一期栄華一杯酒
オショウがセレスト・クレイズの下を訪れたのは、小間使いより喫緊の呼び出しを伝えられたからである。
皇禍に際し左腕を切断された霊術士は、オショウらに同行し、アプサラスへと入国していた。医療都市として名高いこの王都にて、欠損部位の再生処置を受けるべくである。
魔皇拿捕の武功もあって彼は国賓としての待遇を受け、独自の霊術式による施療もまた恙なく進んだ。ほんの数日で、セレストの左肩は新たな腕を備えるに至っている。
だが、彼の苦労の始まりはそこからだ。
見た目ばかりは万全の左腕は、しかし生えたばかりの赤子の腕である。すぐさま思い通りに動かすとはいかない。霊肉ともが自身の体として馴染むまで、機能回復訓練を重ねる必要があった。
よってセレストはアプサラス王宮に滞在を続け、ケイトとオショウも彼と同じく、城内の一室に留まっていた。
リハビリテーションとその扶助の名目であるが、この逗留の実態は、魔皇の処置と魔族との共存に関しアプサラス王と協議を重ねるべくである。
と言ってもオショウは言葉の巧みな人間でなく、ケイトもまた性質的にこの種の煮詰めには向かない。
王の説得は実質霊術士の弁舌に託されており、そのセレストより火急の招きとあらば、オショウが駆けつけぬ道理はなかった。
力強い風のように、音を立てない影のようにオショウは速歩。数呼吸のうちにセレストの客室へ到着し、
「お早いお着きだな。助かるぜ」
そう挨拶の形で手を挙げる霊術士の向かいの席に、思わぬものを見た。
「あら、オヒョウさま」
霊術士と卓を囲んで座るのは、ケイト・ウィリアムズである。ただし呂律の回らぬ舌からも知れるように、常の体ではなかった。
顔を耳まで真っ赤に上気させ、椅子に腰かけたその上体は、ふらふらと振り子のように歪な円を描いて揺れている。卓上にぺたりと載せた両手が錨めいた働きをして、辛うじて倒れずにいる様子だった。
彼女をそう為さしめたものは、やはり卓に置かれた酒瓶と杯を見れば瞭然である。
「オレの寝酒をよ、軽い気持ちで勧めちまったのさ。注いでやったら躊躇なく一気に干すもんだからいけるクチと思ったんだが、単に酒の飲み方を知らなかっただけらしい」
「わたくし、それくらい存じておりますわ。おります、おりますわよ」
豊富な水資源を誇るアプサラスに対し、アーダルは水が悪い。飲用には適さず、よってかの都市では醸造酒を水代わりとすることを、オショウは知識感染により知り及んでいる。
そうして酒精に慣れた男が嗜む品を、こちらでの成年とはいえ、小娘がひと息に呷ったのだ。この酔態もむべなるかなと言えよう。
「でも世界がこんにゃに覚束ないものとは知りませんでしたわ。思ったよりもふわふわしておりますのね。そしてぐるんぐるん回っておりますのね!」
「うむ」
とオショウは頷いた。確かめたわけではないが、この星も自転していよう。ならばその解釈に間違いはあるまい。
「ま、御覧の通りだ。オレが介抱してもよかったんだが……ついでにお嬢ちゃんのあちこちを触ったとなりゃ、後々障りがあるだろう?」
思わせぶりに右手の指を蠢かしてから、セレストは可笑しげに片眉を上げた。
「妬いたかい? もっとそういう顔を、この子に見せてやんな」
「……むう」
唸るオショウを尻目に、セレストは手前の酒杯を満たしていく。苦心惨憺たる、左腕一本での仕業だった。『ぶ厚い皮手袋を幾枚も重ねて嵌めて針仕事をするようなもんだ』とは彼の弁である。相当に自由が利かぬのだろう。
「で、だ。オショウさんの方はどうだい? 飲めるかい?」
尋ねつつ、苦笑気味に目線でケイトを示した。娘はとうとう卓に突っ伏し、心地良さげな寝息を立ててしまっている。
「幸いというかなんというか、お嬢ちゃんの方がこのありさまだ。男ふたり、こっそり仲を深めるにはいい機会だと思わねェか。勿論オショウさんが口が回る性質じゃねェのも、随分と若いのも承知の上さ。だが黙って飲めばわかることってのもあるだろ」
「む」
仏道使いには不飲酒戒――文字通り飲酒を禁じる戒が存在する。
犯すとも処罰を伴わぬ内面規範であり、地球軍においても順守せぬ仏道使いは多くいた。「仏の嘘をば方便といい、武士の嘘をば武略という」との言いは、不妄語戒、即ち虚言を禁ずる戒を体よく破る者を嘆いてのものである。
その中で、オショウは持戒を続けてきた数少ない僧兵だ。誰のためでもなく、ただ己のために己を律する心のかたちを尊いものと考えていた。
けれど。
「ああ、無理強いをするつもりはねェから――」
「いや。頂こう」
沈思ののち、オショウはケイトの隣に腰かけた。
「般若湯だ」
更に重々しく付け加える。
言葉の意味は取れないながらもそこに飲酒の意志を感得し、セレストは口角を上げ、にいと悪戯小僧のように笑った。今度は右手で酒を注ぎ、杯をオショウの側へと寄こす。
「なら、乾杯だ」
「うむ」
「『魔皇討伐成功に』と言いたいとこだが、大分時機を逸しちまった。ここは何に祝杯するとするかねェ」
杯を持ち上げたセレストがふと呟き、
「そんらの決まっておりますわ!」
途端、何に反応したものか、突っ伏していた酔っ払いががばりとその面を上げた。
「オショウさまがこちらにいらしてくださったこと。オショウさまがうちにいらしてくださることを、お祝いしましょう!」
言うだけ言って満足したのか、ケイトは蕩けて油断しきった赤子のような微笑みを浮かべ、再び卓に倒れ込む。
「よし。じゃ、それだな」
「うむ」
軽く打ち合わせてから、ふたりは各々の杯を傾ける。
初めて喉を過ぎゆく酒は、実に栄華な味がした。