天下の秘事
永禄四年(1561年) 十月上旬 近江国高島郡安井川村 清水山城 朽木藤綱
「ふむ、いけますな」
「うむ、澄み酒に合う」
「止まりませぬな」
弟達が酒を飲みながら唐辛子の入った漬物を食べている。
「どちらが止まらぬのだ、左衛門尉。酒か? 漬物か?」
儂が末弟に問うと弟達が笑い出した。
「いや、これは分かりませぬな。漬物が止まらぬのか、酒が止まらぬのか」
「お互いに引き立て合っているようで」
「如何にも。これはいけますぞ、兄上」
未だ笑っている。そして食べるのも飲むのも止まりそうに無い。困った奴らだ。頭中将様も妙な物を送ってきた。唐辛子、南瓜。美乃は甘い物が好きらしい。南瓜を美味しいと頻りに食べていたが……。そう言えば織田様も甘い物が好きだと言っていたな。
「兄上は食べぬのですか?」
「儂は辛いのは今一つ苦手だ。美味いとは思うがそれほど箸は進まぬ」
三人が顔を見合わせた。変わり者とでも思ったのかもしれぬ。
「唐辛子はそれで終わりだぞ。後は来年、種を蒔いて育てなければ食べられんな」
「なるほど。……売らぬのでございますか? 欲しがる者は多いと思うのですが」
「うむ、結構良い値で売れるのでは? 新しい名物になりましょう。又兵衛も喜びますぞ」
左兵衛尉と右兵衛尉がバリバリと音を立てながら問い掛けてきた。
「そのためにも先ずは領内に広めなければならん。だからな、来年はそれほど食べる分は無いぞ」
「……」
三人がもの悲しそうな表情を見せた。
「そんな顔をするな。少しは我らが食べる分にとっておく」
表情が変わらない。……なるほど、漬物が無くなったか……。まあ良い、これで話が出来る。
「今年は米の出来が良い。綿の収穫も上々のようだ。椎茸の出来も良い。又兵衛、平九郎は十分な収穫が見込めると言っている」
三人の顔が漸く引き締まった。
「では新しく兵を?」
左兵衛尉が問い掛けてきた。
「ああ、雇おうと思う。だが注意が必要だ」
弟達が顔を見合わせた。
「京の情勢ですな? それに、六角……」
今度は右兵衛尉が問い掛けてきた。
「そうだ。六角、いや幕府もなのかもしれぬが朽木の兵を京に入れたがっている」
頭中将様からの文には甲賀の三雲対馬守の息子と接触したと記してあった。そして六角は朽木の兵を京に入れたがっていると。
「間違いなく幕府も絡んでいましょう。幕臣達は当然ですが公方様もそれを望む筈です。公方様は兄上の武勇を頼もしく思っておりますからな」
思わず顔を顰めた。
「左兵衛尉、あれは頭中将様の武略だ。儂の武略ではない」
左兵衛尉が首を横に振った。
「幕府はそれを認めませぬ。公方様が兄上を朽木の当主にした事は正しかった。その証拠なのですから」
口中が苦い。褒められても少しも嬉しくない。そんな儂を弟達が気の毒そうに見ている。
「やはり幕府から使者が来るか」
儂の呟きに弟達が頷いた。
「間違いなく来ます。今三好は畠山、六角と戦の最中です。ここで朽木の兵を京に入れられれば三好を慌てさせる事が出来る。膠着している戦局を優位に動かす事が出来ると六角も幕府も考える筈です」
「戦局を動かす事が出来ても優位になるとは限るまい。頭中将様の文には三好が公方様の動きから目を離す事は無いとも書いてあった。つまり、京には三好の兵が備えているのだ」
儂が左衛門尉に反駁すると左衛門尉が暗い目で笑った。
「だからですよ、兄上。朽木の兵を京に入れれば、公方様への監視の目を朽木へ向ける事が出来る。慌てさせる事が出来る」
「うーむ」
思わず唸り声が出た。そんな儂を左衛門尉が見ている。
「関東管領は当てに出来ませぬ。となれば畠山、六角の兵で三好を討つしかない。朽木が滅んでも構わぬ。朽木の兵を京に入れろ。幕臣達がそう考えてもおかしくはありませぬ」
左兵衛尉、右兵衛尉が頷いている。溜息が出た。弟達の幕府への不信感は相当なものだ。相当に嫌な思いをしたのだろう。
「某は三好修理大夫が病というのが気になります」
左兵衛尉が言うとシンとした。重苦しい空気が漂う。弟達はもう杯に手を伸ばそうとはしない。畿内の覇者、三好修理大夫が病……。
「歳は未だ四十ぐらいの筈だが……」
「病は歳を選ばぬという事だろう」
弟達の会話にその通りだと思った。病は歳を選ばぬ。三好修理大夫は戦場に出ようとしない。十河讃岐守の死の影響で三好勢には勢いが無い。その所為で戦は膠着状態になっている。本来ならここは修理大夫が前線に出て兵の士気を上げ敵を撃破するべきなのだ。だがそれがない。頭中将様は三好修理大夫は病だと睨んでいる。
「いずれ畠山、六角も病に気付こう。そうなれば一気に攻勢に出る筈だ」
儂の言葉に皆が頷いた。
「頭中将様の予想通り、三好が大敗するかもしれませぬ。京を捨てるかも……。その時も兵を出せと使者が来ましょうな」
左衛門尉の言葉に儂が顔を顰めると右兵衛尉が”兄上”と儂を呼んだ。
「左衛門尉の言う通りです。今も危ないですが三好が敗れれば、そして京を捨てた時が一番危ういと思います」
シンとした。皆が押し黙って渋い表情をしている。
「兵を雇うのを先延ばしした方が良いと思うか? 今雇えば幕府、六角、三好の注意を徒に引きかねん。そう思うのだが……」
儂の問いに皆が顔を見合わせた。
「それが良いかもしれませぬ」
「某もそう思います」
左兵衛尉、左衛門尉が同意した。だが右兵衛尉は同意しない。腕組みをして考えている。
「右兵衛尉、そなたは不同意か?」
右兵衛尉が腕組みを解いた。
「某は兵を雇った方が良いと思います。二千なら某も先延ばしを奨めますが僅か二百です。それに注意はもう引いています。先延ばしする事にそれほど意味が有るとは思えませぬ」
左兵衛尉、左衛門尉が頷いている。なるほど、少し気にし過ぎか。
「それよりも兵を雇って十分な調練をした方が良いと思います。永田達を潰すのでしょう?」
「……」
問い掛けた右兵衛尉が儂を見ていた。左兵衛尉、左衛門尉も儂を見ている。
「御方様から聞きましたぞ。いずれは高島郡は朽木が支配する。そう織田様に伝えて欲しいと父上が言ったと」
「そうか、美乃から聞いたか」
弟達が頷いた。
「京の事も心配ですが永田達の事を忘れてはなりますまい。今は兵を雇い十分な調練をするべきだと思います。それにもうじき冬になります。雪が降る。そうなれば兵は出せません」
なるほどと思った。雪か。使者が来ても言い訳は出来るな。
「分かった。兵を雇おう」
弟達が頷いた。兵を雇ったらその次は鉄砲を揃えなくてはならぬ。いずれこの清水山城を敵が囲むかもしれぬと頭中将様は言っていた。浅井か、六角か、或いは三好か。備えなくてはならぬ。
永禄四年(1561年) 十月中旬 山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 飛鳥井基綱
「久しいな、主膳。変わりないようで何より」
「頭中将様にもお変わりなく」
俺が”ふふふふふ”と笑うと主膳も顔を綻ばせた。変わりない? 少しずつ状況は悪化している。とても喜べる状況ではない。でも笑っている。人間って変だよな。脇に控えている九兵衛が呆れているよ。
「夜は冷えるようになった」
「はい」
「日向守殿はお変わりないかな?」
問い掛けると主膳が首を横に振った。
「表に出す事は有りませぬが大分苛立っておられます」
「そうでおじゃろうな。動きの無い長戦は気を腐らせる。特に三好家はこれまで連戦連勝でおじゃった。だが此度は違う。余計に苛立とう」
俺の言葉に主膳が渋い表情で”はい”と頷いた。
「六角は朽木の兵を京に入れようとしていたと長助から聞きましたが?」
「三雲新左衛門、三雲対馬守の倅の話ではそうなる。朽木を動かすために麿を探っていたと言っていたな。麿の弱味でも握ろうと考えたのでおじゃろう」
不愉快な話だよ、全く。
「なるほど、気付いたのかもしれませぬな」
「……気付いたとは?」
「修理大夫様の病」
主膳と互いに顔を見合った。思わず溜息が出た。何時かはこんな日が来ると思っていた。予想はしていたんだ。それでも……。
「京に朽木の兵を入れる。その時三好が、いや修理大夫様がどう反応するか。それを確認しようとしたのかもしれませぬ」
「……」
「ここ最近、飯盛山城を探ろうとする動きがございます。おそらく、探っているのは修理大夫様の日常……」
また溜息が出たよ。九兵衛も息を吐いている。
「無理もおじゃらぬ。修理大夫殿は飯盛山城から動こうとせぬ。畠山、六角は最初は馬鹿にするなと思った事でおじゃろう。だが膠着状態になっても動かぬ。おかしいと訝しんでも不思議ではおじゃらぬ」
主膳が”左様ですな”と渋い表情で頷いた。
「少しでも良い、修理大夫殿を戦に出す事は叶わぬのか?」
今度は渋い表情のまま首を横に振った。
「気力が出ぬとの事で……」
初めて症状を聞いた。主膳、油断だぞ。ほんの一言で大変な事になるのだ。もしかすると余り大した病気ではないと思っているのかもしれない。しかしな、無気力症候群、燃え尽き症候群のようなものだとすれば相当に危険だ。考えてみれば三好長慶はこれまで戦国大名として幕府、細川、畠山、六角と敵対してきた。日本のトップクラスと戦い続けてきたんだ。そのストレスは相当な物だったのかもしれない。そのストレスで心が壊れたのだとしたら……。この時代は心の病なんて効果的な治療法は無い。徐々に症状は進行するだろう。それに追い打ちを掛けたのが嫡男筑前守の死……。三好長慶は長くないな。史実通り、あと四年以内に死ぬ。そして畿内は混乱する。また溜息が出た。
「仕掛けてくるぞ。畠山、六角、両方動く筈だ」
俺の言葉に主膳が頷いた。
「某もそう思います。どの程度の確証を得ているかは分かりませぬ。しかしおかしいとは思っている筈です。探っても確証を得られぬとなれば動いて試すしか有りませぬ」
「そうでおじゃるな。小手調べといったところか」
「おそらく」
主膳が頷いた。大規模な威力偵察か。
「それを上手く叩ければ畠山、六角を欺けるかもしれぬ。しかし失敗すれば……」
「次は本格的な攻勢になりましょう」
「間違いなくそうなる。大丈夫か?」
俺の言葉に主膳が頷いた。
「三好豊前守様の下には河内衆、阿波衆が居ります。いずれも歴戦の者達、心配はしておりませぬ。問題は筑前様、弾正様でしたがこちらにも内藤備前守様が加わりました。これで兵力では六角と互角になりました」
自信満々だな。十分に撃退出来ると考えているのだろう。
だがな、多分上手く対応出来ない。三好豊前守は失敗する。そして畠山、六角は本格的な攻勢に出る。三好豊前守は前回の失敗で焦りが有ったのだろう。そこを突かれて畠山勢の前に討ち死にする。総大将を失った三好勢は総崩れになる。そして三好筑前守、松永弾正は撤退を決断し六角が京に入る。大体の流れが見えてきたな。
「畠山、六角の攻勢が近いと皆に報せるのかな?」
「はい」
「上手く対応して欲しいものよ」
「はい」
それが上手く行けば流れが変わるかもしれん。変わればこちらも安全なんだが……。余り期待出来んな。
「ところで、室町第では小侍従様が身籠もられたそうで」
「麿もそれを聞いた。目出度い事でおじゃるの」
「はい、公方様もさぞかしお喜びでしょう」
「そうでおじゃるの」
主膳の目は笑っていない。多分俺の目も笑っていないだろうな。
永禄四年(1561年) 十月中旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 正親町天皇
「深夜のお出まし、畏れ入りまする」
常御所に出座すると頭中将が畏まった。
「良い、大事が有っての事であろう。時が無い、近う」
手招きすると頭中将が膝立ちになって近付いた。新大典侍がまた探りに来よう。その前に話を聞かなくては。頭中将が座った。
「それで何が起きた?」
「畠山、六角が修理大夫の病に気付いたようにおじゃります」
「真か?」
声が掠れた。頭中将が頷く。
「では動くか?」
また頭中将が頷いた。
「三好側も修理大夫の病は必死に隠している筈。となれば畠山、六角は確証を得ておりますまい。それを得るために大規模に兵を動かして三好を試すのではないかと思いまする」
「なるほど、小手調べか。道理であるな。それで、どうなる?」
「三好側が上手く対応出来れば畠山、六角は修理大夫が動かぬのは全体を見るためかと思うやもしれませぬ。悩みましょう。しかし、失敗すれば……」
「失敗すれば?」
先を促した。
「畠山、六角は修理大夫の動きをジッと見る筈におじゃります。修理大夫が戦場に出るようなれば病ではないか、病でもそれほど症状は重くないと判断致しましょう。しかし動きが無ければ修理大夫は戦場に出られない身体だと判断する筈。本格的に打倒三好のために兵を動かす事になりまする」
戦が迫っている。ひしひしと感じた。三好、畠山、六角、動きが無いように見えたが勝つために必死に相手を騙し必死に相手を探っていたのだと思った。
「三好は上手く対応出来るか?」
頭中将が”分かりませぬ”と首を横に振った。
「ですが失敗すれば三好側に焦りが生じましょう。畠山、六角が本格的に兵を動かした時、その焦りが敗北に繋がるやもしれませぬ」
息を吐いた。頭中将がここまで言うのだ。三好は相当に危ないのかもしれぬ。
「帝」
「何か?」
「今少し御側に寄らせて頂きまする」
「うむ」
頭中将が傍に寄ってきた。驚いた事に私の隣に座り顔を寄せてきた。
「お耳を」
「うむ」
「三好修理大夫の命、もってあと四年におじゃりまする」
思わず仰け反り手を後ろに着いた。頭中将は私を見ている。囁くような小声だったが雷が落ちたかと思う程に驚いた。
「真か?」
私の声も囁くように小さくなっていた。頭中将がまた顔を寄せてきた。慌てて身体を直した。
「心が壊れつつありまする。このまま病が進めば……」
「四年か」
「はい」
頭中将が顔を離した。
「ふふふ、誰にも言えぬのう」
声が震えていた。畿内の覇者、三好修理大夫の命があと四年……。つまり公方の命もあと四年……。天下大乱が来る。
「他に知る者は?」
「居りませぬ」
この天下でそれを知るのは私と頭中将だけか……。まさに、天下の秘事……。
「天下の秘事か」
「三好に知られれば臣は殺されましょう」
「朕も殺されるかもしれぬ」
私が”ふふふ”と笑うと頭中将も”ふふふ”と笑った。身体が震える、心が震える。だがおかしくてならぬ。私と頭中将は一蓮托生か。その事もおかしかった。娘婿ではないな。共に天下大乱と戦う者か。
「余りに重くて臣一人では抱えきれませぬ。帝にもお裾分けをと思いまして」
思わず吹き出した。これがお裾分けか。
「酷いお裾分けだ。どうせなら南瓜か唐辛子の方が良かったぞ」
「畏れ入りまする」
「はははははは、朕もとんでもない娘婿を持ったものよ」
私が笑うと頭中将も笑った。久し振りに心から笑ったような気がする。その事もおかしかった。
「帝」
声がした。廊下で新大典侍がこちらを窺っている。探りに来たのだろう。少しも不愉快では無かった。滑稽にしか感じない。
「新大典侍か。如何した?」
「笑い声が聞こえましたので」
頭中将を見た。頭中将は笑うのを堪えている。そうだな、この天下の秘事、知れば新大典侍は腰を抜かすだろう。
「ははははは。新大典侍よ、頭中将は愉快な男だな」
頭中将が吹き出した。また二人で笑った。新大典侍が唖然として我らを見ている。その事もおかしかった。
「久し振りに笑ったぞ。心が晴れた。邸に戻るか?」
「はい」
「次は今少し軽いお裾分けを持って参れ。南瓜か唐辛子が良いぞ」
「畏れ入りまする。そのように致しまする」
頭中将が笑いながら頭を下げた。
「さて、朕も休もう。新大典侍、そなたも休め」
新大典侍が”あ、あの”と言うのが聞こえた。少しも気にならぬ。立ち上がると夜御殿へと向かった。今夜は眠れそうに無いな。不思議なほどに心が高揚している。だがそれも悪くないと思った。私は天下の秘事を知る者なのだ。