閑話〜不気味(クラーク視点)〜
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俺の名はクラーク・アイビン。
アイビン子爵家の長男で歳は二十。
現在我が一族の慣例に従って聖サーアリット学園で化学講師をしている。
大変な事も多いが、アイビン子爵家嫡男としての誇りと責任を胸に刻みながら日々充足した日々を送っている。
先日は………………人生最大の汚点だった。
愚かだった。
まだ教育者としては未熟な俺のサポートをしてくれていたハーパー・ヒルという女性教師に……襲われかけた。
今でも何かの間違いではと思ってしまう。
悪い夢を見たのだ。幻だったのだ、と。
けれど先程届いた父からの手紙の、
『私の顔に泥を塗る気か』
という叱責の文字を見るたびに現実で起きた事実だと痛感させられる。
俺は愚かだった。
時々やって来る男子生徒への相談と同じ対応をしていたつもりだった。
同じだと思っていた。
何故ならハーパー先生は既婚者だから。
尊敬する年上の上司だったから。
…愚かだった。
そして、助けてくれた学園長先生にも、生徒達にも感謝の気持ちと共に巻き込んでしまった事への罪悪感を強く感じている。
『…貴方は、"悪くない"』
ふと脳裏に彼女の声が蘇る。
淡々と…けれども迷いなく言い切った彼女の声に、かなり不本意だが俺は救われてしまった。
安心してしまったのだ。
ただ、そんな言葉を掛けただけでなく…俺の声に気付き、扉を蹴破るという淑女らしからぬ行動を取ってまで動いてくれた人間があの女子生徒だった事には本当に驚かされた。
エキドナ・オルティス
オルティス侯爵の娘でフィンレー・オルティスの姉、そしてリアム王子の婚約者。
その奇抜な名前もさる事ながら初めて見た時は "人形" のような娘だと思った。
俺がオルティス嬢を人形と評したのは端正な顔立ちと小柄な体格という外見的要素も含めるが……何よりその無表情と性格だった。
『穏やかで落ち着いた性格』と言えば聞こえは良いだろう。
しかし初めて存在を知った当時から、その落ち着き様があまりにも年齢不相応で不気味だと感じていた。
俺には遠縁の…オルティス嬢と同い年の親戚が居るのだが、あいつは喜怒哀楽がハッキリしていて解りやすく微笑ましいものがある。
それがオルティス嬢にはない。
もちろん同じ年頃の娘でも個の性格や育った環境故に差が出るものだろうが……いくらなんでも乖離し過ぎていると思った。
そしてさらに不気味な事に、俺以外の教師の中で彼女の違和感に気付いた者はほぼ居なかったのだ。
『潔癖故に異性への対応が少々手厳しいが、礼儀正しく真面目で貞淑な令嬢』
それがこの学園の教員間での彼女に対する共通認識だった。
…ハーパー・ヒルの件で彼女の豹変っぷりを目撃した学園長先生だけは、認識を変えたかもしれないが。
だから余計に俺はオルティス嬢に苦手意識を抱き、教師の立場であるにも関わらず彼女への対応を周囲よりも厳しいものにしてしまった。
それでも一つ一つの行動が、俺の神経を逆撫する。
温和そうに薄笑いを貼り付け微笑んでいると思えば、ふと遠くを見る時はどこか空虚な表情で。
かと思えば一変して鋭く刃物のように冷たい目。
物静かで従順に見えて気が強そうだったり、急に大人びた妖しい目をして嘲笑ったり…。
気味が悪いと思った。
根底で何を感じ、思い、考えているのかがまるで読めない。
掴みどころがなくどこか裏があるように思えた。
だから当初の俺は『彼女は二重人格者か?』とも考えた。
加えてそんな彼女の立ち振る舞いが周囲の人間に対して本心を見せずまともに取り合わず、軽薄な対応でふざけているようにも見えた。
だから余計に怒りを感じた。
不気味だ。
まるであやふやな表面…輪郭で中身を隠しているような、
いやいっそ "異質" だと評しても良いかもしれない。
…ただ、
俺があの、あの場面で姿を見せた時の彼女の表情は……また別の意味でかなり印象的だった。
『ッ……!!!』
まるで自身が深く傷付けられたかのような…悲しそうな顔。
『……』
俯き、強張らせ痛みに耐え忍ぶ顔。
強く握り締め震える小さな手。
『ねぇどうして? どうして貴女はこんな酷い事が出来るの?』
そして…生気ない、人形のような顔。
以前から不気味に感じていた顔。
けれど、
『あんたの表情を見ればわかる…本気で傷付いて、苦しんでる人間に……同情なんて、出来るかよ…ッ!!!』
……僅かに感じた、俺を "一人の人間" として気遣い…守ろうとする金の目。
『貴方とヒル先生に何があったかは存じません。…でも、貴方は何も悪くない。これだけはわかっていて下さい』
どの言葉も対応も…本来険悪な関係であるはずの俺に対する、見返りを求めない純粋な気遣いと優しさばかりだった。
この時初めて、俺は表面だけじゃない彼女の "中身" に触れた気がした。
『なんだ、そんな顔も出来たのか』と、何故か……やっと親近感が持てた気がした。
ずっと感情に乏しい…まるで血の通っていないような冷たい人間だと思っていたが、違ったんだな。
逆にハーパー・ヒルと彼女、それぞれの本質を見抜けなかった俺の観察眼の未熟さを痛感させられた。
本音を言えば俺は未だにエキドナ・オルティスに対して底が見えない気味悪さを感じている。
でも、
あの女とは比べ物にならないくらいにまともな人間である事は明白だった。
だからやっと俺は、
『彼女はそういう人間なんだな』
と彼女の中身を隠すあやふやな輪郭ごと一人の人間として存在を認め、納得する事が出来た気がした。
…まぁ嫌いなままだが。
納得するのと好意を抱くのは別問題だ。
やはり腹の底が見えない女は扱いづらいから気に食わん。
淑やかで単純明快で従順な女が一番だ。
そもそも何故彼女はか弱い女の癖に、決して男に頼ろうとせず一人で何でもしようとするのだろうか。
女は女らしく男に頼ればいい。
助けを求めればいい。
黙って男に守られていればいい。
なのにあの娘はそれを拒否する。
否定する。
だからますます気に食わず腹が立っていたのかもしれない。今現在でもだが。
あんな小さな身体で出来る事なんてタカが知れている。
そんな当たり前の事実に気付かないほど頭の悪い娘じゃないはずなのに、何故なんだ。
だから、彼女の事は気にかかる。気になる。
当然嫌いなままだが。
そもそもフランシスから聞いた話によると彼女は "男嫌い" 故に男に対して反抗的な態度を取りやすいらしいが、それだって色々矛盾している。
なら何故リアム王子の婚約者の座に居るのだ。
それに実弟のフィンレーはともかく、イーサン王子、ニール・ケリー、フランシス…とごく少数とは言え複数の男子生徒と交流出来ているんだ。不自然じゃないか。
何より、何故険悪だった俺の事を助けた。気にかけた。
……気遣った。
彼女以外の男嫌いを見た事がないため断言出来ないが…一般的に『男嫌い』とは、男の存在全てを全否定し女の権利ばかりを主張するような、視野が狭く頭の悪い女を指すのではないか。
訳がわからん。
そして未だにオルティス嬢の言動は矛盾し続けている。
彼女は彼女なりにリアム王子やフィンレー達をいつも気にかけ、大切にしていると思う。
見ていればわかる。
協調性を持ってにこやかに接し、時に気遣い、時に対等に話し合い、
なのにどうして…リアム王子達にほんの一瞬だけ、冷たく静かだが明白な…………憎しみを孕んだ目で、見つめているのだ。