後始末
永禄五年(1562年)三月上旬 山城国葛野・愛宕郡 東洞院大路 飛鳥井邸 飛鳥井雅綱
「宮中は大変な騒ぎでおじゃります」
息子の権中納言飛鳥井雅春が青い顔で言った。やれやれよ。興奮するならともかく青ざめるとは……。何かと煩い万里小路、庭田が没落した。喜んで良いところを喜べぬ。線が細いと嘆くべきか慎重だと喜ぶべきか。まあここは浮かれるよりはましだと思えば良いか。相鎚の一つも打っておこう。
「そうでおじゃろうの。二条様、万里小路権大納言だけではおじゃらぬ。西園寺左府、花山院右府も勅勘の処分とは……」
上は全滅じゃ。他にも徳大寺、中院、四辻、庭田、滋野井、正親町三条、九条、正親町、五辻が勅勘の処分となって宮中から去った。まるで宮中で疫病でも流行ったかのようじゃの。
「新大典侍も宮中から去りました。兄の権大納言が咎めを受けたので遠慮したとの事でおじゃりますが真は新大典侍もこの一件に絡んだためではないか、密かに咎めを受けたのでは無いかと皆が話しておじゃります」
「そうか」
事実であろうな。新大典侍は何かにつけて飛鳥井を目の敵にした。絡んでいないとは思えぬ。
「これからどうなりましょう」
息子が窺うようにこちらを見ている。
「誠仁様の事、寧仁様の事か?」
息子が頷いた。
「どうにもならぬ。詰まらぬ事は考えるな。万里小路のようになるぞ」
息子が顔を強張らせて頷いた。あの孫は筋の通らぬ事は嫌うからの。詰まらぬ欲は持たぬ方が良い。下手に欲を持つと飛鳥井そのものを滅ぼしかねぬ。……ふふふ、隠居の身で良かったわ。そうでなければ……。危ない、危ない。
「如何なされました?」
「ん?」
息子が訝しんでいる。
「お笑いなされましたが?」
そうか、笑っていたか。
「怖い孫を持ったと思ったのよ」
息子が頷いた。
「皆が怖れておじゃります」
そうであろうな。多くの公家が勅勘となったのだ。運良く六角の兵が助けたと言うが信じられぬ。あれは勝てると儂に言った。運では無い、実力で勝ったのだ。今川と織田の戦と同じよ。勝つと思っていた今川が敗れた。二条様も勝つと思っていたのだろうが負けたわ。さぞかし口惜しがっただろうて。
「二条様、左府、右府も勅勘では帝の御信任は益々頭中将に向かうの」
「はい」
「頭中将の様子は?」
「常と変わりませぬ」
息子の答えに思わず吹き出した。息子が”父上?”と儂を訝しげに見た。手を振って何でも無いと教えた。常と変わらぬか。やはり勝って当たり前だったのだ。二条様達は頭中将を甘く見たの。
「次の左府、右府は誰なのかな? 決まったか?」
問い掛けると息子の顔が困惑を浮かべた。
「未だ決まってはおじゃりませぬ。内府も居りませぬし……。摂家、清華家、大臣家からも勅勘を受けた家がおじゃります。適当な者が……。帝は太閤殿下を側に置いて色々と下問しているとは聞いておじゃりますが……」
なるほど。摂家は二条、九条。清華家からは西園寺、徳大寺、花山院。大臣家からは正親町三条に中院か。これは穴埋めに相当苦労するな。
「ふむ、頭中将は?」
息子が首を横に振った。
「分を弁えているようにおじゃります」
なるほど、常と変わらぬか。落ち着いているわ。専横を振るうと言われるのを避けたのかもしれぬ。この辺りの判断は流石よ。誰も頭中将を非難は出来まい。怖れはしてもな。
「皆からは誰の名が上がっているのかな?」
「今出川左大将、広橋権大納言の名前が挙がっておじゃりますが……」
「……」
息子がこちらを見た。
「三条西権大納言の名前も挙がっておじゃります」
「三条西? 駿河に下向中でおじゃろう。呼び戻すのか?」
驚いて問い掛けると息子が頷いた。
「人がおじゃりませぬ」
思わず溜息が出た。確かにそうだな。
本来なら摂家から人を選ぶのが筋だが二条様は勅勘、九条も勅勘。養父の禅閤様もとんでもない養子を迎えたと頭を抱えておろう。後は一条だがあそこは未だ権中納言だ。それに歳も若い。いきなり大臣には出来まい。大納言が良いところよ。……待てよ? そうか。本来なら二条様は一条権中納言を誘うべきであった。それをしなかったのは養子に行った九条権中納言の競争相手になると見たからか。関白に再任された後は息子を引き立て一条権中納言を抑えようとしたのだ。そのために文を書かせたか。自分の再任に功が有ったとしたかったのだ。
「ふふふふふふ」
「父上?」
「気にするな、とんでもない事になったと思ったのだ」
些か焦りすぎたな。自家で権力を独占しようなどと考えたからよ。御蔭で親子で転けたわ。二条家が盛り返すのは容易ではなかろうな。九条家は巻き添えを食った。一条家は儲けたわ。今頃権中納言は笑っておろう。
摂家が駄目となるとやはり左大将が右府であろう。左大臣は空席だな。そして次の除目で左府だ。広橋権大納言は名家じゃ、内大臣が限度よ。右大臣が空くな。そこに誰が入るか……。三条西権大納言が駿河から戻れば右大臣も有り得る。勅勘、昇進で大納言、中納言も随分と減った。そちらの方の補充もしなければならぬ。関白殿下も居らぬし太閤殿下は必ずしも体調が万全では無い。帝もお困りであろうな。
永禄五年(1562年) 三月上旬 山城国葛野郡 近衛前久邸 近衛稙家
宮中から戻り娘達の助けを借りて衣服を着替えた。一つ息を吐いた。疲れた。体力的にも精神的にも疲れた。息を抜けるのはこの邸の中だけだ。部屋で寛いでいると娘達がお茶を持ってきた。
「どうぞ」
「うむ」
寿が茶碗を置く。取り上げて一口飲んだ。美味いと思った。身体中から疲れが抜けていく。ホウッと息を吐いた。
「父上、お疲れでございますね」
寿が心配そうにこちらを見ている。
「た、多少の」
無理に微笑むと寿が切なそうな表情を見せた。胸が痛んだ。
「人事の事なんでしょ。難しいの?」
「人が居らぬ、からの」
「却って簡単そうに見えるけど」
毬が不満そうな表情を見せた。関白が居れば……。溜息が出そうになって慌てて堪えた。
「頭中将殿に手伝ってもらう事は出来ないの? 直ぐに終わるんじゃない」
思わず苦笑いが漏れた。
「む、無茶を言うな。頭中将は、ま、未だ参議にもならぬのだぞ。左様な事に、口を挟める立場では、おじゃらぬ」
毬が”詰まらないの”と口を尖らせ寿がクスッと笑った。確かに手伝って貰えば直ぐに終わりそうだが……。
「本当は、く、九条さんに、手伝って貰い、たいのだが……」
「駄目なのですか?」
寿の問いに頷く事で答えた。
「養子に、む、迎えた権中納言が、騒動に関わって、勅勘となったからの。出しゃばる事、は出来ぬと」
何度も頭を下げられた。無理強いは出来ぬ。一口お茶を飲んだ。口中に苦味が広がった。
「酷い事件ですものね。私、あんなに多くの公家が関わっているなんて想像もしませんでした」
「私も驚いたわ。出世って怖いわね。頭中将殿があんなに恨まれていたなんて」
その多くが頭中将よりも位階が遙かに上だった。彼らは頭中将に追い抜かれると危惧したのではなかろう。頭中将が帝の寵愛を一身に受ける事に嫉妬したのだ。恨むのでは無く憎んだのだろう。
「殿はお辛くはないのでしょうか?」
寿が不安そうな表情をしている。胸が痛んだ。
「いつも、通りじゃ。心配は要らぬ。だが、此処に来た時は労る、のじゃぞ。寛げる、場所を用意する、のが、そなたの役目じゃ」
寿が”はい”と頷いた。
今回の騒動について公家達の詮索の目は頭中将にも向かっている。だが頭中将がそれを気にする素振りを見せる事は無い。宮中が未だ日常を取り戻さぬ中で頭中将だけが取り戻している。強いわ、まるで鋼よ。いや、あの勝利は頭中将にとっては左程に難しいものでは無かったのかもしれぬ。
「父上、取り敢えず宮中で騒動が起きる事はもう無いのよね」
「そうで、おじゃるの」
「戦の方はどうなるの?」
毬が不安そうに問い掛けてきた。
「六角が、摂津に攻め込む事、は無い」
寿と毬が顔を見合わせた。今日、六角左京大夫が参内した。帝は洛中の無法を取り締まるようにと命じた。左京大夫は摂津へ攻め込まぬ名分を得た事になる。左京大夫は幕府のために働くよりも頭中将と手を結ぶ事を選択した。
「では畠山は単独で三好と戦うのですか?」
「そうなるの」
寿の問いに儂が答えるとまた二人が顔を見合わせた。
「だとすると三好の勝ちね」
毬が断言すると寿がホウッと息を吐いた。
「殿の言う通りになりますわ。なんて凄いのかしら」
「姉上、頭中将殿は当代随一の軍略家なのよ。当然でしょ」
寿はうっとり、毬は得意げにしている。寿は良い。頭中将に添える事が出来た。だが毬は……。胸が痛んだ。
永禄五年(1562年)三月中旬 山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 飛鳥井基綱
久し振りに邸に帰れた。風呂に入り夕食も終えて寛ぐ。春齢も嬉しそうだ。
「済まぬな、春齢。なかなか此処に戻れなかった」
春齢が首を横に振った。
「仕方ないわよ。ここじゃ休めないんだもの」
「……」
「終わってホッとした?」
「まあ、そういうところはおじゃるな」
答えると春齢が嬉しそうに顔を綻ばせた。
今日、人事が発令された。主立った所では左大臣が空席、右大臣に今出川左大将、内大臣に広橋権大納言が任命された。そして権大納言に一条権中納言、山科権中納言、勧修寺権中納言が任命され権中納言には葉室宰相、持明院宰相、高倉宰相が任命されている。未だ未だ権大納言も権中納言も足りないんだけど取り敢えずこれで行こうとなったらしい。徐々に増やしていくようだ。
まあこの辺りは皆も予想していたようだ。皆が驚いたのは万里小路宰相が従三位に叙された事だ。普通親が罪を犯して失脚すれば子にも影響は出るんだが万里小路親子の仲の悪さは皆の知るところだ。宰相が今回の事件に関与していない事も分かっている。驚きは有ったが納得もしているようだ。帝は万里小路権大納言には処罰を下したが万里小路家には配慮を示した。それは誠仁皇子への配慮でも有る。皆はそう見ている。
そして飛鳥井家から昇進した者も居ない。つまり飛鳥井家が寧仁皇子を担いで専権を振るおうとする事も無いと見ている。ホッとしているんだ。宮中では帝は第二の万里小路を作ってはならないと考えていると評判だ。もっとも今回昇進した山科権大納言、葉室権中納言は俺の大叔父だし持明院権中納言は俺の母親の再婚相手だ。俺の勢威が強まったと見る者も居る。
しかしね、これは仕方ないんだ。今回失脚した連中って反飛鳥井なんだよ。つまり俺と仲の悪い連中が失脚したんだから其処を補充しようとすれば必然的に親飛鳥井か中立の者という事になる。それでも飛鳥井家を非難する声が小さいのは飛鳥井家が中流の非有力公家だったからだ。これまで有力公家との婚姻なんて無い。つまり閨閥なんて無いんだ。おまけにずっと外様だったし。これじゃね、宮中では影響力なんて無きに等しい。ようやく俺が春齢と結婚する事で帝に近付き寿との結婚で近衛家との関係を構築した。そんな風に周りは見ている。要するに飛鳥井ではなく俺個人と見ているらしい。
「暫くは近衛には行かないわよね。ずっと向こうに居たんだから」
春齢が俺の顔を覗き込んだ。目が怖いぞ。
「そうはいかぬ。太閤殿下から助けてくれと言われている」
「……」
春齢が不満そうな表情を見せた。
「右府は未だ若く経験不足だ。帝は太閤殿下に右府を支えて欲しいと頼んでいる。しかし殿下も無理は出来ぬ。それでな、麿に宮中の様子を報せて欲しいと頼まれた」
「あの人、役に立たないわね。こっちに迷惑ばかり掛けて」
「そう言うな、他に人が居ないのだ」
春齢が頬を膨らませた。
右大臣今出川晴季は歳は二十代の半ばだ。家格は清華家で右大臣になる前は権大納言、左近衛大将に任じられていた。分かると思うが名門の出で実務なんて携わった事は無い。まあ、お飾りだ。内大臣の広橋国光は名家の出で弁官を務めているから実務は心得ている。だから右大臣はお飾りでも良いんだけど物事には限度というものが有る。あんまり馬鹿じゃ困る。それで太閤殿下を指南番にとなった。
実際ちょっと心配なところは有る。この男、何を考えたのか俺に擦り寄り始めた。夜、この邸にやってきて自分を右大臣、それが難しいなら内大臣にして欲しいと頼みだしたんだ。俺にはそんな権限は無いと言っても全然駄目なんだ。帝の娘婿だし太閤の娘婿でも有る。二人を動かせると考えたのだろう。毎晩来るしなかなか帰らない。うんざりしたから近衛の邸に逃げた。流石に追ってはこなかったな。そのかわり太閤殿下の相談相手にさせられた。何のことは無い、結局人事に絡む事になった。あの、阿呆! 春齢より俺の方が毒づきたいわ。
足音が近付いてきた。止まる。
「九兵衛にございます」
「良いぞ」
九兵衛が戸を開けて姿を見せた。
「細川兵部大輔様が参っております。如何なさいますか?」
春齢が不安そうな表情を見せた。
「もう休んだって断ったら?」
幕府寄りの公家は殆ど俺が潰したからな。六角は摂津に攻め込まないし文句を言われるとでも思ったのかもしれない。
「いや、会おう。兵部大輔は話の出来る相手だ。此処に来たという事は何かあるのかもしれぬ」
「では部屋に通しまする」
九兵衛が一礼して去った。
「大丈夫?」
「大丈夫だ。少し遅くなるかもしれぬ。先に休んでいて良いぞ」
春齢が唇を尖らせて”起きてる”と言った。思わず苦笑いだ。子供扱いされたとでも思ったかな。