絆
永禄四年(1561年) 五月中旬 山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 目々典侍
中将が沈んだ表情で座っている。私も似たような表情をしているだろう。娘はこの邸の女中に付き添われて泣きじゃくりながら部屋に戻った。時々思わぬでもない。もっと平凡な男に嫁いだ方が幸せになれたかもしれないと。だがあの子にはそれが許されなかった。尼になる事だけが許された道だった。しかし中将が新しい道をあの子に与えた。あの時は娘も結婚して人並みな幸せを享受出来ると喜んだけど日が経つにつれて幸せだけではない、苦しみも味わうのだろうと思うようになった。そしてそれを目の当たりにしている。
「憐れですね」
私の言葉に中将が一つ息を吐いた。
「已むを得ぬ事におじゃります。危険なのです。後程、様子を見に行きます」
「お願いします」
頭を下げると中将が沈痛な表情で”お止めください”と首を横に振った。
「頭を下げねばならないのは麿の方でおじゃります。春齢を幸せにしなければならないのにそれが出来ずにいる。申し訳おじゃりませぬ」
中将が頭を下げた。この子は春齢を出世のための道具とは見ていない。一人の女性としてみている。有り難い事だと思う。そういう事は直ぐに分かる。女達が騒ぐのも春齢が焼き餅を焼くのもこの子に情が有ると見ているからだろう。
いけない、それよりも確認しておかなければならない事が……。
「前管領が上洛しました。三好との和睦はどうなっているのか教えてくれませぬか? 帝から頼まれているのです。宮中では人目も有る。なかなか訊ねずらい。私から聞いてそれを文で教えてくれと」
中将が”分かりました”と頷いた。
「摂津の普門寺城で前管領と修理大夫が会談しました。前管領はそのまま普門寺城に幽閉されたようでおじゃります」
「幽閉ですか」
三好一族は前管領に父親を殺されている。そして今度は讃岐守が毒殺された。相当に恨みは深い筈。それなのに……。意外に思っていると”ふふふ”と笑い声が聞こえた。中将が冷たい笑みを浮かべている。
「殺さなかったのは主殺しと非難されるのを避けたという事ではないかと思います。案外、公方の狙いはこちらだった可能性もおじゃりますな。だとすると今頃舌打ちしているかもしれませぬ」
もう少しで”まさか”と声を上げるところだった。だが有り得ないと言えようか? 公方は三好に負け続けているのだ。勝つために三好を貶める事が必要だと考えた可能性は有るだろう。
「普門寺城は周囲を水堀に囲まれ相当に堅固な城でおじゃります。芥川山城にも近い。簡単に城を攻略しその身柄を奪い返す事は出来ませぬ」
「……」
「三好側は相当に用心していると言えましょう。時を稼ぎ戦の準備は整ったのでおじゃりましょうが厳しい戦になると覚悟している事が分かります」
三好は十河讃岐守の死から何とか態勢を立て直している。でも中将の言う通り不安を感じているのだと思った。
「……畠山、六角は……」
問い掛けると中将がまた冷たい笑みを浮かべた。
「兵を動かす準備は出来ておじゃります。前管領が幽閉された事は直ぐに伝わりましょう。それをきっかけに戦を起こす筈です」
「宮中は、大騒ぎになりますね」
「はい」
殆どの者が三好と前管領の和睦を喜んでいる。御成については訝しく思う者も多いが戦は遠のくと見ているのだ。それだけに戦が起これば皆が慌てふためき京が戦場になるのではないかと怯えるだろう。帝はそんな周囲の者達を頼りないと思うに違いない。そしてこの状況を見抜いていた中将への信任は益々厚くなる。一つ息を吐いた。
「三好はどうなのです?」
「三好豊前守が岸和田城に入っておじゃります。畠山が動けばそれを相手にする事になりましょう。六角には三好筑前守、松永弾正が向かいます。芥川山城には三好日向守が詰めるようです。こちらも戦の準備は整ったようでおじゃりますな」
三好対畠山・六角。三好も準備は整った。いよいよ総力を挙げた戦が起ころうとしている。
「朽木は、どうなります? 六角からの誘いは?」
中将が先程までとは違う柔らかい笑みを浮かべた。
「永田達高島五頭と共に六角に浅井の脅威を訴えました。六角もそれを無視する事が出来ずに兵を出す代わりに兵糧を贈る事で納得したようでおじゃります」
「そうですか」
ホッとした。これで朽木の兵が京に入る事は無い。三好の報復を受ける危険性も無くなった。織田の姫を娶った事も無駄では無くなる。
「朽木と歩調を合わせた事を考えると高島五頭も畿内の戦に巻き込まれたくないと考えているのでおじゃりましょう。或いは浅井を放置して畿内の戦を優先する六角に反発する思いが有るのかもしれませぬ。となると浅井への恐怖心は相当強いのでしょう。まあ噂を流して煽ったのは麿ですが」
中将の口元に冷たい笑みが有った。高島五頭を嘲笑っているのだろうか? それとも嘲笑っているのは足元が見えていない六角左京大夫だろうか。ぞくりとするものが有った。胸がざわめく。近衛の寿姫を思った。私もこの子に国を一つ与えてみたい。忽ち近隣を攻め獲り六角、畠山、三好、皆がこの子に平伏すだろう。この子は冷たい目でそんな彼らを見据えているかもしれない。
「公方はその事も不満のようです。六角、畠山が協力して三好を討つ。漸く三好に思い知らせてやれる機会が到来したのにどうして関東制覇は上手くいかず、高島郡の国人達、浅井は協力的ではないのかと」
「……讃岐守毒殺の事は?」
問い掛けると中将が首を横に振った。
「幕府内部では病死という事になっておじゃります。三淵大和守、細川兵部大輔には朽木で毒殺の件を教えましたが証拠がおじゃりませぬ。口には出せぬようです。幕臣達の間では公方に兵を挙げるべきだと勧める者もおじゃりますがあの二人は必死にそれを止めておじゃります。三好の報復を怖れているのでおじゃりましょう」
「公方は?」
中将が”フフフ”と含み笑いを漏らした。
「以前それをやって五年も朽木に逼塞しました。それに解任騒動も起きています。流石に懲りたようでおじゃりますな。兵を挙げたいという気持ちは有るのでおじゃりましょうが抑えているようです。もっとも状況次第でどうなるか……」
中将は三好が劣勢になると見ている。となると公方が兵を挙げる事は十分に有り得るのだろう。もしかするとこれをきっかけに公方の解任問題が再燃するかもしれない。
「養母上」
「はい」
「美濃の一色左京大夫義龍が病死しました」
「!」
声を出す事が出来なかった。中将が穏やかな表情で私を見ている。
「つい三日ほど前の事でおじゃります」
「なんと……」
三日前、速いと思った。桔梗屋が報せたのだろう。また思った。速いと。
「跡を継ぐのは嫡男の喜太郎龍興ですが歳は十五歳、余り良い噂はおじゃりませぬ。松平との同盟も成った織田殿にとっては追い風となりましょう。織田、一色の戦いも目が離せませぬ」
朽木、織田、少しずつ天下はこの子が思うように動いている。織田が上洛して天下を獲る。足利の後は織田なのかもしれない。
永禄四年(1561年) 五月中旬 山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 飛鳥井春齢
「大丈夫でございますか」
七恵が心配そうな表情で私を見ている。情けないと思った。七恵は私よりも五歳も年下なのに……。
「大丈夫よ、七恵」
無理に笑ったけど七恵が首を横に振った。
「目が腫れております。こんなになるまでお泣きになるなんて……。中将様も今少し春齢様にお優しくしてくれても良いのに……」
「違うのよ、七恵。兄様は悪くないの」
七恵が”でも”と不満そうに言ったから”違うの”と宥めた。そう、兄様は悪くない。悪いのは私。自分に自信が無いから兄様を疑ってしまう。
「私ね、小さい時から兄様と結婚したかったの。七恵よりもずっと小さい時からよ」
七恵が目を丸くした。ちょっと可笑しかった。
「兄様、素敵でしょう?」
「それは、素敵だと私も思います」
七恵が私をチラッ、チラッと見ながら言った。私って七恵にも嫉妬深いと思われてる。苦笑いが出た。仕方ないわよね。
「夢だったのよ。絶対叶わない夢。だって私は尼になる事が決まっていたんだから」
「……」
兄様が母様の養子になってからずっと一緒に居られた。楽しかったな。でも何時の日か寺に入れられる事も分かっていた。離れ離れになる。俗世と縁を切り夢を持つ事も出来なくなる。だから一日が始まるのが怖かった。寺に行けと言われるんじゃないかって思ったから。そして一日が終わった時は嬉しかった。また一日、兄様と一緒に過ごせたから。兄様に私を攫って逃げてくれって頼んだ事もあった。兄様は全く相手にしてくれなかった。分かっていた事だけど寂しかった。
「でもね、その夢が叶ったの。絶対叶わないと思っていた夢が叶ったの。兄様が叶えてくれた。嬉しかった。本当に嬉しかった」
「宜しゅうございました」
「……そうね」
嬉しかったのは最初だけだった。直ぐに不安が襲ってきた。兄様は如何して私と結婚したいって言ったんだろう。どんな出世でも望めた筈なのに出世よりも私との結婚を望んだのは何故なんだろうって。
母様のためかなって思った。兄様は誰にも心を開かなかったけど母様だけには心を開いていた。母様も兄様の事を無条件に受け入れてた。そして可愛がってた。私よりも兄様を可愛がってた。
「如何なされました?」
「え?」
七恵が心配そうに私を見ている。
「何でもないの」
「でも黙ってしまわれて、思い悩んでいるように見えました」
「……人間って我儘だなって思っただけ」
七恵が困ったように私を見ている。でも本当にそう思う。私は望みが叶った。それなのに不満を持っている。その不満は私自身の問題なのに兄様にそれをぶつけている……。
「入るぞ」
戸が開いて兄様が入ってきた。七恵が頭を下げる。兄様が座ると私に”落ち着いたか?”と問い掛けてきた。
「もう大丈夫」
「そうか、大丈夫か。七恵、下がって良いぞ」
七恵が一礼して部屋を出て行った。それを見届けてから兄様が”春齢”と私を呼んだ。
「麿と話したい事は有るか? 言いたい事、訊きたい事、頼みたい事、何でも良いぞ」
兄様が気遣うように私を見ている。申し訳ないと思った。私、兄様の重荷になっている。
「兄様は如何して私と結婚したいって望んだの。出世だって思いのままだったのに。……母様のため?」
兄様が困った様な表情を見せた。
「無いとは言えぬな」
やっぱりそうなんだ……。
「麿は持明院に嫁いだ母には愛されなかった。いや、正確には母は麿を愛そうとしたのだが出来なかった。麿は変わっていたからな。母は麿を理解出来ず怖れ、そして忌諱した。今少し麿が自分を抑えれば、自分を偽れば母と上手く行ったのかもしれぬが……」
「……」
兄様、寂しかっただろうな。
「そんな麿を養母上は受け入れてくれた。養母上も最初は麿を理解しようとして出来なかった。本来なら持明院の母同様、麿を怖れ忌み嫌ってもおかしくはおじゃらぬ。だが養母上は麿を理解出来ないと分かると無条件に受け入れ可愛がった。妙なお人だと思ったな。だが麿も何時の間にか養母上を受け入れていた。多分、何処かで寂しかったのかもしれぬ」
兄様が私を見た。
「麿にとってそなたは困った娘でおじゃったな」
「困った?」
私が声を上げると兄様が頷いた。
「常に纏わり付いて結婚して欲しい、一緒に逃げてくれと麿を困らせた。逃げても追いかけてくる。追い払ってもだ。煩くて困った娘でおじゃった」
ちょっと酷い。私、妻なんだけど……。
「だがいずれは寺に行くと分かっていた。養母上はその事で心を痛めていた。そなたが憐れだとな。麿もそなたが居なくなれば寂しくなると思った。我等は三人で家族だったのだ。だからそなたを守るために麿の妻にと願った。養母上のためだけではおじゃらぬ」
「家族、なの?」
「夫婦で無いのが不満か?」
「……それは……」
頷くと兄様が苦笑した。
「良い夫婦に成るにはまだまだ時が掛かりそうだ。そなたは焼き餅が酷いからな」
「それは、だって」
「夫婦とは互いに信じ合い、心が通じ合わなければ形だけの夫婦になるだろう。そなたは麿を信じられるか?」
ジッと見詰められて目を伏せた。恥ずかしさからじゃない。情けなさから。
「……兄様は信じられるの。信じられないのは私。私は自分に自信が無いの。兄様が私じゃなく他の人を好きになるんじゃないかって不安なの」
「麿はそなたを大事にすると約束した」
「うん」
婚儀の時、手を握ってそう言ってくれた。嬉しかった。その前にも一度言ってくれた。あの時は嬉しくて兄様の首に抱きついたら苦しいって兄様に怒られた。
「尼になっていれば俗世と縁を切り安全だった筈だ。それを俗世に留めたのは麿だ。麿にはそなたを守り幸せにする義務が有る」
「義務なの?」
「口を尖らせるな。妻を守り幸せにするのは夫の義務であり務めでおじゃろう。不満か?」
「ちょっと」
笑う事が出来た。義務か……、愛じゃないのよね。その事を言うと兄様が一つ息を吐いた。
「愛だと言えば満足なのか。安心するのか?」
首を横に振った。嬉しいけどまた不安になるだろう。兄様は本当に自分を愛しているのかって。
「言葉遊びなどしても仕方おじゃるまい。麿はそなたを大事にする、幸せにすると約束した。信じられぬのか?」
首を横に振った。兄様は嘘を吐くような人じゃ無い。信じられる。
「養母上の前でも言ったが焼き餅を焼いても良い。だがそれを表に出してはならぬ。決して他人に覚らせるな。我等は敵が多いのだからな」
「うん、気を付ける」
そうよね、兄様の重荷にならないようにしないと。私、此処に来て安全だと気が緩んでいた……。
「九兵衛にございます」
部屋の外、廊下から九兵衛の声がした。足音、聞こえなかった……。
「如何した」
「重蔵が参っております。至急お報せしたい事が有ると」
兄様が頷いた。
「ここへ」
九兵衛が”はっ”と答えた。今度は小さいけど足音が聞こえた。もしかして九兵衛は話が一段落するまでそこで潜んでいたの? 兄様を見た。何事も無いように座っている。気付いていないの? それとも……。足音が戻ってきた。
「重蔵にございます。失礼致しまする」
戸が開くと三十代くらいの男が入ってきて座った。この男が重蔵? 顔立ちは平凡だけど引き締まった身体をしている。その後ろに九兵衛が座った。
「妻の春齢だ。重蔵、そなたの事を何と紹介すれば良いかな」
兄様が楽しそうに言うと重蔵が顔を綻ばせた。九兵衛も笑っている。
「三好の者達は我等を桔梗の一党と呼んでおりますそうで」
兄様が”ははははは”と声を上げて笑った。
「桔梗の一党か、良い名だ。麿もそれを使わせて貰おう。春齢、桔梗の一党の長、重蔵だ」
「お初にお目に掛かりまする。桔梗の一党を束ねる黒野重蔵にございまする」
「春齢です。桔梗の一党には色々と世話になっています」
「畏れ入りまする」
声が低い。そして重いと思った。人に命令を出す事に慣れているのかもしれない。この男が九兵衛や葉月達の長……。桔梗の一党、でも別に本当の名前が有る。一体どんな名前なんだろう。
「後で養母上にも紹介する。それで、何が有った?」
重蔵が一瞬躊躇うような表情を見せた。
「構わぬ。春齢には慣れて貰わなければならぬ」
兄様の言葉に重蔵が、九兵衛が頷いた。重いと思った。兄様は私に厳しさを教えようとしているのかもしれない。もう甘えは許されないのだと言いたいのかもしれない。
「月が変われば六角、畠山が兵を挙げますようで」
「そうか」
「和睦を結んだにも拘わらず前管領を幽閉するとはどういうことかと。前管領の次男、細川晴之を擁立しております」
重蔵の言葉に兄様が”ふふふふ”と嗤った。
「公方は喜んでいような。漸く六角と畠山を使って三好を討てると」
重蔵が頷いた。
「中将様、三好修理大夫長慶に気になる事がございます」
「……」
「病ではないかと」
思わず息を飲んだ。戦が始まるのに病?
「間違いないのか?」
兄様が問うと重蔵が首を横に振った。
「はっきりとは分かりませぬ。なれど身体に不調を感じているのは間違いないようでございます」
兄様が”なるほどな”と言って頷いた。
「御成を筑前守に任せたのも公方に頭を下げたくないという思いの他に体調の不安が有ったのかもしれぬ。十河讃岐守が自分の病状を修理大夫に報せなかったのも修理大夫の病を知っていたから、修理大夫に心配させたくなかったからだとすれば……。病か、十分に有り得る事でおじゃろうな」
「はい」
兄様と重蔵が頷きあっている。九兵衛は無言で厳しい表情をしている。怖いと思った。これから一体どうなるんだろう。
「兄様、これからどうなるの?」
問い掛けると兄様が私を見た。
「三好修理大夫が病だと知れば公方は喜ぶだろうな。だが修理大夫が死ねば公方も殺される。それも分からずに喜ぶのだ。笑止な事だ」
「殺されるの? 公方が?」
兄様が”うむ”と頷いた。重蔵も頷いている。殺されるのだと思った。
「三好家内部には公方を忌諱する勢力がある。その者達は公方が居る限り三好の天下は安定しないと考えているのだ。だから公方を征夷大将軍から解任しようとも考えた。それを抑えているのが修理大夫だ。その修理大夫が死ねば間違いなく公方は殺される。讃岐守が毒殺された事を忘れてはならぬ」
「……」
「公方は三好を討つ事で幕府の権威を取り戻す。将軍の実権を取り戻すと考えているのかもしれぬが自分で自分の足元を崩しているようなものだ。近衛は足利から距離を置き始めた。幕臣達の中にも公方を見限る様な動きをしている者が居る。公方から距離を取る者はこれから徐々に増えるだろう。それは公方の、幕府の権威の低下に繋がる。そして公方が殺されれば幕府の、将軍の権威はさらに落ちる事になる」
兄様が私を、重蔵を、九兵衛を見た。
「悪くない、足利にはうんざりしていたのだ」
「兄様」
兄様が”はははははは”と笑い出した。楽しそうに笑っている。
「天下を安定させるためには新しい権威が必要だな。足利に代わる新しい権威が」
兄様の言葉に重蔵、九兵衛が頷いている。足利が滅ぶ日が来るのかもしれない……。