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挨拶




永禄四年(1561年) 十二月下旬            山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 黒野影久




 遠くで人のざわめきが起きた。少しして足音が近付いてきた。戸が開く。頭中将様が笑みを浮かべていた。

「待たせたようでおじゃるの」

「いえ、突然に押しかけたのはこちらにございます」

 頭中将様が部屋の中に入ってきた。


「使いを出せば良かったのだ。早く戻れと」

「とてもそのような」

「構わぬ。急ぎの時は遠慮するな」

 頭中将様が上座に座った。厳しい表情をしている。冗談ではないのだと思った。

「その時が来ましたら」

「うむ、頼むぞ」

 このお方は情報の重要さを理解している。その事が嬉しい。我等にとっては仕え甲斐のある主だ。


「それで、何があった?」

「東海で戦が起きまする」

 頭中将様が”ほう”と声を上げた。

「松平か? それとも今川か?」

「今川にございまする」

 頭中将様が頷いた。


「関東が一段落して信濃でも武田が上杉をなんとか食い止めた。治部大輔も足元を見る余裕が出来たか」

「そのようで。今更ではありますが松平が離反した事を悔いているようです。三河が落ち着かなくなった。このまま放置しては遠江にも影響が出ると。年が明けて二月には三河に兵を出すようにございます」

 頭中将様が軽く笑い声を上げた。


「上杉の関東侵攻が桶狭間の前に起こったなら三河は放置しておいても良かった。だが桶狭間の後ではな。織田の勢力が増し今川の勢力は減退した。松平の孤立を軽視した。認識が甘かったな」

「当代の治部大輔、先代よりも器量は落ちましょうか?」

 問い掛けると首を傾げた。


「如何でおじゃろうな。治部大輔その人の器量よりも周囲の目の問題かもしれぬ」

 周囲の目? 訝しんでいると頭中将様が”うふ”と笑った。

「先代の治部大輔は実績が有った。だから周囲は一目も二目も置いた。だが……」

 なるほど。

「当代には実績が無い」

 俺の言葉に頭中将様が頷いた。


「その分だけ軽い。周囲は当代を恐れぬ。それが分からなかったようでおじゃるの」

「……頼りない事で」

 頭中将様がまた”うふ”と笑った。

「そういうな、重蔵。名家の御曹司として大切に扱われてきたのでおじゃろう。周囲の目、人の心の機微に疎いのも仕方が無い。それに自分に相当に自信が有るようでおじゃるからの」

「なるほど」

 このお方にはそういう疎さは無い。もし、このお方が今川に生まれていれば……。


「まあ、その辺りはこれから学んでいく事になる。間に合えば良いが」

「……」

 間に合えばか。意味深な言葉だと思った。

「今川が兵を出すとなれば松平も正念場でおじゃるの」

「はい、勝てましょうか?」

「兵力は今川が多かろう。常道なら今川が勝つ」

「……」

 常道か。しかしここ最近は兵力の多い方が負けてきた。野良田、桶狭間。頭中将様がニヤリと笑った。このお方は今川が勝てないと見ている、そう思った。


「治部大輔の目には松平しか映っておじゃるまい。甲斐の武田が自分を見ていると気付ければ良いが……」

 なるほど、周囲が自分を如何見ているか。そこに疎いと気付かぬか。危ういな、今川は危うい。

「もたつけば武田の欲心を刺激しましょう」

「そうでおじゃるの。まあ今すぐではないが徐々にそうなる。今川も圧倒的に勝つ事を求められている。なかなか厳しい」

 今川は勝てない。三河で松平の勢力が東へと広がれば遠江も揺れるだろう。そうなれば武田が動く日が近付く。


「重蔵、今川が勝てなかったら武田を探ってほしい」

「はっ」

「今川の弱体化が目に見えた時、武田でどういう軋みが出るか……」

「軋み、でございますか?」

 問い掛けると頭中将様が頷いた。


「武田の嫡男は今川から妻を娶っている。素直に今川を喰う事を受け入れてくれれば良いが……」

「そうでなければ厄介な事になりますな」

 頭中将様が頷いた。武田は信玄が父親を追い出している。息子も似たような事を考えるかもしれない。なるほど、簡単には南下出来ぬか。一つ間違うと御家騒動が起きかねぬ。武田もこれからが難しい。


「先日、堀川主膳が来た。聞いておじゃるな?」

「はっ、九兵衛より。修理大夫は戦場に出られぬと聞いております」

 答えると頭中将様が頷いた。

「気分の良い日は人に会う事も出来るのだとか。だが鎧を纏う事は出来ぬらしい。気力が出ぬそうだ。年が明けたら連歌を催すと言っていたがどこまで六角、畠山の目を誤魔化す事が出来るか……」

 頭中将様が息を吐いた。難しかろう。戦が始まって半年、修理大夫は一度も戦場に出ないのだ。そして戦況は必ずしも思わしくない。如何見てもおかしい。修理大夫に異常が生じているとしか思えない。四年か、いや年が明ければあと三年で修理大夫は死ぬ……。




永禄四年(1561年) 十二月下旬            山城国葛野・愛宕郡 室町第  飛鳥井基綱




「まあまあ、良く来てくれました。忙しいでしょうに」

 慶寿院がニコニコしながら俺と寿を迎えてくれた。いや、嬉しいわ。此処に来るまで視線が痛い事。ほんと、室町第は居心地悪いよな。寿が一人で行きたがらない筈だよ。俺だって一人じゃ来たいと思わない。養母も春齢も大反対だった。宥めるのが大変だったわ。

「今日は小番なのです。この後、夜は宮中に詰める事になりますがそれまでは暇ですので」

 俺の言葉に慶寿院が”御苦労様ですね”と言って労ってくれた。


「昨年は色々と御世話になりました。心から御礼申し上げまする。新たなる年も宜しくお願い申し上げまする」

 俺が頭を下げると寿も”宜しくお願い申し上げまする”と言って頭を下げた。

「いえ、礼を言うのはこちらの方です。こちらこそ頭中将殿には御世話になりました。新たなる年も宜しくお願いします」

 慶寿院が頭を下げた。


「太閤殿下、御台所からも慶寿院様にくれぐれも宜しくと伝えて欲しいと頼まれております。こちらに来れない事を大層詫びておられました」

「仕方が有りませぬ。此処では近衛の者は歓迎されませぬ。二人が来てくれただけで十分です」

「畏れ入りまする」

 寂しそうな表情だ。足利と近衛を繋ぐために嫁いだ。そして息子を産みその息子は征夷大将軍になっている。十分に役目を果たしたと言えるだろう。だがその息子は近衛を避け世の中を混乱させている……。


「幸せですか、寿」

「はい」

 寿が答えると慶寿院が”良いことです”と言って嬉しそうな表情をした。毬の事が有るからな。寿が幸せだと救われたような気持ちになるのかもしれない。

「今年も直に終わりますが畿内は落ち着きませぬ。一体何時になったら落ち着くのか」

 慶寿院が”ホウッ”と息を吐いた。まあ戦は当分終わらないだろうな。終わったとしても煽る人間が居れば畿内が落ち着く事は無い。でもなあ、貴女の息子が居る限り無理ですなんてそんな事を口に出すほど俺は非情じゃ無い。


「あまりお気になされますな。いずれは畿内も落ち着きましょう。三好、畠山、六角。ずっと戦をしているわけにも行きますまい」

 慶寿院と寿が曖昧な表情で頷いた。うん、説得力が無かったな。再来年には観音寺騒動が起きるんだからその前には終わっている筈なんだけど。

「野良田の戦いから直に二年でおじゃります。浅井もそろそろ力を回復しましょう。そうなれば六角も領国が気になる筈でおじゃります」

 慶寿院と寿がまた頷いた。今度は表情に曖昧さが無い。納得したのだろう。ん? 慶寿院がジッと俺を見ている。


「如何なされました?」

「そなたほどの器量があの子に有れば……」

「……慶寿院様」

 遮ろうとしたが慶寿院が首を横に振った。

「情けない事です。戦を煽るなど……。武家の棟梁の自覚が無い」

「……」

「先日の戦で畠山が勝ってからは頻りに畠山の名を口にします」

 慶寿院が溜息を吐いた。そうだな、幕臣達と一緒になって見苦しいくらいに喜び騒いでいると聞いている。これまで畿内で三好に勝った者は居なかった。嬉しいのは分かるが局地戦だろう。些か軽薄に過ぎる。


「直に新年でおじゃりますな。三好家から年賀の挨拶に参りましょう。公方には機嫌良く挨拶を受けて頂きたいものでおじゃります」

 慶寿院がハッとしたように俺を見た。そして”そうですね”と言った。新年早々嫌味や皮肉は言うもんじゃないよ。挨拶ぐらいはまともにしないと。笑われるのは三好じゃ無い。義輝の方だ。


「寿、そろそろ失礼しよう。公方にも挨拶しなければならぬからな」

「はい」

「会うのですか?」

 慶寿院が不安そうな表情をしている。気付かない振りだな。

「はい。太閤殿下、御台所からも頼まれています」

 挨拶をして慶寿院の部屋を出た。そして寿と共に廊下を歩く。義輝の部屋の方に向かうと声が聞こえた。一人じゃ無い、複数。それに木刀を打ち合う音……。


 見えた。十五人ほど庭に居るな。十人ほどは少し離れた所で控え五人ほどが入れ替わりで義輝と打ち合っている。義輝は諸肌脱ぎになっている。色は白いが遠目でも鍛え上げた逞しい身体だと分かった。強いわ、打ちかかってくる者を相手にしていない。相当に実力差が有るのだと思った。溜息が出たよ。征夷大将軍が剣の達人だなんて、あまり自慢にならないんだけどな。寿が不安そうな表情をしている。大丈夫だと言って足を進めた。


 徐々に近付いていく。向こうもこちらに気付いたらしい。構えを解いてこちらを見ている。そのまま近付いた。

「精が出ますな、公方」

「……」

 こいつ、愛想が悪いよな。黙ってこっちを睨んでいる。社交辞令ぐらいは出来るようにしておけよ。


「今日は太閤殿下、御台所に替わって年末の挨拶に来ました。二人からは宜しく伝えて欲しいと頼まれておじゃります。来年は良い年にしたいとの事です。確かに伝えましたぞ」

 さっさと帰ろう。そう思ったら”頭中将様!”と声が上がった。義輝と打ち合っていた五人の一人だ。

「公方様を見下ろすなど無礼では有りませぬか!」

 誰だ? こいつ。


「見下ろす? そちらが下に居るだけではおじゃりませぬかな? 挨拶を受けるのなら公方がこちらに上がってくれば良い」

「しかし」

「それに今日は小番でおじゃりましてな。これから宮中に行かなければなりませぬ。足を汚すのは御免被りましょう」

 誰だか分からない奴が口惜しそうな顔をした。


「寿、参ろうか」

「はい」

 寿の手を引いて歩く。寿が恥ずかしそうに頬を染め皆が口惜しそうな顔をしている。美人を連れて歩くのって気持ち良いわ。

「頭中将」

 義輝だった。こちらに歩いてくる。上がってくるのかな。

「何でおじゃりましょう?」

「相手をせぬか?」

 周りの幕臣達が”それが良い”と騒ぎ出した。


「遠慮しておきましょう」

「逃げるのですか!」

 挑発的に叫んだのはさっきの奴だった。

「ほほほほほ、挑発は無駄でおじゃりますぞ。武家は逃げるのは恥でおじゃりましょうが公家は逃げても恥になりませぬ」

 また口惜しそうな顔をした。寿の手を引く。さっさと帰ろうか。ん?


「公方様!」

 公方?

「ああ!」

 寿!




永禄四年(1561年) 十二月下旬            山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 飛鳥井基綱




 小雪が俺の左肩を指で圧した。思わず顔を顰めた。

「痛みますか?」

「少し痛むな」

 嘘だ。本当は大分痛む。

「兄様、大丈夫?」

 春齢が心配そうに俺を見ている。


「大丈夫だ。少し痛むが骨に異常はおじゃらぬ。そうだな、小雪」

「はい、肩も腕も骨には異常が有りませぬ」

「でも」

「幸い腫れも引いてきた。これなら宮中での仕事にも差し障りはおじゃらぬ。大丈夫だ」

 春齢の心配そうな表情は変わらない。もう一度”大丈夫だ”と言うと困ったような表情で頷いた。


 小雪が晒【さらし】に緑色の薬を塗った。打撲や捻挫に効果があるらしい。鞍馬忍者に伝わる薬だそうだ。塗り終わると俺の左肩に貼った。そして包帯を巻いていく。きっちりと緩み無く巻いていく。これは春齢には出来ない。だから黙って見ている。もっとも春齢は小雪に包帯の巻き方、薬の調合を教わりだした。黙って見ているのは辛いらしい。


 肩の包帯が終わるともう一枚晒を取って薬を塗りだした。塗り終わると左腕に貼って包帯を巻く。こちらは早い。あっという間に終わった。肩、腕を服に入れる。少し痛むが大丈夫だ。

「小雪、済まぬな」

 労うと小雪が頭を下げてから立ち去った。


「本当に大丈夫?」

「大丈夫だ。明日は宮中に参内する。あと五日もすれば痛みも取れるだろう」

 春齢が溜息を吐いた。

「室町第になんて行くからよ」

「そう言うな。公方も馬鹿な事をしたと今頃は悔やんでおじゃろう」

 春齢が不満そうな表情を見せた。やれやれだな。



 


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― 新着の感想 ―
>昨年は色々と御世話になりました。 今年 じゃないのかな?
良し、帝に告げ口するか
 以前義輝の家臣が勝手に切り掛かって主上が激怒したの忘れたのか?義輝は2度とそんなことがないようにすると約束していたはず。帝との約束を守れないとは逆賊と言って差し支えないのでは?
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