劣勢
永禄四年(1561年) 三月下旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 目々典侍
「やはり御成りは形だけのものでございますか」
「そうでおじゃるの。料理も美味いし能興行も中々のものでおじゃった。だが公方も三好も互いに親しもうとはせぬ。白けるばかりよ。何のための御成りか。麿だけではおじゃらぬぞ、皆がそう言っていた」
兄が苦笑を漏らした。
「まあ三好と細川の和睦が成るのだ。全くの無意味というわけではおじゃらぬが……」
「左様でございますね」
私が同意すると兄が曖昧な表情で頷いた。兄は納得していないのだと思った。私も納得していない。御成りは三好を欺くために行われた筈。十河讃岐守の毒殺の件も有る。それなのに何故三好と細川の和睦の話が出てくるのか……。これも三好を欺くためのものなのだろうか……。
「御成りで得をしたのは我ら公家かもしれぬの。美味い料理を食し能を観て一日を楽しく過ごしたのだからの。息子の新蔵人も楽しんでいた」
「まあ、ほほほほほ」
「はははははは」
私が笑うと兄も声を上げて笑った。笑い終わると兄が一つ息を吐いた。
「中将と幕臣達の反目は相当なものでおじゃるの」
「何かございましたか?」
問い掛けると兄が頷いた。深刻な表情をしている。
「関東の事よ。十万の兵が北条を攻めておる。もう終わりだろうとな。中将に誤りを認めろと迫ったわ」
「まあ、中将はなんと?」
「笑い飛ばした。城も落ちていないし左京大夫の首も獲ってもいない。何を喜ぶのか、頼りないと」
「そんな事を」
兄が頷いた。
「実際どうなのかの。十万と言えば大層なものでおじゃるが」
兄が心配そうな表情をしている。
「中将は一貫して関東制覇は成らぬと申しておりますよ」
兄が曖昧な表情で頷いた。
「それは知っているが……」
「私は中将を信じております」
兄が苦笑を漏らした。多分親馬鹿と思ったのだろう。全然構わない。自分でも親馬鹿だと思うのだ。でもあの子の戦の帰趨を予測する目は鋭い。まず間違いは無い。その事を言うと兄も頷いた。
「そうでおじゃるの。しかし十万の兵を動かしても攻略出来なかった。中将の言が真となれば……」
兄が私を見た。
「……何か?」
「当代無双の武略、そう言われるかもしれぬ」
「……」
兄がジッと私を見ている。
「御成りには近衛の寿姫も来ていた。その寿姫が言っておじゃった。朝倉左衛門督と中将を入れ替えてみたいとな。忽ち天下を獲るだろうと」
「まあ」
誇らしかった。あの子が天下を獲る。胸が弾む。見てみたいと心の底から思った。鎧を纏い兵を率い敵を打ち破るあの子の姿を。天下人となって天下に号令するあの子の姿を。私が護り私が育てた息子……。
「喜んでいる場合ではおじゃらぬ。三好日向守は眼を剥いておったぞ。公方は顔を引き攣らせていた。幕臣達も同様じゃ。良い事とは思えぬ」
兄が渋い表情をしている。
「中将に兵は有りませぬよ。所詮は戯言ではありませぬか」
「真にそう言えるのか? 自分を偽ってはおらぬか」
兄がジッと私を見ている。
「兵は無くとも将を動かす事は出来よう。朽木は八千石が二万石になった。織田は今川を討ち破った。皆が言うておじゃるぞ。あれは中将が勝たせたのではないかとな」
「……」
「災いの芽を摘むという言葉も有る。危険じゃ」
そうかもしれない。今は未だ見えない。でも織田が美濃を獲り上洛するとなればあの子を危険視する勢力は今よりも増えるだろう。あの子は言っていた。場合によっては京を離れると。そんな日が本当に来るのかもしれない。
永禄四年(1561年) 三月下旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 飛鳥井基綱
「養母上、御加減は如何でおじゃりますか?」
声を掛けながら部屋に入ると養母が笑みを浮かべて俺を迎えてくれた。幾分腹を突き出し気味に座っている。順調に育っているようだ。
「ええ、何の問題もありません。それより、良いのですか? 此処に来て」
「大丈夫です。帝から半刻ほど自由にして良いと言われておじゃります」
養母が”そうですか”と頷いた。
「昨日は疲れたのではありませぬか?」
「多少は」
正直疲れた。肉体的な疲れよりも気疲れだな。
「先程まで兄が居ました。兄から聞いたのですが三好と細川が和睦するそうですね」
「はい」
「どういう事です?」
養母が問い掛けてきた。
「公方は御成によって三好との親睦を深めようとしました。そして三好と細川の和睦を勧めた。天下の安寧のためです。これを蹴れば畠山と六角が三好の無礼、増長を咎めて兵を挙げる事になりましょう」
養母が”そういう事ですか”と頷いた。幕府側は予想以上に周到だ。御成を演出して平和ムードを広めた。その一方で讃岐守を暗殺して三好の軍事力を弱めた。三好と細川の和睦だが蹴れば三好を責めて戦だ。受け入れれば幕府には大名の抗争を調停する力が有ると周囲に証明する事になる。その事を言うと養母が頷いた。
「前管領が京に戻ればそれが新たな火種になりませぬか?」
「なりましょう。それも狙いの一つかと」
また養母が頷いた。和睦を結べば細川晴元が京に戻ってくる。しかしな、行動の自由を三好が許すとは思えない。前回の畠山と三好の戦いでは晴元の依頼を受けた丹波の国人が兵を挙げようとしたのだ。
もしかすると体調が悪く気力に衰えが出ているというのは本当なのかもしれない。純粋に京に戻りたがっているという事も有り得るだろう。だが戦況が三好に不利になっても晴元が反三好で動かないという保証は何処にも無い。監視が付くか、或いは監禁か、そのどちらかだろう。ふむ、その度合いによって三好の危機感が分かるか。細川晴元はリトマス試験紙のようなものだな。
「押されていますね、三好は」
「はい、遅れを取りました。その事に気付いて態勢を立て直すのに必至でおじゃります。和睦を受け入れた事で多少の時間は稼げましょうが……」
「勝てますか?」
「さて……」
この辺り、俺も自信が無い。戦国時代というと如何しても知識は信長中心になりがちだ。その弊害は俺にもある。おかげで信長が上洛する以前の畿内の勢力変遷が今一つ良く分からないんだ。だが最終的には三好が勝った筈だ。畿内は信長が上洛するまで三好の勢力範囲だったのだから。
しかし相当に損害を被ったんじゃないかと思う。先ず三好豊前守はこの時の戦で死んでいる可能性が高い。確か三好修理大夫が連歌の会を開いている時に豊前守の戦死の報告が入った。しかし修理大夫は全く動ずる事が無かったので連歌の参列者が驚嘆したという逸話がある。修理大夫は永禄の変の前に死んでいるのだから此処二、三年で死ぬ事になる。となると豊前守が戦死する程の戦いと言うとこれから起きる畠山、六角との戦しか考えられない。
修理大夫は今四十歳前後の筈だ。となれば豊前守は三十代半ばから後半、そして毒殺された讃岐守は未だ二十代後半から三十歳になるかならないかだろう。三好一族は働き盛りの男達を二人も失った事になる。そして修理大夫も三年ほど経てば死ぬ。その勢いに翳りが出るのは当然だろう。三好の全盛期は昨年の畠山に勝った辺りまでなのだ。彼らは気付いていないかもしれないがその勢威は既に下り坂になりつつある。
「中将殿?」
いかんな、養母が不安そうに俺を見ている。
「三好が勝つとは思いますが相当に追い込まれるかもしれませぬ」
「……」
「場合によっては京が戦場になる事も有り得ましょう」
養母が不安そうに息を吐いた。
「御安心を。まだ先の事にございます。戦が始まる頃は養母上は麿の邸に居られる筈です」
養母が”そうですね”と言った。顔に笑みがある。
「帝の命で朽木の叔父の婚儀に出席する事になりました」
「まあ」
養母が驚いている。そうだよな、この時期に京を離れるなんて本来なら有り得ない。
「春齢が帝に不満を記した文を送ったようです。夫婦になっても全然一緒に居られない、詰まらないと」
「真ですか。あの子は何という事を……」
養母が情け無さそうな表情をしている。胸が痛んだ。でも報せないわけにはいかない。
「御安心を。自分が春齢に注意しました。春齢も愚かな事をしたと反省しておじゃります」
「……」
出来るだけ穏やかな声で話したのだが養母の表情は変わらない。
「桔梗屋から人を入れます。春齢と歳の近い娘です。春齢の良き相談相手、遊び相手になってくれるでしょう」
養母が息を吐いた。
「苦労を掛けますね。本当なら春齢は誰よりもそなたを気遣わなくてはならないのに……。それなのに帝に不満を漏らすなど……。あの子の母として申し訳なく思います」
「養母上」
「後で私から春齢に注意しておきます。本当に何という事をしたのか……」
「……」
情けなさそうな表情も良いな。大丈夫と励ましたくなる。養母が嫁さんだったらな。何の心配も要らないんだけど……。美人だし頭も良いし適当に抜けてて可愛いし。溜息が出そうになって慌てて堪えた。
「ものは考えようでおじゃります。四月なら未だ戦は始まりませぬ。朽木の状況を確認出来ましょう」
「……」
納得してないな。
「幕府、六角の動きは勿論でおじゃりますが浅井、高島五頭の動きも確認しておかなければ……」
「なるほど」
「それに婚儀には織田の人間も出席する筈、そちらの状況も確認出来ましょう」
養母が”そうですね”と頷いた。
問題は幕府から三淵大和守が出席する事だ。こいつが一体何を考えるか……。織田を上洛させようという目論見は分からんだろうが朽木が幕府から離れようとしているのはある程度察しているかもしれん。こいつに幕府と朽木の関係改善をと動かれると厄介だ。朽木は足利に引き摺られる事になる。しかしだからと言って露骨に妨害も出来ない。上手く御爺と叔父御が躱してくれれば良いのだが……。
永禄四年(1561年) 三月下旬 山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 飛鳥井基綱
「一昨日は有り難うございました。無事に御成りを終わらせる事が出来ました。心からお礼申し上げまする。筑前守も中将様の御陰で面目を保つ事が出来たと大層感謝しております。有り難うございました」
松永弾正が深々と頭を下げた。
「いやいや、礼には及びませぬ。京で戦になっては困ります。それだけでおじゃります」
そんな事は誰も望んでいない。三好もな。でも義輝と幕臣達は違う。こいつらは三好を追い落とすためなら何でもやる。京を焼け野原にする事さえ躊躇わないだろう。だから帝や公家から嫌われるのだ。
「前管領との和睦、これから先は幕府には関わらせない事です。三好家が直接前管領と交渉した方が良いでしょう」
「はい、そういう方向で進めようと考えております」
弾正が笑みを浮かべている。時間稼ぎをしながら交渉するつもりだな。
「ただ、余り引き延ばさない事です。相手に三好家は本気で和睦をするつもりが無いと打ち切られては意味がおじゃりませぬ」
「十分に注意致しましょう」
弾正の笑みが益々大きくなった。うん、悪の臭いがプンプンする。こういうの、好きだわ。
「御身辺、ご注意下さい」
「と言いますと?」
弾正が心配そうにこちらを見ている。
「幕臣達の間では中将様への不満を声高に言い募る者が多いようで」
「関東の事でおじゃりますかな?」
思いっきり笑い飛ばしてやったからな。面目丸潰れだろう。弾正が首を横に振った。
「それもございますが三好と細川の和睦の事も面白くないようです」
「妙な話でおじゃりますな。和睦を持ち掛けたのは公方でおじゃりますぞ」
「真に、妙な話でございます」
弾正が意味有り気に笑っている。やはりあれは戦のきっかけを作る事が目的だったという事か。
三好側は和睦の話を知らなかった。つまり幕府内部でも公にされた話では無かったという事だ。もしかすると義輝は幕府内部に三好に通じる間者が居ると疑念を持ったのかもしれない。それで信頼出来る者だけと相談して実行した。或いは間者は排除されたか……。
「声高に不満を言っているのは進士、上野、松田等のようです」
なるほど、そいつらは戦を望んでいた。つまり十河讃岐守の毒殺を知っていた可能性が高いという事か。少なくとも三好側はそう見ている。
「注意致しましょう。御好意、忝のうおじゃります」
「いえいえ、然程のことでは。ところで中将様は朽木長門守殿の婚儀に出席されると聞きましたが?」
「良く御存じでおじゃりますな」
弾正が“ウフフ”と笑った。まあ驚きは無い。三好は宮中に少なからず味方が居る。勾当内侍かな、或いは広橋権大納言か。
「幕府からは三淵大和守殿が婚儀に出席されるとか」
「そのように聞いておじゃります」
幕府が主導した結婚じゃないのに幕臣が出席する。朽木との関係がぎくしゃくしているからな。関係改善のためだろう。
「長門守殿は戦が起きれば如何されるのでしょう」
「……」
「幕府、六角からは馳走せよと誘いが来ると思うのですが……」
口調には笑みが有るが弾正の目が笑っていない。ふむ、今日此処に来た本当の目的はこれか……。朽木が京に兵を入れるとでも思ったかな。或いは幕府内部でそういう案が再検討されたか。そして三好に伝わった……。三淵大和守から改めて京に攻め込めと要請があるかもしれん。要注意だな。
「さあ、如何でおじゃりましょうな。麿には分かりかねます」
「……」
「ですが朽木の様に小さい家は生き方を間違えれば簡単に潰される事になる。その事は叔父も分かっておじゃりましょう」
「……」
「それに六角が三好と戦になれば浅井が如何動くか……。叔父にとってはそちらの方が心配ではないかと思いますぞ。何と言っても高島郡は小さい国人領主が多い。そして六角からは離れている。浅井にとっては攻めやすい場所でおじゃりましょう」
「なるほど、浅井ですか」
弾正が頷いた。安堵の色が顔に有る。朽木は浅井を理由に兵を出さない。そう思ったのだろう。しかしなあ、ここで俺に確認に来るとは相当に三好は追い込まれているな。困ったものだ。
永禄四年(1561年) 四月中旬 近江国高島郡安井川村 清水山城 朽木藤綱
「此度織田家から嫁を娶られる事、真に目出度い。心よりお慶び申し上げる」
中将様が深々と頭を下げられた。
「有り難うございまする。これも中将様のお計らいによるもの、心からお礼申し上げまする」
中将様が”いやいや”と困ったような笑顔で首を横に振った。父、叔父、弟達、春齢様も笑顔を浮かべている。
「お初にお目に掛かりまする。春齢にございます」
「朽木長門守にございます。春齢様には此度、朽木にまで御御足をお運び頂けました事、真に有り難く存じまする」
「いいえ、当然の事にございます」
春齢様が笑みを浮かべている。義姉に良く似ていると思った。伯母、姪なのだから当たり前だが良く似ている。母子と言っても違和感は無いだろう。
父、叔父、弟達も挨拶を交わす。中将様が”挨拶は大事だが面倒でもあるな”と笑いながら言うと皆が笑い声を上げた。和やかな空気が流れた。
「織田の美乃姫は今何処に?」
「今浜の筈だ。今日の夕刻には桔梗屋の船でこちらに着く事になっている」
父の答えに中将様が頷いた。婚儀は明日だが待ち遠しい事だ。
「幕府から三淵大和守が来るとの事だが……」
「昨日来た。大和守だけでは無いぞ。弟の兵部大輔も来ている。そなたが婚儀に参列すると知って急に決めたらしい」
中将様が顔を顰めた。
「もう会ったのかな?」
「弟達が会いました。某と父は今日、この後で会う事になっています」
儂が答えると中将様が左兵衛尉達に視線を向けた。
「公方様は朽木を頼りにしているとの事でした。これからも幕府のために力を尽くして欲しいと」
左兵衛尉が答えると中将様が”それで?”と問い掛けた。左兵衛尉達が苦笑を浮かべた。
「京から朽木に戻った後ですが我等三人、公方様より刀を頂きました。これまで良く尽くしてくれた。心から感謝していると丁重に記した文と共に」
中将様がじっと弟達を見ている。
「某が頂いた刀は数打ちでした。弟達が頂いたものも左程の刀ではありませぬ。なまくらに近いでしょう」
中将様が”それは”と言って口を閉じた。気の毒そうな目で弟達を見ている。
「儂もそれを知った時は唖然とした。倅共は幕府は信用出来ぬと言っていたが儂も同感だ。公方様の文には真情が籠もっていた。心を打たれたがその想いは周囲の者には通じぬ。そして幕府を動かしているのはその者達なのだ」
父が首を横に振りながら言うと弟達が頷いた。
「大和守殿、兵部大輔殿には公方様から頂いた文と刀をお見せしました。二人には刀に恥じない程度のお力添えはするが余り期待しないで欲しいと言っておきました」
左兵衛尉が苦笑交じりに言うと右兵衛尉、左衛門尉も苦笑いを浮かべて頷いた。




