五年 前編
<<警告!!>>
鬱描写があります。
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私にとって "絶望" のイメージは底なし沼だ。
上へ息をしたくて足掻いても、どんどん下へ落ちて行く。身体が重い泥を纏って、手も足も言うことを聞かなくて。
そして諦めて、力を抜いていてもゆっくり、ゆっくりと沈んでいく。
口や鼻から泥が押し入っていくのを感じながら。息苦しさに悶えて、このまま気を失えたらどれだけ楽かと思いながら。
でも足元は途方も無いほど暗闇で、地面が無くて。
"終わりが無いんだ" と、"楽になれる瞬間などやって来ないんだ" と悟っていながら。
…ただゆっくり、沈み続けるだけ。
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『俺を殺してくれ』
疲弊し、罪や後悔の念に苛まれるヴィーの嘆願をエキドナは何も言わずに見つめた。脳裏に浮かぶのは、死にたがっていた幼い日の自分。
"死にたい、死にたい"
静かに目を閉じる。
"どうして生きなきゃいけないの?"
"こんな世界に価値はあるの?"
過去のことを思い起こしながら、エキドナはまたゆっくり、静かに目を開いた。真っ直ぐヴィーを射抜いたまま告げる。
「…いいよ。殺してやる」
「!」
「ただし条件がある」
予想外の発言に息を呑むヴィーに構わず、エキドナは鉄格子に近付き手のひらを彼の前へと差し出した。
「五年だ。五年待て。その間は死ぬな。どれだけ辛くても死のうとするな」
言いながら冷たい鉄を握って顔を近付ける。エキドナの目は真剣そのものだ。
「五年生きて、それでも苦しくて、生きるのが辛くて仕方ないなら……事故に見せかけて私が…あんたの自殺の手伝いくらいはしてやる!!」
深い暗闇のようなヴィーの目から逃げる事なく言い切ったのである。
「…!」
背負う覚悟の重さにヴィーは息を呑んだ。
エキドナはエキドナで視線を下に向けてギュッと格子を握る。その指先は僅かに震えていた。
「死にたくなる気持ち、わかるよ。そういう心境の人間にとっては、他者から『死ね』と言われるより…『生きろ』と、言われる方がどれだけ酷な事なのかも、よく知ってるから」
「……」
「…ある人は私に言った」
何も言わないヴィーに構わずエキドナはひっそりとした声で囁く。
「『きっと神様が救ってくださる』『あなたが救われるよう、私はお祈りし続けるから』……って」
発言した人間の真似をしているのか途端に穏やかで優しい声色へと変わる。
けれどその顔は寂しげで、自嘲や失望感が含まれていた。
「その人は、ただ善意で言ってくれてるのがよくわかってたから…その人の前では言えなかったけど……」
徐々に俯いていた顔を上げて力無く微笑む。
「少なくとも私の生きる世界に、私にとっての "神様" は居ないんだよ。最初からずっと」
「……」
ヴィーは意外にも未だ反論もせずエキドナの話に耳を傾けている。彼としても、当初自分とは真逆の立場に居ると思っていたエキドナが自身と同じ目線で……自身の持つ心の闇と似たものを持っていた事に気付いたからである。
「だからこそ自分の力だけでどうにかしなきゃいけない。じゃないと、目の前で苦しんでいる大切な人を守ることさえ出来ないから。……みんなには怒られるけど、大切な身内のためなら喜んで身代わりになれるんだよ。目の前で傷付けられる姿を見るより、守れなかったと後悔するより、何千倍も何億倍も辛くないから。…そして神様は居ないけど、私のそばにはいつも死神が居た」
「は!? な、何言ってんだよいきなり…!」
突拍子も無いオカルト発言に素で驚いたのだろう、先ほどとは別の意味で困惑するヴィーの反応にエキドナはクスッと小さく笑い首を横に振った。
「もちろん霊感とかそういうのじゃないよ。私は、…………っ」
言い掛けて、喉元で引っかかり止まる。また目を伏せるエキドナの脳裏に浮かぶのはみんなの顔だった。
強い罪悪感を抱きながら、エキドナがか細く消え入りそうな声で白状する。
「…私は……ほんとはずっと、死にたかった…」
それはリアムにもフィンレーにも、ステラ、セレスティア……前世の親友や兄にさえ言わなかった。誰にも口にした事が無い、エキドナの本心だった。
小さく唸るように震えるように、前世の幼少期から今と変わらぬ歳の頃の自分を追憶する。
「長い間…生きるのが辛くて、苦しくて、ただ眠るように楽になりたかった。……解放されたかった」
次に思い出すのは喘息やめまいで日常生活を送れない日々。夜間発作で吐きながら呼吸困難に陥り、一晩で三十分もまともに眠れない日々が一週間以上続いた時は死を覚悟した。
「やっと希望を見出せたかもと思ったら物理的に死にそうな思いをして、」
そして最後に思い浮かべるのは今世の家族や友人達だ。みんな笑っている。
「……こんなに、恵まれた環境に居るのに」
苦痛から逃れるべくエキドナはギュッと目を閉じた。
しかし瞼の裏に生々しく映るのは "あの日"、"あの時" の映像記憶。声。相手の息遣い。…感触。
『ごめんね、ごめんね』
(いつも、)
『この事は誰にも言わないでね。じゃないとお兄ちゃん、捕まって牢屋に入れられちゃうから』
『泣くのをやめなさい』
__いつもいつもいつもいつもいつもいつも!!!!
込み上がる激情に狩られかけ、また通常通りそれらを殺して……静かに、指先で自身の細い喉に触れながら告げる。
「いつも私の喉元には、死神の鎌が見えていた…」
(六歳のあの時から、ずっと)
「わざわざ自殺しても周りに迷惑だからと思ってたから死ななかっただけで、ずっと "死“ の概念は私のそばを纏わりついていた」
(前世で死んだ時、死ぬ事に恐怖は無かった。いつも身近に居た存在だったから)
男に味合わされた死ぬよりも辛い生き地獄。誰にも言えない孤独。劣等感。絶望。
そこから生じた自分自身への破滅願望。
だから自分が死ぬ事象に今迄抵抗が無かった。むしろ恐怖よりも安堵感の方が遥かに大きかった。
だから…『やっと終われる』だった。
(そしてこの思いは、"死神" はこの先もずっと私のそばに…。それだけは)
「変わらないと、思ってたんだけどな…」
失望しては諦めを繰り返していたエキドナにとって、もう自分でもどうしようも出来ない事だと悟っていたはずだった。
無意識のうちに自身を握る手のひらに力が入る。
「いつ死んだって良いって思ってた。本気で」
(前世でさえも六歳のあの時の段階で犯人の男に殺されてもおかしくない状況だった。死にたがりなのを自覚していたからこそ二十歳以上生きるとも思っていなかった)
「っ…」
(第三者から見れば間違いなく早死だろうけど、私からすれば十分過ぎるくらい長生きだった。今世の状況に至っては予想外)
「そんな状況だからこそ、リー様やフィンと、みんなと穏やかな時間を過ごせたからこそ、未練なんか無くて…『もう十分』。『何もいらない』って」
"もう十分だ。私はもう、十分……生きた"
いつの間にか手も、足も唇も、力無く小さく震えている。そんな事をまるで他人事のように思いながらエキドナはまた吐露するのだった。
「……本気でそう、思ってたんだけどなぁ…!」
__消えない。
(みんなの顔が浮かんで、消えない)
「なんでかなぁ。ブレイクに殺されそうになった時、心のどこかで『死にたくない』って思っちゃった」
耐えられなくなったエキドナは鉄格子から手を離した。いつものとは別の諦めを抱きながらその場でうなだれる。
「私は、もう、死ねなくなっちゃったよ…」
再び顔を上げてヴィーを見やり、また口角だけを上げて笑った。
「いつの間にか『死にたくない』…って、『みんなと一緒に居たい』って、いつの間にか、そんな欲が出てたんだよなぁ…」
__襲われた記憶を鮮烈に思い出すたび『こんなに苦しむくらいならいっそ殺してほしかった』と思った。それは本当。
(でももし本当に殺されていたら?)
__もしあのまま男に殺されていたら、私は女子高生にも大人にもなれないまま。親友や恩師、友人達、子ども達とは出会えなかった。完全にじゃなくても、家族とわかり合う事も出来なかっただろう。
(もしかしたら、今こうやって "エキドナ" として生きられなかったかもしれない)
__"ああ、また生かされてるな" と思った。
「大切な人に二度と会えなくなるほど悲しい事は無い。"死ぬ" って、すごく悲しいよ。寂しい事なんだよ……。だからちゃんと考えてから選んでほしい。つまりね」
再び冷たい鉄枠に触れながらエキドナはヴィーに言葉を紡ぎつづける。
「"死ぬ" っていうのは、あんた… "ヴィーとしての生を終わらせる" ということ。生きていたらあったかもしれない可能性も未来も、自分自身の手で放棄する事。そして、死んだら二度と取り戻せないという事。どれだけ失ったものの大きさや尊さを知っても…後悔しても、全部…」
また自然と下へ向けていた頭を上げ、彼を真っ直ぐに見つめた。
「これをよく理解した上で残りの五年、生きてみてよ。それがあんたの "余命" なんだ。五年経って…それでも生きたくなくて、ここが地獄で苦しいのなら、私があんたを殺してやる」
「ッ…テメェ、正気かよ…こんな」
あまりにバッサリと言い過ぎたためかヴィーはそれだけ言って唖然とした風にエキドナを見ていた。
だがエキドナは気にも留めずまたヴィーを説き伏せる。
「正気だよ…。五年もあればね、嫌でも環境が少しだけ変わってると思うの。これは私の経験則」
自身の目元を手で軽く拭いながらまた彼の目を見た。そのままゆっくりと言葉を続ける。
「そうやってさ…何かしらの変化で、ほんのちょっとだけ『もう少しだけ、生きてみようかな』って思う瞬間があるかもしれないんだ。…だからさぁ…ほんと、ほんのちょっとだけでいいから……どうか、生きてみてよ…大丈夫だよ。不幸の中で、地獄の中で生きたって。どんなに寂しくて、悲しくて、自分が嫌で、周りも嫌で……真っ暗で、肌寒くて、絶望しかない今でも…未来でもさ、」
そう言いながら今度は柔らかく微笑み、格子の僅かな隙間から手を伸ばしてヴィーの指先に触れる。
エキドナとヴィーの二人しか居ない薄暗い空間で、小さくも温かみのある声は、不思議と明白にこだまするのだった。
「生きてりゃそれでいい。生きてたって、いいんだよ」