ガイスト 前編
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下校時間はとうに過ぎ、人影がまばらになった廊下をステラとエキドナは足早に歩いた。
一人は何も言わずに手を引き、もう一人は黙って手を引かれたまま。
その後ろ姿からは普段の品位や気高さが薄れ……ただの少女達が、まるで目に見えない大きな "翳り" から逃げ出すような弱々しさのみが残されていた。
少しでも人目を避けたい二人が自然と足を向けたのは温室だ。
いくらか日が傾き始めているとは言え、日中の暑さが屋内に籠っているため誰も好んで行く場所ではない。
しかしそんな空間が二人…正確には手足が冷え切ったままのエキドナにとって、好都合な場所でもあったのだ。
「……大丈夫ですか?」
「ごめん…」
気遣うステラの声に、聞こえるか聞こえないかわからない大きさで謝罪の言葉を口にする。
直後、無表情だった顔が自嘲を含んだ笑みで微かに歪んだ。
「ジェンナの言う通りだね…何も反論出来なかった」
「そんな事…」
「ステラ、ごめんね」
遠慮気味な声掛けを遮った内容にステラは一瞬反応が鈍る。
「え?」
同じ謝罪なのに、先程と全く違うニュアンスだったからだ。
動揺しているステラを静かに見つめながら、エキドナは続けた。
「私は別に『自分のやってる事が正しい』とか考えて動いてない…ただ、自分が動きたいように動いてきただけ」
未だ穏やかに微笑み続けている。
だがその笑顔は仄かな暗さを孕んでいた。
「だから周りにどう言われようが平気だった。ただの自己満足だし、わかってくれる人にわかって貰えればそれで良かったから」
言いながらエキドナは顔を下に向けた。
白っぽい金髪が、サラリと落ちる。
「でもさ…やっぱりそれじゃ、ダメな時もあるんだね。狙った訳じゃないのに無意識に他者を傷付けて、巻き込んで、」
ただでさえ小さな身体を縮こませるので余計痛々しく、頼りなく見えるのだった。
「もっと周りに気を配らなくちゃだったね…」
珍しく消沈し弱気なエキドナの姿にステラは息を呑む。
(ドナは、私とは違う人間だと思ってました)
ふいに回顧するのは…目の前に居る少女と過ごしてきた光景。
(いつも落ち着いていて、冷静で、穏やかで、優しくて、周りをよく見ていて…)
毎日が楽しくて幸福だった日々。
完璧だった日々。
(だから最初から出来た人間なんだと思っていました。"選ばれた人間" なんだと)
そして人知れず劣等感に苛まれた日々でもあった。
(傷付いたり悩んだりする事なんて無いんじゃないかと、ずっと思っていました…)
「ステラ、貴女は前に私を『強くて生まれも何もかも恵まれている』って言ったね。…でもアレは違うんだ」
エキドナの言葉にステラは追憶を止めて再び友人の方を向く。
「私は、」
髪で目元が見えないが…口元は小刻みに震えていた。
「私は、ステラみたいに生きたかった…」
「…?」
エキドナの発言の真意がわからず戸惑う。
しかしながらそんな偽りの無い言葉をぶつけられたステラは、無意識に唇を結んだ。
何かを揺り動かされたまま、自然と言葉が出る。
「私、以前二回ほどフローレンスさんを呼び出して二人きりでお話ししました」
「…そっか」
「知っていたのですか」
ステラの指摘にエキドナはゆっくり首を振る。
「ミアは何も言ってない。私が勝手に感じ取っただけ」
「そう…」
返事をしたステラは顔をエキドナ側から正面へと向き直して話を再開するのだった。
「彼女は…いえ、彼女 "も" …真っ直ぐな子ですよね。裏表が無くて、自分の気持ちに……素直で、ちゃんと向き合っていて」
「…ステラ?」
次第に俯き、途切れ途切れに話続けるステラにエキドナが思わず声を掛ける。
すると今度はステラが緩やかにまた顔を向けた。
「ねぇドナ。…少しだけ、ほんの少しだけ、本音を言っても良いかしら」
綺麗な銀色の瞳が揺れ動く。
それはどこか疲労を感じる…切実な表情で、まるで許しを乞うようなか細い声だった。
「…うん」
再び視線を外し俯く友人に頷き言葉を待つ。
ステラは下を向いたまま、膝の上で組んだ指をぎゅっと握った。
「誰もが貴女やフローレンスさんのように "強い人間" じゃないんです。私はドナ達ほど強い人間ではありません」
掠れ気味だが、明確な言葉。
ずっと口にしなかった "ステラの本心"。
やや眉をしかめてステラは言葉を続ける。
「わかっていたんです。頭の片隅で、ちゃんと気付いていました。どんなに理由を挙げて正当化しようとしても、フローレンスさんへの行いはただの醜い嫉妬による嫌がらせ。遠巻きから難癖をつけて非難して……例え直接手を出していないとしても、やった事はセイディさん達と同じです」
やや早口に喋るがその表情からは苦痛が取れず、むしろ深くなっているとエキドナは感じた。
「ただ、」
途中で絶たれた言葉と共にステラは膝の上で組んだ指をより強く握り締め、小さく震えている。
「…協力を断わる事で、相手の顔が歪んでしまうのが、堪らなく怖い。『嫌われるかもしれない』『自分も同じ目に遭うかもしれない』。そう思うと断れませんでした。私は、誰かの力に頼らないと生きていけない人間なんです…!」
堰を切ったように両手で顔を覆った。
指の間からぽろぽろと涙がこぼれ落ち、それと一緒に胸の奥で押さえ込んでいたらしい本音が溢れ出して行く。
「何より、あの時の私は、馴れ馴れしくサン様に近付くフローレンスさんの事が、とても……怖くて疎ましかった…ッ!!」
「!! ステラ…貴女、サン様のことを…?」
驚きから金の目を見開く。
考えるより先に出た問い掛けに対して、ステラは泣きながら小さく頷いた。
けれど一度出た感情は……もう誰にも止められなかった。
「私はドナのように強くないし、心が綺麗でもありません。真っ直ぐな人間のままでいられないんです!! 家柄だって…本来私が王家に嫁ぐ事はあり得ません。所詮伯爵家の娘ですから」
自身の胸元を強く掴みながら、思い悩んでいた本心を告白する。
「"私がサン様のあったかもしれない未来を奪ってしまった" …。この事実が、罪悪感が、いつも心のどこかにあるんです。だから時々不安でした。怖かったんです。『私は皆さんの隣に居てもいいのかしら』って。自信を無くす時だって本当は…」
「ステラ、サン様は別に」
「いいえわかりませんわ。サン様 "も"、とても、お優しい方ですから…。だからこそ何も無い私は『せめて』と思い、他の令嬢達との繋がりを大事にしてきたつもりなのですッ!」
そう。
ステラなりの努力だったのだ。
貴族の娘として、王族に嫁ぐ者として…ステラが出来る精一杯の、唯一の貢献だった。
「……ただ、周りの空気を読んで、意見を合わせて…いつの間にか自分をありのままさらけ出す事が、怖くなってきました…」
そしてこの努力が、結果としてステラ本人を蝕んだ。
勢いのまま改めてエキドナを見つめる。
「ドナ。貴女はすごく純粋で本当に良い子ですけど、その純粋さが、強さが……私をものすごく落ち込ませて、傷付ける…!!」
ステラによる怒涛の告白を、エキドナは真っ直ぐ静かに受け止めていた。
(声、すごく震えてる。苦しいんだ。今この瞬間だってめちゃくちゃ傷付いている。…私がここまで言わせてしまったんだ)
泣いているステラを見て心臓を素手で掴まれるような感覚に陥る。
エキドナは当時のステラの気持ちに気付いていた。
ミアを保護する事で彼女が嫌な思いをする事も、多分どこかで理解していた。
(それでもミアを優先したのは…………きっと『ステラならわかってくれる』って勝手に決めつけて、自分の都合を押し付けてたからなんだ。私は、無意識のうちにステラの優しさに甘えていたんだ)
なんて卑怯だったんだろう。
ずっとステラの優しさに甘え続けて、出会った頃からずっとお互い遠慮して…弱音や本音を言い合った事なんか一度も無かったんだ。