勢威
永禄四年(1561年) 十一月上旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 飛鳥井基綱
「宇治川の葦の運上の件について言上致しまする。運上は五千六百二十一貫となりましておじゃります」
俺が報告すると紫宸殿に溜息が聞こえた。一つじゃ無い、複数だ。去年は“なんと!”、“それは!”なんて声が聞こえたんだけどな。今年は溜息しか聞こえない。戦の所為で運上は少なくなるかもしれないと思ったがそんな事は無かった。膠着状態で民は余り危機感を感じなかったようだ。
帝も満足そうにしている。来年も元日節会が出来ると思っているのだろう。勿論出来るさ。俺が今年も二百貫を献金するからな。余裕があるんだ。三好から貰った千石の領地からも四百石分の米を年貢として徴収した。五十石分の米を邸に保管し残りは葉月に預けた。いずれ三好は戦で負ける。態勢の立て直しには必ず兵糧が必要になる。その時に高値で売れと言ってある。葉月は自分も米を買って売りつけると言っていたな。大儲け出来ると思ったのだろう。胸をユサユサさせて喜んでいた。いかん、胸の事は後だ。
「このうち六百二十一貫は葦の保全、売り上げを依頼した桔梗屋の取り分と致しまする」
今度はざわめきが起きた。でも無視! 分かっているよね。公家に葦の売買なんて出来ないでしょ。
「残りの五千貫を千二百貫ずつ四つに分けまする。二百貫が余りまする。この四つの千二百をそれぞれ帝、公方、三好修理大夫殿、麿で分けまする」
“ホウッ”と息が聞こえた。分かるよ。千二百貫、大金だもんな。
「残りの二百貫でおじゃりますがこの二百貫は昨年同様、帝から町衆の代表に祇園御霊会の支度金としてお下げ渡し頂いては如何かと考えておじゃります。如何でおじゃりましょうか?」
問い掛けると帝が頷かれた。義輝の代理人である摂津中務大輔、修理大夫の代理人鳥養兵部丞も頷く。反対意見は無い。修理大夫からは戦の最中なので代理人を送るがご容赦願いたいと一報有った。義輝からも諸事情により代理人を送ると連絡があった。戦もしていないのに諸事情って何だよ。どうせここに来たくない、そんなところだろう。もっとも面白く無さそうな顔をしている奴は他にも居る。二条、万里小路、庭田……。
「頭中将、御苦労であった。左府、町衆へ下げ渡す事を頼んで良いか?」
「はっ」
帝の命に左大臣西園寺公朝が畏まった。
「千二百貫の銭は仁寿殿に置いておじゃります。中務大輔殿、兵部丞殿、お受け取り下さい」
二人が頭を下げた。まあちょっとした臨時収入だ。嬉しいだろうな。勾当内侍も大喜びだった。
その勾当内侍に聞いたのだが室町時代の前半には朝廷の収入は七千五百貫ほど有ったそうだ。一貫を十二万円とすれば九億円ほどの収入が有った事になる。それが長い戦乱の所為で今じゃ十分の一の七百五十貫、九千万にまで収入が減った。これじゃ朝廷が困窮する筈だよ。俺が千二百貫を運上で稼いで漸く二千貫弱、二億四千万程だ。嘗ての四分の一に戻った事になる。未だ未だ稼がないと。
紫宸殿を出ると養母の部屋に向かった。松と梅が俺を迎えた。
「変わりはおじゃらぬか?」
二人が頷いた。
「分かっていると思うが直に養母上がお戻りになる。皇子様も一緒だ。頼むぞ」
また二人が頷いた。
「銭は足りているか? 遠慮は要らぬぞ。運上が入ったからな」
二人が顔を見合わせた。そして松が補充して欲しいと言った。後で十貫を送ると言うと二人が満足そうに頷いた。銭の使い道は女官達への多数派工作だ。甘い物や付け届け等で親飛鳥井派を増やせと言ってある。情報収集には銭は欠かせない。
「調べて欲しい事がおじゃる」
二人が姿勢を正した。うん、こういうの好きだわ。
「新大典侍が信頼している女官がいる筈だ。それを洗い出せ。そして似顔絵を描いて欲しい。出来るか?」
二人が自信ありげに頷いた。
「何時までに?」
「今月一杯だ、松」
俺が答えるとまた二人が自信ありげに頷いた。”頼むぞ”と言って部屋を出た。
穫り入れも終わり兵糧の補充も済んだだろう。畠山、六角の小手調べは今月中には有る筈だ。そこで三好がもたつけば全面的な攻勢が始まる。修理大夫の動きを見定めてからとなれば全面的な攻勢は間違いなく年を越すな。来年が勝負か。二条、万里小路もそう思っているだろう。負けられんな。
永禄四年(1561年) 十一月上旬 山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 飛鳥井春齢
兄様の部屋に行くと兄様は文机に向かっているところだった。
「兄様、良い?」
声を掛けると兄様がチラッと私を見た。そして”構わぬぞ”と言ったから兄様の直ぐ隣に腰を下ろした。
「織田に文を書いているの?」
兄様がまたチラッと私を見た。
「織田にも文を書いている。今は松平だ。京の情勢を知りたがっている大名は多い。大事な情報源だと思って貰えればそれだけ大事にして貰えるからな」
「大事にってそっちに逃げるの?」
「いや、大事にというのは情報だな。地方の情勢も無視は出来ぬ。桶狭間での今川の敗北が関東遠征に繋がった。京はそれで大騒ぎになった。東海道はこれから荒れるからな。松平との繋がりは大事だ」
「そうね」
兄様が筆を置いて私に向き合った。
「それで、如何したのだ?」
「うん、寿姫に文を書いたの。私も兄様を支えていきたいと思っているって」
笑うかなと思ったけど兄様は”そうか”と言っただけだった。
「可笑しい?」
「何が?」
「私が兄様を支えたいって」
「本心なのでおじゃろう。ならば可笑しくは無い」
うん、本心なの。でも私何の役にも立っていない……。兄様を支える事なんて出来るのかしら……。
「それだけか?」
「寿姫から会いたいって文が来たの。会ってお話がしたいって」
「ふむ、会うのか?」
「それなんだけど……」
兄様が私を見て一つ息を吐いた。
「気が進まぬなら止める事だ。無理をする事はおじゃらぬ」
そうよね。正直気が進まない。でも寿姫は兄様を支えたいと言っているのよ。その寿姫を無視して良いのかしら?
「何を迷っているのだ?」
「うん、……自信が無いの」
「……」
兄様、困ってるな。
「寿姫は綺麗な人なんでしょう。私、見劣りがするんじゃ無いかって思うと……」
兄様がまた一つ息を吐いた。呆れているのかしら。
「今のそなたを寿と比べて如何する。そなたは未だ十三でおじゃろう。そなたが女性としての美しさを身に纏うにはあと四年ほどは必要でおじゃろうな。今比べるのは植えたばかりの苗木を小さいと笑うようなものだ。意味が無い。四、五年すれば立派な木になる。誰も笑わなくなる」
「それは分かるけど……」
兄様、寿姫の事を寿って呼び捨てにした。
「そなたは外見に囚われ過ぎだ」
「……そうかしら」
兄様がまた一つ息を吐いた。
「女性の美しさというのは一様ではおじゃらぬ。外見の美しさも有れば内面の美しさもあるのだ。どれほど美しい女性でおじゃろうとも性格が悪ければ男は避けるぞ。男が女性に求めるのは外見の美しさだけではおじゃらぬ」
「……」
「源氏物語の花散里は決して美しい女性ではおじゃらぬ。だが聡明、温和で信頼出来る女性でおじゃった。だから光源氏に愛され頼りにされた。あれを物語と思ってはなるまい。紫式部は源氏物語の中で女性の美しさは一様ではない、外見だけではないと言っているのだと麿は思うぞ」
うん、それは分かるんだけど……。
「そなたはこれから徐々に美しくなっていく。外見に囚われる必要はおじゃらぬ。むしろ心を強く持った方が良いと麿は思う。先程も言ったがそなたは外見に囚われ過ぎだ」
「うん、そうよね。私、兄様は信用出来るの。でも自分に自信が無いの。だから自分が信用出来ない。心が弱いのよね」
「ならば自信を付ける事だ」
「どうやって?」
問い掛けると兄様が”そうだな”と言って小首を傾げた。
「ふむ、そなたも文を書いてはどうだ?」
「文? 誰に?」
「朽木の美乃殿、織田の濃姫」
「……織田の濃姫……」
ちょっと引っ掛かるな。
「男には男の目線が有るが女にも女の目線が有る。それは馬鹿には出来ぬ」
「そうなんだ」
「そこから少しずつ文を交わす相手を増やしていけば良い。細川兵部大輔も良いぞ。一度話したのだからな。そなたの下に様々な情報が集まるようになる」
「……情報」
「そういう情報を教えてくれれば有り難い」
うん、面白いかもしれない。兄様の役に立てるかも。やってみようかしら……。持明院の伯母上、ううん義母上にも文を書いた方が良いかもしれない。
「或いは小雪達に体術を習ってはどうだ?」
「体術? 私が?」
問い掛けると兄様が”そうだ”と頷いた。
「私も戦うの?」
兄様が”そうではおじゃらぬ”と笑った。
「身体を動かすと嫌な事を忘れるぞ。心が軽くなるのだ」
「ふーん」
「それに自分の身体を如何動かせば良いか、それを考えるのも楽しい」
「出来るかしら、私に」
「試してみては如何かな? やってみて自分に合わないと思えば止めれば良いのだ」
「そうね、そうよね」
悩んでいても仕方ないわ。兄様の言うとおりよ。やってみよう。合わなければ止めれば良いんだから。
「文を書いてみるわ。体術も習う。それに寿姫にも会う」
「それが良い。そなたはこれまで内裏の中に居た。その所為で余り人に会う事も無かった」
「うん、そうね。無かった」
帝の娘って不便よね。
「人に会うという事、話を聞くという事は知見が広がる事なのだ。そなたのためになる」
兄様、喜んでいる。やっぱり妻達が仲が悪いって負担なのかしら。
「十河讃岐守の毒殺の事は言うなよ、寿も御台所も知らぬ」
「うん」
「小侍従の産んだ子が殺されるだろうという事もだ。公方と不仲とは言え御台所は寿の妹であり公方は寿達の従兄だからな。それに毒殺は公方の知らぬところで行われた。公方は幕臣達に蔑ろにされたという事だ。話して良い事ではおじゃらぬ」
「そうね」
そういう気遣いも必要なんだ。色々と学んでいかないと。私、兄様の重荷になりたくない……。
永禄四年(1561年) 十一月中旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 飛鳥井基綱
「如何でおじゃりますか。養母上」
「心が引き締まったような気がします。西洞院大路の邸は安全でしたからね。でもここは……」
養母が俺を見た。分かるだろう? というような目をしている。まあね、宮中は嫉妬の渦巻く世界だから。ここで生きるって事は戦うって事だ。心が引き締まるさ。
「帝はお喜びでした」
「ええ、そうですね。それだけに気を付けなければ……」
宮中に養母が戻って三日、帝は毎日寧仁皇子の顔を見に来る。男子誕生が余程に嬉しいらしい。抱き上げてあやしている。まあ一家団欒なのだがそれを面白く思わない連中もいる。全くなあ。
寧仁皇子は授乳の最中だ。乳母のおっぱいを無心に飲んでいる。この乳母も鞍馬忍者のくノ一だ。この部屋には松、梅、乳母の貞と三人のくノ一がいる。簡単には養母と皇子に手出しは出来ない。
「こちらに戻って何かお気付きになられた事はおじゃりますか?」
養母が頷いた。
「そなたの勢威が強い事に驚きました。皆、そなたを懼れておりますよ」
「……」
「私が居なかった所為ですけど深夜にそなたは何度か帝に拝謁しています」
「はい」
「先日は深夜に拝謁して二人で笑っていたとか。随分と噂になっていますよ。帝がそなたの事を愉快な男だと評したと」
まあ、あれはなあ。俺も笑ったよ。
「そなたの事を藤原顕隆卿になぞらえて夜の関白と呼ぶ者も居るとか。良い事とは思えませぬ」
養母が表情を曇らせている。有り難い事だ、心配してくれている。
「申し訳おじゃりませぬ。御心配をお掛けしました。なれど夜の関白というのは些か……、はははははは」
敢えて笑ったんだが養母の表情は変わらない。ちょっと困ったな。
藤原顕隆卿とは白河院政時に活躍した権中納言藤原顕隆の事だ。今からざっと五百年程前の時代に活躍した事になる。この時代は天皇の母親の親族が摂政、関白になって権力を振るう摂関政治の時代から天皇の父親が上皇、法皇になって権力を振るう院政時代になっている。そして摂関家の人物よりも傍流の藤原氏が院の近臣となって活躍した。
顕隆もその傍流の一人だ。権中納言で終わったのだから出世はそれほどしていない。しかし右大弁、蔵人頭を兼任して頭弁になったのだから相当な能史だったのは間違いない。顕隆は自分の官職を越えて重要な政策の決定に関わり辣腕を振るったと言われているが、それが夜になってからの事が多かったので夜の関白と渾名された。相当なものだ。
顕隆の子孫は今では葉室家を称している。実を言うとこの葉室家、俺とも関わりが有る。御爺の妻がこの葉室家から出ているのだ。つまり俺の祖母だ。当代の葉室家当主は葉室頼房と言い従三位、参議の地位に有り三位宰相と呼ばれているが祖母の弟だ。俺から見れば大叔父になる。歳は未だ三十代半ばだから結構若い。
「養母上。麿は顕隆卿ではおじゃりませぬ。何か朝議で決まった事をひっくり返したなどという事はおじゃりませぬぞ」
俺など到底敵わない。俺に出来るのは精々帝に耳打ちするくらいのものだ。……駄目だな。養母の心配そうな表情は変わらない。凄く困った。
「仲秋の観月の事もあります。朝廷を銭で思うように動かしていると誹謗する者も居るようです」
銭が無くて困窮しているから俺が稼いでいるんじゃないか。煩い奴が居るな。それに仲秋の観月を派手にやろうと言いだしたのは俺じゃ無いぞ。仕方なく銭を出したんだ。いかんいかん、不機嫌そうな顔はするな。スマイルスマイル。養母を心配させるんじゃ無い。
「養母上、ご案じなさいますな。確かに銭は稼いでいますし使っています。しかし麿の野心のために使ってはおじゃりませぬ。麿には恥じるところはおじゃりませぬぞ」
「それは分かっています。そなたはそのような心の邪な者ではありませぬ。私の自慢の息子です」
有り難い事だ。ちょっと胸が熱くなった。
「明日は寧仁様の百日のお祝いです。そのように暗い顔をなさってはいけません。楽しまなくては」
「ええ」
「帝もそれをお望みの筈でおじゃります」
「そうですね」
もうすぐ畠山、六角が動く筈だ。帝も不安だろう。せめて明日ぐらいは楽しんで欲しいものだ。