無双
永禄五年(1562年)三月上旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 飛鳥井基綱
「皆、如何思うか?」
紫宸殿に幾分掠れた帝の声が響いた。皆が顔を見合わせた。だが無言だ。そうだよな。下手な事を言うと帝に疎まれるからな。咳払いがした。二条晴良だ。
「畏れながら申し上げまする。武家が変転し難題を言ってきても、それに逆らってはなりませぬ。それに従いやり過ごすのが帝の定めにおじゃりまする。左京大夫の望みの通りにすべきかと思いまする」
要するに親足利に舵を取れという事だな。帝は面目丸潰れだがそうやって朝廷が凌いできたのも事実だ。公家達の間には頷いている者も居る。二条様、良く言った。流石宮中の重臣。そんな事を思っているかもしれない。
「臣もそれ以外には方策が無いと思いまする」
「臣も二条様に同意致しまする」
万里小路権大納言、庭田権大納言が二条を支持した。二人とも嫌な目で俺を見ている。「左大臣殿、右大臣殿は如何思うかな?」
二条が問うと西園寺左大臣、花山院右大臣も二条に同意した。他にも同意する声が有る。多数派工作の成果だな。帝の表情が益々硬くなった。それにしてもだ。帝の顔が潰れるのにこいつら全然無視だな。飛鳥井ばかり贔屓にしやがって少しは思いしれ。そんな感情が透けて見えるわ。形勢は圧倒的に不利だな。
「他に意見はあるか?」
帝が縋るように俺を見ている。大丈夫、俺は義理の父親を見捨てたりはしないよ。
「畏れながら申し上げまする。臣は左京大夫殿の申し出を受け入れるべきでは無いと思いまする」
シンとした。帝が微かに頷くのが見えた。
「三好は京を捨てましたが摂津にて態勢を整えておじゃります。三好豊前守は討ち死に致しましたが安宅摂津守、三好筑前守、松永弾正、内藤備前守は健在。なにより三好修理大夫は飯盛山城におじゃります。その力、侮るべきではおじゃりませぬ。今の時点で三好修理大夫を朝敵にする綸旨を出すなど、ほほほほほほ、時期尚早でおじゃりますな」
敢えて軽く答えると二条達が不満そうな表情を見せた。
「それに綸旨を出した後、三好が京に戻って来たら如何します? 当然ですが綸旨を出すべきだと言った方への報復は厳しいものになりますぞ。そのお覚悟がおじゃりますかな?」
今度は何人かが不安そうな表情になった。顔を見合わせている。流石だな、二条、万里小路の顔には迷いが無い。
「かつて後白河の院は九郎判官に頼まれて頼朝討伐の院宣を出しましたがそのために鎌倉に対して相当の譲歩を強いられました。同じ轍を踏んではなりませぬ。先ずは左京大夫に対して拒否する姿勢を示す事が肝要におじゃりまする。交渉が上手くいかず、綸旨を出さなければならなくなるやもしれませぬ。なれど一度は拒否したのだと言えれば三好が戻ってきても已むを得なかったのだと言い訳出来ましょう」
俺の言葉に帝が大きく頷いた。太閤も”その通り”と同意してくれる。公家達にも頷く姿が幾つか有った。形勢は三分七分で多少は盛り返した。
「確かにその通りでおじゃりますな。麿としても徒に武家に媚びるような綸旨は出すべきだとは思いませぬ」
二条の言葉に万里小路、庭田達が驚いたような表情を見せた。
「六角左京大夫を説得出来れば問題おじゃりませぬ。頭中将、左京大夫を説得して貰えるかな?」
”それが良い”と複数の声が上がった。
「如何かな? 皆もそれを望んでいるようだが」
二条が嘲笑うような目で俺を見ている。馬鹿な奴だ。
「条件が一つだけおじゃります。それを叶えて頂けるなら」
「それは?」
「二条様に麿の介添えを。如何でおじゃりましょう」
二条が真顔になった。皆も押し黙っている。
「麿は未だ位階が低く歳も若い。麿一人では左京大夫も不安に思いましょう。朝廷の為に、帝の御為に御協力頂けませぬか?」
二条の顔が渋くなった。
「……分かった。麿が介添えしよう。だが交渉はそなたに任せるぞ。麿は口は出さぬ」
「微力を尽くしまする」
帝に視線を向けると帝が頷くのが見えた。責任が重いわ。春齢、寿達を宮中に呼ばなければ……。
永禄五年(1562年)三月上旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 二条晴良
私と頭中将が部屋に入ると部屋の中にいた二人の男が平伏した。二人とも鎧を纏っている。脅しのためである事は分かるが無粋な……。頭中将と私が座ると二人が頭を上げた。
「久しゅうおじゃりますな。左京大夫殿」
大したものだ。声が震えていない。それどころか笑みが有る。肝が据わっていると思った。
「真に、久しゅうございまする」
「そちらは御子息でおじゃりますかな?」
「はい、右衛門督義治にございまする」
右衛門督が軽く頭を下げた。頭中将も頷く。
「こちらは元関白二条晴良様におじゃります」
二人が驚くのが分かった。
「これは、お初にお目に掛かりまする。六角左京大夫義賢にございまする」
「右衛門督義治にございまする」
「二条である。綸旨の件でおじゃるが話は頭中将が行う。麿は見届け人だ」
突き放すと頭中将が扇子で口元を隠してクスッと笑った。顔が火照った。大人げないと思われたか。
「そうそう、綸旨の件でおじゃりましたな」
「何卒、二条様、頭中将様のお力で我等に綸旨を頂けるよう取り計らって頂けませぬか?」
左京大夫は私を頼んでいるらしい。迷惑な事よ。
「蔵人所は綸旨を発給するところでおじゃります。麿にも十分に関わるところでおじゃりますが難しゅうおじゃりますな」
左京大夫がジッと頭中将を見た。息子の右衛門督は不満そうにしている。若いな、感情の抑えが効かぬか。
「それは何故でしょう? 頭中将様は三好家と昵懇と聞いております。それが理由でしょうか?」
左京大夫の問いに頭中将がゆらゆらと首を横に振った。面憎いほどの落ち着きよ。
「この基綱、私情では動きませぬ」
「しかし」
「三好家には麿を殺したがっている方も居ますぞ」
「……」
チラッと頭中将が私を見た。目元に笑みがあった。
「もっとも麿を殺したがっている人物は他にもおじゃります。麿は敵が多いですからな。ほほほほほほ」
笑われた。また顔が火照った。頭中将を追い詰めてやると思って交渉役を押し付けたのだがこの小僧には余裕が有る。この中で最年少にもかかわらずだ。危険だと思った。
「理由でおじゃりましたな。簡単でおじゃります。意味の無い綸旨は出せませぬ」
シンとした。言い切ったわ。それにしても意味が無いとは……。
「意味は有りまする! 三好が公方様を蔑ろにしているのは事実! それを咎め幕府の権威を立て直す! 意味は有りましょう!」
右衛門督が激しい口調で迫った。表情も険しい。どうやら頭中将に不満が有るらしい。……面白い。
「麿の言う意味とはそういう意味ではおじゃりませぬな」
正直感嘆した。落ち着いている。頭中将が私を見た。
「喉が渇きましたな。茶でも貰いましょう。誰か有る!」
「茶など!」
「落ち着きなされ、右衛門督殿」
激高する右衛門督を笑いながら頭中将が抑えた。
「敵が迫っているわけでもおじゃりますまい。茶を楽しむ時間はおじゃりますぞ」
揶揄されて右衛門督が顔を朱に染めた。自然と息を吐いていた。左京大夫も息を吐いている。役者が違うわ。右衛門督など所詮は小僧よ。だが小僧なればこそ利用出来る事も有る。女官がこわごわと顔を出した。
「ご、御用でございましょうか?」
「喉が渇きました。茶を四人分淹れて下さい。それと何か腹に入れる物はおじゃりませぬか?」
呆れた。腹に入れる物? 女官も目を丸くしている。
「は、腹に入れる物でございますか?」
「ええ、腹が減りました。饅頭で良いのでおじゃりますが」
「す、直ぐに用意致しまする」
女官が下がると頭中将が”ふふふ”と笑った。強かと言うより煮ても焼いても食えない老獪さを感じた。この小僧、未だ十代の前半の筈だが私よりも年上に感じるわ。
「まあ、茶でも飲みながら肩肘張らずに話し合いましょう。朝廷は六角家と敵対する事を望んでいるわけではおじゃりませぬ」
「それはこちらも同じでございまする。朝廷と敵対するつもりはありませぬ」
「もっともお互いに譲れぬ所はある。そうではおじゃりませぬかな?」
「はい」
頭中将と左京大夫が互いに頷いている。
「譲れぬ所とは?」
「勿論綸旨にございまする」
「それは困りましたな」
今度は二人で笑っている。この二人、交渉を楽しんでいるのか? 女官が二人やってきた。それぞれに茶と饅頭を置いていく。
「二条様、頂きましょうか?」
「そうでおじゃるの」
自然と手が茶碗に伸びた。私も喉が渇いていたらしい。苦笑いが出そうになって茶碗で口元を隠した。左京大夫、右衛門督も茶碗に手を伸ばした。右衛門督は忌々しそうな表情が消えない。この男が六角家を継ぐのか。はてさて……。
「左京大夫殿、綸旨を出した場合でおじゃりますが三好を討ち滅ぼせましょうか?」
「討ち滅ぼせと?」
左京大夫が驚いている。私も驚いた。頭中将は饅頭を口に運んでいる。この男、自分が何を言っているのか分かっているのか? まるで緊張感が無いが。
「左様、勝つではなりませぬ。討ち滅ぼす」
「勿論、当然で」
「止めよ! 右衛門督!」
左京大夫が右衛門督を止めた。頭中将が茶を一口飲んだ。飲み終わると茶碗を置いて右衛門督に視線を向けた。
「右衛門督殿。嘘はお止め頂きたい」
「嘘など」
「綸旨を出すという事を軽く考えられては困りますな。そうではおじゃりませぬか、二条様」
今度はこちらに視線を向けてきた。厳しい視線だ。否定は出来ぬ。頷くと頭中将がまた視線を右衛門督に向けた。
「朝廷はこれまで三好修理大夫殿を武家の棟梁として五畿内の安定を図って来ました。それを朝敵とするならば二度と三好修理大夫殿に京に戻ってこられては困るのです。後々責められるような立場に帝を、朝廷を、公家達を立たせる事は出来ませぬ。かつての平氏のように影も形も無いほどに三好一族を殲滅して頂く。それが出来ますかな? 左京大夫殿、右衛門督殿」
左京大夫、右衛門督、二人とも言葉が無い。
「出来ぬのなら綸旨は出せませぬ。戻ってきた三好家は必ず六角家を朝敵とする綸旨を出せと朝廷に迫りましょう。朝廷はそれを拒否出来ませぬ。となれば互いに相手を朝敵とする綸旨を持つ事になる。それでは意味がおじゃりませぬな。三好に責められて馬鹿を見るのは朝廷だけです」
なるほど、道理よ。綸旨を出せというなら保証を寄越せと迫ったか。勝てるかもしれぬが三好を討ち滅ぼすのは難しかろう。いざとなれば三好は四国に逃げる筈だ。
「出来まする」
右衛門督が睨むように頭中将を見ている。
「摂津に進撃し畠山と共に三好を必ず討ち滅ぼしてみせましょう。今ならば必ず出来まする」
ほう、言い切ったか。相当に負けず嫌いなようだな。面白いわ。右衛門督は出来ると言った。おそらく嘘だろうが言い切った以上、綸旨を出さねばなるまい。それを避けるには勝てぬと証明するしか無いが……。頭中将が扇子で口元を隠しながら”うふふ”と笑った。
「摂津に踏み込めば六角も畠山も負けますぞ」
「負けるなど有り得ませぬ! 頭中将様は公家なれば戦の事はご存じ有りますまい!」
右衛門督が怒鳴るように言った。ガチャガチャと鎧が煩いわ。耳障りよ。
「随分な自信でおじゃりますな。しかし根拠がおじゃりますかな?」
「有る! 三好修理大夫は病だ。戦場には出られぬ。そうでしょう、父上」
なんと! 真か? 左京大夫が”うむ”と頷いた。右衛門督が得意げな表情をしている。真か……。
「右衛門督殿、麿がそれを知らぬとでも思いましたかな?」
ギョッとした。私だけでは無い。左京大夫、右衛門督も頭中将を見ている。頭中将は可笑しそうに右衛門督を見ていた。
「おそらく九月から十月頃に六角家では修理大夫殿の動きを訝しんだのではおじゃりませぬかな? それで畠山と相談して十一月に大規模な戦を仕掛けた。そして備前守殿が敗れたにも関わらず修理大夫殿に動きが無い事で疑いを強めた。年が明けても修理大夫殿に動きが無い事で戦場には出られない状況にあると判断し三月に戦を仕掛けた」
頭中将が”ほほほほ”と笑った。左京大夫、右衛門督が顔を強張らせている。なんと、事実か……。
「遅い、遅い。修理大夫殿の病など、麿はそれ以前に知っておじゃりましたぞ。それを今頃得意げに言われても……、ほほほほほほ」
右衛門督が”馬鹿な”と呟いた。それを聞いて頭中将が更に”ほほほほ”と笑った。
「信じられませぬかな? 何処が悪いというわけでは無いようです。ただ気力が出ないのだとか。まあこの大事でおじゃりますからな。そろそろ立ち上がるかもしれませぬ。余り病には期待しない方が良いでしょう」
頭中将が一口茶を飲んだ。
「それで六角が敗れると?」
左京大夫が問うと頭中将が首を横に振った。
「そうではおじゃりませぬ。そのような不確実な事で麿は戦の帰趨を判断致しませぬ。左京大夫殿、麿を甘く見て貰っては困りますな。公家でも戦は分かりますぞ。ふふふ」
怖いと思った。これは人か? 誰かがゴクリと唾を飲む音が聞こえた。
「六角が摂津に踏み込めば三好は戦を長引かせますぞ。そうなれば浅井が動く」
左京大夫の表情が厳しくなった。
「三好筑前守殿は相当前から浅井に文を送っているようでおじゃりますな。修理大夫殿が戦場に立たぬ事を不安に思っていたのかもしれませぬ。万々一に備えていたのでしょう。浅井も六角が京に居る間は動きますまい。なれど摂津に入って簡単には身動き出来ぬとなれば動き出しますぞ」
左京大夫の表情が益々厳しくなった。右衛門督も表情が厳しい。否定出来ないのだと思った。浅井か、野良田の戦いからもうじき二年だ。動くのかもしれない。
「一色は織田を防ぐので手一杯。頼りになりませぬ。それに織田に攻められて劣勢な一色を六角は助けなかった。一色に六角を助ける義理は無い。そう考えても少しも可笑しくはおじゃりませぬ。むしろ敢えて無視しましょうな。その方が六角の顔を西から東へと向けさせられる。一色の利に繋がるのですから」
頭中将が”ふふふふ”と笑うと左京大夫、右衛門督の顔が強張った。
「南近江を守るためには自らの兵を戻すしか無い。しかしそれが出来ましょうか? 畠山は必ず止める筈です。自分達を見離すのかと左京大夫殿を責めましょうな。躊躇すれば浅井が勢力を伸ばす。兵を戻せば六角は頼りにならぬと誹られる事になる。いや、それだけではおじゃりませぬ。畠山も二万以上の味方が居なくなっては士気を保てますまい。兵を退く事になります。三好は戦わずして勝つ事になる。畠山だけではない、公方も六角を役に立たぬと責めましょうな」
左京大夫が呻いた。道理だ。六角も畠山も戦わずして負ける事になる。当代随一の軍略家か。
「それで負けると?」
「今一つ、米の問題もおじゃりますな」
右衛門督が”米?”と声を上げた。心当たりが無いらしい。頭中将が苦笑を浮かべた。頼りないと思ったのだろう。左京大夫の表情は渋い。心当たりが有るのだと思った。
「畿内で米を得るのは簡単ではおじゃりませぬぞ。昨年から米の値が高くなったようです。何者かが米を買い占めたらしい。長戦で米が不足する、三好に売りつけようと考えたようでおじゃりますな。しかし三好が負けた事で米を売り払ったようです。その米を買った者は西へ向かったようでおじゃりますが……」
頭中将が左京大夫に視線を向けた。
「二万の兵を喰わせるのは大変でおじゃりますな。近江から運んでくるのでしょうが距離が遠くなれば運ぶのも楽では無い。兵糧に不安を抱えながらの戦など碌な事にはなりませぬぞ。摂津に踏み込むのはお止めになった方が良い」
左京大夫がまた呻いた。右衛門督の顔が朱に染まった。摂津に進撃して三好を撃滅すると言ったのだ。面目丸潰れだろう。
「残念でおじゃりますな。勝つ機会は有ったと思います。でも活かせませんでした」
「それは? 如何なるもので?」
左京大夫が問うと頭中将が首を横に振った。
「今更言っても……。死児の齢を数えるようなものでおじゃりましょう。意味がおじゃりませぬ」
「いや、後学のために、是非ともお聞かせ願えませぬか」
左京大夫が重ねて請うと頭中将が一つ息を吐いた。
「畠山尾張守殿です。あの御仁の武略、些か拙いようでおじゃりますな」
「……」
左京大夫が息を呑んだ。まさかそこまで露骨に貶すとは思っていなかったのだろう。
「兵は集中して使うのが常道、そして多をもって寡を討つのが常道。豊前守殿を討ち取ったなら何故兵を京に進めなかったのか。修理大夫殿が病だと分かっているならなおさらでおじゃりましょう。飯盛山城など放置で良かった。上手く行けば左京大夫殿と協力して筑前守殿、弾正殿、備前守殿を東西から挟撃出来たでしょう。違いますかな?」
「……確かに……」
左京大夫が呻くように同意した。
「京を制圧し三好勢を殲滅する事も出来たと思います。そうなれば公方を擁する事が出来た。公方の名で打倒三好を宣言して兵を集める事も出来たでしょう。丹波も三好から離れたと思います。そこまで行けば修理大夫殿も形勢不利と見て四国へ逃げたかもしれませぬ。いや、絶望して飯盛山城で腹でも切ったかも。残念でおじゃりましたな。ほほほほほ」
頭中将が笑う。左京大夫が、右衛門督が呻いた。私も呻き声が出た。勝てたのだ。そうであれば近衛、飛鳥井を排斥出来た。私が関白に再任されたのだ。それなのに……、畠山の愚か者が!
「戦果を拡大しようと目の前を逃げる三好勢を追い過ぎたようでおじゃりますな。これまで負け続きでしたから勝ち戦に舞い上がったのかもしれませぬ。千載一遇の機会を逃しましたな」
左京大夫、右衛門督は顔を強張らせるだけだ。また思った。当代随一の軍略家だと。
「まあ、過ぎた事は仕方がおじゃりませぬ。どうせ公方のために兵を起こしたのではおじゃりますまい。三好の勢いが強過ぎるから畠山と協力して叩こうとした。そうではおじゃりませぬかな? ならば十分に目的は果たした。これ以降は何が六角家のためになるかを考えた方が良いでしょう」
「六角家のためとは?」
左京大夫が問い掛けると頭中将が”フッ”と笑った。
「畠山の事は放っておくという事でおじゃります。京に踏み込まず摂津に踏み込んだのが間違い。六角家がその間違いに付き合う必要はおじゃりませぬ。後は尾張守殿の武略次第」
シンとした。武略が拙いと貶しながらその武略次第とは……。頭中将は畠山は勝てぬと見ている。馬鹿に付き合って怪我をするより自分の事を考えろと左京大夫に言っている。
「野良田の戦いで六角家の武威に翳りが生じましたな。しかし此度、京を占領した事で六角家は翳りを払拭しました。武威は再び輝いた。後はこの武威を大事にして浅井を叩けば良い。三好家は十河讃岐守、三好豊前守が死んだ事でしばらくの間は態勢を整える事に専念致しましょう。六角家が浅井攻めを行っても兵を出して邪魔する事はおじゃりますまい」
左京大夫が小さく頷いている。摂津に兵を出すのは危険と見たか。右衛門督も頭中将を睨み付けているが反論はしない。
頭中将が茶を一口飲んだ。茶碗を置いて居ずまいを正す。左京大夫、右衛門督も居ずまいを正した。
「綸旨は出せませぬ。綸旨を出せというのなら、三好を討ち滅ぼす手立てを朝廷に示して頂きましょう。朝廷が納得出来るだけの手立てをです。宜しゅうおじゃりますな」
「……」
「では麿は失礼します。二条様、戻りましょう」
左京大夫が頭を下げると右衛門督も渋々だが頭を下げた。やはり邪魔よ。取り除かなければならぬ。




