夜戦
永禄五年(1562年)三月上旬 山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 飛鳥井基綱
三月の上旬、夜は未だ寒い。既に酉の正刻は過ぎただろう。終刻に近い筈だ。現代なら夜の七時前という事になる。この時代は電灯は無い。陽の光、月明かりが全てだ。季節的に夕方五時を過ぎれば暗くなるんだ。夜の七時前ともなれば真夜中だろう。外を歩く人間など疎らだ。そろそろ報せが来る筈だが……。一つ息を吐いた。
「焦るな、落ち着け」
口に出して自分を抑えた。六角の陣は倉、弓、秋の三人が見張っている。動きがあれば報せが来る筈だ。
狙い通り二条、万里小路は動いた。宮中で多数派工作をしている。味方を募りそれぞれに文を書かせた。誰に? 勿論六角右衛門督義治だろう。公家達の使者が六角の陣に行っているからな。俺を殺せば綸旨は出ると思わせた筈だ。これも狙い通りだ。右衛門督は小夜の件で俺を憎んでいる。綸旨が出れば、たとえ摂津に踏み込まなくても三好修理大夫を朝敵に出来る。それは自分のポイントになると考えるだろう。奴は功績を挙げたくて焦っているのだ。
側に置いていた淡路国安を抜いた。刀身に自分の顔が映った。大丈夫だ。表情は落ち着いている。
「頭中将様」
部屋の外から九兵衛の声が聞こえた。刀を鞘に収めてから”如何した”と聞いた。声も大丈夫だ。
「秋から報せが届きました。動いたそうにございます。浪人者、七十人ほどがこちらに向かっておりまする。半刻で着きましょう」
「分かった。手筈通りに」
「はっ」
九兵衛の足音が遠ざかる。聞こえなくなってから立ち上がった。半刻か、来るのは八時に近いな。
いよいよ俺の初陣だ。身体がブルッと震えた。怖いんじゃ無い、武者震いだと自分に言い聞かせた。部屋の外に出ると直ぐに小雪が姿を現して跪いた。袴を穿いている。戦闘準備、機能性重視だ。
「準備は出来ているか?」
「はい。傷薬、痛み止め、手当て用の綺麗な布、傷の手当て用の水、飲み水用の水、火消し用の水、全て用意してございます」
「女達は自分の役割を分かっているな」
「はい、十分に」
女達には負傷者の手当てと万一火を付けられた時の消火を頼んである。
「味噌汁と握り飯は?」
「そちらも十分に」
小雪が頷いた時、襟元からチラリと鎖帷子が見えた。ちょっとドキリとした。不謹慎だな、俺。
「敵は半刻程で来る。直ぐに握り飯と味噌汁を配れ」
「はい、失礼致しまする」
小雪が立ち去った。空きっ腹では冷える。手がかじかんで十分に働けない。
玄関に向かい外に出ると路地に向かった。路地では既に男達が矢防ぎの板を立て終わっていた。そして弓を持った男達が三列に並んでいる。鉄砲の三段撃ちを真似て弓の三射撃ちだ。大体一列が七人ぐらいに成る。説明はしてあるから大丈夫な筈だ。
「まきびしは撒いたか?」
問い掛けると間宮源太郎が今撒いているところだと答えた。
「数珠もか?」
「はい」
数珠も一緒に撒こうと提案したのは堀川党だ。聞いた時はなるほどと思ったよ。滑って転べば体中にまきびしが刺さる。効果は抜群だ。
女達が味噌汁と握り飯を持ってきた。男達から声が上がる。良し、これで士気も上がる。後は敵が来るのを待つだけだ。最初に潰すのは松明だな。足元を照らされては敵に警戒されるし邸に投げ込まれても面倒だからな。
永禄五年(1562年)三月上旬 山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 倉石長助
敵を待つ。どうも不思議な気分だ。皆は弓を持って三列に並んでいるが俺は頭中将様、山川九兵衛殿、柳井五郎殿と一緒に脇に控えている。九兵衛殿は頭中将殿の補佐、五郎殿と俺は伝令だ。いざとなったら邸に駆け込んで女達に指示を出す事になる。一の列は四人張りの弓と三人張りの弓を使う。二の列は三人張り、三の列は二人張りの弓だ。まあ、なんて言うか本当に戦だな。
「松明が見えましたな」
九兵衛殿が言った。確かに見えるが未だ遠いな。四町は離れている。列の男達も小声で話している。
「静まれ」
頭中将様の言葉に皆が黙った。
「九兵衛、距離はどれ程だ?」
「四町は有りましょう」
「そうか。五郎、小雪に報せよ。敵発見、距離四町」
「はっ!」
五郎殿が駆け出した。嫌でも気が引き締まった。遠いなんて言っている場合じゃ無い。戦はもう始まっている。
「九兵衛、三町まで迫ったら教えよ」
「はっ」
「一の列、準備を怠るな」
一の列の者達から困惑が伝わった。気持ちは分かる。矢は届くが暗いし狙いが定まらない。
「頭中将様、三町では十分な成果は……」
九兵衛殿が止めようとすると頭中将様が手を上げて止めた。
「構わぬ。当たらずとも良いのだ。敵は居るが大した事は無いと思えば急いで距離を詰めようとする筈だ。足元を見る余裕はおじゃるまい。それに急いで走れば息も切れる。逸を以て労を待つよ」
なるほど、狙いは敵をまきびしのところへ突っ込ませる事か。もう困惑は無い。一の列の者達も頷いている。怖いわ。このお方、含み笑いを漏らしていたな。軍略だけじゃない。戦の上手さ、肝の太さも相当なものだ。
「最初に松明を狙え。敵の目を潰そうとしていると思わせるのだ」
一の列の者達から”はっ”と声が上がった。五郎殿が戻ってきた。
「小雪殿に敵発見、距離四町と伝えました」
「御苦労」
少しずつ松明が大きくなる。そろそろ三町だ。九兵衛殿を見た。九兵衛殿もジッと敵を見ている。
「三町です」
「一の列、止めるまで射続けよ。二の列、三の列は待て」
一の列が矢を射始めた。ビュー、ビューと矢の飛ぶ音がする。
「長助、小雪に報せよ。攻撃開始、距離三町」
「はっ」
急いで邸に戻った。庭から小雪殿を呼ぶ。
「小雪殿! 小雪殿!」
「此処です! 長助殿!」
返事のあった方向に走ると小雪殿が居た。
「攻撃開始、距離三町!」
伝えると小雪殿が大きく頷いた。
「御苦労様です! 聞いての通りです! 攻撃開始、距離三町!」
小雪殿が叫ぶと彼方此方で”攻撃開始、距離三町”という声が上がった。それを聞きながら頭中将様の許に戻った。頭中将様に小雪殿に伝えた事を報告し五郎殿の隣に立った。
「どうなっている?」
「見ての通りだ」
第一列が矢を射続けている。しかし……。
「ゆっくりだな」
「そういう命令だ。じっくりと松明を狙えとな」
なるほど、敵を引き付けるためだな。あ、松明が落ちた。当たったようだな。しかし松明は他にも有る。距離はそろそろ二町になるが……。
「頭中将様、二町です」
九兵衛殿の言葉に頭中将様が頷いた。
「一の列、止め、しゃがめ。これより狙いは自由とする。二の列、構え、……射よ。二の列、しゃがめ。三の列、構え、……射よ。一の列、二の列、立て。一の列、構え、……射よ。一の列、しゃがめ。二の列、構え、……射よ」
おいおい、なんだよこれは。こんなの見た事無いぞ。九兵衛殿、五郎殿も唖然と見ている。
頭中将様の指示に従って一の列、二の列、三の列の男達が順番に矢を射続けている。こんな秩序だった攻撃は見た事が無い。まるで何かの儀式みたいだな。声が聞こえてきた。敵の声だ。途切れ途切れに”くそ”、”急に勢いが強くなったぞ”、”急げ、急ぐんだ”等と言っている。残り一町半だ。一町を切ればまきびしと数珠が撒いてある。
永禄五年(1562年)三月上旬 山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井基綱
敵が近付いてくる。松明が大きくなり姿も見える。声もはっきりと聞こえるようになった。あ、倒れたな。あらら、悲鳴が聞こえた。踏み潰されたみたいだ。なるほど、暗いし走っているからな。倒れた奴は踏み潰されて終わりか。悪くない、これまでにも何人か踏み潰されただろう。
「距離、一町です」
九兵衛の声と同時に悲鳴が聞こえた。
「痛え!」
「うわ!」
「まきびしだ! まきびしが有るぞ!」
「おい!、押すな」
敵は混乱している。まきびしで足を痛めて数珠で滑ったか。転んだ奴も居るようだ。慌てふためいている所を矢が襲う。あ、松明を持っている奴が仰向けに倒れた。あれは死んだな。
「散れ、散るんだ。通れる場所を探せ!」
敵が横に広がるのが見えた。無駄だよ、そんな場所は無い。右往左往している敵が次々と矢を受けていく。
「ぎゃっ!」
「ひぃー!」
「痛え、痛え、俺の足が」
「助けてくれ」
混乱が激しくなった。悲鳴が幾つも上がる。でもなあ、なんか実感が無いな。こっちは死傷者ゼロだし俺は号令を掛けているだけ。敵が勝手に転けているような感じがする。それに味方も喜んでいるようには見えない。なんだろう、これは。
「もう、駄目だ」
「おい、逃げるな!」
「冗談じゃ無い、話が違う。やってられるか!」
「逃げろ! 逃げるんだ」
「助けてくれ! 置いて行かないでくれ!」
話が違うか。多分公家の邸を襲う楽な仕事だとでも言われたのだろう。阿呆、世の中はな、それほど甘くは無いんだよ。
「敵、崩れました。逃げております」
「うむ。三の列、止め。全員立て」
俺の言葉に男達が立ち上がった。
「よろしいのでございますか? 追い打ちを掛けずとも」
九兵衛が俺を見ている。いや、九兵衛だけじゃ無いな、皆が見ていた。
「麿が六角左京大夫、右衛門督なら戻ってきた者達の口を封じるな。成功しても、失敗してもだ」
おいおい、固まるなよ。こんなの常識だろう。あの連中も失敗したのだから六角の許には戻らない。その程度の分別が有れば生き残れるんだが……。
「負傷者が居るようです。生き証人として助けますか?」
なるほど、呻き声が聞こえるな。
「長助、倉、弓、秋の所に行け。襲撃が失敗したと分かれば再度兵を出す可能性が有る。其処を見極めろと伝えよ。但し、六角の陣内に入るのは許さぬとな」
「はっ、直ちに」
長助がひらりと塀の上に乗ると走り出した。速いわ、流石に忍者だな。
「負傷者を助けるのは敵が来ないとはっきりしてからだ。一の列、邸に戻り小半刻の休息を取れ。握り飯と味噌汁がある。身体を温めよ。その後は二の列、三の列と順に休息を取れ」
一の列の男達が駆け足で邸に向かった。ずっと射続けたからな。よっぽど腹が減ったんだろう。
「九兵衛、そなたも休息を取れ」
「頭中将様こそ休息を」
「いや、麿は考えなければならぬ事がある。先に休め」
「はっ」
九兵衛が頭を下げて邸に戻った。これで終わりかな? 終わりなら次は六角の本陣だ。其処が決戦の場になる。……それにしても結構大きな騒ぎになったと思うんだがな。誰も出てこない。邸で震えているのかもしれん。
永禄五年(1562年)三月上旬 山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 山川長綱
味噌汁を一口飲んだ。温かい汁が喉を通り五臓六腑に染み渡る。
「美味い」
自然に声が出ていた。思ったよりも身体が冷えていたらしい。握り飯を一口頬張る。これも美味い。生き返ったような気分だ。
「美味しゅうございますか?」
妻の小雪が問い掛けてきた。
「ああ、美味いな」
「それはよろしゅうございました」
妻の顔が綻んでいる。不安だったのかもしれない。
「大分一方的だったようでございますね。お味方に負傷者は居りませぬ」
「一方的と言うよりも赤子の手を捻るような戦振りだったな。皆も拍子抜けしていたようだ」
相手は七十人程だが烏合の衆。しかも浪人者だから弓など持っていなかった。こちらは二十人程だが準備万端整えて待っていた。勝って当たり前の戦だが……。
「如何なされました?」
「ん?」
「何やらお悩みのようですが……」
妻が心配そうにこちらを見ている。思わず苦笑いが漏れた。
「怖いと思ったのよ。軍略だけでは無い、戦も上手いわ。高島の件で分かっていた事だが己の目で見るとな」
妻が頷いた。堀川党の連中も複雑そうな表情をしていた。今は共に手を取り合って戦う仲だがそれが何時まで続くのか……。三好には日向守を始めとして頭中将様を危険視する者は少なくないのだ。
今回の戦で三好は十河讃岐守、三好豊前守を失った。修理大夫も病だ。その力は明らかに減衰している。頭中将様を危険視する者達は益々神経を尖らせるだろう。一度、その辺りを棟梁に相談した方が良かろうな。




