星へ至る川、ひとり
ひとり、星空へと続く川を眺めている。
ケイト・ウィリアムズの故郷は田舎町と呼ぶのが相応しい。人々は日々田畑を耕し、獣を狩り、牧畜を追い、町を包むように聳える山脈の恵みに抱かれて暮らしている。
そうした町柄であるから、英雄の裔たるウィリアムズの家も特別視を受けるということがない。一応ながら領主めいた立場に収まってはいるけれど、そもそも領土内の町は山間のここひとつきりなのだ。ウィリアムズの当主だった父も、領民たちからすれば、「顔見知りのおじさん」であり、「よくわからないけれどちょっぴり偉い人」程度の扱いをされていた。共に鍬を振るい、獲物を分けあう間柄なのだ。気安くなるのも当然であろう。
だからケイト自身も特別扱いは受けず、よく町の子供たちに入り混じって遊んでいた。同じ年頃の少年と、取っ組み合いの喧嘩をしたこともある。
――あの時は、お父様を恨みましたっけ。
亡父の記憶が蘇り、ケイトはちろりと舌を出した。泣きながら帰ってきた娘を見るなり父は、「負けていい喧嘩ならしてはいけないよ」と厳しい顔で告げたのだ。慰めが欲しかった幼い自分は、その言葉の意味をよく理解できなかった。けれど今は、少しだけわかる気がする。
ケイトは胸の内から、暗い川面へと目を転じた。
白く雪を頂く山から流れる水は、滔々と海にまで至る。だがこうして夜の中で眺めれば、大河は地平の果てで夜の黒に溶け込んで、星空へ注ぐようだった。ゆえに人々は言う。これは星へ至る川であると。死者の魂はこの流れに乗り、遠く空に旅立つのだと。
だから心が乱れると、ケイトは時折ここへ来る。
川のほとりにひとり立ち、肌を切るような夜気に身を浸していると、父が相談を聞いてくれている気がするからだ。
――とうとう、この日が来ましたわ。
涙の跡の残る目元を拭い、唇だけで彼女は囁く。皇禍勃発の報せが届いたのは、昨日のことだった。
皇禍とは魔皇が引き起こす戦乱を言う。人を根絶すべく、それは大戦を世に起こすのだ。凶報が日を置かずもたらされたのは、ウィリアムズの血族が伝える霊術式が戦力として当て込まれているからだった。
ケイトの家系の秘伝とは召喚術。他世界の兵を、こちらに喚び込む術式である。
無論、無制限に執行できる霊術ではない。だかこれとウィリアムズの特性を組み合わせれば、当代の魔皇も必ず討ち果たせるはずであった。しかしその過程において、ケイト自身もまた、必ずや落命することとなるだろう。皇禍に際してあった王都よりの呼び出しは、いわば死刑宣告だった。
しかし、それでも。
自分ひとりの犠牲でより多くが救われるなら、為すべきなのだ。これは負けてもよい喧嘩ではない。今こそ、きっと勝つべく研がれ、受け継がれてきた牙を振るうべき時だった。
楽勝ですわ、とケイトは思う。
小高い位置から町を見下ろす。星明りに浮かぶその輪郭の全てに、思い出があった。様々な人の顔が去来する。
楽しいものばかりではない。辛いこと、苦しいことも数多い。けれどその全てが、今の自分へと繋がっていた。
田舎娘である彼女には、世のため人のためと言われてもよくわからない。けれど、眼下の景色をとても好きだと感じる心に嘘はなかった。なら、それでいいのだ。理由はそれで十分なのだ。
「楽勝ですわ!」
今度は口に出して述べた。そうしなければ、決意が鈍ってしまいそうだった。「わたくしにだってなれるはずです」と呟いて、父の言葉を思い出す。
「いいかい、ケイト。これは僕たちが、僕たちだけではどうしようもない時に助けてもらうための術式だ」
幼いケイトに霊術式を伝授する折、父は真剣な面持ちでそう語った。
「だから喚ばれる人間は例外なく強い。とても強い。そういう人を召喚するように編まれているからね。だけど決して忘れちゃあいけない。どれだけ強く見えても、彼らは無敵の怪物でも、無謬の英傑でもない。何もかもを押しつけてはいけないんだ。僕らは少し手を貸してもらうだけ。肝心なところは自分でやり遂げる気概を持っていなくちゃならない。いいね?」
「はい!」
「それからね、客人はとても孤独だってことも覚えておいて欲しい。今まで暮らしていた世界から、いきなり切り離されてこちらに来るんだ。寂しくならないはずがない。想像してごらん、ケイト。自分が見知らぬ場所に独りきりで、父さんも母さんもケイレブも、町の皆もパケレパケレたちもいない。それがどれだけ心細いことか、わかるだろう?」
「わたくし、ぜったい親切にしますわ!」
想像した娘が半泣きになり、次いで声を大に誓ったので、父は優しく微笑んだ。
「なら親切なケイトに、ひとついいことを教えてあげよう。遠い遠い僕らのご先祖、やっぱり別の世界から喚び落とされた人の言葉を。英雄になるための条件を」
「えいゆう!」
幼子は、きらきらと目を輝かせて父を見上げる。期待を受けた父親は、もったいぶって瞳を閉じた。
「それはたったふたつだけ。ひとつは、その時そこに居ること。もうひとつは、何かしようと思えること」
「……それだけですの?」
肩透かしを食った顔で漏らす。彼はその頭をそっと撫でた。
「そう、それだけだ。とても簡単に聞こえるだろう? でも簡単なことほど、時にひどく難しいんだ。たとえば大好きな人に、大好きと伝えるくらいにね」
「わたくし、お父様が大好きですわ!」
言葉尻だけを捉えて、娘は得意げに宣言する。破顔して、父は彼女を抱き上げ、抱き締めた。
「おんなじですわ。簡単なこと。とてもとても、簡単なこと。わたくしは今、この時に生きていて。皆のためになりたいと思っています。なら、弱気はここに置いていきましょう」
歌うように、川面へ向けてケイトは紡ぐ。左右の人差し指で自身の口の端を持ち上げ、笑みの形を作った。
「楽勝です。ええ、楽勝ですわ!」
小さな背中は夜の中、強く自分に言い聞かせた。