皇子誕生
永禄四年(1561年) 七月下旬 山城国葛野郡 桔梗屋 黒野影久
「麿が京に留まれば麿の命を奪おうとする者が必ず現れよう。二条、万里小路、幕府。自らの手を汚そうとはするまい。多分、京に入った武家を頼む筈だ」
「六角にございますか?」
頭中将様が゛そうなるだろうな、源太郎゛と言って頷いた。
「畠山は京に入るよりも摂津に後退した三好を追う筈だ」
「では甲賀者が?」
俺が問うと頭中将様が小首を傾げて゛どうでおじゃろうな゛と言った。
「六角は摂津に踏み込んで戦いたいと思う筈。畠山もそれを望もう。となれば京での面倒は避けたかろう。無視するかもしれぬ。加担するにしても出来る事なら無関係を装いたい筈だ。浪人者を使うのではおじゃらぬかな。京を占領すれば六角が優位と見て浪人者が集まると思うのだが……」
なるほどと思った。浪人者か。あぶれ者が裕福な頭中将様を襲った事にするというのは有りそうな事よ。その事を言うと皆が頷いた。
「浪人者を使ってあぶれ者を装うなら襲ってくる者達は上を見ても百には届きますまい。それ以上では不審を抱かれます」
「しかし葉月様。その半分でもこちらよりはずっと多うござる。決して楽に追い払えるとは思えませぬ」
源太郎の心配は尤もだ。思いのほかに苦戦するかもしれぬ。しかし余り人を入れては甲賀も訝しむ筈だ。その事を言うと葉月、源太郎が顔を顰めた。
「堀川主膳に頼もう」
頭中将様の言葉に皆が顔を見合わせた。
「京を放棄しても京に味方は欲しい筈だ。隠れ家もな。主膳に京を放棄する場合には十名程麿の邸に人を入れて欲しいと頼もうと思っている」
゛なんと゛と葉月が声を出した。
「重蔵、甲賀者に桔梗の一党と主膳の配下の見極めが付くかな?」
葉月、源太郎と顔を見合わせた。
「なかなか難しいかと」
俺が答えると葉月が゛クスッ゛と笑った。俺も笑う。源太郎、頭中将様も笑った。突拍子も無い案だ。堀川主膳も笑うだろうな。
「ならば六角のために浪人者を集めましょう。持て余すほどに集めれば必ず使う筈です」 笑いながら葉月が言った。
「問題は一度の失敗で諦めなかった場合です。こちらが思いのほかに手強いとなれば次は甲賀者が来ましょう」
源太郎の言葉に葉月が笑うのを止めた。俺が゛如何なさいます゛と問うと頭中将様が一つ息を吐いた。
「ならず者が麿の邸ばかり襲うのは妙だとは思わぬか?」
「……」
葉月、源太郎と顔を見合わせた。
「阿呆共がやるというならこちらもやるまでよ。麿の邸に甲賀者が押し寄せる前に二条の邸を焼き討ちする」
「お命は?」
俺が問うと頭中将様が軽く笑った。
「殺すな。捕らえて麿の邸に連れて参れ。二条様も邸が無くては不自由でおじゃろう。再建されるまでは麿の邸で過ごして頂く。精々もてなして差し上げよう」
葉月が゛ほほほほほほほ゛と笑い声を上げた。
「二条様も喜びましょう。飛鳥井家は裕福ですから」
源太郎、俺も笑った。殺すよりも生かして使うか。二条を押さえれば関白殿下の追い落としも頓挫する。幕臣達、万里小路も怯むだろう。上手い手を考えるものよ。
「信濃で上杉、武田が争うのが八月から十月頃になる。兵糧の問題も有る。決着は十月までにはつく筈だ。上杉が勝てれば良いが勝てねば関東制覇は失敗という事になり幕臣達は近衛への遠慮をかなぐり捨てるだろう。二条、万里小路が動き出すのはその後、三好が敗れた時だな。特に養母上が男皇子を産めば必ず動く。新たに増やす者達は九月頃までに目立たぬように入れて欲しい」
皆が頷いた。上杉と武田の戦は激しいものになるだろう。だが武田を撃ち破り二度と関東制覇の邪魔が出来ない程の勝利を上杉が得られるとは思えない。そして万里小路にとって目々典侍様が男皇子を産む事は脅威以外の何物でも無い。
「三好が何時敗れるかだが敗れれば一気に動きが加速するだろう。弾正には公方の身柄を押さえろと助言した。しかし何所まで幕臣達の動きを抑えられるか……」
頭中将様の表情が暗い。頭中将様は単なる負けでは無く三好は大敗すると見ているのだと思った。実際現状では大きな動きは見えない。これから暑くなる。それを避けるとすれば動きが出るのは秋以降という事になる。その時期に三好が大敗すると見るのは少しもおかしくは無い。
「養母上の出産は八月の上旬になるだろう。早ければあと十日ほどで産まれる。となれば宮中にお戻り頂くのは百日祝いの後、如何見ても十一月の半ば過ぎになる。ぎりぎり間に合うかどうかでおじゃろうな」
また皆が頷いた。
「葉月、運上の方はどうか?」
「直に収穫にございます。出来は悪く有りませぬ。問題は戦が続けば買い控えが増えるのではないかと。それだけが心配でございます」
頭中将様が顔を顰めた。
「まあ良い。運上で多少は公家達を抑える事が出来よう。主膳には此処での事を全て話す」
「修理大夫の病の事もでございますか?」
問い掛けると頭中将様が頷いた。
「もはや腹の探り合いをしているような余裕は無い。それは麿だけではおじゃらぬ、主膳もだ。実際修理大夫がこのまま前線に出なければ修理大夫は病だと皆が気付くだろう。此処で隠す事に意味は無い。主膳にもその認識をして貰わなければこの難所は乗り切れぬ」
葉月、源太郎に視線を向けた。二人とも首を横に振らない。俺が頷くと二人も頷いた。
「分かりました。我らも腹を据えてかかりましょう。必ずこの難所を頭中将様と共に乗り越えて見せまする」
頭中将様が゛頼む゛と言って頷いた。
永禄四年(1561年) 八月上旬 山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 飛鳥井基綱
「夜とはいえ暑うございます」
ポツンと言ってから春日局が麦湯を一口飲んだ。はてね、憂鬱そうにしてはいるが暑そうには見えないんだが……。
「暑うおじゃりますな」
一応同意したら春日局がクスッと笑った。
「頭中将様は嘘が下手でございますね。少しも暑そうには見えませぬ」
「春日局殿も暑そうには見えませぬ」
春日局が困ったような表情を見せた。さっきから妙だ。夜中に訪ねてきた事は構わないんだが話すのを躊躇っているような気配が有る。此処に来たのを後悔しているのかもしれない。こういう場合は急かしてはいけないと思うんだが……。春日局が一つ息を吐いた。
「迷っているなら戻られては如何でおじゃりますかな?」
「……」
「麿は少しもかまいませぬぞ」
春日局が困ったように笑った。そのうち泣き出すんじゃないか、そんな笑い顔だ。
「貴方様には敵いませぬな。でも、御陰で私も覚悟が付きました」
「……」
覚悟か。物騒な事を言う。女が使うには似つかわしくない言葉だ。それだけに嫌な予感がした。
「小侍従様、御懐妊にございます」
「!」
思わず息を飲んだ。小侍従が懐妊……。静かに息を吐いた。
「それは目出度い事でおじゃりますな。公方も喜んでおられましょう」
「真に目出度いと思われますか?」
春日局が俺をジッと見ている。溜息が出た。全然目出度くない。主膳との話し合いは上手く行った。主膳は俺が修理大夫の病気を知っている事を日向守には伏せると言ってくれた。主膳も相当に戦況を危惧している。ここで俺と手を結べるのは願ったり叶ったりなのだ。ようやく光明が見えてきたと思ったのに……。一難去ってまた一難だな。
「……新たな命が産まれるのです。喜んで上げなければ……」
今度は春日局が溜息を吐いた。
「左様でございますね。産まれてくる子には罪は有りませぬ。喜ぶべきなのだと思います。ですが私は素直に喜べませぬ」
春日局が俺を見て゛お分かりでしょう゛と言った。十分に分かる。俺が思うに小侍従は最悪のタイミングで妊娠した。
「産まれるのは?」
「はっきりとは……、年が明けて三月から四月ではないかと思います」
春日局は困惑している。ふむ、未だ公になっていないらしいな。
「公表するのは何時頃になりましょう」
春日局が首を横に振った。
「それも分かりませぬ。この事を知るのは進士一族の他は公方様のみの筈。私は特別に公方様から教えて頂きましたが……。暫くは伏せるのではないかと」
「左様でおじゃりましょうな。……では慶寿院様もご存じない?」
「はい」
思わず息を吐いた。近衛は敵か……。
小侍従の父、進士美作守は男子が産まれる事を望むだろうな。義輝には後継ぎとなる男子が居ない。男子が産まれれば第十四代将軍になる可能性は高いのだ。となればだ、益々毬は邪魔な存在になる。毬に男子が産まれれば正室が産んだ嫡男として第十四代将軍になるのだから。
「進士美作守殿は関東制覇が成らぬ事を望んでおじゃりましょうな」
春日局の顔が歪んだ。春日局も同じ思いなのだろう。あるいはそれらしい素振りを美作守が見せたのかもしれない。本来なら産まれてきた男子は毬の養子にするべきなのだ。だがこれまで散々反近衛の動きをしてきたのだ。今更掌を返すような真似は出来ない。関東制覇が失敗すれば関白殿下に責任有りと声高に騒ぐだろう。近衛を排斥するために。
「情けのうございます」
「……」
「本来なら関東制覇の成功を望むべきなのに……。己が権勢のために関東制覇の失敗を願うなど……」
春日局が項垂れている。憐れだと思った。進士美作守は関東制覇がなると言って推進した一人なのだ。情けないという気持ちは分かる。だが俺が思うに進士美作守にとって大事なのは一族の繁栄なのだろう。義輝はそのための道具だ。だから打倒三好を叫ぶのだ。内心では義輝など征夷大将軍で無ければ何の利用価値も無いと思っているのかも知れない。
「それで、麿に何を?」
春日局が俺を見た。
「此度の戦、どちらが勝ちましょう?」
縋るような視線だ。彼女が何故それを問うのかが分かる。また憐れだと思った。
「多少の紆余曲折はおじゃりましょうが三好が勝ちましょう」
「圧倒的に?」
「いや、相当に苦戦するのではないかと」
春日局の顔が歪んだ。そして゛左様でございますか゛と呟くように言った。
「憐れでございますね」
「真に」
俺が頷くと春日局も悲しそうな表情で息を吐いた。
「懐妊の件、太閤殿下には御内聞に願います」
「そのように致しましょう」
会話が重い。そう思っているのは俺だけじゃ無いだろうな。
「では私はこれで」
「お見送りは致しませぬ」
春日局がクスッと笑った。何時もの挨拶だがおかしく思ったのかも知れない。
「ここへ来て良かったと思います。貴方様に話して私も覚悟が出来ました」
「……」
春日局が立ち上がり軽く一礼して部屋を出て行く。少しの間、待った。
「誰かある」
声を上げると゛お呼びでしょうか゛と言って玉が姿を見せた。大きな目が俺をジッと見ている。そんなに見るなよ、勘違いしそうじゃないか。
「春齢と九兵衛を此処へ」
「はい」
玉が音もさせずに去った。少ししてパタパタと足音が聞こえてきた。春齢だな。この邸でそんな音を立てる者は他に居ない。七恵だって音を殺す。
「兄様?」
春齢が廊下から声を掛けてきた。その後ろには九兵衛が居る。
「入れ、話す事が有る」
二人が座った。
「小侍従が懐妊したそうだ」
九兵衛が息を飲んだ。春齢は曖昧な表情をしている。それが何を意味するのか分からないらしい。
「男児ならば間違いなく殺される。女児でも相当に危ういだろう」
「そんな」
春齢が声を上げた。猛烈に腹が立った。
「三好は讃岐守が殺されたのだぞ! そして相当に苦戦する筈だ。子が産まれて喜ぶ公方、幕臣達の姿を黙って見ていられると思うか? 小侍従の父親は反三好の進士美作守なのだぞ!」
春齢が真っ青になって首を横に振った。漸く分かったらしい。春日局は分かっていた。この時期に小侍従に子が産まれる事は近衛との関係を悪化させ三好を刺激するだけだと。そして産まれても殺されるだろうと。美作守は讃岐守が毒殺された事を三好は知らないと思っている。だから喜んでいられるのだ。そうでなければ美作守も真っ青になっただろう。
「殺すという事は殺されても文句は言えぬという事だ。そして終わった後は憎悪だけが残る。以前から言っているが三好と足利の関係はより対立が強まるだろう」
「……」
「この事は麿から帝にお伝えする。養母上には何も言ってはならぬ。もうじき子が産まれるのだからな。聞かせて良い話ではおじゃらぬ。良いな」
二人が頷いた。全く、面倒な事ばかり起きるわ。
永禄四年(1561年) 八月上旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 飛鳥井基綱
「そうか! 和子が産まれたか!」
「はい、元気な和子におじゃります」
「目々は?」
「お産は軽かったようで養母も無事におじゃります」
俺が報告すると帝が゛うむ゛、゛うむ゛と頷いた。頬が緩みっぱなしだ。男子誕生が余程に嬉しいらしい。まあ、そうだよな。これで男子が二人だ。控えが居るという事は心強いさ。
「お目出度うございまする。真に目出度い事でおじゃります」
「目々典侍殿、お手柄でおじゃりますな」
「いやいや、大手柄でおじゃります。真に目出度い」
公家達が頻りに目出度いと言っている。本心から言っている人間がどれだけ居るかな? そう考えると少しも嬉しくない。笑顔、笑顔。一緒に喜んでいる振りをするんだ。
「真、目出度いの」
太閤殿下が祝ってくれた。これは信じられるな。素直に゛有り難うおじゃりまする゛と礼を言った。
「これで誠仁も心強かろう。これまでずっと一人だったから気に掛けていたのだ」
しみじみとした口調だった。周囲の公家達も頷いている。帝が゛頭中将゛と俺を呼んだ。「そなたは和子の義兄であり従兄でも有る。和子を支えてやってくれ。頼むぞ」
「はっ、ご期待に添うよう努めまする」
帝が満足そうに頷いた。
まあ和子誕生を面白くなく思っている奴が居るからな。万里小路は勿論だが他にも飛鳥井が急速に勢力を伸ばしてきたと不愉快に思う奴が居る。幕府にも不愉快に思う奴は居る。そういう連中にとっては和子は目障りな存在なのだ。特にこれから畿内は混乱する。なんとしても守らなければならん。




