久米田の戦い
永禄五年(1562年)二月下旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 正親町天皇
「無心に眠っておる。赤子は可愛いな」
「はい」
目々が優しい目で寧仁を見ている。ずっとこの時が続けば良いと思った。……愚かな事だな。
「目々、直に戦が起こるそうだ」
「頭中将からそのように聞いております」
目々が視線を伏せている。その事が哀れだった。
畠山と六角が連絡を頻りに取り合っている。修理大夫が病だと確信したのだろう。そして攻め込む日を決めているに違いない。そして三好は負ける……。
「如何なされました?」
「ん?」
目々が心配そうにこちらを見ている。
「溜息を吐いておられました」
「そうか」
苦笑いが出た。
「無力だと思ったのだ。頭中将の御蔭で多少は世の中の動きが見えるようになった。だが無力だ。朕に戦を止める事は出来ぬ」
口中が苦いと思った。言葉は苦いのだな。
「已むを得ませぬ。朝廷に力は無いのです。それに戦を煽る者、戦が起きる事を願う者もおります」
「そうだな」
公方、二条、万里小路。あの者達は自分の願いが叶えば京が焼け野原になっても何の痛痒も感じぬのだろう。
「ですが京を戦火から守ろうとする者もおります。お気を落とされてはなりませぬ」
目々が強い視線で私を見ている。
「そうだな。そなたの言う通りだ。朕は一人ではない」
頭中将は負ければ命を失うかもしれぬのだ。それでも懸命に京を守ろうとしている。私に比べればずっと厳しい立場だ。あれは愚痴も零さずに立ち向かっている。泣き言を言うなど何を甘えているのか!
頭中将は頭弁に戦が近付いている。三好が負ける、京を放棄する事になると話した。頭弁は酷く驚いたらしい。畿内の覇者、三好が負けるとは信じられなかったのだろう。多分、実際に三好が大敗すれば多くの者が慌てふためくだろう。そしてこれを好機と動き出す者も居る。それに引き摺られる者も居る。それらを抑えなければ……。
その時が来れば春齢、そして近衛の女達、太閤もここへ避難する事になる。それは私の力で守らなければならぬ。頭中将に存分に働かせるにはそれが必要だ。
「負ける事は出来ぬ」
「はい」
目々が頷いた。此処を凌ぐ。何としても凌ぐ。そして私は頭中将と共に京の町を守るのだ。
永禄五年(1562年)三月上旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 飛鳥井基綱
邸の者が来ていると報せを受けて番所に向かうと黒野小兵衛が待っていた。小兵衛が硬い表情で頭を下げた。ついにその日が来たのだと思った。
「如何した?」
小兵衛が手を差し出した。紙縒【こよ】りが有る。受け取ると小兵衛が身を寄せてきた。「三好豊前守殿、討ち死に」
小声だったが耳に響いた。息を吐きそうになるのを懸命に堪えた。想定内、予想通りじゃないか。溜息を吐くには及ばない。
「後程、今少し詳しい報せが」
「分かった。御苦労でおじゃったな」
労うと小兵衛が無言で頭を下げた。
「この件、堀川の松永弾正の邸に伝えてくれ。室町第に軽挙妄動をさせるなとな」
「確と」
弾正の邸には主膳から報せが行く筈だが念のためだ。ここで義輝に兵を挙げさせては市街戦になりかねない。それこそ京は焼け野原だ。となれば……。
「それと邸に戻り人の手配を」
「それは?」
小兵衛の顔が緊張している。荒仕事だと思ったのだろう。正解だ、小兵衛。
「一刻で良い。室町第に畠山の使者が行かぬようにしてくれ。公方が挙兵などと馬鹿げた事をせぬようにな。一刻有れば松永が公方を抑える筈だ。使者は殺して構わぬ。だが桔梗の一党が動いたとは気取らせるな」
小兵衛が”はっ”と答えた。
「その方はそれに加わるな。麿に新しい報せを伝えよ。それと近衛家に行ってくれ」
「近衛家に」
ちょっと不満そうだな。
「敗戦の事と今宵、麿が近衛家に行くと伝えてくれ。春齢には帰りは少し遅くなると伝えて欲しい。それと一刻後にもう一度来てくれ。頼むぞ」
「はっ」
小兵衛が一礼して立ち去る。紙縒りを開いた。
『三好豊前守、久米田寺付近にて攻め込んだ畠山勢と戦い討ち死に。三好勢、総崩れで堺方面に退却中』
溜息が出るのを抑えられなかった。酷いわ。豊前守の兵の主力は四国勢だったよな。堺方面って四国に逃げ帰るつもりじゃないの。筑前守、弾正、備前守は一つ間違うと京で孤立するな。まあ京の維持に拘るなと言ったし畠山の次の目標は修理大夫が居る飯盛山城だろう。大丈夫だと思うが……。
馬鹿だな、俺。他人の心配は後だ。先ずは自分の心配をすべきだろう。紙縒りを懐にしまい敢えて笑みを浮かべた。スマイル、スマイル。何の問題も無い。周りに人が居る。気取られるな。ほら、新大典侍が嫌な笑みを浮かべて俺を見ている。
「どうかしましたの? 随分悩んでおいででしたけど」
ほんと、うっとおしいわ。自己顕示欲の強い女って嫌われるぞ。
「なかなかに 黙【もだ】もあらましを なにすとか 相【あひ】見そむけむ 遂【と】げざらまくに」
言い終わってにっこり笑うと新大典侍が顔を強張らせた。こいつはね、歌人として有名な大伴家持【おおともやかもち】の歌だ。家持は笠郎女【かさのいらつめ】という女性と関係を持った。家持は遊びのつもりだったのだが相手が本気になってしまいうんざりするくらいつきまとわれたらしい。
現代ならストーカーで訴えられたのだろうが家持の時代も俺が生きている戦国時代もストーカーなんて概念は無い。そこで家持はこの歌を笠郎女本人に贈った。こんなにつきまとわれるのなら声なんて掛けるんじゃ無かったと歌に託して本人に伝えたのだ。要するにしつこいぞ、好い加減にしろとぶち切れたのだろう。ちょっと酷いんじゃないかと家持を非難する人も居るだろう。だがね、わなわな震えて俺を睨んでいる新大典侍を見ると俺は家持を非難出来ない。むしろ良く歌を作ってくれたと感謝するよ。そのまま新大典侍を無視して蔵人所に行った。女官達が居たから直ぐに大騒ぎだろうな。
「頭弁殿、少し宜しゅうおじゃりますかな?」
蔵人所に着いて声を掛けると頭弁が”はい”と言って近付いてきた。
「何事でおじゃりましょう?」
「例の件、始まりました」
小声で伝えると頭弁の顔から血が引いた。頼む、ここで倒れないでくれよ。
「これから帝にお伝えしなければなりませぬ。御同道願いまする」
「承知しました」
頭弁が震える声で頷いた。内心ではこんな時に頭弁になった不運を嘆いているかもしれない。
頭弁と共に常御所に向かう。溜息が二度聞こえたが聞こえない振りをした。逃げずに一緒に来てくれるだけましだよ。常御所では数人の若い公家達が帝の前で談笑していたが俺と頭弁を見ると無言になった。黙って俺を見ている。感じ悪いよな。それを無視して帝の御前に進んだ。勿論頭弁も一緒だ。
「畏れながらお伝えしなければならない大事が出来【しゅったい】致しました。お人払いを願いまする」
公家達が不満そうな表情をしたが帝が”皆、下がれ”と命じると素直に下がった。
「大事なればお傍に寄らせて頂きまする」
一言断りを入れてから傍に寄った。頭弁もおずおずと近寄った。
「とうとう始まったか?」
帝の声が掠れている。溜息が出そうになって慌てて堪えた。
「畠山との戦いで三好豊前守が討ち死に致しました」
「まさか!」
「なんと!」
”まさか!”と言ったのは頭弁、”なんと!”と言ったのは帝だ。
「三好勢は堺方面に敗走中との事におじゃります」
シンとした。帝がジッと俺を見ている。暫くして帝が息を吐いた。
「そなたの予想通りになったか……。外れて欲しかったのだが……」
予言者っていうのは歓迎されないって事だな。帝は俺を信頼してくれる。疎む事は無い。有り難い事だ。
「皆を集めこの件を報せなければなりませぬ」
「報せるのか?」
「頭中将殿?」
帝と頭弁が疑問の声を上げた。
「いずれは分かる事におじゃります。放置しては妙な流言飛語が流れ公家達が踊らされかねませぬ。こちらから事実を伝え付和雷同するなと戒めるべきかと思いまする」
帝が、頭弁が頷いた。出来るだけ公家達を混乱させずにコントロールする必要が有る。そのためには真実を伝える事だ。信じられる情報源が有ればそれを頼るのが人間だからな。
「一刻ほど経ったら皆を殿上の間に集めまする」
公家達に教えれば万里小路権大納言が必ず室町第に報告する筈だ。一刻有れば弾正の配下が室町第を抑えるだろう。万里小路権大納言が伝えても義輝は身動き出来ない。後は桔梗の一党が畠山の使者を殺してくれれば問題ない。
永禄五年(1562年)三月上旬 山城国葛野郡 近衛前久邸 近衛稙家
「ぶ、豊前守が、討ち死にするとは……」
儂の言葉に頭中将が首を横に振った。
「焦りが有ったようでおじゃります。昨年、負けましたから……。畠山勢の先手が攻め込んだのですが直ぐに三好勢の前衛が畠山勢を押し戻したのだとか。畠山勢の先手は崩れそれを助けようとした第二陣も押し崩されたと聞いておじゃります。豊前守は勝機と見て自らの馬廻り衆百騎程を除く全てを前線に投入したのでおじゃりますがそこを根来衆の鉄砲隊に突かれました。根来衆は戦が始まると密かに豊前守の後方に回り込んだようでおじゃりますな。豊前守は鉄砲隊に突撃し討ち死にしました」
淡々と頭中将が話すが内容は深刻だ。寿も毬も顔を強張らせている。
「三好勢は堺方面に後退、いや敗走しておじゃります。畠山勢はそれを追撃しているようで。おそらくは和泉、河内を攻め獲るつもりかと」
「堺」
寿が呟くと頭中将が頷いた。
「豊前守の兵はその多くが四国の者達でおじゃります。多分、四国に逃げ帰るのでおじゃりましょう」
溜息が出た。天下の覇者三好の兵が四国に逃げ帰る。それほどの大敗とは……。
「公方様が喜ぶわね。兵を挙げると言い出さないかしら」
「それは無理でおじゃりますな、御台所」
「そう?」
毬の問いに頭中将が頷いた。
「既に松永弾正殿の兵が警護の名目で室町第を固めておじゃります。兵を挙げるなどとてもとても」
今度は首を横に振った。
「聞くところによると万里小路権大納言様が報せる一刻前には室町第は弾正殿の兵で固められていたのだとか。畠山からの使者が室町第に着いたのは更にその半刻後だと聞きました」
「流石だわ、素早いわね」
毬が嘆声を上げた。寿も頷いている。
「真に。皆、驚いておじゃります。負けたとはいえ決して三好を侮るべからずと宮中でももっぱらの評判でおじゃります」
ホッとした。公方が兵を挙げずに済んだ。もし兵を挙げていれば京が戦場になる。公方の命も危ない。それを防げた。
「み、三好筑前守は?」
「筑前守殿と六角も戦となりましたが筑前守殿が優勢に戦っていたそうにおじゃります。しかし豊前守殿の討ち死にを知って兵を後退させておじゃります。ここ二、三日には京に戻りましょう」
「そうか」
「筑前守殿は京を捨て摂津方面にて態勢を立て直しましょう。四国に逃げた者達もそちらに集まるのではないかと思いまする」
「京を、捨てるか」
驚いて問い返すと頭中将が”捨てまする”と冷静な声で答えた。顔色一つ変えていない。感嘆した。娘達もまじまじと頭中将を見ている。
「京では負けまする。摂津なら勝てましょう」
「く、公方は」
「三好と共に摂津へ」
そうじゃの、京へは置いていけぬか。何を思ったか、頭中将がフッと笑った。
「畠山尾張守、河内ではなく京へ攻め込むべきでおじゃりました。そうであれば筑前守殿を六角と協力して挟撃出来た。大勝利を収められた筈。残念でおじゃりますな。もっともそうなれば京は焼け野原でおじゃりますが」
今度は”ふふふ”と笑い声を上げた。ぞくりとした。当代随一の軍略家。その片鱗を見たと思った。
”ほうっ”と吐息が聞こえた。寿が頭中将を熱い目で見ている。
「どうして武家ではありませんの? 寿は武家の頭中将様を見とうございます」
「私も見たいわ」
娘二人が武家の頭中将を見たいと言った。儂も見てみたい。この男なら三好も六角も畠山もあっという間に従えるかもしれぬ。
「そういう人生も有ったやもしれませぬ。ですがこの人生も悪くおじゃりませぬ」
声に寂しさが有ると思った。もしかすると頭中将自身が武家として生きる事を切望しているのかもしれない。
「それよりもこれからでおじゃります。京を三好が捨てれば二条様、万里小路権大納言様が必ず動きましょう。幕臣達も反近衛、反飛鳥井で協力する筈。油断は出来ませぬ」
「そうでおじゃるの」
負ければ近衛が滅ぶ事も十分に有り得る。必ず勝たねばならぬ。
永禄五年(1562年)三月上旬 山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 飛鳥井基綱
邸に戻ると春齢が”お帰りなさい”と出迎えてくれた。不安そうな表情をしている。
「とうとう始まったのね」
「うむ、始まった」
本当なら大丈夫だと言うべきなのだろう。だが気休めでしか無い。言えば春齢は自分を気遣っていると思うだろう。
「九兵衛、皆を広間に集めよ」
「はっ」
九兵衛が一礼して去った。
「そなたもだ。行くぞ」
春齢を促して広間に向かった。一番最初に着いたのは自分と春齢だった。直ぐにぞろぞろと皆が集まった。七恵も最後尾に座っている。
「皆も知っての通り三好豊前守が討ち死にした。三好勢は大敗を喫して堺に逃げている。おそらく、四国へと逃げるだろう」
皆が頷いた。溜息も聞こえた。酷い大敗だと思ったのだろう。
「まあ、これで筑前守殿も摂津へと退き易くなったと思えば悪くおじゃらぬ。摂津なら四国からも兵を集め易い」
また皆が頷いた。今度は溜息は聞こえなかった。
「畠山からの使者の件、上手くやってくれたな。礼を言う」
久坂小十郎、佐山源三、柳井五郎、香川助八、秋山信蔵が面目無さげな素振りを見せた。はて? 訝しんでいると久坂小十郎が”申し訳ありませぬ”と頭を下げた。
「甲賀者に見られました。直ぐに追ったのですが……」
「逃げられたか」
「はい」
益々面目無さげだ。
「まあ良い。動いたのがそなた達なら京での戦を防ぐためと察するだろう。自分達への敵対行為とは取るまい。それよりあれで公方が兵を挙げるのを防げた。京で戦が起きるのを防げたのだ。よくやってくれた。上々の滑り出しよ」
畠山からの第一報はあの後直ぐに来た。使者は馬で飛ばして来たらしい。こちらの手配りは間一髪で間に合ったようだ。走る馬に苦無を打ち込んで暴れさせ振り落とされた使者を助ける振りをして佐山源三が首の骨をへし折った。弾正の配下が室町第を囲んだのはその直後だった。危なかったわ。
「遺体は如何した?」
「介抱する振りをして人気の無い所に運びそのまま捨てましてございます。鎧や刀、衣服も剥ぎ取りましたので簡単には身元は分かりませぬ」
小十郎が答えた。そうだな、追い剥ぎなんて珍しくない。幕府も最初の使者が何処に行ったと問題視するだろうが簡単には分からないだろう。
「よくやってくれた。筑前守殿が摂津へ退けば六角が京に入る。おそらく、ここ五日ほどでそうなる筈だ。そうなれば間違いなく我等は戦う事になる」
皆が頷いた。
「分が悪い戦だが直に三好の忍びもこの邸に入る。力を合わせてこの難所を切り抜けるのだ。良いな」
また皆が頷いた。
「春齢」
「はい」
声が掠れているぞ。落ち着け。
「近衛の寿にも伝えたが麿が報せを出したら養母上の所に行け。決してこの邸に留まるな。良いな?」
「はい」
偉いぞ、今度は声が掠れていなかった。
「何か報告がおじゃるかな?」
問い掛けると石動左門が”頭中将様”と俺を呼んだ。
「二条様が西園寺左大臣、花山院右大臣の邸を訪ねました」
「そうか」
左右の両大臣を味方に付ける。まあこれは常道だな。
「西園寺左大臣の邸は万里小路権大納言様も訪ねております」
柳井十太夫が低い声で言った。西園寺と万里小路は縁戚関係に有るのだがこれまで権大納言が積極的に左大臣を訪ねた事は無かった。宮中でも殆ど接触は無い。それが動き出した……。権大納言も此処が勝負所と見たのだろう。
「万里小路権大納言様は庭田権大納言様の邸も訪ねております」
庭田か。あそこも反飛鳥井だからな。簡単に手を結ぶだろう。
「分かった。先ずは味方を集める事から始めたようでおじゃるの。だが動きが本格的になるのは三好が京を捨ててからでおじゃろう。幕臣達に動きはおじゃらぬか?」
「公方様、幕臣達が大層喜んだそうにございます。そして兵を挙げる前に室町第を固められた事を大層口惜しがっているそうで」
九兵衛の声には笑いが有った。潰したのは自分達だからな。ざまあみろとでも思っているのだろう。
「馬鹿な連中でおじゃるの。十河讃岐守は毒殺、その代理で指揮を執った豊前守は討ち死に。三好の怒りが何処に行くか分からぬらしい。なんとも目出度い頭でおじゃるの」
俺の言葉に皆が頷いた。永禄の変まであと三年か。同情なんて全く出来ない。自業自得だろう。それより三年保【も】つのかね。そっちの方が心配になってきた。
「それとこれは京の事では有りませぬが今川と松平が牛久保城近くで戦い今川は兵を退いたそうにございます」
「そうか」
一宮の後詰めだな。やはり今川は勝てなかったか。となると三河では松平の勢いが強くなる。信玄が如何見るか、嫡男の義信がそれを如何思うか。こちらも目が離せなくなってきたな。




