表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
75/100

尾行




永禄四年(1561年) 六月中旬      山城国葛野郡    近衛前嗣邸  飛鳥井基綱




「北条が、今川と、松平の仲裁に、動いたと聞いた」

「はい。関白殿下からそのような文を麿も頂きました」

「如何思うか?」

「無駄でおじゃりましょう」

 松平が今川から離反すれば今川も関東にばかり関わってはいられなくなる。北条にとって今川の援軍が無いのは痛い。それで仲裁に入ったのだろうが松平にとっては何の意味も無い。


 北条は上杉に奪われた領地の奪回で手一杯。武田も上杉との決戦を前にして今川を顧みる余裕は無い。仲裁を蹴っても北条も武田も何も出来ない。今川に援軍を出す事は出来ないと見られるのがオチだ。軍事力の裏付けのない仲裁が如何に無力かは現代の世界情勢を見れば良く分かる。おまけに織田は美濃で優位に戦を進めた。これでは松平が今川に戻る事は無い。むしろ元康は北条の仲裁を俺を馬鹿にするのかと不愉快だっただろう。その事を言うと皆が頷いた。  


「関東、甲信越の混乱はこれからでおじゃりましょう」

 太閤殿下、寿、毬が頷いた。

「出来る事なら関白殿下には今直ぐにでも京にお戻り頂いた方がよろしいかと思いまする」

「兄上が危険ですか?」

 寿が縋るような視線で俺を見た。あのね、そんな目で俺を見ちゃ駄目だって。危ないだろう。俺がその気になったらどうするんだよ。


「関東よりも京の方が危険でおじゃりましょう。これから京は混乱すると思います。その混乱に乗じて殿下の追い落としを謀る者が現れるやもしれませぬ」

 太閤殿下が頷き寿、毬が顔を強張らせた。関東制覇は一時中断だ。信濃での上杉、武田の決戦次第で成否が決まる状況にある。史実通り、引き分けに終わるのなら上杉による関東制覇は失敗という事が誰の目にも明らかになる。となればだ、当然だが殿下を軽んずる者も出るだろう。幕府の近衛軽視も今以上に酷くなる。そうなれば宮中で反近衛の空気が強まりかねない。そして反近衛は反飛鳥井でもあるのだ。


 史実では近衛前久は第四次川中島の決戦後、京に戻っている。通説では関東制覇が失敗に終わった事で失望して京に戻ったと言われているが京の状況が不安定だった事も要因として有るんじゃないかと思う。畿内では三好対畠山・六角連合の戦が起きた。そして三好と足利の対立はより先鋭化した。畿内の情勢は前久が関東に下向する前よりも不安定になったのだ。この状況では京に戻らざるを得ない。前久がそう思ったとしてもおかしくは無い。


「戦が始まるせいですね」

「はい」

「どちらが勝つの」

「地力では三好が上でおじゃりましょう。しかし三好は二方面で戦わなければなりませぬ。必ずしも有利とは言えませぬ」

 寿と毬が不安そうな表情をしている。讃岐守毒殺の事は言えないよな。殿下は渋い表情をしている。


「それにどちらが勝っても碌な事にはなりますまい」

 寿と毬が゛まあ゛、゛何故゛と声を上げた。

「三好と足利の対立はより先鋭化しましょう。それに三好を四国に追い落としても畠山や六角に畿内を安定させるだけの力量が有るのかは不明でおじゃります。むしろ畿内は混乱しましょうな」

 義輝は三好を追い落とせれば大喜びかもしれない。だが義輝に畿内を纏めるだけの力があるとは思えない。混乱すれば義輝の権威、幕府の権威はより低下するだろう。畿内の混乱はより酷くなる。皆が三好の復帰を望む筈だ。そうなれば義輝の権威、幕府の権威はガタ落ちだろう。永禄の変が前倒しで起きる可能性もある。碌な事には成らない。となればだ、やはりここは三好に勝って貰わなければならん。それが一番混乱が少ない筈だ……。


 弾正には若狭の切り捨てと一色、浅井を利用して六角を抑える方法を教えた。あれが上手くいけば三好は兵力が増え六角は腰が引ける筈だ。そして三好筑前守の勢威が上昇するだろう。そうなれば修理大夫が死んでも筑前守が日向守を抑えてくれる筈だ。あとは筑前守の寿命だがこればかりは分からないからな。出来る事はやっておこう。




永禄四年(1561年) 六月中旬      山城国葛野郡    近衛前嗣邸  近衛稙家




 頭中将が沈痛な表情で座っている。相当に前途を悲観しているのが分かった。だがそれも仕方が無い事だ。儂にも先行きが明るいとは思えぬ。京も関東もまるで先が読めぬわ。娘達を見た。心細そうにしている。胸が痛んだ。

「関東、の目途が立たねば、あれは戻るまい」

 儂の言葉に頭中将が頷いた。言葉は無い。已むを得ない、そう思っているのだろう。だが頭中将の懸念は尤もだ。無視は出来ない。儂の身体が万全なら……。


「若狭の事、聞いたかな?」

「はい。逸見と武田が戦になったと」

 若狭は紛争が絶えぬ。守護の武田氏に代々御家騒動が続いている。その所為で武田の力は驚くほど脆弱になってしまった。そんな武田に愛想を尽かしたのだろう。逸見は武田の家臣だったが自立しようとして三好に近付いた。いや、公方の義兄弟である武田の力を弱めるために三好から近付いたのかもしれぬ。


「朝倉が公方、に付いたと思う、かな?」

 問い掛けると頭中将が首を横に振った。そしてチラッと寿に視線を向けた。

「若狭を朝倉の勢力下に置きたいと思ってはおじゃりましょう。しかし三好と決戦する程に腹を括れるとは……」

 最後は苦笑になった。寿も゛そうですね゛と言って苦笑している。ふむ、朝倉の事は吹っ切れたらしい。


「夜も更けました。そろそろ戻りまする」

「うむ、何時も済まぬの。疲れて、おじゃろうに」

 儂の労いに頭中将が首を横に振った。娘達が詰まらなさそうにしている。しかし頭中将を止める事はしなかった。

「此処でしか話せぬ事もおじゃります。お気になされますな」

「……」

 気遣いをすると思ったが案外本心かもしれぬとも思った。目々典侍は身重だ。余り心配を掛けたくはあるまい。若いのに苦労をしていると思った。


 頭中将が立ち上がった。

「寿殿、御台所、見送りは御無用に願いまする」

 一礼して部屋を出る。儂への気遣いだ。見送り出来ぬ事が一番寂しいと気付いているらしい。娘達が儂を見た。思わず苦笑いが出た。何時もの事だ、仕方の無い事よ。儂が頷くと娘達が立ち上がって頭中将の跡を追った。不思議よの、寂しいのだがおかしみを感じるようになった。


 武田は地力では逸見を抑えられなくなった。朝倉の力を借りて逸見を抑えようとしているようだが三好にとっては予想外の事であろう。これで丹波の内藤備前守は逸見を助けねばならなくなった。動けぬ。戦上手の備前守が居ないのは三好にとっては痛手だ。それに対して紀伊の畠山、南近江の六角、どちらも戦の準備に余念がない。それぞれ二万を超える兵を集めていると聞く。動くのは間近だろう。


 三好側も三好豊前守が一万以上の兵を率いて岸和田城に入った。畠山への抑えだ。そして松永弾正の居城である大和の信貴山城には弾正の他に三好筑前守が入っている。六角への抑えはこの二人が担当するらしい。三好修理大夫は飯盛山城、三好日向守は芥川山城に居る。修理大夫は全体を見つつここぞという所で日向守を動かす事を考えているのかもしれぬ。敵が分散しているだけに対応が難しいのだろう。


 どちらが勝つのか……。地力では三好が上と頭中将は言っている。しかしどちらが勝っても碌な事にならぬとも言っている。……その通りだな。碌な事にはならぬ。だが義輝にはそれが分からぬ。頼りない事だ……。

「父上」

 呼んだのはどちらだろう? 寿と毬が心配そうに儂を見ている。

「如何した?」

 二人が顔を見合わせた。


「頭中将殿がお帰りになる時にいずれ父上の力を借りなければならない時が来るかもしれないって」

「……そう、言ったか」

 二人が頷いた。自分一人の手には負えない事態が来るか……。已むを得ぬの。関白が居ない以上、儂が後ろ盾に成らざるを得ぬ。頭中将には借りも有る。借りたものは返さねばの……。




永禄四年(1561年) 六月中旬            山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 飛鳥井春齢




「お帰りなさい。遅かったのね」

 九兵衛と共に玄関まで出迎えると兄様が憂鬱そうな表情で゛うむ゛と頷いた。

「太閤殿下との話が少し長くなった。養母上は?」

「さっきまで起きていたのだけど……」

「お休みになられたか」

 ゛ええ゛と答えると兄様が゛そうか゛と言って頷いた。


「話がある」

 私? それとも九兵衛? まごついていると兄様が゛両方だ゛と言って早足で歩き出した。慌てて兄様の後を追った。兄様、苛立っている? 兄様の部屋に入ると兄様の前に九兵衛と共に座った。九兵衛は最初、遠慮して少し下がろうとしたのだけど兄様が゛ここへ゛と私の横を指し示した。私も゛九兵衛゛と言って促した。恐縮しながら九兵衛が座った。


「何か報せがおじゃったか?」

 兄様が九兵衛に問い掛けた。

「二条様が万里小路権大納言様の邸へ」

「訪ねたか」

「はい、辞去したのは一刻半ほど後の事にございます」

 兄様が唇を噛み締めた。


「動き出したのかもしれぬ」

「動き出したって?」

 問い掛けると兄様が怖い目で私を見た。

「二条様は関白殿下を追い落とすために万里小路と手を組んだのでおじゃろう。いや、正確には万里小路を唆したのだと麿は見る」

「唆した?」

 兄様が頷いた。


「飛鳥井を蹴落とせとな。麿が居なければ関白殿下を追い落とすのは容易いと踏んだのだ。何時かはこういう日が来ると思ったが……」

 兄様が大きく息を吐いた。

「大丈夫なの?」

 問い掛けると兄様がまた大きく息を吐いた。


「今は大丈夫だ。危ないのは三好が劣勢になった時でおじゃろう。そして武田と上杉の決戦で上杉が勝てなかった時だ。この二つが重なれば幕府内部では関東制覇を諦め畠山、六角の力で三好を追い落とそうと考える者が増える筈だ。つまり、関白殿下は不要という事になる。そして幕府内部には進士一族を筆頭に近衛を忌諱する者達が多い。近衛を排斥し御台所を離縁する絶好の機会と判断する筈だ。二条、万里小路、幕府。自然と共闘する事になる。時期的には今年の秋の終わり頃からだと思うが……」

 大変な事になるのだと思った。今は大丈夫と言っているけどその時になったら……。


「そうなったら?」

 もう一度問うと兄様が苦しげな表情をした。

「分からぬ。その場凌ぎ、綱渡りを強いられると思う。一応三好には劣勢になったら公方の身柄を押さえろとは忠告した。決して畠山、六角には渡すなとな。だが麿も京を離れねば命が危うい、そういう状況にまで追い込まれるかもしれぬ。そうなる前に関白殿下にお戻り頂くのが一番良いのだが……」

「難しいの?」

 兄様は答えない。九兵衛を見ると僅かに首を横に振った。兄様が京を離れる。尾張に行くのだと思った。嫌だけど嫌だと言えない。ここまで追い込まれている兄様を見た事なんて無い。本当に危険なのだと理解した。


「九兵衛、三好の動きは?」

「一色の領内で三好の忍びが六角との同盟は役に立たないと噂を流しておりますようで」

 兄様が頷いた。

「効果が出るのはまだ先でおじゃろうな。だが種を蒔かねば芽は出ない。焦らずに待つしかない」

「手伝いまするか?」

 兄様が首を横に振った。


「無用だ。こちらは黙って見ていれば良い」

「はっ」

「それに今動くのは危険だ。後を尾行つけられた」

 尾行られた? なにそれ、誰が……。

「何者で?」

 九兵衛の声が怖い。押し殺したような低い声……。兄様が首を横に振った。


「分からぬ。源太郎は心得が有ると言っていた」

「では忍び……」

「三好なの?」

 問い掛けると兄様が首を横に振った。

「分からぬ。だが危険だ。こちらの手の内を知られるような事はしてはならぬ。葉月、重蔵にも気を付けるように言ってくれ」

 九兵衛が゛はっ゛と畏まった。怖い。一体誰? 公家に出来る事じゃ無いわ。畠山? 六角? 兄様、大丈夫なの?


「春齢、この事は養母上には内緒だ。良いな」

「はい」

「供は如何します」

「今のままで良い。源太郎はこちらを試すような動きは無かったと言っていた。ならば知らぬ振りをした方が危険視されずに済む」

 九兵衛が゛分かりました。念のため、源太郎に確認致しまする゛と言うと兄様が゛うむ゛と頷いた。


「四面楚歌だな。思うように動けぬ」

「兄様」

「宮中でも新大典侍が煩い。母上がこの邸に宿下がりした所為で思うように帝と意思の疎通が出来ぬ。今更だが麿は養母上と一緒にここまできたのだと分かった」

 兄様が大きく息を吐いた。母様が羨ましい。兄様にここまで信頼されているなんて……。いけない! 忘れてた!


「兄様、弾正から文が届いているわよ」

 兄様が厳しい目で私を見た。報告が遅いと怒っている。慌てて懐から文を出して兄様に渡した。兄様が読み出す。口元に笑みが浮かんだ。

「内藤備前守は負けるぞ」

「え? 負けちゃうの」

 思わず声を上げると兄様が゛ははははは゛と笑った。

「若狭は切り捨てるという事だ。先ずは畠山、六角に兵力を集中する。ようやく筑前守は内を纏めたようだ」

 兄様の言葉に九兵衛が頷いた。


「弾正は喜んでいる。負けろと進言して喜ばれたのは初めてだな」

「それはよろしゅうございました」

 兄様も九兵衛も声が明るい。

「大丈夫なの? 負けちゃうんでしょ? 朝倉が攻めてこない」

 問い掛けると兄様が゛大丈夫だ゛と言った。


「朝倉も三好が若狭を切り捨てた事は理解するだろう。ならば無理はするまい。若狭には朝倉の勢力伸張を喜ばない者も居る。下手に三好と戦って負けてはその連中を喜ばせるだけだからな。それに三好は細川晴元の身柄を押さえた。丹波の親細川の国人も簡単には動けぬ。まあ備前守も直ぐには動けぬがそれでも若狭で朝倉と戦い続けるよりは良い。一つ間違うと畠山、六角が朝倉を引き摺り込みかねぬ」

 そうか、そういう事なんだ。兄様は三好側を助けようとしている。となると兄様を尾行したのは三好ではないわね。やっぱり畠山、六角かしら。それとも幕府?


「織田殿に文を書かねばならぬ。それと朽木にも。織田殿には朽木からも文を書かせよう。今の織田殿にとって京の情勢にはそれほど興味は持てまい。しかしいずれ京の情報を報せる者が必要になるとは分かっていようからな」

 九兵衛が頷いた。織田が上洛する、何時の事なんだろう。そうなれば兄様もずっと楽になるのかしら……。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 春齢様 ちゃんと奥方ができる様になってきて 読者としてうれしい ガンバレ
[一言] お疲れ様です! 中々のピンチですね……負けるな! 頑張れ! 次回も楽しみにしています!
[一言] 余計な事を口に出さないよう、春齢ちゃんも頑張ってる。 キャラがちょっとずつ成長していく様を見れるのは良いですね。 ただ今回はそれ以上に基綱に余裕がありませんでしたね。 次回更新も楽しみにし…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ