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十万の兵




永禄四年(1561年) 三月上旬      山城国葛野郡 桔梗屋   当麻葉月




「なるほど、朽木と浅井で噂を流すか」

「はい、六角の動きは存外速いかもしれぬと」

九兵衛の答えに棟梁が“うむ”と頷いた。

「そうだな、かもしれぬ。それが上手く行けば朽木は畿内の戦に巻き込まれずに済むだろう。織田との縁談も上手く利用したな」

棟梁が笑うと九兵衛も笑った。


「幕臣達の中にも朽木への扱いに不安を感じる者が居るようで……。中将様はそれを利用しました」

「婚儀には幕臣も参列すると聞いております。三渕大和守。恐らくは朽木との関係改善のためでしょう」

 九兵衛と私の言葉に棟梁が頷いた。


「織田からもそれなりの人物が来る筈だ。案外大和守の狙いは織田の家臣との顔合わせかもしれぬ。婚儀の頃には松平との同盟も公になっていよう。松平は今川を離れ織田に付いた。これは大きい。桶狭間の勝利を運が良かっただけとは蔑めなくなったのだ。朽木を通しての繋がりだけでは満足出来まい。是が非でも直接の繋がりが欲しい筈」

 なるほどと思った。たとえ今はその気が無くてもその時になれば望むだろう。


「婚儀の場で幕府が織田との接触を望むかもしれない……。織田様に伝えておきましょう」

 私の言葉に棟梁が頷いた。

「当然だがそれを面白く思わぬ者も居よう」

「一色ですね」

「六角という事も有り得る」

 棟梁の言葉に部屋の中がシンとした。朽木を孤立させたい、六角に服属させたいと考えれば有り得る事だ。


「輿入れの行列には陰供を付ける。その事も伝えてくれ」

「承知しました」

 六角が敵となれば甲賀が相手という事になる。ゾクリとした。面白い、我等鞍馬忍者の力を示す良い機会よ。


「九兵衛、中将様は婚儀には参列せぬのか?」

「今のところそのようなお話は有りませぬ」

「棟梁、それは無理です。頭中将は激務ですし畿内では何時戦が始まるか分かりませぬ。京を離れるなど……」

 私の言葉に棟梁が頷いた。


「関東では長尾が十万の大軍で相模国に攻め込んだ。小田原城を始めその周辺の城を囲んでいる」

 十万……。分かっていた事だが溜息が出た。

「保ちましょうか?」

 九兵衛が問うと棟梁が“さあて、如何かな”と言った。頼りない言葉だが眼は笑っている。


「苦労しているようだぞ。関東は昨年凶作だった。その所為で米が無い。集まった諸将の間では撤兵を望む者も居るらしい」

「真でございますか?」

問い掛けると棟梁が頷いた。

「越後でも関東への兵や荷の輸送で混乱が生じているらしい。長尾も十万の大軍を率いるのは初めてだ。思う様に行かずに頭を抱えているかもしれぬ」

 なるほど、十万の兵を集めるのと十万の兵を使うのは別か。その事を言うと棟梁と九兵衛が頷いた。


「北条が籠城を選んでいるのもそれが理由かもしれぬ。長期戦に持ち込めば相手は瓦解すると見ているのだろう」

「……」

 北条左京大夫氏康、強かな男だと思った。

「それにな、武田が動いている」

「援軍を?」

 私の言葉に棟梁が“それも有る”と言った。それも?


「北信濃埴科郡に海津城という城が有る。長尾との最前線の城だがこの城に兵力を増強している。おそらく、北信濃で事を起こすつもりだろう。北上して水内郡を制すれば次は越後国頸城郡だ。頸城郡には春日山城がある」

 九兵衛が息を飲んだ。そうなれば長尾の喉に手を掛けた事になるだろう。長尾は放置出来ない。“棟梁”と声を開けると棟梁が“ああ”と頷いた。


「長尾はそれを放置出来ぬ」

「……」

「関東の戦は直に終わるだろう。次は長尾と武田が北信濃で戦う筈だ。こちらも大きな戦になる」

 私、九兵衛、棟梁、三人が顔を見合わせて頷いた。

「中将様の見立て通りでございますな」

 九兵衛が言った。声には畏怖が有ると思った。


「問題はこの後よ。戦の結果次第で天下の動きは変わる。楽しみよ」

 棟梁が笑う。私も笑った。九兵衛が少し遅れて笑う。次は一体何を見せて貰えるのか……。




永禄四年(1561年) 三月上旬      山城国葛野郡 近衛前嗣邸 近衛稙綱




「ふむ、ま、麿にも出ろ、と申すか」

 松永弾正が”はっ”と畏まった。

「頭中将様より太閤殿下をお誘いしてはどうかと。御加減も大分良いようだと伺いましたので」

「ふむ」

 頭中将の名を聞いた寿が僅かに身体を動かした。

「御台所様、寿姫様の介添えが有れば左程に不安は無いのではないかと。殿下が御臨席為される時は自分も傍にてお支えすると申されました」

「さ、左様か」

 何とも嬉しい事よ。顔が綻ぶのを止められぬ。しかしだ、ここで出るとなれば室町第が煩く騒ぐかもしれぬが……。


「如何でございましょう?」

 弾正が答えを迫ってきた。

「そうで、おじゃるの。如何するかな?」

 娘達に問うと二人が行きたいと言った。そうじゃの、年寄りの相手ばかりさせては可哀想じゃ。以前と違って頭中将もなかなか来られぬ。室町第には事前に出席するとだけ伝えれば良かろう。


「では、出席しよう。む、娘達と」

「有り難うございまする。必ずや御満足頂けるよう、おもてなしさせて頂きまする」

「うむ、楽しみ、でおじゃるの」

「はい」

「本当に」

 娘達が同意した。松永弾正、中々の人物よ。人当たりも良く交渉役に向いていよう。修理大夫の信頼が厚いと聞くがそれだけのものはある。


「では、当日はこちらから迎えを者を出しまする」

「うむ、頼む」

 弾正が深々と一礼して席を立った。寿と毬が見送りに立つ。ふむ、この時が寂しいの。自らの足で見送れぬ……。考えても仕方ないの。御成か……。中将も出ると聞いた。頭中将が帝の傍を離れる。訝しい事よ。帝の命だとすれば危うんでいるという事になろう。


「如何なされました?」

 戻ってきた寿が訝しげな声を上げた。毬も不安そうに儂を見ている。

「うむ」

「なにやらお悩みのようですが」

「いや、何でも、無い」

 困ったものよ。何でも無いと言っても不安そうな表情をしている。


 病に倒れてから室町第の様子を知る事は難しくなった。中将は御成りに出る事で己の目で確認しろと言っているのかもしれぬの。そして自分と今後の見通しを話し合おうと言うのかもしれぬ。ふむ、戦は避けられぬと見ているのか……。

「楽しみよの」

 儂の言葉に二人が顔を綻ばせた。さて、一体何を見ることになるのか……。




永禄四年(1561年) 三月中旬      山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏  飛鳥井基綱




「養母上」

 声を掛けて部屋の中に入ると養母が”まあ”と声を上げた。

「如何したのです。今宵は小番ではないのですか」

「帝から養母上を見舞うようにと。今日は具合が良くなかったと聞きました。大丈夫でおじゃりますか?」

 養母が顔を綻ばせた。


「大した事は有りません。昼間、ちょっと気分が優れなかっただけです。今は大丈夫ですよ」

 本当に? 灯りが薄暗いせいで顔色は良く分からない。梅と松に視線を向けると二人が頷いた。嘘ではないらしい。

「それなら良いのですが……。大事にしなくては」

「ええ、そうですね」

 帝も心配している。男子を産んで欲しい、そういう思いが強くあるのだ。

「夜も大分暖かくなって来ました」

「そうですね。過ごしやすくなりました」

 養母が出産するのは夏に入る直前だろう。余り負担にならずに済む。


「五月には宿下がりする事になります。もうすぐでおじゃりますな」

「ええ」

 養母が嬉しそうに頷いた。以前から西洞院大路の邸に宿下がりする事を楽しみにしている。産所の準備にも取り掛かった。養母の宿下がりまでには間に合う。

「ところで、もうすぐ公方が三好家に御成りになりますね」

「はい」

「中将殿も御成りに参列するとか」

「はい」

 どういうわけかシンとした。養母が気遣わしげに俺を見ている。


「大丈夫ですか?」

「……」

「三好日向守はそなたを危険視しています。それに公方と幕臣達はそなたを敵視している。危険ではありませぬか?」

「参加者は大勢になるようです。滅多な事はしないでしょう」

 先ず問題は無い。御成りは三好筑前守の晴れ舞台でもあるのだ。三好側は詰まらない事をしないし公方や幕臣にさせる事も無いだろう。その事を言ったが余り納得した様子は無い。


「それに今の三好はそれどころではおじゃりますまい」

「それは?」

 養母が訝しげに問い掛けてきた。

「十河讃岐守」

「まさか……」

 養母が怯えたような声を出した。


「死んだか、死にかけているか。三好修理大夫、三好豊前守の間で慌ただしい動きがあるようです。三好修理大夫の使者が十河讃岐守の許へ、岸和田城に行っています」

「……」

 多分、死んだだろう。尤も公表は四月になってからだろうな。先ずは御成りを成功させる。足利に弱みを見せる事は出来ないと考えている筈だ。御成りが終わるまでに三好修理大夫、三好豊前守の間で畠山の抑えを如何するかを決める筈だ。讃岐守の死を公表するのはそれが終わってからだろう。その事を言うと養母が不安そうな面持ちで頷いた。


「その事、帝はご存じですか?」

「先程、お伝え致しました」

「それで、何と?」

「憂えておいでです。戦になるかと御下問が」

 養母が息を吐いた。


「戦になりますか?」

「先ず間違いなく」

 十河讃岐守は鬼十河と呼ばれるほどの武勇の男だ。この男が死ぬという事は畠山への抑えが無くなるというだけじゃない。三好の軍事力の低下でもあるのだ。畠山は大喜びだろう。公方、幕臣もだ。


「三好は気付いていないのですか? 毒殺だと」

「さあ、疑ってはいるかもしれませぬな」

「……」

 多分義輝は知らないだろう。幕臣達の一部、おそらくは進士一族を中心とした一握りが考えたのだ。実行したのは六角配下の甲賀か、或いは畠山配下の者達か……。幕府の怖いところだ。義輝の幕臣達への統制が弱い事が幕臣達の勝手な行動に繋がっている。その所為で幕府の動きが分かり辛い。

 

 養母の部屋を辞して小番の詰め所に戻った。俺が来るまでは談笑していた連中が俺が来るなり無言になった。なんで?




永禄四年(1561年) 三月中旬      山城国葛野・愛宕郡 西洞院大路 飛鳥井邸 倉石長助




「如何かな、この菜花は」

「うん、なかなか良さそうね。お浸しにしたら美味しそうだわ」

 小雪殿が熱心に籠の中を見ている。

「そうだろう。こっちの独活は如何かな。風味があって良いぞ。酒の肴にもってこいだ。昨日、酢味噌を付けて食べたがなかなか美味かったぞ」

「酢味噌か、良いわね」

 うむ、なかなか良い。この女子は料理上手だと見た。こういう女を嫁にすべきだな。良い女房になる筈だ。小雪殿が顔を上げた。


「採ってきたの?」

「昨日採ってきた。筍もあるぞ。独活はそろそろ終わりだが筍はこれからだ。初物だな」

「筍か。私は先の柔らかい方が好きだわ」

「根元の固い方も包丁で切れ目を入れて良く焼いて食べればなかなかに美味いぞ。俺は味噌を塗って食べるのが好きだな」

 小雪殿が”ふーん”と唸った。

「美味しそうね。塗ってから焼くの?」

「うむ。先ず味噌を酒で溶いでおく。筍を少し焼いてから味噌を塗ってまた焼くのだ。味噌が焼ける香ばしい匂いが堪らんぞ」

 小雪殿が大きく頷いた。その気になったらしい。やはり買わせるには美味い食べ方も教えなくては……。


「菜花は全部貰うわ。筍も四本貰う」

「独活は如何する?」

「そうね、独活も五本全部貰うわ」

「よし、では全部で四十文だ」

 値切るかと思ったが四十文を素直に払ってくれた。人が多くなった分だけ買う量が増えた。やはり西洞院大路の飛鳥井家は裕福よ。


「小雪殿、うちの棟梁が中将様にお会いしたいのだが……」

「今日は小番明けだから居るわよ。今は寝てらっしゃるけど……」

「起きて出かけるという事は?」

 訊ねると小雪殿が首を横に振った。

「最近忙しい日が続いたから邸に居るって言っていたわ。春齢様に偶にはゆっくりして欲しいって言われたみたいね」

「そうか、ではお目覚めになったら今夜訪ねると伝えて欲しいのだが」

「良いわよ」

 これで良し。


「ところで、目々典侍様がこちらに宿下がりされると聞いたが?」

「五月にね。産所の用意をすることになるわ」

「中将様も御方様もお若いから大変だろう」

「ええ、でも御本家の方々も心配しているし私達も居るから……」

「まあ、そうだが……。気を付けた方が良いぞ。飛鳥井家はやっかまれているからな」

 小雪殿が無言で頷いた。


「ただのやっかみなら良いが中将様が勢威を強めるのではないかと懼れている人間も居る。用心が必要だ。そうだろう?」

「ええ」

「陰陽師の件は上手くやったな」

 小雪殿が困ったような表情を見せた。幕臣の一部が陰陽師を雇って呪詛を行った。その陰陽師は殺され帝の御子を呪詛した事の天罰だと噂が流れた……。


「進士も上野も慌てているようだぞ。春日局もだ。こちらの主殿を怒らせるのは危険だと改めて思ったようだ」

「……」

「万里小路権大納言も慌てているようだ」

 俺の言葉に小雪殿が訝しげな表情をした。


「万里小路権大納言は無関係じゃないの? 頭弁はそう言ったと聞いたわ」

「いや、万里小路家では頭弁は相手にされておらぬ。あの家を動かしているのは権大納言と新大典侍だ。頭弁は中将様の側に居る。中将様の目を欺くために敢えて除け者にされている可能性が有る」

 ”なんて事”と小雪殿が呟いた。


「そう嘆かぬ事だ。陰陽師の件はこっちが気付いた時には始末されていた。余りの素早さにあっけにとられたわ」

「……でも」

「そうだな。万里小路の件は少し甘かったな」

「良いの? こっちに情報を流して」

 心配そうに俺を見ている。ちょっと嬉しかった。

「まあこんな事は大した事じゃ無い。それにお得意様を守るのは当然の事だ」

 胸を張って言うと小雪殿が笑い出した。


「あんたねえ……」

「はははははは」

「……ねえ、ここで野菜を作ってみる?」

 思わず”はあ?”と言ってしまった。

「本気か? いや、そういう話が有ったのは棟梁から聞いて知っているが……」

 あれは冗談だよな。いや、この家は良く分からんからな。本気だったのか?


「九州の大友が中将様に種を送ってきたのよ。異国の野菜の種なんだけど……」

「異国の野菜?」

 ちょっと待て、それは面白そうだな。

「そう、唐辛子と南瓜っていうんだけど……」

「唐辛子と南瓜か……」

 一風変わった名前だな。一体どんな野菜なのか……。名前からは想像がつかぬ。


「ウチは今桃、柿、梅、柚、栗、林檎の他に葡萄とか温州蜜柑とか色々と果物を植えているの。中将様は三好家から貰った領地で育てようと考えているんだけどその前にここで試してみようって」

「なるほど」

 葡萄に温州蜜柑か。うむ、それも面白そうだな。


「多分、唐辛子と南瓜もその一つになるんだと思う。それだけじゃ無いわよ。中将様は大友に他にも珍しい種があったら送って欲しいって文を書いてたから」

「うーむ」

 いかん、腕がムズムズする。落ち着け。

「それでね、中将様が長助に任せてみるかって言ってたのよ。何処まで本気かは分からないけどやる気が有るのならあんたの棟梁から中将様に頼んでみれば。ここで野菜や果物を育てさせてくれって」

「なるほど」

 そうか、その手が有るな。うむ、上手く行くかもしれぬ。 


「しかし良いのか。俺は三好の忍なのだが……」

 小雪殿が笑い出した。

「あんた如何見ても忍びよりも百姓の方が向いてるわよ。うちじゃ皆言ってるわよ。忍びを止めて百姓に専念しますって何時か言い出すって」

「……いや、まあ、それは……」

「あんたの所の仲間もそう思ってるんじゃないの」

「……無い、とは言い切れんな。皆俺の作る野菜を美味いと言っているし百姓になれと言われる事がある。偶にな」

「偶になの?」

「……」

 小雪殿が悪戯な表情で俺の顔を覗き込んだ。困ったな、答えられん。

「ほらね。これを機に本当に百姓になったら。歓迎するわよ」

 小雪殿がまた笑った。いや、そんなに笑わなくても……。

 



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僕と契約して忍法農夫になってよ
[一言] ご存知かもしれませんが、主人公の領地となっている大阪府柏原市から南の山村集落のあたりでは、ブドウ栽培やワイン造が盛んですね。 ワインは少し前までお世辞にもいい評価ではありませんでしたけど、最…
[一言] 「長助忍辞めるってよ。」 「ナニ、抜忍か!」 「いや、中将様のお屋敷で野菜を作るとか。頭領も了承された。」 三好孫四郎「さっそく誑かされる者が出たかた。まったく人誑しなお方だ。」
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