妻
明日も更新します。
永禄四年(1561年) 三月下旬 山城国葛野郡 近衛前嗣邸 近衛稙家
「遅うございますね」
「本当に」
娘の寿と毬が詰まらなさそうにしている。中将は御成の後、宮中へと向かった。事の次第を帝にお伝えする事になっているらしい。その後でこちらに寄ると言っていたが……。
「慌てるな。帝からの、御下問に、答えているのだ」
娘達が頷いた。うむ、つっかえずに言えた事が嬉しい。近頃は口が滑らかに動く。焦るとつっかえるがゆっくりなら問題は無い。そしてゆっくり喋る事にも慣れてきた。気持ちが良いわ。
中将が帝に何を報告しているのか、帝がどう判断するのか、気になるところだ。まず此度の御成で義輝と三好の関係が円滑になるだろうか? なかなか難しかろう。やはり義輝と三好、幕臣達と三好の間にはギスギスしたものが有る。それ以上に問題なのは互いにそれを解こうとする動きが無い事よ。あれでは何のための御成かと参列した者は皆が疑問に思う筈。
だが三好と細川の和睦を義輝が斡旋した。これを如何見るか……。御成の席じゃ、額面通りに受け取るなら義輝は三好と細川、三好と足利の因縁を解そうとしているという事になる。しかし義輝も幕臣も三好との関係を改善しようとする動きを見せぬ。となればこの和睦には別な目的が有るという事だろう。そして気になるのは中将が和睦を推し進めるような動きを見せた事じゃ。
「如何なされました?」
「父上?」
気が付けば娘二人が心配そうに儂を見ている。
「どうかしたか?」
「どうかしたかって、先程からねえ」
「ええ、唸ってばかりですわ」
毬と寿が訝しんでいる。ふむ、どうやら自分の考えに没頭し過ぎたか……。思わず苦笑いが出た。
「済まぬの。ちと、考え事を、していた。今日は、楽しかった、かな?」
「はい、楽しゅうございました」
「ええ、とても」
娘二人が声を弾ませた。そうじゃのう、偶には外に出て気晴らしが必要よ。いつも邸に籠もって儂の相手では詰まらなかろう。
「これからは、時折外に出るか?」
「はい、桜が見とうございます」
「賛成」
寿と毬が声を上げた。ふむ、桜か。良いのう。娘と桜を見る。そういう思い出を持つのも父親として悪くない。病に倒れて分かった。自分を気遣ってくれる家族との思い出を作るのも大事よ。
「失礼致しまする」
廊下に女中が控えている。
「中将様がお見えになったの?」
寿が問う。女中が”はい”と答える前に寿が立ち上がっていた。
「毬、父上をお願いね」
「あ、狡い」
出遅れた毬を置いて寿が廊下に出る。まるで子供のような……。
「してやられたの」
笑いかけると毬が寂しそうな表情を見せた。
「姉上が羨ましい」
「……」
「好きだって言える人が居るんだもの。御成の時も夢中になるって言われて嬉しそうだった」
「……」
掛ける言葉が無かった。
御成の間、義輝が毬に声を掛ける事は無かった。本来なら『元気か』、『風邪などひいておらぬか』と気遣う言葉が有っても良い。だが義輝は毬を見ようとせず毬も義輝を見ようとはしなかった。名ばかりの、形だけの夫婦を作ってしまった。このままでは毬の一生は惨めなままとなってしまう。離縁させた方が良いのかもしれぬのう。だがそうなれば義輝を、慶寿院を見捨てる事になりかねぬ。それで良いのか……。関白に一度相談しなければなるまい。
「きっと、きっとでございますよ」
「……」
「いいえ、許しませぬ。寿は本気になりました」
「……」
「まあ、ほほほほほほ」
楽しそうな寿の笑い声と共に中将と寿が現れた。
「遅くなりました事をお詫び致しまする。お疲れではおじゃりませぬか?」
席に座るなりこちらの具合を気遣ってきた。嬉しい事よ。
「いや、それほど、でもない」
「それは宜しゅうおじゃりました。殿下のお元気な姿を皆が見ております。朝廷への参内も間近と皆が思っておりましょう」
「うむ」
御成に出たのじゃ。朝廷への参内も遠からずしなければならぬの。
「帝は、御成の事を、何と?」
問い掛けると中将が困ったような表情をした。ふむ、そうか……。
「寿、毬、席を外してくれるか」
二人が素直に席を外した。病に倒れてからはずっと一緒だったからの、気付かなんだわ。
「それで?」
二人が居なくなってから促すと中将が”御側に寄らせて頂きまする”と言って儂の直ぐ側に座った。
「御成の一部始終をお伝え致しました。その上で此度の御成が公方と三好の関係改善を願ってのものとは思えぬ事をお伝え致しますと尤もで有ると」
「仰られたか」
「はい」
「み、三好と細川のわ、和睦を勧めて、いたが」
いかぬの、焦ったか。言葉が詰まる。
「和睦を受けねば六角、畠山が兵を挙げましょう。三好の増長を咎めて」
「うむ」
なるほど、道理では有る。そう言えば義輝は筑前守が和睦を受け入れた時、面白く無さそうな顔をした。断られる事を望んでいたか……。しかし三好にも備えは有る筈。公方、六角、畠山の動きに気付かぬとも思えぬ。筑前守は何故受けた? いや、待て。その事は中将も理解していよう。その上で和睦を勧めた。そして筑前守は和睦を受け入れた……。三好に何か異変が起きているのか? その事を問うと中将が頷いた。
「殿下、他言は成りませぬぞ。寿殿、御台所にもです」
「うむ」
「未だ公表されておりませぬが十河讃岐守が亡くなりました。毒殺におじゃります」
「毒、殺」
中将が頷いた。まさかと思った。だが中将が嘘を吐くとも思えぬ。毒殺が事実ならば戦が起きるのは間違いない。
「公方か?」
問い掛けると中将が首を横に振った。
「公方の周りには三好に通じる者がおじゃります」
なるほど。では義輝は知らぬか。となると幕臣の一部と六角、畠山の間で決まったのかもしれぬ。
「み、帝は、その事を」
「既にお伝え致しました」
「……」
「三好は讃岐守の死を四月の半ば過ぎに公表するそうにおじゃります。それまでは態勢が整わぬという事でおじゃりましょう。今直ぐ戦となればこの京が戦場になりかねませぬ。それゆえ和睦を勧めました」
なるほど、そういう事であったか……。
「よく、やってくれた」
「畏れ入りまする」
中将が頭を下げた。
「戦が起きるか……」
「はい」
「止める、事は」
中将が首を横に振った。そうよの、讃岐守が毒殺されているのじゃ。今更戦は止まるまい……。
「中将、どちらが、勝つ」
問い掛けると中将がまた首を横に振った。
「分かりませぬ。ですが三好は南と東に敵を抱え讃岐守を失いました。暫くは攻勢には出られますまい」
その通りだ。三好は厳しい状況にある。中将が”殿下”と話し掛けてきた。
「御台所の事でおじゃりますが……」
「毬の?」
問い返すと中将が頷いた。
「もうじき室町第にお戻りになる時期になりまする」
「うむ」
「暫くは先へ延ばした方が良いかと」
「……」
はて、如何いう事か……。戦に巻き込まれるなという事か。
「讃岐守の死の公表と同時期に戻る事になりましょう。近衛は足利が優位と見て御台所を室町第へ戻したと妙な風評が出かねませぬ。御台所のためにも、近衛家のためにもなりますまい」
「……」
「近衛家は関白殿下が既に関東に下向しておられます。これ以上三好家を刺激するような事は避けるべきかと」
「そう、じゃの」
なるほど、そういう事か……。中将は此度の戦で三好は相当に苦戦すると見ているのかもしれぬ。その分だけ親足利の動きをしたものに対しては厳しい報復が来るかもしれぬと危惧しているのだろう……。道理よ、危険じゃの。特に讃岐守を毒殺したとなれば三好の怒りは大きかろう。
「毬には、暫くは、麿の世話を、してもらおう」
冗談を言うと中将も顔を綻ばせた。
「帝が、殿下の参内を心待ちにしているとの事でおじゃりました」
「畏れ多い、事でおじゃ、るの」
帝からのお言葉もある。参内するとなれば早い方が良かろう。月が変わらぬうちに参内するとしよう。その事を言うと中将が頷いた。
「四月になれば叔父朽木長門守が妻を娶ります。その式に出席する事になりました」
「ほう」
「妻が一緒にいる時間が全然無いと帝に不満を訴えたようで……。帝から式に出よと」
「命じられたか」
「はい、困った事におじゃります」
「ほほほほほほ」
儂が笑うと中将も苦笑している。
「偶には、息抜きも、良かろう」
「はい」
二人で声を合わせて笑った。京の傍に在る朽木が尾張の織田と縁を結ぶ。妙なところと縁を結ぶものよ。幕府が嫁を世話せぬから勝手に結んだとの事だったが……。
永禄四年(1561年) 三月下旬 山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 山川長綱
「帝に文を出したか? 毎日詰まらないと」
「……はい」
中将様が問うと春齢様が小さい声で答えた。中将様が一つ息を吐いた。
「あ、あのね、違うの。不満を書いたんじゃないの。ただちょっと寂しいって……」
中将様が春齢様を睨み据えると俯いて小さくなった。
やれやれよ。近衛家からお戻りになると中将様は厳しい表情で直ぐに春齢様を部屋へと呼ばれた。一体何事かと思ったが……。
「帝からそなたを連れて朽木へ行くようにと命を受けた。叔父御の婚儀に出席するようにとな」
春齢様が顔を上げて嬉しそうな表情を見せたが中将様の視線が厳しくなるとまた俯いた。
「二度とやるな」
「はい」
「飛鳥井は皆から妬まれる立場に有るのだ。麿がそなたを使って帝を操っていると誹らせたいのか」
春齢様が激しく首を横に振った
「此度は許す。だが次に同じ事をすればそれ以後はそなたの傍に人を付ける」
「人を?」
春齢様が訝しげな声を上げると中将様が“そうだ”と答えた。
「そなたの一挙手一動を監視させる。文を出す場合も受け取る場合もその者に調べさせる」
「そんな」
「本気だ」
中将様が睨み据えると春齢様が俯いた。“下がって良いぞ”と言われて春齢様が中将様の前を辞した。
「困ったものだ」
春齢様が居なくなると中将様がぼやいた。
「本気でございますか? 人を付けるなど」
「本気だ。そなた達なら容易かろう」
「まあ、それは」
付けるとなれば女達だが……。余り気が進まぬ。春齢様が哀れだ。
「目々典侍様に御相談なさっては?」
中将様が首を横に振った。
「養母上は今が大事な時だ。心配をかけたくない。まあ話さねばならぬが大事には……」
「それはそうですが……」
「戦が近付いている。この京が戦場になるかもしれぬのだ。春齢の我儘を許せるような状況ではない」
「確かに」
それに中将様には敵が多い。今のままでは春齢様が中将様の弱点にもなりかねぬ。やはり人を付けねばならぬか……。
「人を付けましょう」
「……」
中将様が顔を顰めた。本心では付けたくないのだと思った。
「この邸の女達は皆春齢様よりも年上です。春齢様にとっては今一つ親しめないのかもしれませぬ。新たに春齢様と年の近い娘を呼びます。思慮深い娘を選びますので春齢様の相談相手、遊び相手になってくれましょう」
中将様が“なるほど”と言って頷いている。
「良いかもしれぬ。では頼めるか?」
「はい、お任せを」
後で桔梗屋に人をやらねばなるまい。中将様が婚儀に出席するという事も伝えねば。
「婚儀に出る事になった。その準備もしなければならぬ」
「はい」
答えると中将様が頷いた。
「既に知っているかもしれぬが細川と三好が公方の扱いで和睦をする事になった」
「はい、存じております。御成りに参列した公卿達の間で相当に話題になっております」
中将様が“そうか”と言った。
「前管領が京に戻る事になる。まあ、色々と準備が有ろう。戻るまでに一月ほどは掛かろうな」
「はい」
つまり婚儀から戻るまでは大きな問題は起こらないという事か。起こるとすれば前管領が京に戻った時となるが……。
「前管領の動き、調べますか?」
中将様が首を横に振った。
「その必要は無い。兵を動かすのは六角と畠山、そこに密接に繋がっているのは幕府だ。重蔵には改めて幕府、六角、畠山、三好の動きに注意するように伝えてくれ」
「はっ」
畏まると中将様が頷いた。そして薄っすらと笑った。
「公方も当てが外れたろう」
「……それは?」
「三好に細川との和睦を拒否させそれを無礼と咎めて六角、畠山に兵を挙げさせるつもりと見た。だが三好は和睦を受け入れた。これで戦は先に延びた。三好は讃岐守の死による混乱をある程度収拾出来る」
「確かに」
和睦を勧めたのは中将様と聞いている。中将様は三好を助けたのか……。
「京を戦場にするわけにはいかぬからな」
中将様が“ふふふ”と低く笑う。なるほど、京を戦場にせぬためか。これも棟梁に伝えなばなるまい。




