御成
23時にもう一話更新します。
永禄四年(1561年) 三月中旬 近江国高島郡安井川村 清水山城 朽木藤綱
「うーむ」
文を読みながら父が唸った。表情が険しい。京の中将様からの文だが余程の大事が書かれているらしい。読み終わると“ホウッ”と息を吐いた。
「父上、中将様からは何と?」
問い掛けると父が無言で文を差し出した。受け取って読む。流麗な文字に似つかわしく無い内容が書かれていた。読み終わった時には自分も息を吐いていた。
「父上、皆を呼びますか?」
父に声を掛けたのは大分経ってからだった。
「いや、先ずはそなたと話したい。長門守よ、讃岐守は死んだと思うか?」
「さて、……生きているのか死んだのか……。姿が見えぬとなれば床に臥しているのかもしれませぬな」
「かもしれぬの。……怖いものよ」
「はい」
怖いとは何がだろう? 十河讃岐守が命を狙われた事だろうか。それとも中将様の予測が当たった事だろうか……。考えていると父が”戦か”と呟いた。
「近付いておるの」
「はい、なんとか巻き込まれぬようにしなければなりませぬ」
父が頷いた。
「中将は噂を流すと言っておる」
「上手く浅井が反応してくれれば良いのですが……」
”六角が畠山と組んで三好と戦おうとしている。だがその前に浅井を一叩きしようとするかもしれない”。浅井が何処までその噂に反応するか……。
「無視は出来まい」
父がこちらを見ている。
「そうですな。多少の備えは致しましょう」
「六角と三好が戦になれば浅井が高島郡に兵を出すという噂も真実味が増す」
「朽木は動けませぬ。五頭もこちらに同調しましょう」
「そうよな。そうなれば六角も無茶は言えぬ」
”はい”と答えた。五頭も畿内で三好と戦う事を望んでいるとは思えぬ。こちらに同調する可能性は高い。
「何時頃になると思われますか?」
父が”そうだの”と小首を傾げた。
「月が変わって四月の半ばには動きが出るのではないか。その頃には朽木領内だけでなく五頭の領内でも噂が流れていよう」
四月の半ばか、その頃には織田の美乃殿と婚儀を挙げる事になる。五頭がそれを如何見るか……。それも気になる。
「後は幕府です」
父が顔を顰めた。
「そうだな。だが以前とは違う。進士や上野も無茶は言えぬ」
「はい」
左兵衛尉がこちらの持つ憤懣を公方様の御前でぶちまけた。中将様も細川兵部大輔殿に朽木が幕府に不信を持っていると上手く伝えてくれた。そして朽木は織田と婚姻関係を持つ。幕府にとって新しい価値が生じたのだ。無茶は言えない。少しずつだが朽木の立場は改善されつつ有るのは確かだが……。
「気になるのは三淵大和守殿が婚儀に来る事です」
「……」
「大和守殿は単純に朽木憎しという御方ではありませぬ。おそらくこちらの不満を宥めよう、幕府と朽木の関係を改善しようと考えているのでしょう。それだけに今の朽木家を如何見るか……」
父が”ふむ”と唸った。
「足利から離れつつある、か……」
父の言葉に”はい”と答えた。織田から嫁を娶るという事は幕府の構想から外れるという事であり中将様の構想に組み込まれるという事だ。まあ織田を上洛させようとしている事までは読めまい。だが朽木が足利から離れつつあると判断した時、何を考えるか……。
「儂が気になるのは文に三好が油断していると書かれてあった事よ」
父が厳しい表情をしている。
「まさかとは思います。しかし三好は勝ち戦続き、有り得ぬとは申せませぬ」
「うむ、それに讃岐守が居ないとなればじゃ……。次の戦、相当に荒れるかもしれぬ」
「はい」
六角、畠山も正念場であろう。相当の覚悟で戦に向かう筈、そして三好は二方向で戦をする事になる。修理大夫はどちらに向かうのか。六角か、畠山か……。
「畿内も荒れるが東海も荒れそうじゃの。松平が今川から離れて織田に付いた」
「これで織田は美濃攻めに総力を上げられます」
父が片眉を上げた。
「それは一色も同じじゃ。六角と手を組んだ」
「はい」
中将様は織田の上洛を考えている。果たして織田は美濃を攻め獲れるのか……。
「月が変われば織田から嫁が来る。それまでは穏やかに過ぎて欲しいものよ」
「そうですな」
父がニコニコしている。困ったものよ。父は織田から来る嫁を早く見たくて堪らぬらしい。以前は中将様の事で夢中だったが最近はその他に織田から来る嫁の事ばかり話題にする。
「父上、皆を呼びますぞ」
「ああ、そうだの」
立ち上がって部屋を出た。美乃殿か、一体どんな娘なのか……。父上の事を困ったとは言えぬな。私も早く会いたいのだから。
永禄四年(1561年) 三月下旬 山城国葛野・愛宕郡 四条通り 三好邸 飛鳥井基綱
「三好日向守にございます。日向守は我が一族にて父修理大夫の大叔父に当たりまする」
三好筑前守の言葉が終わると平伏していた日向守が少し頭を上げた。
「三好日向守長逸にございまする。御尊顔を拝し奉り恐悦至極に存じまする」
日向守が挨拶をすると義輝が”うむ”と頷いた。そして日向守が下がった。顔見知りの筈だけどな。知らぬ振りで挨拶か。日向守は内心では腸【はらわた】煮えくり返っているだろう。
「加地権介にございます。加地氏は阿波国出身で代々三好家に仕えた一族にございます」
「加地権介久勝にございまする」
「うむ」
いや、素っ気ない挨拶だわ。やはり阿波以来の譜代だからな。幕府、足利将軍家には思うところは有るよな。
それにしても御成って大変だわ。朝は巳の刻(午前十時)に三好邸に到着。茶会をして食事、まあこれは軽食だな。そして部屋を移って式三献。今は大広間で義輝は三好家の家臣から挨拶を受けている。この後は観能、七五三の御膳、観能、帰還という流れになる。帰還は大体申の刻(午後四時)を過ぎるだろうというから六時間くらい飲んで食べて遊ぶわけだ。もてなす方ももてなされる方も疲れるわ。
「野間右兵衛尉にございます。右兵衛尉は父が越水城主になった頃から仕えておりまする」
「野間右兵衛尉長久にございまする」
「うむ」
こいつも素っ気ない。越水城か。修理大夫が最初に摂津に持った拠点だな。という事は野間右兵衛尉は摂津、或いは畿内の人間なのだろう。義輝に不満を持っているのは阿波衆だけじゃ無いって事だ。まあ二回も約束を破っちゃ駄目だよな。
それにしても普通はこういうのってもっと賑やかになるんだけどな。家臣の紹介の時は戦でどういう働きをしたとかって筑前守が言上する。そうすると義輝があれは見事な働きで有った、自分も感心していたとか言う。誉められた家臣は当然喜ぶ。義輝への好感度が上がるわけだ。しかしなあ、戦働きって言うと対畠山戦か対足利・細川戦になる。言い辛いよな。そんなわけで可も無く不可も無い紹介になる。詰まらん、盛り上がらんわ。
そして義輝の挨拶も素っ気ない。義輝には三好と関係改善をする気は無い。そう判断せざるを得ない。俺だけじゃ無い、三好側もそう思っているだろう。そして幕臣達も無言で座っている。進士、上野、松田、一色……、座を取り持とうとはしない。義輝だけの問題じゃないと思わざるを得ない。この場には公家も大勢居るんだが皆白けた表情だ。西園寺、花山院、広橋、烏丸、勧修寺、正親町三条、高倉、山科、葉室、庭田、今出川、中山、飛鳥井、滋野井、万里小路、それに太閤殿下……。これで本当に京に平和が来るのか? 何のための御成だと疑問に思っている人間も居る筈だ。
まあ今のところは白けているが問題なく進んでいる。このままで終わるのかな? 何処かで一波乱有ると思うんだが……。やはり七五三の膳かな。
「以上で目通りは終わりでございまする」
漸く終わったわ。さっさと能見物に行こう、そう思った時だった。義輝が”筑前守”と声を掛けた。
「はっ」
筑前守が畏まった。嫌な感じだよ。義輝が笑みを浮かべている。明らかに作り笑顔だ。余り見ていて気持ちの良いもんじゃ無い。
「実は近江の細川右京大夫から京に戻りたいとの文を貰っている。どうであろう、右京大夫と和を結ばぬか?」
「それは……」
筑前守が困惑している。そりゃそうだろう。細川晴元と三好一族は不倶戴天の仲なのだ。周囲もざわめいている。三好の者達が露骨に顔を顰めているのが見えた。そして幕臣達はそれを意地の悪い表情で見ている。
「右京大夫も五十に近い年齢だ。身体に不調を感じる時も有るようだ。生きている内に京に戻りたい。そう思っているのだろう。如何かな?」
「……」
筑前守は無言だ。父親の修理大夫が如何思うか、それを考えているのだろうな。簡単に自分の一存では答えられない。しかし義輝たちにしてみればそこが狙い目なのだろう。仕方ないな。
「良いお話でおじゃりますな」
あらら、皆が俺を見た。此処は脳天気に笑顔で行こう。
「今回の御成で将軍家と三好家の親睦は深まりました。皆が畿内で戦が起きる可能性は低くなったと喜んでおじゃります。ここで三好家と細川家の和睦がなれば更に戦は遠のきましょう。天下太平、真に目出度い。そうではおじゃりませぬかな?」
「そうじゃのう。中将の、言う通りじゃ」
太閤殿下が賛成すると彼方此方から同意する声が上がった。殆どが公家だ。武家は三好側も幕府側も無言だ。筑前守がゆっくりと頷いた。
「分かりました。良いお話と思いまする。右京大夫殿と和睦を致しましょう」
「そうか。……いや、聞き入れてくれて重畳じゃ」
「では観能の間へ御案内致しまする」
筑前守が立ち上がると義輝も立ち上がった。やれやれだわ。
永禄四年(1561年) 三月下旬 山城国葛野・愛宕郡 四条通り 三好邸 三好長逸
能見物も半分が終わり七五三の膳を皆が楽しんでいる。謁見の時に比べれば雰囲気は大分良い。能の事を話題にしている者も居る。この会食が終われば今一度能見物をして公方様はお帰りになる。あと少しだ。
今のところ問題は無い。先程細川との和睦の話が出たが上手く切り抜けた。おそらく、断れば三好は傲慢、公方様の御扱いを拒絶したと非難するつもりだったのだろう。そして六角、畠山はそれを口実に兵を挙げる。そんなところが狙いの筈だ。だが中将様、太閤殿下が上手く流れを作って下さった。御陰で筑前守様が和睦を受け入れても不満を口にする者は居ない。ふむ、和睦か。京にあの男を入れてこちらを掻き乱そうというのだろうかその手には乗らぬ。和睦にかこつけてあの男を捕まえ監禁してしまえば良い。
中将様を見た。太閤殿下の斜め後ろに座っている。本来ならもっと前の席なのだが太閤殿下の介添えのためにそこをお望みになられた。太閤殿下が時折中将様へ視線を向け話し掛けている。声を上げて笑う事も有る。ふむ、これなら太閤殿下の御容態も順調に回復していると皆が思うだろう。そろそろ参内という事も有り得るかもしれぬ。太閤殿下も先程は中将様に加勢された。親足利ではあるが武力で三好と戦うという事には必ずしも賛成してはいない。殿下が室町第に足を運ぶようになれば幕臣達の跳ね上がりも抑えられるのだが……。
太閤殿下の両脇には御台所と寿姫が座っている。二人とも太閤殿下の食事を手伝いながら中将様と話しをしている。声を上げて笑う事もある。その所為だろう、その辺りだけが和やかで華やかだ。親密さがこちらにも伝わってくる。そして御台所は公方様に声をかけようとしない。公方様も御台所を無視だ。想像以上に仲が冷えているらしい。幕臣達は御台所と中将様を面白くなさそうに見ている。
「関東では大層な軍勢が長尾弾正忠様の元に集まっているとか」
「うむ、十万の大軍が集まったと聞く。小田原城を囲んでいるらしいが風前の灯火であろう」
シンとした。上野と一色か。この場で関東の情勢を話すとは、我等に対する揺さぶりのつもりか。
「北条を滅ぼし上杉の名跡を継いで関東管領となるのも間近であろう。そうなれば関東に秩序が戻る。いずれは予のために上洛してくれるに違いない」
公方様が上機嫌で酒を呷った。幕臣達が”如何にも”、”待ち遠しい”と迎合した。ふざけた連中よ。三好の酒を飲みながら我等を追い落とす日が来るのが待ち遠しいとは! いかぬ、落ち着け、挑発に乗って如何する!
「中将様、中将様は如何思われますか?」
問い掛けたのは進士主馬頭だった。皮肉を帯びた笑みを浮かべている。
「如何とは?」
「中将様は長尾様の関東制覇はならぬと仰っていたとか。今もそのお考えは変わりませぬか?」
なるほど、我等だけではないか。中将様への嫌がらせか。中将様がクスクスと笑い出した。
「主馬頭殿は麿にあれは間違いだったと言わせたいようでおじゃりますな」
今度は”ウフフ”と含み笑いを漏らした。主馬頭は顔を強張らせている。
「十万もの兵が集まるとは大したものでおじゃりますな。それで小田原城は落ちましたかな?」
「……それは……」
「北条左京大夫殿の首は?」
「……」
主馬頭が答えられずにいると中将様が”フフフ”と笑った。
「はて、城は落ちず首も獲れず。この状況で左様に喜ぶとは……」
”ホホホホホホ”と笑い出した。明らかに嘲笑だと分かる。笑われた公方様、幕臣達が顔を朱に染めた。
「十万の大軍ですぞ」
主馬頭が言い募った。更に中将様が”ホホホホホホ”と笑った。
「良くお聞きなされ、主馬頭殿。昔、漢の高祖は楚の項王と天下の覇権を争いましたが戦う度に敗れました。しかし最後の一戦に勝って項王を滅ぼし天下を手中に収めた」
「……」
「お分かりかな? 戦というものは最初から勝っている必要はおじゃりませぬ。最後に勝てば良いのです」
言っている事は道理よ。しかし可愛げが無いわ。今少しあたふたすれば良いものを……。
「しかし」
主馬頭がなおも抗弁しようとした。愚かな、こやつは戦というものが分かっておらぬわ。同じ事を思ったのだろう。中将様が苦笑を漏らした。
「海の向こうの話では納得出来ませぬかな? ならば足利尊氏公は? あの御方も良く負けた。九州に追い落とされた事もおじゃります。なれどここぞという所では勝った。そして幕府を開いた」
「……」
彼方此方で頷く姿があった。そうよ、負ける事は恥では無いわ。次に勝てば良いのよ。頼朝公も石橋山の戦いでは大敗を喫した。しかしそこを切り抜けて天下を手中に収めた。
「尊氏公がこの場に居られれば麿と同じ事を言うと思いますぞ。小田原城は落ちたのか、北条左京大夫の首は獲ったのかと。どちらも未だと聞けば勝ってもいないのに何を喜ぶのかと怒りましょうな。それとも頼りないと嘆かれるか」
中将様が視線を上野から公方様へと向けた。公方様が顔を強張らせた。頼りないと貶されたと思ったのだろう。その通りだ、頼りないのよ。中将様がまた軽く笑った。
「室町第では公方を初め皆が大層喜んでいると聞きますが城を落とすか、首を獲るか、どちらかが叶うまでは抑えられた方が良いかと思いますぞ。両方叶わなかった時は糠喜びという事になりましょうし皆から侮りを受けましょう。良い事とは思えませぬ」
シンとした。トドメを刺した、そんな感じだ。良い気味だとは思うが相変わらず容赦が無いわ。
クスクスと笑う声が聞こえた。近衛の寿姫だった。中将様を見ながら笑っている。
「以前にも思いましたが朝倉左衛門督様と中将様を入れ替えてみとうございます。忽ち天下を獲りそうな……」
中将様に越前一国だと? なんという物騒な事を……。
「それは無理でおじゃりますな」
「まあ、何故でございましょう?」
寿姫が問うと中将様が寿姫を見ながら笑い出した。
「麿が朝倉左衛門督殿なら美しい妻を離縁するような事はおじゃりませぬ。それどころか妻に夢中になって戦も政も放り出しましょう。天下どころか家を潰しましょうな。それでも後悔はしますまい」
どっと座が沸いた。皆が笑っている。
「まあ、その気も無いくせに。……憎うございます」
寿姫が怨ずると更に沸いた。”中将様は御艶福”、”羨ましい”、”傾国の美女”と彼方此方から声が上がった。ふむ、やはり可愛げが無いわ。




