元服
天文二十二年(1553年) 十月下旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 飛鳥井竹若丸
「これでございますか?」
「そうだ」
俺の眼の前で二十代後半くらいの女が歯ブラシを取って興味津々といった表情で見ている。ブラシの部分を親指で触っている。うむ、かなり関心が有るな。良い傾向だ。しかしこの女……。
俺が居るのは御台所、つまり食事を用意する場所だ。という訳で下働きの女達が興味津々で俺と女を見ている。その所為で俺は眼の前の女の見事な胸に眼が行きそうになるのを必死に我慢している。デカいんだ。胸にメロンでも入れているんじゃないかと思うくらいデカい。ちょっと動くとユサユサ揺れる。音がするんじゃないか、服から飛び出すんじゃないかと期待しちゃうじゃないか。いかん、いかん。デカい乳に見とれていたなどという変な噂が流れてはいかん。養母も不快に思うだろうし春齢が煩い。でも大きいな。
女の名前は葉月という。京で漆器を扱う店を経営している。それほど大きい店ではない様だが小さいわけでもないらしい。使用人もそこそこ居る様だ。今も一人連れて来ている。そいつは下働きの女達に漆器を見せている。流石だな、商魂たくましいわ。
朽木から歯ブラシを送って来た。商品開発が出来たわけだが問題は販路だ。歯ブラシは薄利多売だから大消費地に基点が要る。畿内ならやはり京だ。まあ歯ブラシは握りの部分が漆塗りだから漆器になるんだろう。というわけで養母に漆器を扱う商人を紹介してくれと言ったら養母はこの巨乳ちゃんを紹介してくれた。
「これで歯を磨く。何人かに使って貰ったが評判が良い」
葉月が“なるほど”と頷いた。嘘は吐いていない。しかし信じないかもしれない。何と言っても使ったのは俺の他に伯父一家、養母、春齢、方仁親王、それに帝という面子だ。使った人間は皆が大喜び。軽く石鹸を塗って使うのがコツだ。これなら歯ブラシと石鹸をセットで売れる。
「私も一つ頂いて宜しいですか?」
「一つと言わず五つ程持って行っては如何だ。何人かで使ってみて良ければ商品として売って欲しい」
女が嬉しそうに笑った。
「分かりました。五日後、改めてお話をさせて頂きます。宜しゅうございましょうか」
「構わぬ。出来れば良い返事を聞きたいものだ」
「はい、ではこれで」
女がにこやかに答えて立ち上がると使用人の方に向かった。手伝おうというのだろう。
部屋に戻って手習いの準備をしていると養母が直ぐにやってきた。
「如何でした?」
「感触は悪くありませんでした。五日後にまた来るそうです。その時に商品として扱うかどうかの返事をすると言っておりました」
養母が“そうですか”と言って満足そうに頷いた。
「取り扱って貰えるようなら朽木に行って貰おうと思っています」
「そうですね、朽木との文の遣り取りは今後はその者に頼んだ方が良いでしょう」
「はい、私もそう思っています」
養母と二人で頷き合った。ついでに朽木の様子も確認して貰おう。いずれは他の大名家、公家、寺社にも出入りさせよう。何か得るものが有る筈だ。すっと養母が身体を寄せてきた。うん、良い匂いがする。
「どうやら凌いだようですね」
「はい」
「朽木からは何も言って来ませぬ。公方様は何も知らぬようです」
「危うい所でした」
お互い小声だ。養母の表情は厳しい、おそらくは俺もだろう。間一髪切り抜けた、そんな思いがある。
「今回の件、皆様そなたに感謝しておりますよ」
「畏れ多い事でございます」
頭を下げると養母が満足そうに頷いた。
養母が言った皆様というのは帝、親王、右大臣近衛晴嗣の事だ。情報は養母から親王、そして帝へと流れた。帝は放置して良いのか悩んだらしい。足利には将軍解任の前科が有る。第十代将軍足利義稙だ。解任され足利義澄が将軍になったのだが義稙は納得せずに抗い続けた。そして大体十五年ほどかけて将軍に復帰した。朝廷にしてみればいい迷惑だ。応仁の乱で弱体化した幕府がこの混乱で更に弱まったのだからな。
帝がまた混乱するのか、三好を止めるべきではないかと悩んでいるところに登場したのが右大臣近衛晴嗣だった。この男、多分近衛前久だと思う。名前が晴嗣なのは足利義晴から一字貰ったのだろう。だがこれから足利と敵対する三好が勢力を伸ばす。それで名を変えたのだと思う。
この晴嗣、朽木に滞在中の足利義藤とは従兄弟の間柄になる。義藤の母親が近衛家の人間なのだ。晴嗣の父、近衛稙家は義藤に従って朽木に居るから近衛家は公家社会でも屈指の親足利と言って良い。この男に将軍解任の話をしたのが九条稙通だった。稙通の養女は三好筑前守の弟の十河一存に嫁いでいる。当然だが晴嗣は信憑性は高いと見た。
晴嗣も悩んだが義藤は従兄弟であるし朽木には父親も居る。無視は出来ないと思い報せようとした。だがその前に帝に報告する必要があると判断して参内した所に親王、伯父、養母が飛び込んできたわけだ。それぞれが話し合う中で確かに危ないとなった。武家が義藤と距離を置くのに公家が親足利色の強い行動を取るのは危険だと。特に晴嗣は震え上がったようだ。なんと言っても未だ十八歳だ。晴嗣は九条が親切心で教えてくれたと思ったらしい。未熟な自分を気遣ってくれたと礼まで言ったのだとか。順調にいけば晴嗣はいずれは関白左大臣になる。だがここで躓けばそれも白紙だ。世の中の恐ろしさを思い知ったという事だろう。
「近衛様がそなたに会いたいそうです。勿論今直ぐでは有りませぬ。今そなたと近衛様が会えば三好が真相に気付くやもしれませぬ。時期を見てです」
「分かりました」
答えると養母が“うふふ”と笑った。
「良い事です。今回の一件で帝も親王様も右府様もそなたを認めました」
また“うふふ”と笑った。なんだかなあ、最近上機嫌なんだよ。
「伸び伸びになっていた元服ですが来月の末にという事になりました」
「はい」
「元服と同時に従五位下、侍従に任じられます。本家の雅敦殿も侍従に任じられます」
「宜しいのですか?」
養母が“良いのです”と言った。自信満々だな。
「そなたは早めに元服させ官位を与えた方が良いだろうと。帝の思召しです。親王様も同じお考えです」
ゲッ、そりゃ自信満々になるわ。でもね、俺が良いのかって聞いたのは雅敦の事なんだけど。向こうを先に侍従にするべきなんじゃないの。その事を聞いたら心配いらないって言われた。既に雅敦は従五位下だから同じ侍従でも上席は雅敦になるそうだ。
「ところでそなた、毎日木刀を振っていますが師は必要ありませんか?」
「それは、居れば嬉しいですが……、養母上には心当たりがお有りですか」
養母が嬉しそうな顔で頷いた。え、有るの? 俺は冗談で聞いたんだが。
「吉岡という者が居ります。今出川に道場を開き名人の名の高い者です。名は憲法と言います」
ちょっと待て、それって吉岡憲法だろう。宮本武蔵で有名だぞ。
「ただ吉岡は足利家に仕えています。公方様に兵法を教えているのです」
なるほど、そんな話を聞いた覚えが有るな。確か宮本武蔵の父親が将軍の前で吉岡憲法と試合をしたって。そうだな、武蔵の父親の時代なら将軍は足利だ。納得していると養母が話を続けた。それによるとこの話、元々は吉岡の方から伯父へ、そして養母にと伝わった話らしい。
元々吉岡家は足利義晴に仕えていたのだが義藤の代になって兵法指南役になった。そして京の今出川に道場を開き道場は兵法所と呼ばれている(この辺りから判断するとやっぱり義藤は義輝だと思う)。吉岡は将軍の剣の師と認められて嬉しかっただろう。これで吉岡流は興隆し将来は安泰だと思ったかもしれない。権力者と密接に繋がる事は旨味が多いのだ。その事は江戸時代の柳生と新陰流の事を思えばわかる。
しかし直ぐに困った事になった。肝心の弟子の公方が京に居ないのだ。三好と敵対し戦をしては都を追い出され戻ってくる、その繰り返しだ。そして京では公方よりも三好の勢威が強くなりつつある……。気が付けばだ、将軍家兵法指南役として繁栄してよい道場は皆が避けるようになっていた。吉岡流は皆から避けられるようになっていたのだ。吉岡にしてみれば傀儡でも良いから京に居てくれと言いたいところだろうな。
困った吉岡が眼をつけたのが俺だ。宮中に居て毎日のように木刀を振っているというのが耳に入ったらしい。調べてみると元は武家だ。武にかなり関心が有ると判断した。将軍に比べれば格が落ちるが公家に剣を教えている、その公家が宮中で養われているとなればそれなりに宣伝効果は有ると思った。出来れば宮中に入って教えたいと思っているだろう。なるほど、強いだけでは生きていけないか。世の中厳しいよな。
「如何します、頼みますか?」
「お願いします」
折角向こうから声をかけて来たんだ。頼もうじゃないの。
「ではこちらに来てもらいますよ」
「はい。ですが大丈夫でしょうか」
宮中で剣術修行とかって良いのかな? そう思ったんだけど庭なら問題ないそうだ。それなら助かる。今出川の道場への行き来は危ない。定期的に通う場所が有るというのは狙い易いのだ。ホント三好って鬱陶しいよな。あいつの所為で生きるのが息苦しいわ。
剣はこれで何とかなる。後は弓と馬だな。これを何とかしないと……。
天文二十二年(1553年) 十一月上旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 目々典侍
「外は風が冷たいの、敵わぬわ」
ぼやきながら兄飛鳥井左衛門督雅春が部屋に入って来た。
「どうぞこちらへ」
火鉢の傍にと手招きすると兄が嬉しそうな表情を見せながら近づいて座った。手をかざしながら擦る。“暖まるのう、極楽じゃ”と喜んだ。
「竹若丸は?」
「春齢と遊んでおります。良く面倒を見てくれるので助かっております」
意外と面倒見が良い。その所為か春齢は竹若丸と遊びたがる。
「それは良い。少しは子供らしいところが出たかの」
「さあ、それは……」
“そうか”と言って兄が綻ばせかけた表情を曇らせた。
「もう直ぐ元服でおじゃるの」
「はい」
「基綱か」
「はい」
兄は手をかざしながら火鉢を見ている。しかしどことなく表情が虚ろだ。
「子供らしくないのう」
「はい」
元服後は竹若丸は基綱と名乗る事に決まった。飛鳥井家の男子は名前に雅の字をつける。しかし竹若丸はそれを嫌がった。いや、それどころか飛鳥井の姓を名乗る事も避けたがった。三好が自分を敵視している。飛鳥井を名乗っては迷惑が掛かりかねないと……。
何とか説得して飛鳥井の姓を名乗らせる事になった。でも名前は駄目だった。自分は飛鳥井でも傍流という事にする必要がある。そのためには雅の字は付けないと。頑として拒絶した。そして選んだのが元綱だった。元には物事の起こり、始まりという意味がある。自分は飛鳥井の姓は名乗るが本家とは別の飛鳥井であるという事を名で表せるだろうと。そして下の綱の字は祖父飛鳥井権大納言雅綱の綱で有り父朽木宮内少輔晴綱の綱でもある。自分には相応しい名前だろうと。
兄が元の字は基に変えた方が良かろう、新しい飛鳥井の礎に成れと言って飛鳥井基綱になった。家紋も三つ葉の銀杏だ。飛鳥井家では当主は十六葉の銀杏、嗣子が十二葉の銀杏を用い一門は八葉の銀杏を用いる。本来なら竹若丸は八葉の銀杏を家紋とする。だが竹若丸は家臣に賜与する三つ葉の銀杏を選んだ。理由は言うまでもない……。
「綾が先日訪ねて参った」
「……」
「元服の事、話したのだが怯えておじゃったの、竹若丸に。何かが常人とは違うと言っておじゃった。麿も同感じゃ、何かが違う。自分でもそう思うのかもしれぬ。だから我らに迷惑を掛けたくないと思うのでおじゃろう。あれは自分が世の中に受け入れられぬと思っているのやもしれぬ」
「かもしれませぬ」
でもそのように気遣いするという事は人としての情が有るという事だろう。その事を指摘すると兄も“そうよな”と頷いた。
「それだけに憐れじゃ」
少しの間、言葉が無かった。あの子は自分の力を試したがっていた。自分が何者なのか、何のために生まれて来たのか、それを知りたいと。だがその事が周囲との軋轢を生むとも理解している。だから出来るだけ私達に迷惑を掛けぬようにとしているのだろう。兄の言う通りだ、憐れでしかない。
兄がフーッと息を吐いて表情を緩めた。
「悩んでも仕方ないの、歯磨きはどうなったかな?」
「はい、引き受けてくれました。今頃は朽木に向かっておりましょう」
「そうか、順調だの」
「はい」
兄が可笑しそうに笑った。竹若丸が作った歯磨きを一番喜んだのが兄だった。何故これまで歯磨きが無かったのかと何度も口にしている。
竹若丸は女商人に朽木の様子をそれとなく注意して見て欲しいとも頼んでいた。民部少輔殿の文だけでは不満らしい。或いは公方の動きに不安が有るのかもしれない。その事を確認すると弱い者が生き残るには眼と耳が要ると言うだけだった。竹若丸は商人を使って情報を得ようとしているのかもしれない。歯磨きはそのための道具なのかも。
「兵法の方は如何じゃ?」
「はい、先日吉岡から人が来ました。吉岡又一郎直元、先代の吉岡憲法です。道場は息子に任せて自分が竹若丸を教えると言っておりました。二人で暫く話しておりましたが又一郎は興奮しておりましたな」
兄が“ほう”と声を上げた。
「兵法者にでもなるつもりかな?」
「さあ。……ただ又一郎は竹若丸が兵法を変えるかもしれぬと言っておりました」
兄が眼を瞠り一瞬間を置いてから笑い出した。
「悩む暇も無いの。次は何を仕出かすやら」
「はい、楽しみにございます」
また兄が笑った。今度は私を見て笑っている。
「如何なされました?」
「そなた、竹若丸に夢中じゃの。宮中でも皆が言うておるぞ。目々典侍は養子に夢中じゃと」
「まあ」
「可愛いかの」
兄の問いに素直に“はい”と答えられた。そして思った。可愛いのだと。
「懸命に生きております。何かを成したいと藻掻いている。少しでも助けてやりたいと思うのです」
兄が頷いた。優しい眼で私を見ている。
「真、母親じゃの。そなたに竹若丸を預けたのは正解であった。こればかりは三好に礼を言わねばなるまい」
「左様でございますね」
もう直ぐ天文二十二年も終わる。天文二十三年には竹若丸は居ない。代わって居るのは従五位下飛鳥井侍従基綱。未だ幼いけど懸命に羽ばたこうとしている。あの子が羽ばたいた時、天下に何が起きるのか……。竹若丸は自分が何者なのかを知りたいと言っていた。私も知りたいと思う。きっと後悔はしない筈だ。
ようやく元服です。まあここまでがプロローグですね。或いは仕込みの部分かな。
次は多分三年ほど時間が進んだところから始まります。




