欺瞞
天文二十二年(1553年) 十月上旬 近江高島郡朽木谷 朽木城 朽木惟綱
兄の部屋に当主の長門守、私と息子の主殿、それに日置五郎衛門、宮川新次郎が集まった。皆表情が厳しい。
「三好は公方様の解任を考えていたという事ですか」
問い掛けると兄が頷いた。
「そのようだな。六角、畠山が反対したので思い止まったようだ」
「その話、岩神館に届いておりましょうか?」
重ねて問い掛けると兄が首を横に振った。
「届いておらぬ」
兄の言葉に皆が顔を見合わせた。どの顔にも驚きが有る。公方様の解任、その話を当の公方様が知らぬ。六角も畠山も公方様の解任に反対してもそれを教えようとしない……。
「御隠居様、疑うわけでは有りませぬが真で? 六角も畠山もこれ程の大事、報せて来ぬと?」
五郎衛門が問うと兄が渋い表情で頷いた。
「六角も畠山も今回の騒乱を不愉快に思っているのであろう。先年、六角の骨折りで和睦を結んで京に戻った。にも拘らず直ぐにこの有様よ。何のための和睦であったかという思いが有るのだ」
「先代の管領代が死んで戦が出来ぬ。それ故の和睦でしたな」
私の言葉に皆が頷いた。
「余計な事ばかりする、そんな思いが有るのだ。敢えて報せぬのだと見た。示し合わせているのやもしれぬな。報せれば公方様は必ず兵を挙げよと迫ってくるからの。面倒だと見たのよ。三好が将軍の解任を強行しようとすれば報せは来るだろうがそうでなければ来るまい。蚊帳の外よな」
兄の口調が苦い。
「岩神館に報せますか?」
長門守が提案すると兄が厳しい眼で長門守を見た。
「六角も畠山も報せて来ぬのじゃぞ。誰から聞いたと言うのだ」
「……」
長門守が無言でいると兄の視線が更に厳しくなった。
「竹若丸が三好と繋がりが有ると知られれば碌な事にはならん。竹若丸は朽木にとって京の情勢を知る大事な存在、その立場を危うくするような事はしてはならぬ。それに我らも疑いの目で見られかねぬ。竹若丸を通して三好と繋がっているのではないかとな」
「御隠居様の申される通りです。我らにとって大事なのは先ず朽木を守る事。それを忘れてはなりますまい。公方様の御滞在を利用して内を固めなければなりませぬ」
兄と新次郎が長門守を窘めた。長門守は面目無さげだ。幕臣として公方様に仕えた所為か公方様への遠慮が過ぎる。困ったものよ。兄が長門守を公方様の前に置かぬのも無理は無い。当主としては些か不安だ。
「竹若丸からの文にもこの件は公方様に伝えるなと書いてある。徒に騒ぐだけで意味が無いとな。左兵衛尉、右兵衛尉、左衛門尉にもこの事は教えぬ。あれらは公方様の御傍に居る。隠し事は辛かろう」
兄の言葉に皆が頷いた。
「しかし、なんともお気の毒な事ですな。公方様は頻りに六角、畠山に使者を送っておられますが肝心の六角、畠山は……」
主殿が首を横に振った。肝心の六角、畠山には三好と戦う意思は無い。恋文を送っても無視される男のようだ。
「越後の長尾弾正少弼が忠誠を誓ったと御喜びと聞いておりますが」
「新次郎殿、越後から京は遠い。武田、北条という敵も有る。それに冬は雪じゃ、そう簡単に上洛は出来まい」
新次郎と五郎衛門の遣り取りに皆が頷いた。上洛は出来ない、それを見越して耳触りの良い事を言ったともとれる。真に受けるのは愚かというものだろう。その事を言うと皆がまた頷いた。
「残念だが公方様にはそれがお分かりにならない」
皆が兄を見た。
「最近は頻りに長尾を上洛させ朝倉、六角、畠山の兵を合わせて三好を討つと仰っておられる」
渋い表情だ。現実を見ろと思っているのだろう。
「苦労が足りぬのよ」
ボソッと兄が吐いた。皆が驚いていると“フフフ”と兄が笑った。
「その方らは公方様は苦労しておられると言いたいか? だがな、苦労が身に付かねば苦労しているとは言えまい」
「……」
「三好筑前守を見よ、親を殺されその仇に仕える事で力を付けた。どれだけ屈辱であったか。だがその屈辱に耐えたから今が有る」
兄が我らを見た。
「残念だが公方様にはそれが無い。耐えるという事、時期を待つという事が出来ぬ。自分の想いだけで動く、周囲を見る事が出来ぬのじゃ。側近達も公方様を甘やかすだけじゃ。これではの……」
兄が力無く首を横に振った。遣る瀬無さが兄から伝わってくる。足利将軍家への想いは有るが公方様の器量に不満が有るのだろう。
「御隠居様。この分では六角、畠山が公方様の呼びかけに答える事は有りますまい。公方様の朽木での滞在ですが予想よりも長くなりましょう」
五郎衛門の言葉に兄が息を吐いた。
「そうじゃの。当初は一、二年と思ったが三年、四年、もっと長くなるかもしれぬの」
今度は皆が息を吐いた。朽木は八千石、その朽木で公方様を四年以上匿うとは……。
「幸い倉には銭が満ちております。そちらの面では問題は有りませぬ。それに六角、畠山も兵は出しますまいが援助は惜しみますまい。しかし……」
新次郎が口籠った。
「分かっておる。公方様には耐えてもらわなければならん。良い機会よ、耐えるという事を学んでいただこう。それがあのお方のためになる。幕臣達にもな」
天文二十二年(1553年) 十月上旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 飛鳥井竹若丸
朽木から文と小さな袋が届いた。先ずは文だ。伯父、養母の視線を感じたが無視して文を読む。さっきまで俺の元服の事で盛り上がっていたのにな。文を読み出したら途端に口を噤んだ。ふむ、義藤は相変わらずか。越後の長尾を動かして六角、畠山、朝倉を動かそうとしているようだが何処からも良い返事は来ないらしい。思い通りにならない事に周りの幕臣達に不満をぶちまけているようだ。
六角、畠山からは例の解任の件で報せは無いらしい。なるほど、三好筑前守は平島公方家から将軍を迎える事を諦めたという事だな。ならば敢えて報せるには及ばないというわけだ。六角も畠山も厳しいわ、義藤と情報の共有をしようとしない。不必要に情報を与えないというのだからな。根本的な部分で義藤に不信感が有るのだろう。三好が知れば大笑いだろうな。六角、畠山が義藤のために積極的に動く事は無い。
待てよ、……まさかな。俺は三好筑前守が故意に情報を流したと思っているんだが筑前守の狙いはこっちか? 六角、畠山の反応だけじゃなく義藤との親疎を計った? その場合は俺、朽木、義藤の親疎も計ったという事になるぞ。そして義藤の周辺には三好のために動く人間が居る事になる。まさかな、そんな事が有るのか……。
「竹若丸」
養母が呼んでいるのに気付いた。顔を上げて養母を見ると不安そうな表情をしていた。養母だけじゃない、伯父も不安そうに俺を見ている。
「何でしょう?」
「いえ、表情が厳しいのでどうしたのかと。何度も呼んだのですよ」
「申し訳ありませぬ。少し考え事をしておりました。もう少しお待ちください」
にっこり笑って文に視線を落とした。
考えろ、考えるんだ。有り得るか? 馬鹿! 死にたくなければ最悪を想定しろ!
三好筑前守は俺を認めた。となればだ、俺の動向に関心を持つのは当然の事だ。俺と何処が繋がっているか? 俺が誰のために動くかだ。朽木とは繋がっているのは分かっている。問題はその先だ。義藤と繋がっているのかを確認したとしてもおかしくは無い。俺が義藤のために動くのか……。いや待て、今は宮中に居るのだ。義藤のために宮中で動くかを探ったというのも有るだろう。拙いな、朽木は口止めしたがこっちは無警戒だった。
危険だ。体中に蜘蛛の糸を絡められたような気がする。払っても纏わりついて離れない。腹の中が冷たく感じる。三好筑前守を甘く見たか! そのツケがこの恐怖か! 三好一族は何度も叩き潰されて這い上がった一族なのだという事をもっと重視すべきだった。二人を見た、不安そうな表情をしている。
「伯父上、養母上、先日の弾正殿の件、どなたかにお話になられましたか?」
二人が顔を見合わせた。
「父上には話した」
伯父は答えたが養母は戸惑っている。
「養母上、大事な事です。お答えください。親王様に話されましたか?」
「……ええ、勿論事が事です、内密にとお願いして有ります」
「それは麿も同様だ。安心して良い」
安心? 人間の口くらい信用出来ない物は無いぞ。……拙いな、親王から帝に伝わった可能性も有る。やはり危険だな。
「今直ぐ改めて口止めしてください。危険です」
二人が顔を見合わせた。納得していない。
「三好は敢えて松永弾正を使ってこちらに情報を漏らしたのかもしれませぬ。漏らした情報が何処に流れるか、誰に伝わるかを確認している虞があります」
二人の顔色が変わった。養母が“まさか”と言った。伯父が“まさか”と言った。
「六角も畠山も解任の事を公方様に伝えておりませぬ。朽木の祖父も伝えなかった。もしこの状況で解任の件が公方様に伝わればここから漏れたという事になる。つまりその者は親足利という事です。その者を、流れを断てば公方様を孤立させる事が出来ます。或いは生かしておいて利用する事も出来る。どちらにせよ危険です」
二人が物も言わずに立ち上がった。足早に部屋を出て行った。
間に合うか? 間に合わなければ三好はこのルートは危険だと見るだろう。帝、公方に繋がっているのだからな。繋がるだけなら良いが俺が二人を動かすと判断すれば……、三好孫四郎が俺の処断を筑前守に訴えるだろう。筑前守も危険だと見る筈だ。
最悪の場合は殺される前に出家だな。そっちで逃げるしかない。難しいかな? ならば思い切って三好家で仕えるか……。先行きは暗いな。掌にびっしょりと汗をかいていた。震えている。左の手首を右手で押さえた。押さえても震えが止まらない、汗も止まらない。
「クククククク」
気が付けば笑っていた。
「やってくれるじゃないか、三好筑前守長慶。そうだよなあ、戦国なんだ。味方面して近付く奴なんて幾らでも居る。松永が俺に好意的だというのを利用したか。気に入ったよ、そうじゃなくちゃ人を陥れるなんて出来ないよな。騙す奴が悪いんじゃない、騙される奴が悪いんだ。そして甘い奴は死ぬ。あんたの親父のようにな」
今なら何の躊躇いも無くあんたを殺せるだろう。笑いながら殺せるかもしれない。そう思ったら手の震えが止まった。どうやら俺は三好筑前守長慶を殺したいらしい。嫌いじゃないんだがな、それでも殺したい。人間なんて変な生き物だ。
「クククククク、可笑しいよな、本当に可笑しい。分かっていた事だがまだまだ甘かったって事だな。あんたを甘いなんて笑う資格は俺には無いって事か。教えてくれて有難うよ。漸く戦国時代に生きているって実感が湧いたわ」
馬鹿な話だ。命を奪われるかもしれないのにやたらと可笑しかった。殺されるかもしれないと恐怖して生きているという実感が湧いた。三好筑前守長慶を殺したいと願うのも生きたいと思うからだろう。
気を取り直して朽木から届いた袋を開けた。中には二十本の歯ブラシが入っていた。ようやく出来上がったか。しかしなあ、素直に喜べんわ。三好筑前守の狙いは公方の孤立、無害化だ。そのために公方の目と耳を確認し潰せるものは潰そうというのだろう。そして潰せぬものは利用する。多分偽情報を流して公方を攪乱させるのだろうな。いや公方とは限らんな、朝廷、公家だ。ここを切り抜ければ朽木との連絡の遣り取りも注意しなければならん。
天文二十二年(1553年) 十月中旬 山城国葛野・愛宕郡 四条通り 三好邸 三好長慶
「では公方様は何も御存じないのでございますか?」
「この文にはそう書いてあるな、大叔父上」
朽木から齎された文を見ながら答えると大叔父の三好孫四郎と松永弾正が顔を見合わせた。
「六角、畠山だけでは無く朽木も伝えぬとは……。腑に落ちませぬ。竹若丸殿から朽木民部少輔殿に伝わらなかったという事でしょうか?」
弾正の言葉に大叔父が“フン”と鼻を鳴らした。
「竹若丸が口止めしたか、民部少輔が伝えなかったか、そのどちらかであろう」
大叔父がまた“フン”と鼻を鳴らした。おそらくは大叔父の言う通りであろう。止められたか、それとも自分で止めたか。その辺りは分からぬが朽木民部少輔にとっては公方よりも竹若丸の方が大事だという事なのだ。
公方は失敗したな、朽木家の跡継ぎは竹若丸にすべきであった。そうであれば民部少輔は足利のために忠義を尽くしたであろうに……。あの小僧が此方に有る限り朽木は積極的に動くまい。
「飛鳥井も動かなかったようでございます」
「民部少輔が伝えぬのだ。飛鳥井も伝えまい。目々典侍も飛鳥井左衛門督も口が固い様だ」
一貫している。となると止めたのは竹若丸なのであろう。あの小僧、やはり手強い。こちらに付け入る隙を見せぬ。上手く利用出来るかと思ったが甘かった様だな。或いは小細工をすると儂を笑っているかもしれぬ。
「大叔父上、見ての通りだ。竹若丸が公方様に与する事は無い。安心して良い」
大叔父が不満そうな表情を見せたが口を開く事は無かった。やれやれよ、この分ではまた殺せと騒ぐだろうな。三好に仕えぬという事で一抹の不安は有ったが竹若丸が公方に与する事は無い。あれは足利の天下に不満を持っているのだ。まあ油断は出来ぬが。
「近衛様も動きませぬ。次は如何なさいます」
弾正の問いに“そうだな”と答えた。右大臣近衛晴嗣、公方の従兄弟だが解任の件を九条を使って教えたが公方には流さなかった。朽木には父親の太閤近衛稙家が居るにも拘らずだ。どうやら親子で役割を別けているらしい。公家も中々強かよ。
公方が動く事は無い。六角、畠山も動かぬ。京で蠢く者も居ない。となれば……、大叔父、弾正が此方を見ていた。
「丹波に兵を出そう」
二人が頷いた。丹波は摂津と共に細川京兆家が代々守護を務めた。その所為で晴元に与する者が多い。山城、摂津を安定させるためには丹波を押さえなくてはならぬ。
丹波を押さえれば晴元の力は一気に衰退する。そして山城、摂津が安定すれば誰もが三好の力を認めるというもの。公方が朽木で逼塞している間に晴元の足元を弱め三好の足元を固めねばならん。
 




