妻達
永禄四年(1561年) 九月中旬 山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 飛鳥井春齢
隣に兄様が横たわっている。兄様の胸に頭を乗せる。トクトクトクトク、心の臓の音が聞こえた。その事が嬉しい。ギュッと兄様にしがみついた。
「如何した?」
「ううん、何でも無いの。兄様が此処に居るって思っただけ」
「……」
兄様、困っているなと思った。でもね、本当なの。兄様のように凄い人は居ないと思う。そんな人が私の背の君で隣に横たわっている。とても信じられない。その事を言うと兄様が私の頭を撫でてくれた。子供っぽいと思っているのかな……。
「麿も信じられぬぞ。麿の妻が帝の姫なのだからな」
「でも私ってそれしか無いわよね。他に取り柄なんて無い」
「そんな事は無い。麿をこれだけ振り回すのだ。十分な取り柄だ」
「兄様、酷い」
兄様が゛はははははは゛と笑い声を上げた。そして笑い終わると゛春齢゛と私を呼んだ。
「そなたには苦労を掛ける。本来なら床入れは一年後の筈だった。そなたに無理をさせてしまった」
「それは良いの。兄様が近衛の寿姫よりも私との床入れを優先してくれたのだから。それは私のためでしょ。私が皆に馬鹿にされないように」
初めての夜の事は一生忘れないと思う。兄様、私に怖々と触れてきた。まるで私が脆い積み木細工のように扱っていた。乱暴に扱ったら壊れちゃうって。あの時分かった。兄様は本当に私の事を大事にしているんだって。そう思ったら兄様に申し訳ないと思った。私は兄様の気持ちも知らないで我儘を言ってた。重荷にしかなっていない。
「麿はそなたを大事にすると約束した」
「うん、大事にしてもらってる」
「寿殿の事、嫌でおじゃろう」
「飛鳥井を守るためでしょう。私を守るため。それに京を戦から守るため。だから大丈夫よ、兄様」
兄様が゛そうか゛と言った。本当は凄く嫌なの。兄様が私よりも寿姫を好きになってしまうんじゃ無いかと思うから。でも言えない。兄様は苦しんでいる。何時も厳しい表情をしている。弛んでいるところなんて見た事が無い。飛鳥井には近衛が必要なの。それを忘れてはいけない。
「寿姫のところには何時行くの?」
「……明日だ。太閤殿下に上杉と武田の事も話さなければならぬからな。幕府内部で動きが出始めるだろう」
「そうね、教えないと。大事な事よね」
明日が寿姫との床入れ……。
「済まぬな。そなたに我慢をさせてしまう」
「……」
私って嘘が下手なんだな。兄様には全部ばれちゃう。その事を言うと兄様が笑った。
「そうだな、女性は嘘が上手だと思ったが春齢は嘘が下手だな」
「もっと上手くなるわ」
「ならなくて良い。今のままの春齢で」
「兄様」
それじゃ駄目なの。もっと嘘が上手くなりたい。心が強くなりたい。兄様に相応しい女性になりたい……。
「春齢、戦が終わり京が安全になったら朽木に行くか」
「朽木に? 行きたいわ。湖が見たい」
「清水山城ではない、朽木城だ。あの近くに温泉がある。二人でゆっくりしよう」
「温泉が有るの? 行きたい。でも大丈夫? 兄様、忙しいでしょ」
兄様がまた私の頭を撫でてくれた。
「大丈夫だ。京が安全になれば蔵人頭を辞任しても問題無い。帝も許して下さる筈だ。そうなればそなたを連れて朽木に行けるくらいの余裕は有る」
「そうね。何時頃かしら?」
兄様が゛そうだな゛と言って少し沈黙した。
「うん、年が明けて夏を過ぎるかもしれないな」
一年近く先だわ。兄様も頭中将になって一年半。それくらいなら辞めてもおかしくない。次は参議かな? それとも従三位かしら。
「早くそうなれば良い」
「ああ、そうだな」
一年も先……。大丈夫よね。きっと凌げるわよね。訊きたいのだけど怖くて訊けない。兄様に抱きついた。トクトクトクトク、心の臓の音が聞こえた。兄様が私の頭を撫でてくれる。
「兄様、抱きしめて」
「こうか」
兄様が私を抱きしめてくれる。涙が出てきた。
永禄四年(1561年) 九月中旬 山城国葛野郡 近衛前嗣邸 飛鳥井基綱
「そ、そうか。上杉は、勝てなんだか」
太閤殿下が憂鬱そうな表情で息を吐いた。寿、毬も憂鬱そうな表情は同様だ。
「公方様はまた泣くわね。関東の兵は頼りに出来ないのかって。幕臣達が畠山、六角の兵が有りますって慰めるわ。そして近衛は役に立たないって兄上を貶めるのでしょうね。見えるようだわ」
毬がうんざりしたように言った。同感だ。俺にも見える。幕臣共が煩く騒ぐだろう。
「頭中将様、二条様、万里小路様達は動きますの?」
寿が心配そうに俺を見ている。
「直ぐには動かないと思います。今動くのは幕臣達でおじゃりましょう。それも精々が関白殿下への誹謗、中傷です。そうやって御台所を離縁に追い込む。そう考えていると思います。しかし三好が敗れれば、そして京を捨てるような事になれば間違いなく動きましょう。その時は幕臣達も加担する筈です」
寿、毬が顔を見合わせた。
「三好が負けるなんて、有るの?」
毬が首を傾げている。まあそうだよな。三好は畿内の支配者なんだ。畠山は三好に一度戦っているが全く良いところ無く負けた。完敗だ。六角も格下の浅井に敗れている。とても畿内の覇者である三好に勝てるとは思えない。そう思っても不思議ではない。
「三好修理大夫は病ではないかと」
場が凍った。皆が驚愕の目で俺を見ている。
「そ、そうなのか」
太閤殿下が問い掛けてきた。
「三好の動きが鈍いとは聞いているけど……」
毬の声は震えていた。
「それが本当なら……」
寿の声も震えている。縋るような視線で俺を見ていた。
「修理大夫は飯盛山城に籠もったまま動きませぬ。十河讃岐守が死んだ事で三好勢の間では不安の声がおじゃりましょう。それを払拭し兵の士気を高めるには修理大夫が自ら前線に出て兵を鼓舞するのが最善の手の筈。百戦錬磨の修理大夫にそれが分からぬとも思えませぬ。ですが修理大夫は動きませぬ」
「動かぬ、のではなく、動けぬ、か」
「おそらくは」
俺が頷くと皆が息を吐いた。
「と、頭中将」
太閤殿下が俺を呼んだ。その時だった。゛曲者!゛、゛逃がすな!゛、捕らえよ! 手に余らば斬れ!”と声が上がった。三人が腰を浮かす。
「お静かに」
俺が抑えると三人が腰を下ろした。闘争の音がする。刀を打ち合う音も聞こえた。三人が不安そうな表情をしている。そして音が途絶えた。終わったらしい。立ち上がって廊下に出た。五人の男女が現れた。一人の男が松明を持ちもう一人の男が縄で縛られた男を引き立てている。口には布が押し込まれていた。俺の前で座らせると五人が控えた。佐山源三、柳井五郎、香川助八、萩、信。新たに雇い入れた五人だ。
「床下に忍び込もうとしていましたので捕らえました」
報告したのは佐山源三だった。
「うむ、良くやってくれた。御苦労だな。怪我をした者は?」
「居りませぬ。捕らえたのは信にございます」
信がぽっちゃりした身体をちょっと恥ずかしそうに竦めた。
「そうか、強いのだな。頼もしいぞ」
俺の言葉に信が益々恥ずかしそうにした。やばい、この娘、危険なくらい可愛いわ。顔立ちは普通なんだけど仕草が可愛い。おまけに巨乳チャンだ。絶対この娘はモテると思った。
「これを」
助八が刀を俺に差しだしたから受け取った。二尺無いな。鍔が広く厚い。
「忍びだな」
「はっ、心得が有りまする」
長い刀では床下に忍び込むのに不便だ。それに室内での闘争にも向かない。捕らえられた男は身体の逞しい男だった。信はこれを捕らえたのか。本当に強いんだな。感心していると殿下、寿、毬が俺の後ろに来た。
「五郎、顔を良く照らせ。殿下、この邸の者でおじゃりますか?」
五郎が松明を男の顔に近付けた。男が顔を背けようとするが源三が頭を押さえた。眉が太い、三十代だろう。色の白い男だった。
「いや、し、知らぬ、男じゃ」
殿下が首を横に振った。
「布を外してやれ。……三好の者か?」
男は無言だ。なるほど、畠山か六角か。多分、甲賀者だろう。
「良く聞け。此処は麿の妻の家だ。夫婦の閨の睦言を盗み聞きとは些か趣味が良くないの」
源三、五郎、助八が笑いを堪え萩と信が頬を染めた。寿が゛まあ゛と声を上げた。
「忍ぶまでも無い。聞きたい事が有るのなら邸を訪ねて参れと上の者に伝えよ。何時でも歓迎するとな」
「……」
男は無言で俺を見ている。刀を源三に返した。
「今日はもう帰れ。二度と忍ぶなよ。忍べば殺す。飛鳥井の邸もだ。次は容赦するな」
俺の命に五人が畏まった。そして男を引き立てて去って行った。
「頭中将様、今の者達は?」
寿が怖々と訊ねてきた。
「麿に仕える者達でおじゃります。それ以上の詮索は御無用に」
三人が後ろで顔を見合わせるのが分かったが気付かない振りをした。まあ、忍びを捕らえたんだ。忍びだと分かっただろう。
「戻りましょう。未だ話さなければならない事がおじゃります」
部屋に戻りつつ思った。甲賀は随分と俺を気に掛けている。一体何を探ろうとしているんだ?
永禄四年(1561年) 九月中旬 山城国葛野郡 近衛前嗣邸 寿
暗闇の中、隣で頭中将様が眠っている。……愛おしい。私よりずっと年下だけど頼もしくて頼り甲斐の有るお方。このお方の傍なら何の心配も要らない、そう思わせてくれる。先程もこの邸に忍び込んだ者をこのお方に仕える者達が捕らえた。多分、忍びの筈。公家なのに忍びを召し抱えている。ドキドキする。何所まで凄いのだろう。
前夫、朝倉左衛門督様は詰まらないお方だった。覇気らしいものは無く和歌や連歌に猿楽、絵画や茶道を嗜んでいた。まるで公家のような……。一乗谷で物足りない思いをしている時に聞こえてきたのが頭中将様の噂だった。未だ侍従だったけど御大葬、御大典で大きな働きをして春齢様との婚姻を許された。宮中でも皆から一目置かれている実力者……。何時しか私は未だ見ぬ侍従様に惹かれていたのだろう。朝倉左衛門督様に離縁されても少しも寂しくなかった。むしろ京に戻れる。侍従様に会えるかもしれないと心を弾ませていたように思う。
実際にお会いして驚いたのは未だ子供のような少年だった事。でも朝倉左衛門督様よりもずっと武家らしくてずっと頼り甲斐が有りそうだった。嬉しかった。想像していた侍従様よりずっと素敵だった。会えば会うほど惹かれた。気が付けば夢中になっていた。侍従様が出世していくのが嬉しかった。右少将様、新蔵人様、そして頭中将様。当代一の軍略家と讃えられるのが誇らしかった。だから御成の時に夢中になると言われた時は嘘と分かっていても嬉しかった。
こうして一緒に添えるなんて夢のよう。頭中将様は春齢様の背の君。私が添う事は無い、そう思っていた。
「眠れませぬか?」
「まあ、起きていらっしゃったのですか?」
驚いて問うと頭中将様が゛ええ゛と言った。
「先程から寿殿は息を吐いたりクスクス笑ったり……」
顔が熱くなった。
「真でございますか?」
「真です。余程に楽しい事が有るのだと」
「恥ずかしゅうございます」
頭中将様が゛はははははは゛と笑った。恥ずかしい、ギュッと抱きついた。
「寿殿?」
「嬉しかったのです。こうして一緒になれて。だからこれまでの事、ずっと思い出していました。皆素敵な思い出です」
朝倉左衛門督様から離縁された事も楽しいと思える。
「私の事、嫌ではありませんの?」
「何故そのような事を?」
「だって、私十以上も年上ですし……、それに父からの申し入れだったと聞きました。頭中将様にとっては不本意だったのではないかと」
頭中将様がクスクスと笑い出した。
「宮中では麿は皆から羨ましがられますぞ。あのような佳人を娶るなど羨ましいと」
「頭中将様もそう思われますか?」
「ええ、思います」
「嬉しゅうございます」
「……これから先、近衛家と飛鳥井家は荒波に揉まれましょう。苦労する事、辛い事もおじゃりますぞ」
「それでも構いません。一緒になれたのですもの」
「……」
今度は頭中将様が私を抱きしめてくれた。嬉しい。私も抱きしめ返した。頭中将様は決して背は高くない。でも身体にはしっかりと肉が付いている。力強い腕、鍛えているのだと思った。後数年経てば背も今より高くなる。そして今よりもずっと逞しく頼り甲斐のある殿方になる。そうなったら私は……。
「ずっと夢だったのです。叶わない夢。貴方様は春齢様の背の君だった……」
「……」
「春齢様は怒っていらっしゃるでしょうね」
「……近衛と飛鳥井は協力し合わなければならない。その事は春齢も分かっておじゃります」
「そうですか」
多分、お辛い筈。それを頭中将様のために我慢している。決してその思いを無にしてはいけないと思った。張り合うのでは無く頭中将様を支え合う。それを肝に銘じなければ……。
「頭中将様」
「何です」
「私の事、寿と呼び捨てにして下さい」
「……寿」
「はい」
「大事にします」
「はい!」
このお方と乱世を生きる。きっと、きっと後悔しない。




