肉体強化開始!!
________***
ぜーっ ぜーっ ぜーっ
(走る。ひたすら走る)
「……っ、ね、え、さま。まっ…」
(ただ走る。ひたすら走り続ける)
「ほん、とっ…まっ…て…よぉ…!!」
「ん?」
少し遠めの後方から声が聞こえたので、エキドナはかけ足をしながら立ち止まり振り返った。見ると、後ろで可愛い弟が膝に手をつき息絶え絶えに止まっていたのである。
ぜーっ ぜーっ
ぜーっ ぜーっ
「…とり、あえ、ず、きゅー、けする、か」
お互いの荒い呼吸のみが響くさなか、エキドナはそれだけ告げて立ち止まるのだった。
________***
「とつぜんどうしたの? 急に『からだきたえたい』とか言いながら飛び出したかと思えば、ずっと走りつづけるなんて」
(うーん、確かに客観的に見れば奇行過ぎたな…)
ある程度息が整ったところで言われたフィンレーの言葉に、エキドナは苦笑しつつ少し思案する。
エキドナ達は現在、実家の敷地内にある庭園のベンチに座り休憩していた。『庭園』と一言で言っても流石はお金持ち貴族の家だけあって、子どもが大人数で缶蹴り大会をしてもまだ余るくらいには広い空間である。
そんなだだっ広い庭園の中を、エキドナはただひたすら走っていたのだ。(注:準備運動は軽くした)
前世の記憶が戻りはや一週間が経過し、結局リアム王子とは婚約解消出来なかった上にこの世界がそもそも乙女ゲームの世界なのかもよくわからない今日この頃、エキドナは肉体強化を開始したのである。
そして先ほどから隣で話し掛けている彼の名はフィンレー・オルティス。エキドナの一つ下の弟だ。サラサラプラチナブロンドの髪はエキドナとお揃いなのだが『父親似』と周囲に言われる姉に対し、彼の顔立ちは母親似らしい。ラベンダーを連想させる淡い薄紫の大きな瞳が特徴的で、お人形のように随分可愛らしい……要するに天使が舞い降りたのかと思うくらいには可愛い容姿の弟である。なおまだ四歳の妹で末っ子のアンジェリアも、フィンレーと同じ顔立ちで天使レベルに可愛いくて尊い。前世が末っ子だったエキドナはこの弟と妹を溺愛しており、目に入れても痛くない程度に可愛がっていた。
「…ちょっとね〜今日変な夢? 見ちゃってさ」
「変なゆめ?」
頭上にクエスチョンマークを浮かべたフィンレーが不思議そうな顔をしてエキドナを見上げる。上目遣いで見つめる弟にちょっと顔がとろけそうになった。
(うんかわいい。男嫌いだけれどまだ幼くかつ実の弟ならしばらく平気そうだ。じゃなくて、)
そう思いながら、エキドナは夢という名目で "前世の記憶" を弟に話しはじめる。
「私がね〜大人になった夢なんだけど、大人なのに身体が弱くて体力なくて……ずっと寝込んでる夢なんだよ」
(前世の私は、今思えば相当な虚弱体質だった)
元気に学校に行く、愚痴りつつ残業をこなして飲みに行く…大勢の人間が当たり前のようにこなしている事を、前世のエキドナには出来なかったのである。慢性的な倦怠感に急な嘔吐、失神……と、人並みに仕事をする事も困難になり、家で寝込みながら泣いて過ごした事を昨日のように思い返す。
「…それは、いやだね。でも、なんで姉さまが走るの?」
前世のことを少し思い起こして遠い目をしたエキドナだが、フィンレーの声で現実へと引き戻される。
そして彼の疑問に対しニッと笑みを作るのだった。
(要するに健康である事がどれだけ大事な事か、健康ってだけでどんなにたくさんの可能性が秘められているかって話なんだよね。つまり…)
「将来寝込むほどにはならないかもだけど、やっぱ体力はあればあるだけいいよねーって思ってさ。だからとりあえず走ってんの」
しかも体力があればあるほど可能性というか選択肢が広がるのだ。今のうちに体力作りという名の投資をしても損は無いだろう。
(『筋肉は裏切らない』…この言葉を作った人は天才か)
「ふーん」
ひとまず幼い弟なりに納得してくれたようだった。ついでに素朴な疑問だったのでエキドナも尋ねてみる。
「ていうか、なんでフィンまで走ってんの?」
(もしや、この子脳筋の素質が…!?)
「……すごい顔して走る姉さまをとめようとして追いかけてたら、ずっと走っちゃってた」
(ほんとかわいいなぁこの子は)
『すごい顔』という言葉を完全スルーして、姉を追い掛ける幼い弟のいじらしさに、思わずエキドナはニヤけてフィンレーはスネ気味に俯く。そんな仕草さえ愛おしくて、エキドナはにこにこしながら自分と同じサラサラのプラチナブロンドを、両手でワシャワシャと激しめに撫でるのであった。怒られた。
結局、母から昼食が出来たと声を掛けられるまでエキドナはひたすら走り続けた。何故かフィンレーも並走し、姉達を見て触発されたアンジェリアも『アンジェもはしる〜』と言いながら走り始める傍目から見れば割と微笑ましい光景になっていた。
(お姉ちゃんのマネっこする弟妹かわいい)
自身に懐く弟妹達が可愛すぎてついニヨニヨしてしまう。…力尽きた二人を置いてなお、エキドナは走り続けてもいたのだが。
(さっすが八歳児の身体…多少疲れてはいるけどまだ動けるわ)
軽く腕を回して確認するが気怠さは感じず今すぐまた駆け出せそうだ。前世と違い、トレーニングでかける僅かな負荷の調整を失敗して長期間寝込む心配がないのでエキドナとしても精神的にかなり楽だった。しかも身体を動かせば動かすだけ体力がつき自分にとってプラスになるのだ。そんな事を考えながら、エキドナはルンルンと機嫌よく昼食を食べていた。
(身体を動かした後のご飯サイコー♪)
「最近のエキドナは楽しそうで何よりだわ」
テーブルを挟んでにこにこしながら声を掛けてきたのは、弟妹と同じラベンダー色の瞳を持つプラチナブロンドの女性、ルーシー・オルティスである。先代オルティス侯爵の実の娘であり、エキドナやフィンレー、アンジェリアの母親だ。彼女は十八で父と結婚し十九でエキドナを産んだそうなので、まだ二十七歳と若々しく、気品と愛らしさを併せ持つ美女だ。前世の記憶を思い出してからはあまりに若い母親なので内心親というよりお姉さんみたいな心境になっていた。
「それにしても……身体を動かす事が好きだったなんて、お母様知らなかったわ。やっぱり貴女はお父様の血を色濃く受け継いでいるのでしょうね〜」
現オルティス侯爵兼私達の父親であるアーノルドの実家は名のある騎士を複数輩出した事で有名なホークアイ伯爵家であり、今でも武闘派一族として知られていた。どうやら弟には不審がられたが自身の奇行を、母は "父親似" という理由であっさり納得していてくれたらしいのだ。余談だがかつて後継息子だった父は権限等を姉…つまりエキドナ達の叔母に譲渡して婿入りした経緯があり、当時は色々揉めまくったらしいけれど、現在では和解し叔母達と良好な関係を築いている。
(そういえば前世の私も武闘派だったなー。体力作りのために空手をちょこちょこやってたけど師範からも『筋が良い』って言われて嬉しかったっけ)
そこまで思い出した刹那ッ!
『ピシャァァン!』とエキドナの脳裏に電流が走った!!
「…お母様、お父様から剣を教えていただく事って出来ますか?」
「あら急にどうしたの? 学びたいの?」
エキドナの突然の質問にルーシーが不思議そうな顔をしてこちらを見る。構わずエキドナは説明した。
「確かお父様も叔母様も幼い頃から武術を嗜んでいたとか。…身を守るという意味で、私にも必要かと思いまして」
ホークアイ伯爵家は武闘派一族。それは父も、さらに現当主夫人の叔母も例外ではない。二人とも幼少期から剣術・馬術・弓術…etc. と武道に関する事は出来て当たり前という特殊な英才教育を受けていたそうだ。
「確かにリアム様の婚約者である手前護身術は必要かもしれないけれど…」
う〜んと小首を傾げながら悩む様子の母には、困惑はあっても特に反対の色はなさそうだ。『これはもう一押しか』とエキドナは思った。
「ホークアイ伯爵家の血を引く者として、リアム王子を守れる程度には身に付けておきたいのです!」
「!」
顔を出来るだけキリッとさせてからドドン! と効果音が付きそうなほどの勢いで言ってのけると母は大きな目をますます大きくしながら口元を手で隠す。
「まぁっ、リアム様のことをそんな風に思っていたのね…! わかったわエキドナ。あとでお母様からもお父様にお願いしてみるわ!!」
周りに花を咲かせて納得した母の姿に、エキドナはテーブルの下でガッツポーズを取るのであった。勝ったッ!
________***
「皆様、旦那様がお帰りになられました」
夕食前、部屋で家族と寛いでいると、我が家のベテランお爺ちゃん執事のカルロスがエキドナ達にそう伝える。執事の言葉にルーシーがにこにこしながら声を掛けるのだった。
「みんなで玄関までお迎えに行きましょうね」
「わ〜いおとうさま〜」
「リア、お兄さまとげんかんまで競争だ!」
母の言葉に、フィンレーとアンジェリアが笑顔で駆け出しはじめた。
(天使のような美形親子マジ眼福。ハッ…じゃなくて)
無意識に三人を拝んでいたエキドナは思わず背筋が伸びる。
父に剣の教えを請うことに緊張しているのではない。あの父なら多分大丈夫だ。…ただ、いつもの "アレ" が、憂鬱なだけだ。
三人の後に大人しく付いて行くと既に玄関には複数の使用人を背景に父が立っていた。貴族らしい上質な服の下にある大柄な体格は鍛え上げられた筋肉が見え隠れしており、武闘派一族の名残りなのかただ立っているだけなのに何故か顔に黒いシルエットが浮かんで『ドドドドドド』という効果音と迫力を感じる。
(毎度ながらどこのラスボスだよ)
「「お父さま(おとうさま)おかえりなさ〜い!!」」
弟妹が笑顔で同時に飛び出す。すると怪しいシルエットが取れ、鷲色の短い髪と猛禽類目の金眼、そして整っているが厳つい印象を与える顔が現れる。幼い弟妹をキッ!と睨んだかと思えば、
「おぉ〜♡ 愛する我が子達よ〜♡♡♡」
跡形もなく破顔するのだった。そのまま自身に飛びついた息子と娘をギュッと抱きしめたかと思えば、ブンブンとその場で勢いよく豪快に回り始める。幼い二人の明るい笑い声が玄関に響き渡った。
(うんうん、ちっちゃい子って抱っこしてブンブン大好きだよね。…じゃなくて)
「ほ〜らエキドナ、お前も抱っこしてやろう。姉とはいえ我慢させるのは違うからな」
『順番』という風に弟妹を降ろすと、アーノルドが笑顔でエキドナに向かって両手を広げて来た。
(うん。娘として大事にされててありがたい。本来ありがたいはずだけれども!)
一瞬の葛藤の末に意を決したのち、エキドナも「お父様お帰りなさい!」と言いながら父の胸に飛び込む。
__『清水の舞台から飛び降りる』ってこんな気持ちだろうか。
そんな事を考えながら弟妹と同じように強く抱きしめられ、さらにブンブン振り回された。振り回される事自体は、前世でジェットコースターが好きだったからエキドナとしても特に問題無い。
「エキドナは相変わらず淑やかで弟妹思いの美人さんだな〜♡」
そう言いながらアーノルドはエキドナの顔に頬擦りをし、両頬にチュッチュッと音を立てキスをするのであった。
(ぎいやああああああああぁぁぁぁ!!!! うわあああああああぁぁぁぁぁぁ!!!!!!)
冷や汗をかき、引き攣った笑顔を浮かべて身体を強ばらせるエキドナの内心は阿鼻叫喚そのものである。
(中身二十四歳女性に実父の頬擦り&キスは辛い! 辛すぎるぅ!! しかも本質がただの男嫌いだから、その愛情表現はシンプルに殺しにかかってる……!)
「いいな〜アンジェも〜♡」
「おー♡ そうかヨチヨチ♡♡」
あの世に迷い無く向かっていた魂が妹の声で呼び戻され、エキドナは正気を取り戻す。
(危ない所だった…ッ!)
こうしてアーノルド帰宅のたびに行われている『愛する妻と子へのハグ&キス』は無事終了し、例の剣の指導も母の協力どころか父本人から「武道に目覚めるとは流石我が愛娘…ッ!」と言われてかなりノリノリで快諾されるのであった。
________***
(ん〜……さすがに今日は疲れたわぁ…)
いくら子どもの身体とはいえ日が沈めば眠たくなる。エキドナはあくびを噛み殺しながら自室へ向かっていた。
「姉さま」
聞き慣れた声がするので振り返った。するとそこにはフィンレーが立っているではないか。
「どーかしたの? フィン」
「…姉さま、どうして剣を習おうって思ったの?」
「それは婚約者として王子を守ろうと」
「うそ、だよね。たぶんだけど」
フィンレーが真剣な眼差しで私を見つめる。
(この子、たまに勘が鋭い時があるんだよね…)
姉弟だからだろうか。そう思いながらエキドナは観念して、軽く微笑みながら手招きをした。そうして先に部屋で待機していたエミリーに下がって貰ってから、フィンレーとベッドの上に座る。天蓋付きの大きなベッドなので十分なスペースがあるのだ。
「フィン、これから話すことはお父様もお母様もアンジェも誰も知らないし誰にも言ったらダメだよ。姉さまと約束出来る?」
エキドナの言葉にフィンレーが無言で頷いた。
(このまま隠し通すのも手だけど、私は誤魔化すのは苦手だしフィンは告げ口するような子じゃない)
そう思ったからこそ、エキドナは先日行われたリアム王子との『成人するまで上辺だけ婚約』をフィンレーに話したのだった。ついでに青年&成人限定の男嫌いになった事も。
「姉さまが、大人の男の人がニガテで、だからリアム王子と本当にけっこんしないのはわかったよ。でもどうしてそれがけんじゅつになるの?」
(まぁそうなるよね)
思いながら言葉を返す。
「王子と婚約解消しても多分姉さまは他の人との結婚を勧められちゃうからその前に家を出て一人で生きて行こうと思ったんだよ」
「姉さま出て行っちゃうの!!?」
「しー! 声が大きいっ」
興奮気味に思わず立ち上がる弟の口をエキドナが慌てて両手で塞ぐ。そして宥めつつ再度座らせた。
「落ち着いてフィン。姉さまが誰かと結婚すれば、どの道姉さまはこの家を出る事になるんだから」
「やだぁ…。姉さま行かないでよぉ〜…」
寂しいのかグズグズと泣き始める弟を、エキドナは抱きしめて背中をポンポンと軽く叩く。ギュッと抱きしめ返すフィンレーに愛おしさを感じながらしばらく背中をさすって落ち着かせるのだった。
泣き止みはじめた頃合いを見計らい、「大丈夫?」と言いながらエキドナが部屋にあったちり紙を渡す。
フィンレーは鼻をかみながらまた無言でこくんと頷いた。
(うわぁ…まだ幼いこの子にとっては酷な話だったのかも…)
少し後悔や罪悪感を覚えるもののもう言って泣かせてしまった後だ。なので落ち着きを取り戻した彼に対して話を続けた。
「いい? フィン。女の人はね、男の人と結婚せず一人で生きていくのは結構大変なんだよ。だから手に職を持ってた方がいいの。……姉さまはあまり頭の方には自信がないからまずは剣術を極めようと思ったの」
そう、エキドナが剣を習おうとしたのは単に体力増進目的だけじゃない。婚約解消後、あるいは断罪イベント後(?)の、自立に向けて剣術を極める事で騎士団…………は男ばかりだから無理としても、どこかの家の護衛役くらいは仕事があると思ったのだ。もしくは子どもや女性向けの護身術を教える教師とか。前世でも今世でも武術のセンスはある方だと思うからこそ思い付いた人生計画である。
「……」
「大丈夫だよ。大人になるまでは姉さま、この家に居るから」
「…本当?」
不安そうにフィンレーが姉を見上げる。
そんな彼を励ますべく、エキドナは笑顔でハッキリと答えた。
「本当だよ!」
エキドナの言葉に納得したのか、フィンレーのラベンダーの瞳がキラキラと輝き、次第にいつもの笑顔が蘇る。すると元気よく立ち上がり、声高らかに宣言するのだった。
「わかった! だったら僕もお父さまに『剣教えて』って言う! 姉さまがやるなら僕もやりたい!!」
「あっ…フィン、」
それだけ言って、フィンレーは飛び出すように勢いよく部屋を後にした。切り替えが素早い弟にエキドナは少しぽかんとするけれど、一緒に成長し合える仲間ができるのは心強いと思ったので、それ以上は何も言わずに部屋の扉から顔を出し笑顔で彼の背を見送る。
しかし、彼女は気付いていなかった。
仮に泣いても跡が残らないエキドナと違い、フィンレーは泣いたら跡がバッチリ残るタイプであるという事を。
こうして目元を赤くした顔のまま両親の元へ行き『剣を習いたい』と言い出した息子を見てアーノルドは盛大な勘違いをし、翌日『弟を泣かせてまで無理やり剣を習わせるのはちょっと……ねぇ?』とやんわり説教を受けるエキドナであった…。