懐妊
永禄四年(1561年) 十二月上旬 山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 飛鳥井基綱
『三好と畠山、六角の争いは始まって半年が経った。今のところ大きな進展は無い。睨み合い、小競り合いが主体でこのままではどうやら年を越しそうである。三好修理大夫が陣頭に立てばあっという間に敵を蹴散らすのにと宮中では不満の声が上がっている。先月だが三好と畠山、三好と六角の間で小競り合いとは言えない規模の衝突が有った。畠山と六角は日を決めて同時に三好に攻めかかったようである。三好は六角には優位に戦を進めたが畠山には不覚を取った。六角との戦では三好修理大夫殿の嫡男、筑前守殿が大いに奮戦したらしい。頼もしい事で有る。その後はまた睨み合いと小競り合いが続いている。全体的に三好は兵力を集中出来ず畠山、六角を持て余しているように自分には見える。五畿内に平穏が戻るのはまだ先になりそうである』
筆を置いた。冷えるな。引き戸を開けて外を見ると夜の闇をチラチラと雪が降っていた。冷えると思ったら雪が降っていたのか。早めに内裏から下がって正解だな。積もらなければ良いのだが……。戸を閉めて席に戻った。大友への文を書き上げなければ……。
「兄様、入って良い?」
「ああ、構わぬぞ」
春齢が部屋に入ってきた。手に茶碗を乗せた盆が有る。
「お茶を持ってきたわ。寒いでしょう。雪が降って来たわよ」
「そのようだな。そなたが来る前に外を見た」
春齢が傍に座って茶碗を俺に差し出した。一口飲む。熱いお茶が身体を温めてくれる。
「美味いな」
”本当?”と言って春齢が嬉しそうに笑みを浮かべた。
「本当だ、美味い」
春齢が益々嬉しそうにした。
「関白への文は書き終わったの?」
「終わった。織田にも書いたし毛利にも書いた。今は大友に文を書いている。それが終わったら武田、北条、今川、松平にも書かねばならぬ。朽木も御爺と長門の叔父に書かなければ」
武田には川中島での奮戦お見事と書いた方が良いな。北条は上杉を追い返した武略に感服したと書こう。今川は氏真が治部大輔に任官した。お目出度うで良いな。御爺と叔父御には絶対に巻き込まれるなと書かなくてはならん。それと平井加賀守にも書く必要がある。六角の内部を知る重要な情報源だ。終わるまであと二時間は掛かるだろう。明日が非番で良かったよ。この時代は電話も無ければメールも無い。通信手段は文だけだ。手間が掛かるし面倒なんだよな。でも情報を得るためには面倒だなんて言っていられない。
「美乃姫は懐妊したんでしょう? 朽木は皆喜んでるわよね」
「そうだな。織田殿も喜んでいるだろう」
結婚して半年ほどで美乃が懐妊した。来年の八月から九月頃に出産だろう。叔父御も結構年だからな。早く嫡男が欲しい筈だ。男子が生まれて欲しいよ。その事を言うと春齢が頷いた。茶碗を口元に運ぶ。香りが良い。一口飲んだ。
「私も早く兄様の子を産みたいな」
困った奴だ。美乃の懐妊を知ってから時々言う。
「もう少し後で良い。そなたは未だ身体が細いからな、子を産むのは身体に大きな負担がかかる。危険だ。養母上を見て分かったでおじゃろう。子を産むのは大変なのだぞ」
「そうだけど……」
春齢がシュンとしている。年が明ければ数えで十四歳だ。でも春齢は身体が細いんだよな。子を産むのは二、三年は先で良い。
「体術の習練は続けた方が良いぞ。身体を鍛えておけば子を産む時、その分だけ安全だからな」
「うん、そうする。私、体術の習練は好きよ。身体を動かすのって楽しいわ」
「気が晴れるかな?」
「ええ、気が晴れるし汗をかくのが気持ち良いの」
表情に曇りが無い。体術の習練を始めて一月ほどだが本当に好きなのだと思った。もっとも春齢は身体がかなり硬いらしい。これを柔らかくするのは相当に時間が掛かると小雪は言っている。習練も今は未だストレッチがメインだ。
「汗をかいたら必ず良く拭くのだぞ。そのままにしていると身体が冷える。風邪を引くからな」
「うん、小雪からも注意されてる」
頷く春齢を見ながらお茶を飲み干した。なんか俺、口煩い父親みたいだな。
「美味かった。今日は遅くなるから先に休んでくれ」
「あまり無理しないでね」
春齢が茶碗を盆にのせて席を立つ。部屋を出るのを見届けてから文机に向かった。続きを書かなければ……。
『公方の側室、小侍従が懐妊した。小侍従の父親は反三好感情の強い進士美作守である。公方は側室の懐妊を非常に喜んでいると聞くが畠山、六角を公方が三好に嗾けている今、自分はその事が新たな問題にならぬかと懸念している』
うん、出来た。大友にはこんな所で良いだろう。三好が圧され気味な事、戦が長引きそうな事は直ぐに分かるだろうし公方と三好の関係も悪化している事が分かる筈だ。深読みすれば修理大夫に異常が起きている事も分かる。さて、次は武田だ。
永禄四年(1561年) 十二月上旬 近江国高島郡安井川村 清水山城 朽木稙綱
「厄介な事よ」
儂の言葉に弟の蔵人、息子の長門守、左兵衛尉、右兵衛尉、左衛門尉、家臣の五郎衛門、新次郎が頷いた。
「頭中将様は三好と足利の戦に巻き込まれては駄目だと言っておられましたが……」
「もし三好が負けて摂津に退くようなら必ず兵を出せと幕府、六角は言ってきましょう。必ずです」
五郎衛門、新次郎の発言にまた皆が頷いた。
「婚儀の時に朽木は万一の時のために守らねばならぬと父上が言ったが……」
「駄目ですな、兄上。そんな事で退くとは思えませぬ。三好を倒せば万一は必要なくなる。そう言うでしょう」
長門守、左兵衛尉がうんざりした表情をしている。そうだな、そう言うだろう。
「それでも万一の時のためと言って断らなければならん。文句を言うかもしれぬが兵を出せば必ず滅ぼされる。儂は未だ子供の顔も見ていないのだ。ここで朽木を滅ぼす事は出来ぬ」
長門守がきっぱりと言った。うむ、嫁が妊娠して心が強くなったようじゃ。また一つ頼もしくなったわ。
「殿の申されるとおりです。ここはきっぱりと断らなくては。御側室様の事も有ります。足利と三好の関係は今以上に厳しくなりましょう。絶対に巻き込まれてはなりませぬ。そうではありませぬか、兄上」
蔵人が儂を見た。思わず顔を顰めてしまった。
「美作守の娘の事か。頭中将の文にあったが生まれてくる子が若君なら間違いなく殺されよう、姫でも危うい。拙い時に身籠もったわ」
弟と儂の会話に皆が頷いた。
公方様も暗殺だと気付く筈だ。そして三好は自分の血脈を断つつもりではないかと考えるだろう。公方様は今以上に三好を憎悪する。そして三好も公方様では三好の天下は安定せぬと思うだろう。そうなれば三好は本当に公方様の血脈を断つかもしれぬ。子を殺すか、或いは公方様を殺すか……。
「しかし、三好は本当に負けるのでしょうか?」
首を傾げ呟くように左衛門尉が言った。皆の視線が左衛門尉に向く。左衛門尉が目に見えて狼狽した。
「いや、頭中将様を疑うわけではありませぬ。しかし先日の戦では六角は良いところ無く敗れました。畠山は勝ったとはいえ三好方の大将は百戦錬磨の豊前守です。二度と不覚はとりますまい。修理大夫が病かもしれませぬが京を捨てるほどの大敗を三好が喫すると言われましても……」
言い訳するように言った。
「信じられぬか。だが頭中将の言う事が外れた事は無いぞ」
儂の言葉に左衛門尉が顔を強張らせて頷いた。
「年末から年始に掛けて六角、畠山は三好の様子を探るだろうと頭中将は見ている。修理大夫が病ではないかと疑っているが確信が持てずにいるのだ。修理大夫に動きが無ければ病だと確信するだろう。そうなれば六角も畠山も嵩に掛かって三好を攻めよう。危ういぞ」
今度は皆が頷いた。
「三好が負けないのならそれで良いのじゃ。だが負けた時には厄介な事になる。我等はそれに備えなければならぬ。兵は出さぬ。我等は万一に備え朽木を守る。それが公方様のためになる。それで押し通すのじゃ。良いな」
見渡すとまた皆が頷いた。多分、三好は負けるだろう。頭中将の言う事が外れるとは思えぬ。
「ところで幕府への新年の挨拶ですが如何しましょう?」
新次郎の問いに皆が顔を顰めた。
「行かぬというわけにもいきますまい。しかし行けば色々と言われましょう。それこそ兵を出せと迫られましょうな」
左兵衛尉が溜息を吐きながら言った。
「儂が行こう。隠居の身じゃ、何とかやり過ごせよう」
「いえ、父上。某が参りましょう」
皆が長門守を見た。長門守が眩しそうに目を細めた。
「良いのか? 無理をする事は無いのだぞ」
儂の言葉に長門守が苦笑を浮かべた。
「何時までも父上の後ろに隠れているわけにも行きますまい。幕府も不審を抱きましょう。それに今の時期なら朽木は雪で兵は出せぬと言えます」
「まあ、それはそうだが」
「公方様が、幕臣達が朽木を如何見ているか、自分の目で確かめたいと思います。後々のために」
長門守は変わったと思った。今まで儂の後ろに居たが今は前に出ようとしている。美乃が懐妊した。織田の血を引く子が出来る。その事が長門守を変えたのか……。足利より織田か。足利を切り捨てる覚悟が出来たのかもしれない。
「良かろう。気を付けて行けよ。御側室様懐妊じゃ。祝いの品を持って行くのじゃな。公方様も喜ぼう」
長門守が複雑な表情で頷いた。偽善だと思ったのかもしれぬ。
「朽木を守るためじゃ」
「はい」
長門守が頷いた。表情が消えた。能面のような顔になっている。それで良い。表情を読まれてはならぬ。
永禄四年(1561年) 十二月中旬 山城国葛野郡 近衛前久邸 飛鳥井基綱
「お目出度うございます」
「凄いわ、本当に貫首になるなんて」
「真、め、目出度いの」
寿、毬、太閤殿下が祝ってくれた。
「有り難うおじゃりまする。ですが未だ先の事でおじゃりますので……」
三人が声を合わせて笑った。釣られて俺も笑った。来年の正月の除目で正四位下に昇進する。そして貫首を務める事になった。
一昨日、内侍所御神楽【ないしどころのみかぐら】が無事に行われた。そして昨日、帝は内侍所御神楽が無事に済んだ事で頭弁を労った。頭弁になってもう二年、来年の除目で参議に任じようと。帝が左大臣、右大臣に諮ったが両大臣とも反対しなかった。これで確定だ。父親の万里小路権大納言は不満そうだった。帝の傍に万里小路の者を置きたいと思ったのだろう。だが息子の頭弁は素直に喜んでいたな。段取りを付けて物事を進めて行くって事が出来ないのだ。周囲も分かっているのだが本人が一番それを苦にしている。ようやく解放されたと思ったらしい。
後任の貫首に俺が任じられても不満そうな素振りは見せなかった。俺に追い出されたとは思わなかったらしい。それどころか御前を下がった後で小声で感謝されたよ。内侍所御神楽の日程を決め忘れたからな。俺にフォローされたと気付いていたようだ。父親の権大納言、叔母の新大典侍は俺の事を敵視しているのだが頭弁は俺を敵視していない。昔は嫌味を言ってきた事も有ったんだが今はそれは無い。
万里小路と飛鳥井の勢力争いも本人はあまり関心が無いらしい。頭弁にとっては自分を軽視する父親や叔母よりもフォローして助けてくれる俺の方が親近感が湧くようだ。最近じゃ父親と叔母の事で俺に愚痴を零す事も有る。自分を道具だと思っていると言うんだ。出世を喜んでくれないって。なんかね、年は向こうの方が上なんだが頼りない弟みたいなんだよ。困ったもんだ。
「目々典侍様、春齢様もお喜びでしょう?」
毬が問い掛けてきた。思わず苦笑いが出た。
「養母は喜んでおじゃります。ですが春齢は麿が今以上に忙しくなると不満でおじゃりますな」
”まあ!”、”それは”、”ははは”。皆が笑った。
本当はね、喜べる事じゃ無いんだよ。帝が俺を貫首にしたのは娘婿が理由じゃ無い。贔屓したわけでも無い。間違いなく戦争が迫っているからだ。京を焼け野原にしないために俺を貫首にしたのだ。春齢もそれを分かっている。俺が苦労する、危険だと案じている。
「公方様も幕臣達も面白く無いでしょうね。目に浮かぶわ、不機嫌そうな公方様が。ほほほほほ」
何時も思うんだよな。自分の夫が不機嫌なのをどうしてそんなに楽しそうに笑えるんだって。
「毬、そのへんで止めなさい。頭中将様が困っているわよ」
寿が窘めると毬がこちらを覗き込んだ。
「困ってるの?」
「まあ、少しは」
「少しでしょ。ほほほほほ」
毬がまた笑った。釣られて皆が笑う。困ったもんだ。
「姉上、あの事、お願いしてみたら?」
「駄目よ、そんな事」
姉妹二人が俺を見ている。寿は遠慮がちに、毬は期待するような表情だ。
「あの事とは?」
問い掛けると二人が太閤の顔を見た。太閤もちょっと困ったような表情をしている。うん、厄介事だな。此処は俺から問うべきなんだろうな。
「寿」
「……室町第の叔母上に年末の挨拶に行くのですけど……」
寿が不安そうにチラッ、チラッと俺を見た。なるほど、俺と結婚したから室町第には行き辛いか。幕臣達に嫌がらせをされるんじゃ無いかと不安なのだと思った。
「分かった。麿も一緒に行こう」
「よ、良いのか?」
太閤が問い掛けてきた。太閤も室町第には行き辛いんだろうな。足利とは距離を取りつつあるし身体も不自由だ。でも慶寿院とは最低限の繋がりを維持したい。そんな葛藤があるのだろう。
「新年は朝廷でも色々とおじゃりますので難しいと思います。ですが年末なら」
俺の言葉に三人がホッとしたような表情を見せた。
「それと公方にも挨拶をしてきましょう」
三人が不安そうな表情を見せた。
「大丈夫でおじゃります。一言、来年もよろしくと言って帰ってきます」
三人の不安そうな表情は変わらない。まあ俺も本心では不安だけどね。でも此処はニッコリ、笑顔だな。