の身びいきが含まれるようだった。客観的に判断すると、父はどうも、少し抜けた人物であるとしか思えない。
ゆえにケイレブは、父は姉とよく似た人物だったのだろうと見当をつけていた。
そんな、お人好しで捉えどころがなくて、そのくせ初志貫徹せずにおかない姉が戻ったのは、半月ほど前のことだ。
魔皇討滅の旅に出た彼女は役目を為し遂げ、無事の帰還を果たしたのである。
『わたくしは、もう死んだものと思いなさい。ケイレブ、これからはあなたが、お母様と家を守るのですわよ』
死を覚悟した透明な微笑で告げた姉の帰郷。それ自体はとても喜ばしい。
だがケイレブは手放しに快哉を叫べなかった。姉の傍らに、見知らぬ姿があったからだ。
オショウという名のその男は、姉が他世界より喚び寄せた人物であるのだという。皇禍に際して多大な貢献をし、姉の命を救った英雄であるのだという。
世間はそう語るし、当の姉もこれを肯定する。
だがケイレブは彼を、いけ好かないヤツだと思った。
のっぺりと何を考えるのか知れないし、何事につけ不器用だ。およそ生活能力を欠いている。
パケレパケレの放牧すら満足にできないありさまで、これなら釣銭を間違えないぶん、今年八つになるパン屋の娘の方が上等だ。
だというのに、自分以外の周囲が、なんとなく彼を受け入れるのにも得心がいかなかった。
よってケイレブはこのところ、継続して不機嫌である。
この心のささくれは、実のところ「お姉ちゃんを取られた」の一点に繋がるのだが、無論生意気盛りの少年の認めるところではない。
こうした不満の蓄積を言い訳に、その日ケイレブは家を抜け出し、町まで足を運んでいた。
アンデールには同じ年頃の少年少女が幾人かおり、ケイレブは彼らの大将だった。
勿論家柄を笠に着てのことではない。そんな権柄尽くの振る舞いをすれば、たちまち姉の拳骨が落ちるのは目に見えている。
これは駆け比べや石投げ、パケレパケレたちからの慕われ具合といった子供らしい競い合いにより、ケイレブが確立した地位だった。
過保護なケイトが知ればやはり眉を顰めそうだが、同じ年頃の彼女は同年代どころか年嵩の男子相手に取っ組み合いをしていたのだから、何をか言わんやであろう。
そうして気の置けない仲間たちと過ごして鬱憤を晴らした夕刻、思わぬ厄介が持ち込まれた。
ハンナという、パケレパケレを飼う家の娘が、泣きながら飛び込んできたのである。
落ち着かせて話を聞けば、ちょっと目を離した隙に、一頭の子パケレの行方が知れなくなってしまったのだという。
子分の嘆きに、無論ケイレブは立った。
仲間を大人たちのところへ走らせ、自身は放牧先の、向こう見ずで好奇心旺盛なパケレパケレが迷い込みそうな場所を調べて回る。
果たして心当たりのひとつで草食動物の姿は見つかったが、それは最悪に近い地点だった。
子パケレが不安げに鳴く場所は、断崖近い岩棚の上であったのだ。
パケレパケレは、登攀能力に優れた生き物である。垂直に近いような絶壁すら、なんでもない道のように登ってしまう。
この子パケレも強靭な脚力のままに闊歩し、そして足を滑らせたのだろうと思われた。
不運なことに、その折子供は足を痛めたようだった。狭い岩棚を往復するその動きは、明らかに後足を庇っている。
よくない状況だった。
谷底側から助けに回るには時間がかかる。だがパケレパケレは群れる生き物であり、特に夜間の孤独を恐れた。日が落ちきればパニックを起こし、怪我を負うまま無理に動いて、最悪滑落死する恐れがあった。
しかしこの断崖を滑り降り、子パケレを引き上げる手段もケイレブにはない。
無力を自覚し、唇を噛んだその時。
「うむ」
背後から、そう声がした。
「おまえ……!」
「あの迷子を、連れ帰ればよいのだな」
音も気配もなく現れたのは、テラのオショウであった。一瞥で状況を把握し、独り決めに彼は頷く。
そうしてすたすたと断崖の際へ寄り、ぽんと何のためらいもなく飛んだ。
「お、おい!?」
身投げとしか思えぬ所業に慌てて崖下を覗けば、一本の棒のように真っ直ぐ落ちたオショウが、足から突き刺さるようにして岩棚へ着地するところだった。
驚愕のあまりにだろう。暴れかける子パケレをひょいと捕らえて肩に担ぎ、そうして彼は再び無造作に飛んだ。
下へ、ではない。
まるで映像の逆回しのように、ケイレブのいる位置にまで、ぽんとひと飛びに跳ね上がったのである。冗談としか思えない光景だった。
子パケレを丁寧に下ろすと、「うむ」と彼は呟き、「手当の心得はない」と続けた。
あんぐりと口を開けたまま、「ねーちゃんと気が合うわけだ」と、ケイレブは妙な納得をした。
*
「やい、オショウ」
ウィリアムズ家の家畜を連れ、放牧に出んとするオショウの背を少年が呼び止めたのは、その翌日のことである。
「うむ?」
「その、なんだ……。ちっとは見直したぞ」
「うむ」
「ちっとだけだからな! 調子に乗んな!?」
「うむ」
これまでとは違う様子で啖呵を切った少年は、そこでしばし言いよどんだ。やがてわずかな照れを滲ませながら、
「でもまあ見所があるみたいだから、子分にしてやらなくもない」
「――承った」
ほんの少しだけ口の端を持ち上げて、オショウが笑った。大きな手のひらがケイレブの頭を撫でる。
不貞腐れたように、けれど払わず、少年はされるがままになっていた。
彼がオショウの実年齢を知り、「うそつけ!」と声を大にするのは、この数日後のことである。