愛おしかった幸福 前編
<<警告!!>>
残酷描写および鬱描写過多です。
苦手な方は飛ばして読んで下さい。
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私の前世は、世辞にも人並みでは無かった。
男に襲われるしフラッシュバックは酷いし、家庭問題は闇が深いし。最期の方はだいぶ疲れていた自覚がある。
__だけど、そんな人生だったけど……私は…
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「ここは…」
懐かしい空間。懐かしい我が家。
先程まであったはずの短くなった髪や暗い髪色などの違和感がすっぽりと抜け落ちて、私は至極当然のように理解した。
(ああ、そうだ。さっき買ってきたお菓子を兄ちゃんにもおすそ分けしに行こうと…)
「!」
ぐにゃあっと視界が歪み身体の力が抜けた私は咄嗟に壁にもたれかかる。
が、それでも足りず床へとずり落ちてお菓子の袋もグシャリと音を立てた。頭も何故かズキズキ痛い。
(なんで頭痛?? おかしいな… "最近は" ずっと元気だったのに)
「…あれ?」
自分の思った事に引っ掛かりを覚える。
(元気? な訳ないよな。今は寝込んでたのからやっと近場を少し歩けるようになっただけのはず。あ、そうかウォーキングしたからこうなってるのか納得☆)
ポンと両手を合わせ私は一人で結論付けた。
気管支喘息やめまい症…エトセトラ。
私にとって不調は日常茶飯事だ。周囲より劣っている事実をいちいち嘆いていてはキリが無い。
(具合が悪いままでいかに最低限の生活を送るかがポイントなんだから。さっさと兄ちゃんに買ってきたお菓子お裾分けして部屋で休も…)
ふらふらと覚束ない足取りで短い廊下を渡り、兄の部屋の前まで目指した。
扉の前まで立つと体調不良にもかかわらず私の背筋は自然と伸びる。脊髄反射、もはやパブロフの犬状態だ。そのまま軽く深呼吸をして自身に言い聞かせはじめた。
(常に気持ちは穏やかに、さりげなく自然な笑顔で…とにかく "普通" に "いつも通り" に)
『気を遣わせてる』なんて絶対悟られちゃいけない。
あからさまな特別扱いは相手を傷付けてしまう。"普通に接する" …これが大切な人に不安を与えず、傷付けずに済む一番の方法だから。
(妹に気遣われてるって悟られたら自分を責めて劣等感を抱いてまた病んでしまう。…かと言って昔のように姉や保護者のごとく召使い化するのはダメ。せっかく安定してきたところなのに私がしくじってあいつの負担になってはいけない)
これが、私の当たり前の日常なんだから。
「兄ちゃーん、今大丈夫ー?」
気持ちを奮い立たせながら私は控えめなノック音と共に声を掛けた。
__反応は無い。まぁいつもの事だ。
そう思った私はもう一度ノックをして待った後で…今度は扉を少し開けて部屋を覗き込むのだった。
やはり兄はこちらの存在に気付かなかったらしい。イヤホンを付けてゲーム中だ。
コンコンコン
「兄ちゃーん」
今度は室内の壁に向かって叩いてみるが反応がない。
…普通なら扉の段階である程度気付くだろう。そして気付かなかった場合でも何度か呼び掛ければ自然と気付くものだと思う。
しかし一向に気付く気配が無い。こういう時は急かすように背後から肩を軽く叩くとこの人は酷く驚くため気長に待つ。
…ガシャガシャガシャ
しばらくお菓子の袋をわざと鳴らして反応を見る事にした。
すると、
「?」
ようやく気付いたらしい、イヤホンを外して振り返るのだった。幸い飛び上がるような驚き方をしないで呼び止める事に成功したらしい。何度呼んでも気付かなかった事は敢えて指摘せず私はにっこり笑う。
「ポテチ買って来たから少しあげるね〜!」
「……」
私の声掛けに対して兄は何も言わない。
「「…………」」
言葉を発さずそのままフリーズしてしまうのだった。
その反応に私は内心苦笑する。
(あぁそうだった。兄ちゃんって私…いや誰に対しても返事が二十秒以上は掛かるんだった)
慣れているため返答が来るまで気長に待った。下手に刺激すると余計拗れてしまうからだ。
(でも、時間を掛けてでもちゃんと自分の考えを言ってくれるだマシだ。父さんや母さんはこっちの話は聞かない事の方が多いから)
そう考えると身内でまともな対話が出来るのは兄だけだったと思う。この人なりに私を大事にしてくれていたのかもしれない。
今思えば。
『あ、ありがとう…』
しばらくして兄ははにかみながら口の空いたお菓子に手を伸ばしてほんの数枚ほど取った。
(別にもっと取ってもいいのに)
癇癪を起こす時以外、基本物静かで遠慮がちな人だった。
『…………じゃ、じゃあ僕からもあげる…お礼に』
そう言って取り出したのは、兄が普段から好んで食べているソフトキャンディだ。
そんな兄の行動に私は困ったように微笑む。
「気を遣わなくてもいいのに」
『…いやせっかくくれたしさ…』
「ありがとうお兄ちゃん♪」
これ以上の遠慮は無用だと判断した私は素直に好意を受け取る事にした。ご丁寧にポテチの枚数と同じ個数をくれる兄に私は嬉しそうに上機嫌な顔で反応する。
「何のゲームをやってたの?」
奥にあるテレビ画面が視界に入り少し立ち話をした。兄曰く、中毒性の高いオンラインゲームはやらないように気を付けているらしい。
「確かにオンラインは中毒性ありそうだね〜」
続けて私は、さも自然な形で先程まで母との会話や今日の出来事を話しはじめた。
従姉妹の子どもの写真を貰ったと母と話したこと、アルバイトの帰り道に人懐っこい猫を見つけて戯れたこと。可愛かったこと。スマホの写真を見せながら笑顔を浮かべて楽しげに…ややおどけた風に。
被害妄想が強い兄に対して、暗に "貴方の陰口を言ってませんよ" とアピールするために。
兄とのやり取りはいつも私に緊張感を与えた。
しくじればまた後で癇癪を起こす。深夜だったり、早朝だったり…また別の日だったり。
(この人の場合、ストレス溜まると自分じゃなくて他者へ向かうタイプだからな…ほんとに厄介極まりない)
誰かに迷惑をかけるくらいなら、いっそ私がこの手で__なんて、そんな恐ろしい事をどれほど考えただろうか。
(やっぱりあんた達と一緒に居るのは苦しいよ)
私は兄に対してかなり複雑な感情を抱いている。
肉親として守らなければ、支えなければという使命感や真っ直ぐな想い。幼い頃から一緒に居た家族としての情。
そして仄暗くて焼けつくような……嫉妬や恨み、憎しみの感情。
(物心ついた頃から兄と妹に対する周囲の扱いの "差" 。それを当然のように受け入れて、誰かに助けて貰えるのは当たり前と言わんばかりの振る舞いに腹が立った)
この男さえ居なければ、"兄の分だけ並外れた実力があるのだ" と周囲の大人達から当然の如く要求されずに済んだのではなかろうか。
そんな事を思いながら決して表には出さず、私は "普段通りに笑って" 話し続ける。
(兄のような人種を一言で言い表すなら『無害な面と有害な面の振り幅が、極端すぎる』)
無害な時は人並み以上に優しく、純粋に見える兄。
でも有害な時は本当に自分勝手すぎる理由で "無関係で何も悪いことをしていない" 周囲を巻き込み危害を加える。その状況を当たり前のように受け止めている。その差が異様なほどに乖離していると思えてならないのだ。
(大人になってから知った知識だけど、まだ子どもだった私を襲った男もおそらく……)
だからこそ、余計に複雑な気持ちになった。
どれだけ専門的な知識を蓄えていても私は時折兄の奥底にある… "この人は根底で何かが違う" という、私が周囲に自身の過去や苦しみを隠し通しているのとはまた別の…別次元の意味合いで、ゾッとするような違和感を覚えていた。その不透明な違和感に気付いては不気味に思い、内心恐れていた。
(癇癪とかで私達家族を…特に母さんを苦しめているところが憎たらしかった。嫌悪していた。それに…)
『泣くのをやめなさい』
『これからお兄ちゃんの習い事に行くんだから』
"あの日" の事でさえ…兄が最優先じゃなければ、母の意識の中でもう少しだけ私の存在を認識して貰えたのではないだろうか。
(いや、これが『逆恨み』ってやつなんだろうな。身勝手な言い掛かりだ)
この話にあの人は関係ない。
(…ただ、)
私は、原則として誰かを憐れみ同情したりなんかしない。
誰かを同情するのは相手を見下す行為だと思っているからだ。
(でも兄だけは、見下す気が一切なくても同情せざるを得なかった…)
兄に対して私は家族としての使命感や情を持っている。さらに怒り、妬み、憎しみ……そして憐れんだ。
(ずっとずっと…私はこの人に対して強い後悔と罪悪感を抱いてる)
罪の意識はとても暗く、重たい。
でも甘んじて受け続けるつもりだ。だってこれは私自身への "罰" なのだから。
__兄に対する認識が変わったのは私が高校を卒業する少し前のこと。偶然が重なった結果だった。
確か洗濯物を置きにとか、兄宛の郵便物が届いて手渡そうとか、そんな些細な用事で兄の部屋に入ったのだ。兄本人は不在で、しょうがないから適当な場所へ置いて去ろうとした。
その時、開いたままの小さなノートが机の上にあるのを見つけて、興味本位で覗いてしまった。
『この人は普段何を考えているんだろう』って。
…文字はぐちゃぐちゃで、そこには誰も知らない兄の声無き悲鳴ばかりがあった。
"誰かが自分を見ている"
"また覗かれている! 家の外に居座られてる!"
"うるさい黙れ消えろ! 消えろ!!"
精神的な病気らしい事はなんとなく知っていた。心配になって、後ろめたさもあったが兄の気持ちが知りたくて、申し訳ないと思いつつもページをめくった。
"気持ちわりい。殺してやる"
"死んでしまえ死んでしまえ!!"
あまりにも惨たらしい剥き出しの呪詛ばかりだった。
"生まれてきたのが間違いだった"
"ごめんなさい"
"今までも、これからも、こんな小学生以下の自分が生きていく事に深く絶望しています"
"苦労してぼくを育ててくれた両親、ありがとうございました"
…遺書めいた内容まであった。
そこだけは単語が飛び交うばかりだった他のページとは違い、きちんと文章としてまとまっていた。まるで最期の言葉を綴るような文面に当時の私はショックを隠せなかった。
"いつも支えてくれた妹、ありがとうございました"
一つ一つの言葉に息が詰まり、涙がこぼれ落ちた。この時、私はようやく理解したのだ。
いつも不機嫌で、何を考えているのかわからなくて…急に怒って暴れる兄。家族が傷付き悩んでいても無反応だった兄。もはや人間らしい感情が無いんじゃないかと思っていた。
だから自分勝手な人だと軽蔑し、嫌悪していた。もう昔の優しかった頃とは別人になったと思っていた。
(だけど違う。この人も、どこにでも居る普通の人間と同じ心を持ってたんだ…)
変わってなかった。
(昔の大好きだった兄ちゃんと…何も変わってなかったんだ!! …努力でどうこうできる次元じゃない苦しみを、あの人は一人で…!)
誰にも理解される事もなく、孤独を "本当の意味で" わかって貰える事もなく。同じ境遇を持つ理解者や真っ当に導いてくれる大人が居なくて、どれだけ悲しかったんだろう。どれだけ心細くて不安だったんだろう。寂しかったんだろう。
そんな簡単な事にさえ気付けなかった自分の浅ましさが、愚かさが、憎くて仕方なかった。
(なんで兄ちゃんがこんなに苦しまなきゃいけないんだろう。ただ産まれただけで、なんでこんな辛い思いをしなきゃいけないんだろう…!!)
さらに気の毒だと思ったのは、"可哀想な子" と言って過保護に接した大人達が兄が成人したあたりから "あいつはもうダメだ。頭がおかしい" と手のひらを返し始めた事だった。
__『あんたが産まれて良かった』
かつて母親から言われた言葉だ。
まだ私が高校生で……昼から酒を飲み不安定だった時期に、あの人は本音をぶち撒けるように言ってのける。
『あんたはわかりやすい。感情が顔に出る。"普通" よ。考えが読みやすい普通の子。…お兄ちゃんはね、まだ小さい頃に公園へ連れて行っても遊具で遊ぼうとしなかった。興味も示さなくて、ただ石や草を触るだけ。ブランコやすべり台に乗せてみても泣いて嫌がるばかりだった』
昔の話をするその淡々とした母の姿はどこか寂しげだ。
『でも××は違った。その頃のお兄ちゃんと同じくらいの歳に連れて行ったらすぐ目を輝かせて、誰かに教えられた訳でもなく周りを見てすぐ使い方を理解して…楽しそうにブランコに乗ったりすべり台やシーソーで遊んだり……ちょこまか動くから怪我しないか危なっかしくて目が離せなかったけど "あぁ、これが普通の子の反応なんだ" って、その時初めて実感して…ほっとした』
懐かしそうに顔を綻ばせ…かと思えば一転して苦しそうに眉間に皺を寄せる。グラスを握る手が、グラスごと小刻みに震えていた。
『あいつは…お兄ちゃんは…昔も、今も、何を考えているのか全くわからない…!!』
(あの場に兄が居なくて本当に良かったと、今でも思うよ)
母の意見は、かつての私ならすぐさま共感していたと思う。
でももう共感出来ない。この人の本心を知ってしまった今では、とても出来そうになかった。
母や私といった家族はずっと兄に振り回された被害者だったけど、兄もまた被害者なんだとわかってしまったのだから。
(産みの母親にさえ心を理解されないなんて、どれほど不幸な事なんだろう…。せめて私がもっと出来のいい人間だったら、苦しみを少しでも減らせたんじゃないのかなぁ…)
偶然秘密を知った私が、兄の本心を周りに晒すのは酷い裏切り行為だと思ったから周りに上手く伝えられなくて不甲斐なく思う。
だからその分、せめて私が理解者であり続けたいと……そう思っていた。
"自分も家族もみんな振り回して苦しめるあいつが憎い" "あいつさえ居なければ"と何度も繰り返し思ってきた。
それは本当の気持ち。
だって私はこの人の存在に、ずっと大きな影響を受けてきたから。
"××は恵まれた子だから"
"しっかりしてるんだからお兄ちゃんを支えてあげるのよ"
それに大人達からも強い洗脳を受けていたから、時々自分の気持ちに自信が無くなる時があるのだけれど、
(でも、この人はどうあっても……私のたった一人のお兄ちゃん)
短い間だったとしても "普通の兄妹" として楽しかった思い出は本物だ。当時の兄なりに妹を可愛がっていてくれて、今でも不器用なりに私の苦しみを気遣おうとする兄の気配を感じ取っていたから、やっぱり兄を嫌いになれなかった。
苦しんでる姿を見るのが嫌で、こっちまで辛くなって、
(私まで見捨てたら、兄ちゃんは本当に独りぼっちになっちゃう)
__無理。私には出来ない。
そこまで思い至って私は驚きで息を呑んだ。
(やだ、なんでこんなに考え込んでるんだろう…!? 兄ちゃんの目の前で、会話中なのに)
「ご、ごめんね兄ちゃん…! ちょっと調子が悪いみたいで…」
しくじった焦りから私は慌てて取り繕いながら顔を上げた。
しかし兄は不機嫌そうでも訝しげも無いまま、何故か私を見て微笑んでいる。久しぶりに見た、優しげで穏やかな笑顔だった。
自身の放った感想に思わず首を傾げる。
(? "久しぶり"?)
『××、ありがとうな』
「…?」
兄がそう言ったのは理解出来た。
しかし強烈な違和感が私を襲う。兄から声が……全く聞こえなかったのだ。
(兄ちゃんの声って、どんな声だったっけ…?)
ふと思い浮かんだ疑問に……私は現状を理解した。
(あ、)
いや違う。最初からそうだった。
思わず片手で頭を押さえる。思考すればするほどに頭からズキズキと痛みが走るのだ。
(兄ちゃんの声…ずっと聞こえなかった。ただ私が、都合よく言いたげなニュアンスを感じ取っていただけ…!!)
__ハッ!
また何かがぐるりと変化するのを感じて私は素早く辺りを見回す。
いつの間にかそこに居たはずの兄の姿は無く、無限に伸びるまっさらな白い空間が広がっていた。
(兄ちゃ…誰!!? 誰か居る!!)
奥の方から、また別の人影が近寄って来たため私は一気に警戒し身構えた。
得体の知れない状況から緊張でバクンバクンと心臓が早鐘を打つのを感じた。
「…え?」
姿を確認した瞬間、つい呆けた声が私の口から小さく漏れて全身の力が緩む。
次に姿を現したのは、古風な制服に身を包む少女だった。
真ん中に分けた前髪。軽い癖っ毛がある黒髪ショートボブ。私より10センチほど高い身長。メガネから見える穏やかで優しげな、大きな瞳が特徴の少女。
そこにはずっと会いたかった親友が……立っていたのだ。