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無力




永禄四年(1561年) 七月中旬            山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 飛鳥井春齢




 兄様、溜息を吐いてる。母様も気付いた。

「如何したのです。溜息など吐いて」

「……いえ、関白殿下もお気の毒だと思ったのです。折角関東に下向したのに……」

 嘘だわ。兄様は関白に早く戻って欲しいと思っているんだから。でも言えない。多分兄様が嘘を吐いたのは母様を心配させたくないと思ったからだもの。


「兄様、兄様も疲れたでしょう。休んだ方が良いわ」

 兄様が゛ああ、そうだな゛と頷いた。

「養母上、申し訳ありませんが麿はこれで休ませて頂きます。養母上もお休み下さい」

「ええ、十分に休むのですよ」

「有り難うございます」

 兄様と一緒に母様の前から下がった。母様、兄様が嘘を吐いた事に気付いてたな。心配そうだった。


「済まぬな、気を遣わせた」

 廊下を歩きながら兄様が言った。

「……母様、多分気付いてる」

「そうだな、麿は嘘が上手くない。皆に気を遣わせてしまった」

 兄様の声が沈んでいる。落ち込んでいるんだと思った。支えたいと思うけど……。私、無力だな。何の役にも立っていない。


「直ぐ休む?」

「いや、九兵衛に話す事が有る」

 そう言うと兄様が゛九兵衛!゛と声を上げた。直ぐに九兵衛が姿を現した。

「御用でございますか?」

「参れ」

 兄様が部屋に向かう。その後ろを私、九兵衛が続いた。


「この邸は甲賀者に見張られているか?」

 部屋に入ると直ぐに兄様が訊ねた。九兵衛が゛はい゛と答える。兄様が貌を顰めた。

「出来るだけ早く重蔵、葉月に会いたい。此処に来るのが難しいのなら麿の方から出向く。場所を指定して欲しい。桔梗屋でも良いぞ」

「直ぐに繋ぎを取りまする」

「それと主膳とも会いたい。長助に頼んでくれ。こちらも同様だ。此処に来るのが難しいなら麿の方から出向くと伝えてくれ」

「承知致しました。どちらを先に?」

「重蔵、葉月だ」

 九兵衛が゛はっ゛と畏まった。満足そう。先に会うのが嬉しいみたい。


「他にはございますか?」

「二条様が万里小路権大納言、新大典侍と会った。勾当内侍が教えてくれた。梅もそれを確認している」

 九兵衛が゛なんと゛と呻いた。

「関白殿下の追い落としですな」

「多分、そうでおじゃろうな。梅からは他にも報せが有った。昨夜の事でおじゃるが養母上の部屋に何者かが忍び込もうとしたようだ。梅が誰何すると慌てて去ったらしい」

 怖いと思った。一体誰? 二条? 万里小路? 何が目的? その事を言うと兄様が首を横に振った。


「分からぬ。万里小路の可能性が高いとは思うが他の者という線も否定出来ぬ。分かっているのはこちらに好意的な者ではないという事だ。念のために梅と松を養母上の部屋に残したが……」

「……」

「そして飛鳥井は妬まれている。特に麿はな。……九兵衛、そちらはどうか?」

「特にはございませぬが……」

「?」

 九兵衛が兄様を見た。


「この邸を窺う甲賀者を追い払いたく思いまする。お許しを頂けませぬか?」

「邪魔か」

 兄様の言葉に九兵衛が頷いた。

「頭中将様も見張られております」

 兄様が一つ息を吐いた。


「その件も重蔵と話す」

「……」

「養母上が宮中に戻るまでは無用な騒ぎは起こしたくない。甲賀者がこの邸に踏み込まぬ限り手を出すな。だがこの邸に入ったら遠慮は要らぬ。……殺せ」

「はっ」

 兄様の声も低かったけど九兵衛の声も低い。二人とも本気なのだ、躊躇わずに殺すだろうと思った。


「春齢」

「はい」 

 声が裏返って仕舞ったけど兄様も九兵衛も笑わない。怖い、何で笑わないの。笑ってよ。

「これから先、場合によってはそなたに宮中に戻れと言うかもしれぬ」

「兄様!」

 声を上げると兄様が首を横に振った。


「否は許さぬ。その時は麿がそなたを守れぬ時だ。黙って戻れ」

「そんな……」

 兄様が私から目を逸らした。九兵衛も私を見ない。如何して? 如何して私を見ないの?

「麿一人なら何とか逃げられるだろう。だがそなたを連れて逃げるのは無理だ。そうなれば二人とも死ぬ事になる。それに、そなただけなら命を狙われる可能性は少ない」

「……兄様」

 声が震えた。


「必ず戻る。戻ればまた一緒に暮らせる。だからな……」

「……兄様」

 駄目、目が潤んできた。兄様がぼやける。泣いちゃ駄目。

「無力な麿を許せよ」

「兄様は無力なんかじゃ無い。誰よりも頼り甲斐が有って、誰よりも素敵で、誰よりも裕福で……」

 涙が零れた。




永禄四年(1561年) 七月下旬            山城国葛野郡 桔梗屋 黒野影久




「騒がしくなってきたな」

「はい。御陰で商いがやりにくくて敵いませぬ」

 葉月が顔を顰めた。

「ほう、儲からぬか」

「皆様買い控えておりますな」

 つまり三好があっさり勝つとは見ていないのだと思った。


「戦支度で随分と儲けたと思ったのだが……」

「儲けているのは堺の商人です」

 葉月が面白く無さそうに言った。なるほど。堺の商人達と三好の繋がりは深い。桔梗屋は三好家に食い込めずにいるのだろう。まあ、我らは頭中将様に仕える者。食い込もうと思っても向こうで敬遠するだろうな。


「しかし東海道では儲けていよう。織田、一色、松平、今川、北条……」

 葉月が゛ホホホホホ゛と顔を仰け反らして笑った。胸が揺れる。……わざと見せつけたな。

「堺の商人達にばかり良い思いはさせませぬ」

「なるほど。それで如何なのだ?」

 問い掛けると葉月が表情を改めた。


「今川は危のうございますな」

「三河が混乱している事は知っている」

「三河だけではありませぬ。遠江にも不穏な空気が有ります」

「真か?」

 問い掛けると葉月が頷いた。四月に松平が牛久保城を攻撃した。城は落ちなかったが松平の離反が明らかになった事で三河では今川を離れ松平に付く者が増えつつある。西三河だけではない。東三河にも今川を見限る者が現れたと聞いていたが……。遠江にも影響が出たか。


「桶狭間の前から三河、尾張方面への出兵が続きました。遠江の国人達は疲れています。桶狭間で勝てば違ったのでしょうが……」

「そうだな。だが負けた」

 葉月が゛はい゛と頷いた。

「態勢の立て直しと北条への援軍、そして三河松平への対処か。遠江の国人に無理を強いれば遠江でも今川から離れる者が現れよう」

「そうなりましょう」

 俺が頷くと葉月も頷いた。そうなれば今川は今以上に苦しくなる。三河へ兵を出すどころか遠江を松平から守る戦を強いられる事になるだろう。


「武田も追い込まれたな。今川が頼りにならぬ以上、武田が上杉を信濃で食い止めねばならぬ」

「ぼやいておりましょう。貧乏くじを引かされたと」

 また二人で顔を見合わせて頷いた。トントントントンと足音が聞こえた。軽い。女の足音だ。

「女将さん。お客様がお見えです」

 廊下からの女の声に葉月が笑みを浮かべた。

「分かりました。今行きます」

 葉月が立ち上がって部屋を出た。


 東海道は徐々に頭中将様の予想通りになりつつある。だがその頭中将様が畿内の戦では先を見通せずにいる。地力では三好が上だ。その事は頭中将様も口にしている。しかし……。或いは今宵、見通しを伺えるのかもしれぬ……。またトントントントンと足音がした。カラリと戸が開いて葉月が、その後ろから頭中将様、間宮源太郎が姿を現した。

「お久しゅうございまする」

「うむ、久しいな。今日は無理を強いた。済まぬ」

 席に着くなり頭中将様が頭を下げた。


「どうか、そのような事は」

 恐縮すると頭中将様が首を横に振った。

「この店も甲賀者に見張られていると聞いた」

「いえ、この店でと望んだのは我らにございます。見ての通り、今宵の某は商人姿なれば怪しまれる事はございませぬ。どうかお気になさらずに。それより我らこそ手間取りました。それをお詫びしなければ……」

「その通りにございます。些か遅くなりました」

 俺の言葉に葉月も同調した。頭中将様が困ったような表情を見せた。我らに気を遣わせたと思っているのだろう。


「上手くいかぬな」

「上手くいきませぬ。ですが嘆いていても仕方が有りませぬ。お話を伺いたいと思いまする」

 葉月に視線を向けると゛私も伺いとうございます゛と葉月も言った。

「そうでおじゃるの、話に入ろう。重蔵、邸に鞍馬忍者を入れたい。男を五人、女を三人だ。頼めるか?」

 源太郎が驚いている。どうやら聞いていなかったらしい。

「それは容易い事にございます。ただ、わけをお聞かせ下さいませぬか?」

「甲賀者への対処のためでございましょうか?」

 俺と葉月が問うと頭中将様が゛違う゛と首を横に振った。そして息を一つ吐いた。


「三好は負けるぞ」

 さり気ない口調だったが耳に響いた。

「最終的には勝つと思うが前半は大負けするだろう。そして京を捨てるのではないかと麿は考えている」

「なんと」

 呟くように言ったのは源太郎だった。


「頭中将様が松永弾正様に京を捨てる事を躊躇うなと助言した事は九兵衛より聞いております。それが真になると?」

 問い掛けると頭中将様が頷いた。

「三好の動きがおかしい。どうにも腑に落ちぬ」

「……」

「京は守りにくい場所だ。此処を守るのなら敵を迎え撃つのでは無く積極的に京の外に出て敵を撃破しなければならぬ。六角に対して筑前守と弾正を抑えに置いたのは分かる。主敵は畠山と見定めたという事でおじゃろう。畠山を叩けば六角は退くと三好は見たのだ。麿も畠山を優先的に叩くという考えに賛成だ。河内から摂津を脅かされれば四国との線が脅かされる。三好にとっては許せぬ事だ。だが三好豊前守は積極的に動こうとはせぬ。時が経てば敵に増援が出かねぬ。その懼れが有るのに何故動かぬのか? それに修理大夫……」

 頭中将様が唇を噛み締めた。


「飯盛山城に籠もって前に出ようとせぬ。本当なら此処は修理大夫が自ら前線に出るべきなのだ。讃岐守が死んで三好の兵は一抹の不安を抱えている筈だ。それを払拭するには修理大夫が自ら前線に出るしか無い。豊前守が積極的に動かぬのは修理大夫の出馬を待っているとも考えられる。しかし修理大夫は動かぬ……」

「病でしょうか?」

 問い掛けると頭中将様が大きく息を吐いた。修理大夫が病ではないかと疑って三ヶ月と経っていない。だが疑念が確証に変わりつつある……。


「おそらくな。千句連歌を行った事を考えれば重病ではないのでおじゃろう。だが戦場に出るには不安が有るのだと思う。千句連歌には幾つか狙いが有ったと思うが周囲の目を誤魔化し修理大夫は健在だと思わせる事も狙いの一つだったのかもしれぬ。松永弾正が麿を訪ねたのも今にして思えば修理大夫に不安が有るからだろう」

 頭中将様が沈痛な表情をしている。

「豊前守が積極的に動かぬのも修理大夫の全快を待っているのだとすれば肯けますな」

 葉月の言葉に頭中将様が頷いた。


「この状況下で待つのは下策だ。畠山、六角に先手を取られ続けるという事になる。そしていずれは修理大夫の病に気付く。そうなればかさに掛かって攻めてくるだろう。麿が三好は大敗を喫すると見ているのもそれ故だ」

 なるほどと思った。確かに危うい。大敗を喫する可能性は十分に有る。となると……。

「宮中に動きが出ましょうか?」

 問い掛けると頭中将様が゛出る゛と答えた。シンとした。葉月、源太郎の二人は目を懲らして頭中将様を見ている。


「御大葬、御大典、改元。これらにおいて朝廷が頼ったのは足利ではなく三好でおじゃった。主導したのが麿と関白殿下だ。勿論、帝の御了承を得た上で行われたのだがこの事は朝廷は足利ではなく三好を武家の棟梁と認識していると表明した事になる。幕府内部において麿、近衛に反感を示す者が多いのはそれが理由だ。彼らは麿が足利を否定していると見ているのだと思う」

 間違ってはいない。実際このお方は足利を否定している。御大葬、御大典、改元だけの問題ではないのだ。幕府内部においてこのお方を危険視する者が多いのはそれを察しているからだろう。


「今三好が敗れるという事は足利の勢いが強くなるという事だ。そして三好が京を捨てる程の大敗を喫すれば三好を頼ったのは間違いであり足利を頼むべきだという意見が必ず出る。それを大義名分として関白殿下と麿を失脚させようとする動きがな」

「二条様、万里小路様ですね。頭中将様が万一の場合は春齢様を宮中へ戻すお覚悟をされたと聞いております」

 葉月の言葉に頭中将様が頷いた。

「同調する者はあっという間に増えるだろう。麿は妬まれているからな。その勢力が強くなれば帝も無視は出来なくなる。関白殿下は解任、麿は……、蟄居あたりでおじゃろうな」

 失脚か……。それを避けるには……。


「三好と共に京を捨てまするか?」

 源太郎が頭中将様に問い掛けた。そうだな、そうなる。このお方が三好の側に付けばあっという間に畠山、六角を蹴散らすだろう。今度は二条、万里小路が京を逃げ出す事になる。その事を言うと゛ふふふふ゛と笑い声が聞こえた。頭中将様が笑っている。

「それはせぬ。それをするなら邸に人を増やすとは言わぬ」

 源太郎、葉月と顔を見合わせた。また頭中将様が゛ふふふふ゛と笑い声を上げた。


「三好のために戦うつもりはおじゃらぬ。あそこには麿を危険視する者が少なからず居る。今は修理大夫がそれを抑えているが修理大夫の力が弱まれば危険だ。修理大夫が病だという事を忘れてはならぬ」

「では人を増やすのは……」

 問い掛けると頭中将様が頷いた。

「京に留まるためだ」






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― 新着の感想 ―
[気になる点] ……これは春齡の為に京に残るのかな?
[一言] 義興が残るか義継が継ぐにせよ史実と違って足利ではなく近衛か織田と縁組すれば残りそうです。
[一言]  このタイミングで病で動けないって、史実と違いすぎる。こっちも甲賀者の毒か?  病で動けない、京を捨てる算段というところまで読めてるのに、人員増やしてまで京に残るのか。残って生き残れる算段で…
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