誘い
永禄五年(1562年)三月上旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 正親町天皇
頭中将と二条が部屋を出てから既に小半刻は過ぎた。そろそろ半刻になるだろう。一体どんな状況なのか。上手く武家の要求を躱してくれれば良いのだが……。この場に居る公家達を見た。不安そうな顔をしている者も居れば関心が無さそうな顔をしている者も居る。顔を寄せ合って小声で話している者も居る。溜息が出そうになって慌てて堪えた。頼りになるのは頭中将だけだ。
不思議なのは何故頭中将が二条の介添えを望んだのかだ。二条は信用出来ない。あの者は自分の権勢の事しか考えていない。万里小路と組んで関白を追い落とし自らが再任される事を望んでいる。頭中将もそれを知っている。何か狙いが有るのは確かだが……。ざわめきが起きた。頭中将と二条が戻ってきた。二条の表情は硬い。頭中将の表情は常のものだ。上手く行ったのだと思った。頭中将が私の前に座りその隣に二条が座った。
「只今戻りましておじゃります」
「うむ、御苦労であった。それで如何であった?」
問い掛けると頭中将が”はっ”と畏まった。
「臣と二条様で面会したところ、改めて三好修理大夫を朝敵としそれを討伐するようにとの綸旨を頂きたいとの事でおじゃりました」
公家達の間からざわめきが起きた。分かっていた事でも聞くと不安なのだろう。
「それは分かっている。頭中将は何と答えたのかな?」
庭田権中納言か……。意地の悪そうな表情をしている。自分の息子達の競争相手だと敵視しているのだろう。
「帝に御報告の最中でおじゃりますぞ。口を挟むのはお控え下さい」
頭中将が咎めると権中納言がばつの悪そうな表情をした。
「六角左京大夫には綸旨は出せぬと答えました。話し合いの仔細は省きますがどうしても綸旨が欲しいのなら三好一族をかつての平家のように討ち滅ぼすだけの手立てを朝廷に提示せよと命じましておじゃります」
平家のように? どよめきが起きた。公家達が騒いでいる。頭中将が”お静かに!”と制した。どういう事か、討ち滅ぼせとは……。
「三好修理大夫を朝敵とするならば三好家を討ち滅ぼして貰わなければなりませぬ。修理大夫が、三好家が生き残り京に戻るような事があっては朝廷が責められましょう。それは避けなければなりませぬ」
なるほど、そういう事か……。道理よ。それは避けなければならぬ。六角、畠山が三好を討ち滅ぼせるとは思えぬ。綸旨は出せぬか。後は左京大夫が納得するかだが……。その辺りは此処では聞けぬな。人払いをしなければ……。
「二条、頭中将の言に間違いは無いか?」
「間違いおじゃりませぬ」
二条が面白く無さそうに答えた。
「頭中将、良くやってくれた。御苦労であった」
「畏れ入りまする」
頭中将が頭を下げた。やはり頼りになる。公家達の中には不満そうな表情をしている者も居る。頭中将が気に入らぬか。何故この難事を切り抜ける事を第一に考えぬのか。二条、万里小路、庭田……。
「取り敢えず一安心だな。皆も疲れた事だろう。下がって休むがよい。頭中将は残れ。今少し詳しく聞きたい」
公家達がぞろぞろと部屋を出て行く。それを見届けてから頭中将を手招きして側に呼び寄せた。
「御苦労であった。この後はどうなる? 左京大夫は納得するか?」
「先程は省きましたが左京大夫には摂津に踏み込めば負けると伝えておじゃります。京から摂津に攻め込む事はおじゃりますまい。これ以上綸旨を望む事は無いかと」
「そうか」
負けるというのは相当に根拠が有るのだと思った。
「ただ、嫡男の右衛門督は納得しておじゃりませぬ。臣に敵対心を持っているようで……」
頭中将が苦笑を浮かべた。
「どうなる?」
「おそらく右衛門督を唆す者が宮中に現れましょう。綸旨を出す事に反対しているのは頭中将だけだ。頭中将が居なければ綸旨は簡単に出ると」
「二条、万里小路か?」
問い掛けると頭中将が首を横に振った。
「他にも居りましょう。二条様、権大納言様は仲間集めに励んでおじゃります。それに臣を嫌う者は少なくおじゃりませぬ。簡単に増えましょうな。そして唆す者が多ければ綸旨を出す事に反対しているのは頭中将だけだという言葉に信憑性が増しましょう」
なるほど、道理だ。右衛門督は頭中将を殺そうとするだろう。
「臣は疲れましたのでこの後は邸に戻りまする」
「!」
平静な声だった。気負いも無ければ覚悟も無かった。そうだな、全て想定済みか。二条を介添えに選んだのも右衛門督を唆せるためか……。
「襲ってくるぞ」
「はい、唆した者達は臣が殺されると思いましょう」
「勝てるのだな?」
「それだけの手は打っておじゃります」
信じよう。目の前に居るのは当代一の軍略家なのだ。
「必ず勝てよ」
「妻達、そして御台所は養母のところに避難させまする」
「分かった。その者達は朕が守る。案じるな」
「はっ」
頭中将が口元に笑みを浮かべて一礼した。
永禄五年(1562年)三月上旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 朽木基綱
養母の部屋に向かうと養母、寧仁皇子の他に春齢、寿、毬、そして太閤殿下も居た。梅、松、貞も控えている。
「御苦労でしたね。大変だったでしょう」
養母が労ってくれた。
「太閤殿下からお聞きになったのでございますか?」
養母がクスクス笑う。春齢、寿、毬、そして太閤殿下も笑った。はて?
「それも有りますけど長橋の女官が密かに聞いていたのです」
「勾当内侍が兄様が凄かったって言ってたわ」
「寿も聞きたかったですわ」
「どうせならその場に居たかったわよ」
あのなあ、女官が盗み聞きって問題あるだろう。
「梅、松。人が近付かぬようにしてくれるか」
二人が無言で立ち上がり廊下に出た。女達が少し不安そうな表情を見せた。
「六角左京大夫も納得したようでおじゃりますな。疲れましたので麿は邸に戻って休みます」
「兄様、私も」
「駄目だ。そなたは此処に留まる。寿も御台所も太閤殿下も宮中に留まって貰う」
シンとした。皆、顔が強張っている。
「左京大夫は納得したのではないのですか?」
養母が問うのと”何者か!”と鋭い誰何の声が上がるのが同時だった。俺の動向が気になるらしいな。皆の顔が益々強張った。
「聞いての通りでおじゃります。これを好機と見る者は他にもおじゃりましょう。油断は出来ませぬ」
太閤殿下が息を吐いた。
「ま、麿らを、守るためか? そのために、戻るのか」
その通りだ。此処に一緒に居るのは拙い。連中の狙いは俺だ。一緒に居れば皆が危険になる。しかしそうは言えんな。
「そうではおじゃりませぬ。勝つためでおじゃります。此処に居ては守る事は出来ても勝つ事は出来ませぬ」
太閤殿下がまた息を吐いた。これも事実だ。守るだけというのは弱いのだ。ここは討って出なければならない。
「苦労、をかける、な」
「左程の事でも……。おそらく此処に探りを入れてくる者が居る筈です。それには麿が左京大夫は納得した。心配は無いと言って戻ったと言って下さい。どうも邸でやらなければならない事が有るようだと」
此処に来る前に蔵人所でも大丈夫だと言っておいた。笑顔でな。二条と万里小路は俺が油断していると思う筈だ。
「頭中将殿」
養母が心配そうに俺を見ている。胸が痛んだが敢えて笑顔を浮かべた。
「ご案じなされますな。上手くいきます」
養母の表情は変わらない。養母だけじゃ無い、皆が心配そうに俺を見ていた。
「では、失礼致しまする」
一礼して立ち上がった。痛い程に皆の視線を感じる。気付かない振りで足早に部屋を出た。これから戦だ。
二条は必ず動く。関白殿下を追い落とし自分が関白に再任されるには今しか無いのだ。幸いな事に六角右衛門督義治という格好の駒が有る。親三好、親近衛傾向の強い俺を右衛門督を使って殺す。それによって宮中の親三好、親近衛勢力を押さえ付け宮中を親足利、親二条で纏める。そこまで行けば近衛を排斥し関白を奪い取るのは簡単だ。だが俺が宮中に居れば殺すのは難しい。何とかして追い出そうとする筈だ。だからな、俺の方から出てやる。
俺が邸に戻ったとなれば千載一遇の機会と思う筈だ。必ず右衛門督を唆すだろう。そして右衛門督は功を焦っている。朝廷に綸旨を出させれば皆が自分を認めると思うだろう。公家共に貸しを作れると思うかも知れない。必ず兵を出す。多分浪人達だと思うが国人でも構わない。公家を殺す楽な仕事だと思っているだろうが阿呆共に戦は武家の専売特許じゃないと教えてやろう。
永禄五年(1562年)三月上旬 山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 倉石長助
「美味いな」
「うむ、美味い」
萩原次郎、三郎の兄弟が握り飯を頬張りながら言った。
「蕗の薹を味噌で和えたものを塗してあるからな。美味いのだ」
教えても夢中で喰っている。聞こえていないのかもしれん。村山仙三も無言で握り飯を食べている。味噌汁を一口飲んだ。具は葱だ。なかなか美味い。定心房の漬物もぽりぽりと歯応えが有って良い。独活の酢味噌和えは春の風味がたまらん。握り飯が益々美味いわ。もっとも男四人で食べても今一つ会話が弾まんな。二日前に万殿、菊殿と食べた昼食は美味かったな。会話も弾んだ。楽しかった。
「兄者、此処の女達は料理が上手いと思わんか」
「うむ、亭主持ちが多いからな。自然と料理上手になるのだろう」
「俺達にも分け隔てせずに飯を振る舞ってくれるし気立ても良い。此処の女達は良いな。ウチの女達とはえらく違う。独り身ならば忍んでいく所じゃ」
言っている事は間違ってはいないと思う。しかしなあ、この二人は何時も一言多いんだ。弓と倉に聞かれたら大変な事になるぞ。
「独り身の女も居るではないか。あのぽっちゃりした娘は良いぞ」
「兄者もそう思うか。俺もそう思う。愛らしくてぎゅっと抱きしめたくなる娘だ」
うん、あれは良い娘だ。美人では無いが何とも可愛いらしい。恥じらう姿が良いのだ。
「長助が親しくしているぞ」
余計な事を言うな! 仙三。黙って握り飯を食べていろ。二人が俺を睨んだだろう。 「何を考えている。相手は桔梗の一党のくノ一だぞ」
俺の言葉に二人の表情が緩んだ。
「長助にしてはまともな事を言うじゃない」
カラリと戸が開いて倉が姿を現した。何時の間に……。次郎は握り飯を吹き出し、三郎は目が点、仙三は握り飯を持ったまま呆然としている。落ち着け、定心房を一切れ食べた。ぽりぽりと音がする。うん、大丈夫だ。落ち着いた。
「何時からそこに居たんだ?」
問い掛けると弓が姿を現した。弓、お前もか! 弓がニヤリと笑った。
「何処かの間抜けがウチの女達とはえらく違うと言っていたのを聞いたわよ。後で何処が違うのか、じっくりと聞き出すつもりよ。ねえ」
「そうね」
次郎と三郎が凍り付いている。俺は関係ない。定心房をもう一切れ食べた。二人が部屋の中に入り俺の両脇に座った。なんで其処に座る? 次郎と三郎の傍に行け! 二人が握り飯を取って口に運んだ。口々に”美味しい”と言う。こいつらにはこれを作るのは無理だよな。
「長助、あんたもあの娘が好きなの。仲良くしているみたいだけど」
「畑で随分と話し込んでいたじゃない」
弓と倉が意地の悪そうな表情で俺を見ている。次郎、三郎も俺を見た。
「今年の野菜の話をしていただけだ。漬物に入れるから唐辛子を多めに作って欲しいと言われたのでな。ならば胡瓜や茄子の他に真桑瓜も植えるかと言ったよ。何時まで此処に居る事になるのか分からんからな。漬物は多い方が良い」
信も畑仕事が好きだと言っていたな。南瓜も好きだと言っていた。一杯作らねば。
「そんな事より二条様、万里小路権大納言様を探っていたのだろう? どうなのだ?」
問い掛けると二人の顔が厳しいものに変わった。
「忙しそうよ。頭中将様が宮中を下がると後を追うように宮中を下がったわね」
「二条様の邸で一刻は話していたわ」
倉、弓が面白く無さそうな表情をしている。夜なら忍んで話を聞き出しただろう。だが日中ではな。不満だろう。俺に絡んだのもそれが理由かもしれぬ。
「その後はまた彼方此方に出かけたわ。一緒に行った所も有るけど別々の所も有る」
倉が弓に視線を向けると弓が頷いた。
「早く終わった所も有れば時間が掛かった所も有る」
なるほど。早く終わった所は前々から話が付いていたところだろう。時間が掛かったのは消極的だったか取引を持ち掛けられたかだ。
「頭中将様には報せたのか?」
仙三が問うと二人が頷いた。
「落ち着いてたわね。敵が来るまで時間があるから少し休めって言われたわ。腹が減っているなら此処に行けって言われたの」
弓が二つ目の握り飯を口に頬張った。倉も二つ目の握り飯を口に運ぶ。足音がした。はて……。訝しんでいると”あのー”という声がして信が顔を見せた。おいおい、勘弁してくれ。修羅場は御免だぞ。次郎、三郎、仙三、皆顔が引き攣っている。倉と弓は顔を見合わせた。俺を見るな!
「お茶をお持ちしました。それと弓殿と倉殿には味噌汁をお持ちしました」
「あら、悪いわね」
弓が労うと信が”そんな事は”と言って味噌汁を倉と弓の前に置きお茶を皆に配った。
「おにぎり、美味しいわね」
倉が褒めると信が頬を染めた。
「有り難うございます。私と萩殿、それに玉殿で作りました」
そうか、信が握ったのか。握り飯を一つ取って口に運んだ。美味いわ。次郎、三郎、仙三も握り飯を頬張っている。
「美味いな」
「うん、美味い」
「茶も美味いぞ」
「ああ、欲しかったのだ」
俺達の言葉に信が恥ずかしそうにしながら部屋を去った。もう少し居て欲しかったな。倉と弓だけでは飯が味気なくなる。次郎、三郎、仙三も詰まらなさそうだ。そんな俺達を倉、弓が不満そうに睨んだ。
「直ぐ外見に騙されるんだから。あの娘は手強いわよ。徒手ならば私や倉よりもずっと上。男と対等以上に戦うわ」
「そうなのか?」
次郎が問うと倉が”口惜しいけどね”と認めた。
「佐山源三があっという間に押さえ込まれるのを見たわ。倒されたと思ったら逆に手首を極めていたの。外見からはそうは見えないけど素早いのよ。身体の使い方も上手いのね。手首から肘、肩って極めて押さえ込んでいたわ。忍んでいくのは良いけど無事に帰って来れる保証は無いわよ。気を付けるのね」
倉がニヤッと嗤うと三郎が決まり悪そうな顔をした。信はあの大男を押さえたのか。相当な腕だな。この二人が突っかからなかったわけだ。
「そんな事はどうでも良いな。俺は尻と胸が大きくて気立ての良い娘が好きだ」
仙三がポリポリと定心房を囓りながら言った。一瞬だが皆が唖然として仙三を見た。仙三は俺達を無視だ。定心房を囓り続けている。
「俺も、俺も大好きだ」
「俺もだ、兄者」
次郎、三郎が俺を見た。おいおい。倉と弓も両脇から俺を見ている。胸を張った。俺も男だ。
「勿論、俺も大好きだ」
弓と倉が盛大に溜息を吐いた。
「男ってホント、どうしようも無いわね」
「何も考えていないのよ。頭なんて空っぽなんだから」
何とでも言え。男は尻と胸が大きくて気立ての良い娘が大好きなのだ。たとえそれが桔梗の一党のくノ一でもな!
 




