紐帯
永禄四年(1561年) 八月中旬 山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 飛鳥井基綱
「寧仁、ですか」
養母が赤子を抱きながら言った。その隣で春齢も”寧仁”、”寧仁”と呟いている。
「はい、寧にはやすらか、穏やかという意味がおじゃります。良い名だと思いまする」
「そうですね。良い名です」
養母が”寧仁様”と赤子に話し掛けた。赤子は、いや寧仁様は不思議そうに養母を見ている。帝からは寧仁という名を頂いた。乱世が一日も早く終わって欲しい。そんな思いから付けられたのだろう。
今日は寧仁様のお七夜だ。この時代は赤子の死亡率が高い。出産後直ぐ死ぬ子も多いのだ。お七夜で名を付けるのもそこから来ている。後で親族がやってくる。祝いの席で改めて赤子と名を披露する事になる。
「祝いの品が届いているそうですね」
「はい」
近衛、西園寺、久我、中院、三条、三条西、正親町三条、勧修寺、中山、甘露寺、山科、葉室、難波、飛鳥井、持明院、高倉、広橋等、それに三好家、松永家、朽木家から初七日の祝いの品が届いている事を養母に言った。公家達は大体が酒だ。それでも貧乏な公家にとっては大変な出費だろう。後でお返しをしなければならん。武家は三好家から銭五十貫、松永家から太刀一振りが、朽木家からは綿布に干し椎茸、酒が送られてきた。これも後でお返ししないと。桔梗屋からも届いているが妙なところでは町衆からも祝いの品が届いた。去年、二百貫を町衆にと言った事を感謝しているらしい。それに吉岡道場からも祝いの品が届いた。
「宮中にも来ているそうですね」
「良くご存じで」
春齢に視線を向けると”小雪が教えてくれたの”と言った。
「三好家から太刀一振り、銭百貫が。それと六角、畠山からも太刀一振り、銭百貫が朝廷に届いておじゃります。織田家からも太刀一振り、銭百貫が届きました。これは予め桔梗屋に頼んでいたようでおじゃります」
養母が”まあ”と言った。養母は驚いているが喜んではいない。ほっとした。春齢は……。駄目だな。未だ難しいか。
「問題になっていませんか?」
「些か」
養母と俺の会話に春齢が”如何して問題になるの?”と問い掛けてきた。
「誠仁様の時には大名達から祝いの品など有りませんでした」
養母が答えると春齢が顔を強張らせた。流石に拙いと思ったのだろう。俺を見て”兄様”と俺を呼んだ。
「明後日の仲秋の観月、本当なら質素に行う筈でおじゃりました。ですが寧仁様の御誕生を祝おうという声が上がりました。幸い戦は小康状態、今なら男皇子誕生を祝えると……」
養母、春齢が”まあ”と声を上げた。
「おそらく、万里小路を刺激し飛鳥井との軋轢を深めようという狙いが有るのでおじゃりましょう」
声を上げたのは複数人居るが庭田権大納言がその一人で有る事は分かっている。俺の事を息子達の競争相手だと思っているのだろう。
「ですが費えの問題がおじゃります。それを理由に抑えようと思ったのでおじゃりますが三好が百貫を献上してきました。そして畠山、六角、織田も。諸大名が言祝ぐのです。宮中でも祝うべきだという声が強くなりました。とても抑えられませぬ。麿も百貫を出しました。頼りない親族だと誹られては堪りませぬから」
今度は二人が息を吐いた。
「新大典侍は当然でおじゃりますが万里小路権大納言様も不愉快そうでおじゃりました。宮中では弟の勢威が兄を凌げば世の中は乱れると詰まらぬ事を言う者もおじゃります。面白がっているのでおじゃりましょう。万里小路と飛鳥井、どちらかが失脚すれば、いや共倒れになれば良いと思っているのだと思います」
「……大名達は何故祝いの品を贈ってきたの? 兄様と誼を結ぶため?」
春齢は不満そうだ。余計な事をする、そう思っているのかも知れない。全くだ、皆で余計な事をする。
「そういう狙いが無いとは言えない。だがそれだけが狙いではおじゃるまい。三好は朝廷を守る武家の棟梁は自分だと言っているのだ。畠山、六角はそういう三好の狙いを少しでも薄めようとしての事だと思う。祝いの品が届いたのは三好が献上してからだからな」
「織田は?」
春齢は首を傾げている。織田は畿内の戦に関係していない。何故という思いがあるのだろう。
「自分の存在を朝廷に印象付けるためでおじゃろうな。織田殿の父、先代の弾正忠殿は勤皇の志厚い者として知られていた。朝廷に随分と献金しその事で大分頼りにされたのだ。先代の弾正忠殿が亡くなられた時は朝廷では惜しむ声が上がったと聞く」
養母が大きく頷き春齢が曖昧に頷いた。俺も春齢も幼い頃の話だ。覚えてはいないのだろう。
「一昨年、織田殿は上洛したが幕府も朝廷も誰も相手にしなかった。国内が乱れている弱小勢力と侮られたのだ。だが今は違う。織田は戦国の群雄の一人だ。織田殿はその事を朝廷に訴えている。朝廷でも勤皇家の織田が戻ってきたとの声がある」
これは悪くないな。織田が上洛したときには役に立つ筈だ。俺は養母の事は言わなかったのだが朽木の御爺と長門の叔父御が信長に教えたらしい。俺にも祝いの品を贈ってきた。気持ちは分かるし嬉しいよ。でもタイミングは最悪だな。
「幕府は贈って来ないのね」
春齢の呟くような言葉に”そうだな”と答えた。男皇子の誕生だからな。俺の勢威が強まると見て面白くないのだ。祝う気持ちにはなれんのだろう。本当ならこういう時に朝廷へ祝いの品を贈る事で幕府の存在をアピールすべきなんだが……。無理だな。義輝は朝廷の権威を利用する事に関心を持たない。俺に関わりない皇子でも何もしないだろう。今義輝が関心を持っているのは北信濃だ。上杉は武田との決戦のために兵を出した。武田も兵を出す。激戦となる第四次川中島の決戦が始まろうとしている。
「帝は何と?」
養母が憂い顔で訊ねてきた。駄目だよ、そんな顔をしちゃ。赤子が不安に思うって。お母さんは笑顔じゃなきゃ。
「案じておじゃります。折に触れ誠仁様も心強いだろうと口にされます。日嗣の皇子は誠仁様、寧仁様は控えだと皆に伝えているのでしょう。」
宮中で後継者問題が発生するのを避けようとしているのだ。もっとも帝の心の内はちょっと複雑だ。万里小路への不満が相当にある。自家の勢力伸張にしか関心を示さないと思っているのだ。実際そういう所はあるだろう。誠仁様が帝になれば益々増長するだろうと帝は危惧している。
「百日の祝いは宮中で行うとの事でおじゃりました。それに合わせてお戻り頂く事になります。それまでに十分に身体を労るようにとの事でおじゃりました」
養母が嬉しそうに頷いた。戻るのは十一月の半ば過ぎになる。北信の武田対上杉が終わり畿内の戦も動きが出そうな時だ。出来ればもう少し早い時期に戻って欲しかったんだが……。だが、余り早く戻すとそのこと自体が万里小路を刺激するだろう。全く鬱陶しいわ。何とか此処を凌がないと……。
永禄四年(1561年) 八月下旬 尾張国 春日井郡 清洲村 清洲城 織田信長
目の前に膳が出た。小鉢、皿、椀、それぞれに料理が入っている。
「これが南瓜を使った料理か」
俺が問うとお濃が”はい”と答えた。
「台所の者が貴方様の指示に従って作りました」
「俺ではない。頭中将の文にこのように作れと書いてあったのだ。南瓜を送るから食べてくれとな」
ふむ、お濃は納得していないな。
「如何した?」
「大丈夫なのでしょうか? 異国の野菜など」
不安そうな表情をしている。
「案ずるな、頭中将も食べたと言っている」
まあ、見た目が余り良くないからな。三つばかり送ってきたがどれも大きくてゴツゴツしていて硬い。しかし甘味があると文には書いてあった。ここは試してみなくてはなるまい。
小鉢の中は南瓜の煮物だな。先ずはこれから行くか。一つ箸に摘まんで口に入れた。うむ、確かに甘味がある。それに柔らかくねっとりとしている。
「うーむ」
「如何なされました?」
「いや、不思議な食べ物だな。甘くてねっとりとしている。それに柔らかい。異国の野菜と聞いたが確かにこういう野菜は日ノ本には無いな。……お濃、美味いぞ」
俺の感想にお濃が”まあ”と声を上げた。予想外だったのかもしれぬ。
「誰かある!」
声を上げると小姓が姿を現した。
「お濃にも膳を」
お濃が”私は”と言うのを手を振って黙らせた。こういうのは実際に喰わねば分からぬ。小姓が下がるのを見ながらもう一つ食べた。うむ、甘い。そうだ、この南瓜で饅頭の餡を作るというのは如何だろう。なかなかいけるのではないか。お茶と合うと思うのだが……。
次は皿だ。南瓜を薄く切って焼いた物が乗っている。どれ、一つ……。
「ほう」
「どうなされたのです?」
「いや、食感が違う」
「まあ」
お濃が不思議そうな表情をして俺を見て皿の南瓜を見た。なるほど、甘味はあるが煮た物に比べれば薄いな。それにねっとりとした食感も無い。これだけでは物足りぬが他の料理に付け合わせれば結構いけるかもしれぬ。ふむ、お濃にも膳が来た。俺が食べているのを見て興味を持ったのかもしれぬ。直ぐに煮物を口に入れた。そして目を瞠った。驚いたらしい。
「どうじゃ」
「真、不思議にございます。甘くてねっとり。皮まで食べられるのでございますね。このような物は食べた事がございませぬ」
「そうだろう。これで饅頭の餡を作るというのは如何かな?」
お濃が”ほほほほほほ”と笑い出した。
「余程にお気に召したのでございますね」
「茶に合うと思ったのだ」
「まあ」
お濃がまた”ほほほほほほ”と笑い出した。ふむ、感触は悪くない。
「では料理人に命じては如何でございますか? 私も食べてみたいと思います」
「うむ、そうだな。そうしよう。その皿の焼いた南瓜を食べてみよ」
「はい」
お濃が南瓜を口に入れ首を傾げた。
「甘いとは思いますが……」
「そうだな。今一つ物足りぬ。だが他の料理に付け合わせれば使えよう」
「そうですね」
お濃が頷いた。そして煮物をまた口に入れた。お濃もこれが気に入ったらしい。
「では汁物を頂くとするか」
「はい」
一口飲んだ。うむ、やはり少し甘いな。南瓜を食べる。甘いがねっとりした感じはそれほど無い。茄子が入っているな。茄子を食べて南瓜を食べる。なるほど、そういう事か……。
「頭中将の文に書いてあったのだが他の野菜と一緒に食べる事で腹が満ちると有った。道理よ、南瓜だけでは飽きるわ」
「左様でございますね。南瓜は結構お腹に溜まりまする」
「うむ」
領内でこれを広めよう。家族の多い家で南瓜は喜ばれるだろう。百姓達も売れるとなれば喜んで作ってくれる筈だ。南瓜か、良い物を送ってくれた。さて、次は唐辛子だな。辛いと聞いていたが……。
永禄四年(1561年) 八月下旬 山城国葛野郡 近衛前嗣邸 近衛稙家
「ふ、二人きりじゃ。今、少し、近くへ」
声を掛けると頭中将が”失礼致しまする”と言って傍に寄った。頭中将の表情は厳しい。寿と毬が居ない事で難しい話だと思っているのだろう。
「良い、仲秋の観月でおじゃったの」
頭中将の顔が綻んだ。
「はい、良い仲秋の観月でおじゃりました」
「小、侍従が、懐妊した」
頭中将がジッと儂を見た。驚きは無い。知っていたのだと思った。
「殿下はそのお話を何所からお聞きになりました?」
「二、二条。宴の時じゃ。み、耳元で囁かれた」
儂が答えると頭中将が頷いた。
「万里小路権大納言様でおじゃりますな。最近ですが二条様と権大納言様が親しくされていると聞いておじゃります」
そして万里小路は室町第に頻繁に出入りしていると聞いている。幕臣達と親しくしているらしい。
「そなたは、知って、いたのか?」
問い掛けると頭中将が頷いた。
「春日局殿が教えてくれました。憐れんでおじゃりました」
「そうか……」
憐れんでいたという事は春日局は讃岐守毒殺を知っているという事か。教えたのは頭中将。だから春日局は頭中将に教えたのだろう。仲は良くないと言われているがそれは表向きで裏では相当に強い信頼関係があるのだと思った。
「上杉と武田も今頃は北信濃で睨み合っておじゃりましょう。どちらが勝つか。正念場でおじゃりますな」
「……」
「上杉は勝たねば関東制覇は成りませぬ。そうなれば幕臣達の間で関白殿下を誹る声が高まりましょう」
「毬が、邪魔か」
儂の言葉に頭中将が頷いた。そしてフッと笑った。口元に冷たさが漂う。ぞくりとするものがあった。
「公方は朝廷に重きを置きませぬ。であれば近衛の役割は有って無きが如しでおじゃりましょう」
「……愚かな」
如何して朝廷を利用する事を考えぬのか……。義輝が消極的なら幕臣達がそれを諫めるべきであろうに……。
「真、愚かにおじゃります。進士美作守殿は近衛を追い払うために上杉が勝たぬ事を望んでいると聞きました」
「……」
己の顔が歪むのが分かった。本来なら美作守は幕臣として上杉の勝利を望まねば成らぬ筈。それなのに……。
「頭中将、改めて訊く。上杉は、勝てるか?」
頭中将が首を横に振った。
「ば、幕府も、人を、得ぬの」
儂の言葉に頭中将が視線を逸らした。肯定すれば公方を誹る事になるとおもったのかもしれぬ。伯父である儂を気遣ったか……。だが人を得ぬのは事実だ。義輝も公方としては些か頼りない。名君の元には名臣が集う。人が人を呼ぶのであればやはりこれは義輝の器量が齎したものなのであろう。美作守の台頭を許したのは義輝なのだ。
「美作守は御台所を追い払い産まれてくる孫が男子なら次の将軍にと望んでおりましょう。そして二条様は関白殿下を蹴落とし自らが関白に再任される事を望んでおられます。万里小路権大納言様は飛鳥井が邪魔です。寧仁様が産まれましたからな。飛鳥井が近衛と組んで寧仁様を次の帝にと考えるのではないかと危惧しているのでおじゃりましょう」
「愚かな……」
進士、二条、万里小路が組んで近衛、飛鳥井を追い落とそうと考えている……。関白が此処に居れば……。愚かな、嘆いて如何する。今は近衛を守る事を考えなければ……。
「近衛を追い払うという事は小侍従殿の産んだ子、これが男子ならその子が後継ぎになるという事でおじゃりましょう。美作守殿の孫が次の将軍になる。左様な事、三好が許す筈も無い。讃岐守殿が毒殺された事を三好は知らぬと思っているのでおじゃりましょうが愚かにおじゃります」
その通りだ。讃岐守が殺されたのだ。三好は決して許すまい。
「陰惨、な事に、なるの」
儂の言葉に頭中将が頷いた。三好家と幕府の間で暗殺の応酬が起きる事になる。互いに憎悪を募らせれば行き着くところは……。義輝は子を得られぬままに死ぬかもしれぬ。幕臣達の一部に大和の覚慶と接触する動きがあると頭中将は言っていたが現実に覚慶が次の将軍になるのかもしれぬな。となれば毬を義輝に嫁がせた近衛は此処でも危うい。
「そなた、む、娘達に、麿の力を借りる、時が来ると、い、言ったの」
問い掛けると頭中将が強い目で儂を見た。
「はい」
「此処じゃな」?」
「はい」
「わ、分かった。力を、貸そう。近衛の、ため、飛鳥井のため」
「有り難うございまする」
頭中将が頭を下げた。
「そ、そのために、近衛と飛鳥井の、紐帯を、今一歩、強めたい」
「……それは?」
「寿を、頼む」
「……」
頭中将の表情が曇った。春齢様の事を考えたのかもしれぬ。
「麿も歳じゃ、身体も、思うように、う、動かぬ。寿を頼む。そなたは、帝の娘婿であり、こ、近衛の娘婿と、いう事になる。帝には、ま、麿から事情を、お話しする」
もどかしい思いにかられながら懸命に喋った。
「分かりました。寿殿の事、お引き受け致しまする」
「うむ、頼むぞ」
これで良い。寿も喜ぼう。この男なら安心して任せられる。我が家の娘達は男運には恵まれぬが皮肉な事に男を見る目には恵まれた。いずれは毬も頼む事に成るかもしれぬの。




