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孤立




永禄四年(1561年) 四月中旬            近江国高島郡安井川村  清水山城  細川藤孝




「ところで兄上、兄上は朽木を如何思われます」

 問い掛けると兄が表情を改めた。厳しい表情になっている。

「そうだな……。怯えていると見た」

「何に怯えていると? 戦でしょうか?」

 ”いや”と兄が首を横に振った。

「朽木が怯えているのは……、孤立だと私は思う」

 兄が私を見た。


「朽木は幕府側の国人だと幕府からも三好からも見られている。皆がそう見ているだろう。しかし朽木は幕府を信用出来ずにいる。六角もだ。だから中将様を頼っている。そなたは以前そう言っていたな」

「……はい」

 頷くと兄も頷いた。


「此処に来てそれが良く分かった。民部少輔殿、長門守殿の幕府への不信は相当なものだ。讃岐守毒殺で六角への不信も強まるだろう。あそこには甲賀が有るからな。公方様、幕臣達、六角の遣り方には付いていけない。付いていけば朽木は滅びかねぬとあの二人は危惧しているのだ」

「無理もありませぬ。讃岐守殿の毒殺には我等も驚きました」

 兄が”そうだな”と言って顔を顰めた。


「それに比べれば刀の事など児戯のようなものだ。いや、児戯では無いな。表だっては公方様を使って忠義を要求し裏では幕臣達が朽木を冷遇する。民部少輔殿、長門守殿にしてみれば幕臣達が公方様を利用して好き勝手な事をしている、朽木を窮地に落とそうとしているとしか思えまい。そして幕臣達には朽木に反感を持つ者が多い。中将様の事でな。幕府を信用出来ぬと思うのは当然の事だ」

「あの二人より左兵衛尉殿、右兵衛尉殿、左衛門尉殿の方が幕府に対する不信は強いかもしれませぬ」

 兄がまた顔を顰めた。

「だとしても私は驚かぬ」

 一番身近な存在である朽木が幕府から離れようとしている。朽木に反感を示す者達はその意味が分かっているのだろうか? 朽木は公方様が苦しい立場に有った時、献身的に支えてくれた存在だった。それが離れたとなれば他の者達が如何思うか……。


「まあ、それでもいざという時には受け入れると言ってくれた」

 兄が苦笑交じりに言った。

「そうですな。もっとも滞在は出来ませぬ」

 兄が笑うのを止めた。

「そうだな。朽木は状況を相当に厳しく見ている。多分、それは中将様の見立てなのであろう」

「大袈裟、と思いますか?」

 問い掛けると兄がジッと私を見た。そして首を横に振った。


「いや、そうは思わぬ」

「……」

「毒殺が事実なら相当に危うい。真面目な話、京を追われ朽木を頼るような事になるかもしれぬ。民部少輔殿はこちらから問われる前に公方様を受け入れると言った。兵を出さぬ事への埋め合わせも有るのだろうが現実に危険だとも見ているのだろう。もしかするとこの城から京の様子をハラハラしながら見ていたのかもしれぬ」

 十分に有り得る事だ。だから兄は私に大和に行けと言った。


「それに関東制覇は失敗に終わった」

「武田が健在な内は北条を下すのは難しい。中将様の仰られる通りになりました。十万の兵が集まっても小田原城は落とせなかった」

 兄が渋い表情で頷いた。これでまた公方様を頼りないと貶す声が強まるだろう。そして中将様を讃える声が強くなる。つまり幕臣達は中将様を疎みその矛先は朽木にも向かうだろう。朽木は益々幕府から離れ中将様を頼るようになる。


「三好にとって邪魔なのは六角と畠山だけになった。随分と楽になっただろう。両者にそれなりの損害を与えれば残りは公方様だけという事になる」

 兄が私を見た。見返すと頷いた。

「厳しくなりますな」

「ああ、厳しくなる」

 勝てれば良い。兄の言う通り大勝出来れば。だがそうでなければ状況は厳しくなるだろう。それなのに朽木が幕府から離れつつある……。

   

「孤立ですか。孤立しているのはむしろ我等の方かもしれませぬ」

 兄が私を見た。そして”そうだな”と言った。   

「厄介なのは朽木は自分達が孤立していると理解しているのに幕府には自分達の孤立を理解している人間が居ない事だ。危機感が無さ過ぎる。このままでは……」

 兄が語尾を濁した。三好が公方様を弑すと言うのは憚ったのだろう。


「兄上は中将様を如何御覧になりました」

 兄が私を見た。そして息を吐いた。

「容易ならぬ御方よ。尋常ならざる御器量の持ち主とは思っていた。だが今日の会談で良く分かった。当代無双の武略であろう。それに耳が敏い。おそらくは中将様のために働く者が居る」

「多分、そうでしょう」

 何者かは分からない。だが間違いなく中将様の手足となって動く者が居る。


「三好が中将様を重視し親密な関係を築こうとするのも道理よ。敵に回す事は出来ぬと見ているのだ」

 それほどの人物と幕府は敵対している。

「長門守殿が高島越中守を攻め滅ぼしたのも中将様の策かもしれぬ。私が長門守殿の武勇に期待していると言っても民部少輔殿、長門守殿は苦笑するだけだった」

「……そういう噂は以前から有りました」

「そうだな」

 だが幕府ではその噂は受け入れられていない。長門守殿は公方様が中将様を押し退けて朽木家の当主にと据えた人物だ。公方様も幕臣達も越中守を滅ぼしたのは長門守殿の武略だと思いたがっている。長門守殿を朽木家の当主に据えたのは正しかったと思いたがっている……。


「兄上、三好が中将様を重視するのは他にも狙いがあるのやもしれませぬ」

 兄が私をジッと見た。

「……それは?」

「幕府の追い落とし」

「追い落とし……」

 兄の目が宙を彷徨った。


「中将様と幕府の関係は良くありませぬがだからと言って中将様が反幕府で動いているとは言えませぬ。幕府を批判はしますが敵視しているわけではない。むしろ幕府側が中将様を敵視していると言えるでしょう」

「そうだな」

「三好はいずれは反足利で協力出来る。そう見ているのではありませぬか?」

 兄が無言で考え込んでいる。有り得ないとは言えまい。中将様は公方様を武家の棟梁としては無責任だと非難したのだ。今は非難だけだ。だがそれが積極的な排斥に変わらぬと言えるだろうか……。


「中将様が朝廷を親三好で纏めると言うのか?」

「そうです」

 三好が公方様を弑する時、当然だが主殺しと非難する者が出るだろう。だが朝廷の信任が三好に有るとなればその非難を躱せるという計算が出来る。その事を言うと兄が深く息を吐いて”有りそうな事よ”と呟くように言った。そして“まさかな”と呟いた。思い詰めたような表情をしている。


「如何なされました?」

「兵部大輔」

「はい」

 兄がゴクリと音を立てた。

「御台所様が戻らぬ」

「……」

 本来なら御台所様は四月に戻る筈だった。だが太閤殿下のお世話をするとの事で室町第へのお戻りは延期になっている。


「おかしな話だ。太閤殿下は御成に参列する程に回復なされている。参内もした。なのに御台所様のお戻りが無い」

「……まさか……」

 兄が頷いた。


「そのまさかよ。太閤殿下は讃岐守殿毒殺を中将様より報されたのかもしれぬ」

 だとすれば親足利の色をこれ以上出すのは危険だと思ったのだろう。足利と距離を置くべきだと思ったのだ。だから御台所様は戻らない……。或いは三好に対して近衛は毒殺には関わっていないという意思表示なのかもしれぬ。その事を言うと兄が頷いた。


「兄上、朽木家と同じですな」

「そうだ。三好の報復を怖れたのだ」

 太閤殿下の腰が引けた……。幕臣達の中には御台所様が戻らぬ事を歓迎する者も居る。だがその者達は分かっているのだろうか。幕府は孤立しつつあるという事に……。

「打開する手はありましょうか?」

 問い掛けると兄が首を横に振った。

「無い。もう戦を止める術は無い。後は戦の結果次第だ」

 結果次第か……。勝てれば良い、大勝出来れば。だがそうで無ければ……。公方様、いや幕府の将来は暗いものになるだろう。




永禄四年(1561年) 四月下旬            山城国葛野・愛宕郡 室町第 細川藤孝




「只今朽木より戻りましてございます」

 兄三淵大和守が公方様に頭を下げた。自分も同じように頭を下げる。公方様が”うむ、大儀であった”と上機嫌で言った。頭を上げた。口調だけではない、表情も明るいと思った。

「二人は聞いておるか?」

「は? ……何を、でございましょう」

 兄が戸惑っている。本来なら婚儀の事で話が有る筈。それなのに聞いているかとは……。兄の戸惑いに公方様が”ハハハハハハ”と声を上げて笑った。

「十河讃岐守が死んだそうだ。これで修理大夫を支える柱の一つが折れたわ」

 周囲に控えていた幕臣達が迎合するように笑った。兄と顔を見合わせた。兄が暗い目をしている。毒殺が事実なら喜べる事ではない。本当に公方様は知らぬのだろうか……。


「死因は何でございましょう」

 思い切って問うと”病死だ”と公方様が答えた。公方様の表情におかしな点は無い。毒殺の事は知らないのだと確信した。

「日頃の悪業の報いよ」

 公方様の言葉に幕臣達が”その通りにございます”、”天罰と言うべきかと”と迎合する。心が冷えた。毒を使いながら悪業の報い、天罰とは……。三好がこれを知れば如何思うか。この室町第に三好が攻め寄せる可能性は十分に有るだろう。兄の言うとおりだ。大和に行かなければならない。


「ところで、婚儀は如何であったかな」

「はっ、良い婚儀でございました」

 兄が答えると公方様が”フフフ”と笑った。

「そうか、婚儀には織田の重臣おとなも参ったのであろう?」

「はっ。織田三郎五郎信広という者が婚儀を宰領しておりました。織田弾正忠様の腹違いの兄にございます」

 兄の答えに公方様が満足そうに頷いた。


「それで、話はしたのか?」

「はっ、婚儀の後に。公方様が織田に期待している事、桶狭間で今川を打ち破った事は真に見事であると感心している事を伝えると三郎五郎は必ず主君に伝えると喜んでおりました」

「そうか」

 公方様が嬉しそうに頷いた。控えている幕臣達も嬉しそうに頷いている。

「では織田に文を出さねばなるまいのう」

 公方様の言葉に周囲の幕臣達から笑い声が上がった。決して好意的な笑い声ではない。何処か侮蔑的な響きが有る。上手く利用してやろうという意図が透けて見える笑い声だ。


「ところで大和守殿、兵部大輔殿、織田の妹姫というのはどのような娘かな?」

 問い掛けてきたのは進士主馬頭だった。

「尾張からは朽木は遠い。それに身代も小さく年も離れているとなれば相当な醜女を嫁に出したのではないか。長門守殿も憐れなと皆で話していたのだが」

 上野中務少輔が嗤いながら続けると彼方此方から嗤い声が上がった。公方様も嗤っている。本来なら窘めるべきなのに……。兄の表情が硬いと思った。刀の事はやはり事実だろう。幕府内部には朽木を蔑視する勢力がある。


「大層美しい姫君でした。性格も朗らかで長門守殿、民部少輔殿も喜んでおりました。織田家というのは美男美女の家系のようですな。三郎五郎殿も目鼻立ちの整った中々の美丈夫でございます」

 兄が答えるとざわめきが生じた。不満そうな表情をしている者が居る。

「その三郎五郎殿に聞いたのですが織田家では此度の婚儀を大層喜んでいるようです。朽木家は宇多源氏の名流で鎌倉の昔から朽木を守ってきた名門。そして何度も公方様を守ってきた忠義の一族でもある。斯様な一族と婚姻を結ぶのは織田家にとっても誉れであると」

 私が答えるとざわめきが止んだ。バツの悪そうな表情をしている者も居れば不満そうな表情の者も居る。


「その忠義の一族でござるが京に兵を出すと言いましたかな?」

 進士美作守が嫌味な言い方で問い掛けてきた。

「兵は出せぬとの事にござる」

 兄が答えると皆が不満そうな表情を見せた。

「何故か?」

 公方様が不愉快そうな表情で問い掛けてきた。

「浅井に不穏な動きが有るというのが長門守殿、民部少輔殿の答えにございます」

 今度はざわめきが起きた。


「それはおかしい。浅井は動けぬと六角からは報せが来ている。兵を出したくない言い訳でござろう。やはり朽木は信用出来ぬ」

 上野中務少輔が吐き捨てた。同意する声が幾つか上がった。

「南近江には攻め込めますまい。しかし西の高島郡はどうでござろう。朽木が京に兵を出し残りの国人達も六角に従って兵を出せば高島郡はがら空きにござろう。浅井は誰にも邪魔されずに兵を進める事が出来る。僅かな兵で高島郡を切り獲る事が出来るとなれば有り得ぬとは言えますまい。違いましょうか?」

 私が発言するとシンとした。皆が顔を見合わせている。有り得ない事ではないと思ったのだろう。今一押し。


「長門守殿、民部少輔殿は相当に不安視していますぞ」

「浅井が動くと?」

 摂津中務大輔殿が不安そうに問い掛けてきた。

「それも有りますが三好が公方様を攻めるのではないか、討とうとするのではないかという事にござる」

 私が答えると”馬鹿な!”、”有り得ぬ”と声が上がった。

「有り得ぬと言い切れましょうか?」

 兄の言葉に座が静まった。


「それは謀叛であろう。主殺しぞ!」

 公方様が叫ぶと幕臣達が”その通り!”、”有り得ぬ!”と同調した。

「畏れながら申し上げまする。武士とは座して死を待つ者ではございませぬ。たとえ主殺しと誹られようと自らを害そうとする者には立ち向かう者にございます。赤松がそうでございました。三好は違うと言い切れましょうか?」

 私の言葉に公方様が不安そうな表情で幕臣達を見た。幕臣達は答えられずにいる。これまで敵対する事はあっても殺そうとすることは無かった。しかしそれはこれまではだ。今後も続くという保証はない。


「長門守殿、民部少輔殿は万一の場合は公方様には朽木谷から清水山城へと逃れて頂き、そして淡海乃海を渡って六角を頼るか、或いは陸路を使って越前の朝倉へと逃れて再起を図るべきだと考えております。そのためにも朽木を守らなければならぬと。兵は出せぬとの事にございまする」

 兄が言葉を続けるとシンとした。もう長門守殿、民部少輔殿を誹る声は無い。公方様も目を伏せている。


「朽木での捲土重来は叶わぬか? 予は少しでも京の近くに居たいのだが」

 公方様が縋るような表情で問い掛けてきた。兄と顔を見合わせた。兄は辛そうな表情をしている。

「朽木は予に忠義な者だ。六角や朝倉よりも朽木が良い」

 胸に込み上げるものがあった。身勝手な言い分だ。朽木を幕府から離れさせたのは誰でも無い。公方様ではないか! 落ち着け、激してはならぬ。”畏れながら”と言いながら頭を下げた。


「朽木での再起は危険でございます。万一、三好が朽木を攻めれば到底防げませぬ。公方様には他所へ移って頂かねばなりますまい。そうなれば三好は公方様は朽木を見殺しにして逃げたと誹りましょう。公方様の御名に傷が付きまする。長門守殿、民部少輔殿はそこまで危惧しております」

 自分でも驚く程に冷たい声が出た。ゆっくりと頭を上げた。皆の顔が強張っている。さて、これから刀の事を話さなければならぬ。 



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― 新着の感想 ―
三淵大和守、本編では最後と書き下ろしにだけ思慮深い一面見せてくれたけど、こっちでは割とよく描写されていましたね、頭は悪くないけど固すぎるんですよねこの人。
[一言] 戦国末期、特に義輝、義昭旗下の幕臣達は、忠誠心だけあってもどうにもならない、寧ろ害悪にすらなっていると言う典型例だな。 本伝の書籍版では、そんな奴らしか残っていない幕府を見ていた藤孝の憤懣が…
[良い点] 連続更新有りがたい限りです。 毎回楽しく読ませて頂いております。 [一言] 「朽木は信用できぬ」と堂々と言い放つ家臣を放っておきながら「朽木は予に忠義な者だ」とのたまう義輝。 本編時空と比…
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