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近衛 前久




永禄四年(1561年) 六月上旬            山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 飛鳥井基綱




「昨夜は小番だったと聞きました。お疲れでは有りませぬか?」

 松永弾正が心配そうに俺を見ている。イケメンだけど誠実そうな表情なんだ。心配してくれてるんだと思うと嬉しくなるな。

「いえ、もう十分に休みました」

 本当だよ。三刻ほど寝たかな。これ以上寝ると夜眠れなくなりそうだ。弾正が゛左様で゛なんて言っている。正直訪ねてくれた事に感謝だ。当家の女達は煩いからな。起きるなり握り飯の事でギャーギャー言われた。逃げ出せてホッとしたよ。


「弾正殿こそお疲れではおじゃりませぬか? 大分お忙しいと聞いておじゃりますが」

 こいつは嘘じゃ無い。飯盛山城で行われた連歌に弾正は参加していない。弾正だけじゃ無い。三好家の主立った重臣で連歌に参加したのは三好修理大夫長慶と安宅摂津守冬康だけだ。摂津守は水軍の担当だから陸戦の主立った指揮官は戦の準備を優先したという事になる。優雅な催しの裏で戦の準備をしていたのだ。流石、戦国時代だな。


「戦の準備は整いつつ有りますが不安がございます。我らは先手を取られました。讃岐守様の事も有ります。厳しい戦いになると思わざるを得ませぬ」

「……」

 弾正の声が沈んでいる。表情も暗い。苦戦すると見ているのだろう。俺もそう思う。何より二正面作戦は拙い。弾正が一口茶を飲んだ。そして茶碗を置くとこちらを見た。


「今月中には戦が始まりましょう。某は主筑前守と共に六角勢に当たる事になります。今日、こちらをお訪ねしたのは筑前守の命によるものです。筑前守も相当に不安に思っております。何か良き案はないか、頭中将様にお尋ねせよと」

「……」

 本当かな。筑前守は未だ若い。これだけの大戦は初めてだ。弾正は心配になって俺の意見を聞こうと奨めたんじゃないかと思うんだが……。


「お力添え、頂けませぬか?」

 そんな縋るような表情は困るよ。俺は公家だよ。武家が公家に戦の事を聞いちゃ駄目だろう。そっちは天下の覇者、三好家なんだよ。溜息が出た。

「公家の意見など役に立つとは思えませぬ」

「そのような事は」

「……」

 弾正が首を横に振っている。

「頭中将様の軍略は当代随一と思っております。何卒、我らに御助勢を」

 だからその表情は駄目だって。捨てられた子犬みたいな目で俺を見るなよ。

「……二、三気になった事がおじゃります。それで良ければ……」

「おお、何卒」

 弾正が頭を下げた。また溜息が出た。俺、泣き落としに弱いんだよな……。




永禄四年(1561年) 六月上旬            山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 松永久秀




「先ず全ての戦力を畠山、六角勢に当てるべきでおじゃりましょう」

「それは勿論でございますが」

「ならば、若狭は朝倉に譲りなされ」

「!」

「若狭を捨てれば備前守殿を畿内の戦に使えましょう。違いましょうか?」

 確かにそれはそうだが……。しかしそれをやれば備前守は逸見駿河守を切り捨てる事になる。備前守は若狭で二度と信用されなくなりかねない。いや備前守だけではない。三好の信用も失墜しかねない。迷っていると頭中将様が゛弾正殿゛と私を呼んだ。


「今は形振り構わず勝ちに行くべきかと思いますぞ。負ければ全てを失う。そのくらいの危機感を持たねば……。これ以上、敵を甘く見るべきではおじゃりますまい」

「……確かに」

 我らがここまで追い込まれたのも敵を軽視したからだ。ならば此処は若狭を捨てるべきだろう。となればどういう形で捨てるかだ。三好が見捨てたという形は避けねばならぬ。その事を言うと頭中将様が頷いた。


「それと負けた時の事、負けぬ手段を考えるべきでおじゃりましょう。勝つ手段を考えるのはその後で良いかと思います」

「……」

 頭中将様の表情は厳しい。先程の若狭の件も考えれば三好家は相当に危ういと見ているのだと思った。


「負けた場合でおじゃりますが京に拘るのは止めた方がよろしい。不利ならば無理せず京を捨て摂津にて態勢を整えるべきでおじゃりましょうな。面子を捨て実に徹する。三好家にとっては厳しい選択かもしれませぬ。しかし先程も言いましたが形振り構わず勝つ事を重視すべきでおじゃりましょう」

「確かに」

 京は守り辛い場所だ。それを考慮すれば摂津に退くのはおかしな事ではない。だが今の三好家にはなかなか口にし辛いのも事実。そこを躊躇うなと言っている。そこまで覚悟しなければ此処を乗り切れぬと見ているのだろう。備前守に若狭を捨てよと言うのだ。こちらも覚悟は決めなければ……。


「その際ですが公方の身柄を押さえ同道させる事が肝要におじゃります」

「なるほど」

 京に残しては畠山、六角が利用しかねぬ。そうなっては面倒だ。あくまで公方様はこちら側の手中に置かねばならぬか……。腹立たしい事だが已むを得ぬ。

「それと場合によっては公方は自ら兵を挙げようとするやもしれませぬ。それを許してはなりますまい。常に監視を付け身動き出来ぬようにしておく事です」

「そのように致しましょう」

「態勢を整えた後は畠山、六角とどう戦うかでおじゃりますな」

「はい。それも有りますが敵がその時間を我らに与えるかという問題も有ります」

 同意すると頭中将様が頷いた。


「敵は分断して各個に叩くのが常道。ではおじゃりませぬかな?」

「勿論にございます。なれど……」

 畠山も六角も此処が勝負所と見ているだろう。簡単に分断は出来ぬ。苦い思いで居ると頭中将様が゛うふふ゛と含み笑いを漏らした。

「六角には隙がおじゃりますぞ」

「!」

 頭中将様が笑みを浮かべている。痺れるような恐怖を感じた。これよ、これこそがこのお方の真の姿よ。


「その隙とは?」

 声が掠れた。だが気にならなかった。此処が大事だ。聞かなければならぬ。また頭中将様が゛うふふ゛と含み笑いを漏らした。

「六角家は美濃の一色家と同盟を結びました」

「はい」

 弘治から永禄への改元の時は一色家を利用して六角家を牽制した。同じ策には引っ掛からぬという事だ。しかし頭中将様は隙が有ると見ている。


「最近知ったのでおじゃりますがその際、亡くなった一色左京大夫殿の御息女を六角右衛門督殿にめあわせるという縁談はなしが出たそうです。弾正殿はご存じでしたかな?」

「いえ、知りませんでした」

 答えると頭中将様が頷いた。いかぬ、やはり遅れを取っている。今の主膳達は畠山、六角、幕府の事で手一杯なのだろう。一色にまで手が回らずにいる。


「良い所まで縁談は進んだようでおじゃりますな。右衛門督殿は大分乗り気であったとか。独り身ですからな、そろそろ妻をと思ったのかも知れませぬ。しかし縁談は潰えました。父親の六角左京大夫殿が許さなかったと聞いておじゃります」

「その理由は何でしょう?」

 頭中将様が口元に笑みを浮かべた。冷たい、冷笑だと分かった。


「美濃一色家は氏素性定かな者に非ず、それが理由だったと聞きます。まあ六角家は佐々木源氏の嫡流。相伴衆に任じられたとはいえ美濃一色家とは格が違うと思ったのかも知れませぬ。その辺りは弾正殿が良くお分かりでおじゃりましょう」

「はい。良く分かっておりまする」

 思いがけない程に低い声が出た。自分は怒っているのだと思った。実力ではなく家格を重んじる。畠山と同じだ。畠山も修理大夫様を侮った。許せぬ。武家は武威を誇る者、家格を誇る者ではない。それが許される時代でもないという事を六角にも理解させねばならぬ。


「一色家がその事を知っているかは分かりませぬ。薄々気付いているのかもしれませぬな。となれば当然ですが面白くはおじゃりますまい。左京大夫への任官は織田、朽木、麿への面当てかと思いましたが一色家を宥めるためかもしれませぬ」

「なるほど」

「となると幕府も知っていたという事になります」

 そういう事か。同盟は成ったが傷が付いた。左京大夫への任官はその傷を癒すため……。同盟締結から間が空いたのは当初、一色家は六角側の真意に気付かなかったからかもしれぬ。なるほど、これが隙か……。


「先月の半ば、一色左京大夫殿が亡くなりました。織田殿が美濃攻めを行った事はご存じでおじゃりましょう」

「はい、織田が優位に戦を進めたと聞いております」

 答えると頭中将様が頷いた。

「代替わりの直後です。それに後継ぎの喜太郎殿は未だ十四歳とか。相当に混乱したのでおじゃりましょう。一色家には六宿老と称される重臣がおじゃりますがその内の二人、日比野下野守、長井甲斐守の二人が討ち死にしたと聞きました。六角から援軍はおじゃりませぬ。喜太郎殿が、美濃の者達がそれを如何思ったか……」

「なるほど」

 六角は頼りない、当てにならないと思った筈だ。それにしても詳しい。おそらく織田から戦の詳細を報されたのだろう。緊密な遣り取りをしているのだと思った。


「その辺りを突く事です。六角は一色を馬鹿にしている。六角が重視しているのは西であって東ではない。今のままでは六角は一色を見殺しにするだろう。六角を捨て三好と組まぬかと」

「しかし一色に六角を捨てる事が出来ましょうか? 六角が敵に回れば……」

 最後まで口に出せなかった。頭中将様が゛うふふ゛と含み笑いを漏らしている。


「その素振りを見せるだけで六角を引き留める事が出来る」

「!」

「そうではおじゃりませぬか?」

「……確かに」

「三好家と一色家は味方ではおじゃりませぬ。しかし六角に西ではなく東を重視させるという事では協力出来ると思うのです」

 思わず呻き声が出た。このお方は同盟者である一色に六角を抑えさせようとしている。一色は代替わりした直後だ。そして織田を持て余している。今ならばその可能性は十分に有る。


「そうではおじゃりませぬかな?」

「その通りにございます」

 思いがけないほど強い口調になった。自分は興奮しているのかもしれない。

「筑前守殿が一色家に文を書く事です。浅井にも書いた方が良い。三好が後ろを掻き回そうとしているとなれば六角家の足も鈍ろうというもの。畠山も単独で三好家と戦うのは躊躇いましょう」

「はい、畠山との足並みは乱れましょう。時が稼げます」

 頭中将様が笑みを浮かべて頷いた。上手くいけば六角を近江に退かせる事が出来るかもしれぬ。畠山だけなら恐れる事はない。三好家の総力を挙げれば叩き潰せる。


「乱れればそれだけ隙が出来ます。上手く付け込む事です」

「有り難うございまする。ここへ来た甲斐が有りました。主も喜びましょう」

 礼を言うと頭中将様が首を横に振った。

「此処での事、全て筑前守殿の御発案とされた方が良いでしょう」

「しかし」

 また頭中将様が首を横に振った


「麿が策を授けたとなれば煩く騒ぐ方がおじゃりましょう。幕府にも三好家にも」

「なるほど」

 日向守様の事か……。確かに騒ぐだろう。

「それに筑前守殿のお立場を少しでも良くした方が良い。修理大夫殿の跡を継ぐのは簡単ではおじゃりませぬからな」

「……」

「此度の戦は相当に厳しいものになる。ここで筑前守殿が力量を発揮すれば皆から信頼されます。これから先が遣り易くなるでしょう。三好家も安泰というもの」

「……はい」

 頭中将様の表情に特別な変化は無かった。まさか、ご存じなのか? 修理大夫様の御病気を……。




永禄四年(1561年) 六月中旬      山城国葛野郡    近衛前嗣邸  飛鳥井基綱




「目々、典侍殿は変わり、ないかな?」

「はい、おじゃりませぬ」

 俺が返事をすると太閤殿下が頷いた。両脇には寿と毬が控えている。

「あと、二月程か……。出来れば、男皇子が欲しい、ものよ」

「はい」

 あと二月だ。此処は三好に踏ん張って貰いたいわ。養母に無用なストレスを与えたくないからな。間違っても京が戦場になって欲しくない。


「新大典侍が苛立っているって聞いたわよ。以前にも増して帝の御信任が厚いって」

 面白がるな、毬。結構迷惑しているんだ。 

「小番の時、握り飯の差し入れをしたと聞きました。何も無かったのですか?」

 寿が心配そうに俺を見ている。

「何もおじゃりませぬ」

 まあ脅し、嫌がらせだろうな。俺が食べなければ嗤うつもりだったんだろう。小細工をするよ。いっそ毒を盛られた振りでもすれば良かったかな。のたうち回りながら゛おのれ万里小路、毒を盛ったか゛とでも叫べば大騒ぎだっただろう。新大典侍は真っ青になって゛知らない゛とか゛私じゃない゛とか言ってパニックになった筈だ。思いっきり嗤ってやれたな。


「無理はなりませぬよ」

 寿が心配そうに俺を見ている。目が養母に似ていると思った。形は似ていない。でも目に込められた想いが似ているのだろう。俺の事を本当に心配しているのだ。素直に゛はい゛と答えた。

「詰まらぬ真似を、するの」

 不愉快そうに太閤殿下が言った。


 全くだ。新大典侍は現状の認識が出来ていない。いや、新大典侍だけじゃない、万里小路権大納言も分かっていない。足利が優位だと見て必死に擦り寄っている。あの一族の頭に有るのは自家の勢力の伸張だけだ。今、京が安定しているのは三好の力によるものなのだ。それが崩れかけている。崩れれば京は混乱し朝廷の困窮も今以上に酷くなりかねない。そういう危機感はまるで無い。


「大変な評判らしいわよ。武家以上に豪胆、知勇兼備の名将だって」

 だから面白がるな!

「麿は公家でおじゃりますぞ、御台所。名将など、迷惑でおじゃりますな」

「ホホホホホ、公方様も幕臣達も噂を聞いて顔を顰めているらしいわ。頭中将殿が褒められると嬉しくないらしいの」

 あのなあ。自分の夫が顔を顰めているんだぞ。何でそんなに嬉しそうなんだよ。困った女だ。


 義輝や幕臣達が不愉快なのは他にも理由が有る。三好家は畠山家、六角家との戦を控え義輝から六歳の娘を人質として取った。この娘、母親は小侍従ではない。朽木に逼塞している頃に産まれたらしいから同行した幕臣の娘か朽木に縁の有る女性なのかもしれない。義輝や幕臣達は人質を出す事を渋ったと聞いている。人質を要求したのは三好日向守だったのだがかなり強硬に要求したようだ。


 それを見て母親の慶寿院は三好は相当に追い込まれている、危険だと思ったのだろう。義輝に人質を出すか、此処で兵を挙げるかの二者択一だと迫った。已むを得ず人質を出したのだがこれを先月に行われた飯盛山城での千句連歌と合わせて考えれば畿内の覇者は三好家であり将軍といえど三好家には逆らえないのだと行動で示した事になる。義輝達が不愉快になるのも道理だろう。そろそろ話を変えた方が良いな。


「関白殿下から文はおじゃりますか?」

「うむ、古河城に、居るらしい。無茶、をする」

「名も変えたらしいのです。前久と」

「名前だけじゃないわ。花押も武家風に変えたわよ。本気で武家になるつもりかしら」

「困った、ものよ」

 太閤殿下が息を吐いた。寿、毬の姉妹も不安そうな表情をしている。心配なのだろう。古河城というのは現代なら茨城県に有るのだがこの時代では古河は下総国に有り下総、上野、下野が接する場所に有る。下総の北に常陸国が有る事を考えれば、北条の本拠地である小田原が相模国に有る事を考えれば古河の重要性は言うまでも無いだろう。北関東の兵を集め易いし北条の北上、そして東進を阻止し易い位置に有る。北条にとって古河城は極めて邪魔な場所に有るのだ。


 越後の長尾景虎は上杉家の名跡を継ぎ関東管領上杉政虎になった。政虎は今、越後に戻り武田との決戦の準備に追われている。関白殿下が古河城に残ったのは政虎の代理として皆を安心させるためだ。暫く武田攻めを優先するが決して関東を忘れたわけではない。自分に味方してくれた者達を見捨てる事は無いという事だろう。現職の関白が最前線の城に籠もるのだ。その意味は大きい。殿下も政虎を助けようと懸命なのだ。寿、毬の不安そうな表情が哀れだ。太閤殿下の身体が万全では無いからな。その分だけ関白殿下を頼る気持ちが強いのだろう。無茶はして欲しくないのだ。それにしてもな、ついに戦国の巨人、近衛前久の登場か。ちょっと興奮するな。





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[気になる点] 72・絆の文章で嫡男の喜太郎龍興ですが歳は十五歳とあるが、本文では「後継ぎの喜太郎殿は未だ十四歳とか」とあり、ん?と思いました。
[一言] 戦国のお調子者、近衛前久。 史実では謙信からも、信長からも、 イマイチ軽くみられてたような・・・
[良い点] 松永弾正がかわいい お互いに籠絡されつつある(妄想) [一言] もう松永兄弟と一緒に天下静謐をもたらしちゃえばいいんじゃないかな!(妄想)
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